韓のくに紀行

街道をゆくシリーズ
司馬遼太郎

司馬遼太郎のいう
ウラル・アルタイ語族に属するヨーロッパ方面にいる末裔の作る国は
フィンランド、ハンガリー、トルコであり、
アジアの末裔としてはモンゴル人と満州(ツングース)人
あと文明国を作っているのは、日本人と朝鮮人しかない
という説には、言語学から反論する学者もいるようであるが
いまのところ妥当な説であろう。

明治38年5月、バルチック艦隊が極東にやってくるとき
東郷艦隊は釜山の西方の鎮海湾を借りて待ちぶせしていた。
いよいよ「敵艦見ゆ」の信号によって艦隊が出動するとき
当時水雷司令だった川田功少佐によると、李舜臣将軍の霊に祈ったという。
「....当時、世界第一の海将たる朝鮮の李舜臣を連想させずには
おかなかった。かれの人格、かれの戦術、かれの発明、かれの統御の才、
かれの謀、かれの勇、一として賞賛に値いせざるものはない」
と川田少佐は書いている。
明治期の日本の海軍士官が李舜臣という300年前の敵将に対して
いかに畏敬の心をもっていたかということがわかるであろう。
「むしろ李朝以来、韓国人のほうが忘れていて日本人のほうが
李舜臣につよい敬愛と関心を持ちつづけてきたのではないか」
と司馬遼太郎に語った韓国人もいるという。

朝鮮人は金とか宋とか張とか李とかいって中国人とおなじ姓なので
朝鮮語は中国語とおなじと錯覚する人がいる。
いつ、朝鮮人が中国人のような姓を名乗るようになったのか不明である。
日本書紀によれぱ、日本の応神朝に阿直岐(あちき)という学者が百済から
きたということになっている。アチキは優遇され、一族は栄え、近江には
阿自岐神社という神社があるという。
アチキとは朝鮮固有の名で、姓ではない(苗字ではない)。
当時は、日本にも朝鮮にも苗字はなかった。
モンゴル人は姓がなく名だけである。
ジンギスカンの名前はテムジンである。姓はない。
ジンギスカンの孫のフビライも名前であった。
清帝国の祖となった満州(ツングース)人の英雄はヌルハチという。
彼の種族も中国式の姓名はもっていなかった。
朝鮮の固有の名前を捨てて漢民族の姓名をとり入れたのは
どうやら新羅のころらしい、そう司馬遼太郎は推定する。