姜在彦 ソウル、文藝春秋

世界の都市の物語シリーズ
ここでは特に日本人と韓国人のものの考え方の違いについて
紹介する。

日本人と韓国人が交流をつうじて互いに相手のものの考え方を理解していくと それは日本人と韓国人の違いを認識し自己確認をすることになる。 似ていて非なる異文化として、お互いに自己を確認することは、両国間の政治、 経済のそれに比べてもっとも立ちおくれている民衆間交流を活性化するために、 大いにプラスになろう。  渡辺吉鎔(キルヨン)さんは国際結婚をしているので日本姓となっているが、 言語学を専攻している生粋のソウル育ちの才媛である。その著「朝鮮語のすすめ」 (講談社現代新書)はたんなる朝鮮語の入門書にとどまらず、日本語にもっとも 近似した朝鮮語をつうじて日本語論、日本文化論を考えるうえで、大へん有益な 本である。かの女はつぎのように書いている。 隣りの韓国人は、自己露出の度含いに関するかぎり、かなり欧米的である。 大いに自分を語り、示し、さらけ出し、思いきって相手にぶつかっていく。 このような違いのため、韓国に行った日本人は、思わぬ誤解をされたり、したりしている。 先月機会があって、あるところで日・韓の自己表現に関する違いを話したところ、 受講生の一人から興味深い話を聞かせてもらった。この方は海外経験豊かなビジネス マンてあるが、韓国の人との初対面は、すべり出しは日本的基準からすると調子が 良すぎるのが普通であるという。まず、韓国の人と知り含いになると何十年の旧友 並みの扱いを受けるのが常であったが、日本人としては素直に喜ぶ前に、信用して いいのかどうか迷ってしまうし、すべての面で気を許せるかと思ったら必ずしも そうでなく、気持ちの整理にずいぶんとまどったということであった。 韓国の人たちは、初体面であるか否かを問わず、他人とはなごやかに、にぎやかに つきあうべきであると思っている。なるべく親密感をかもし出す方向へと対人関係を コントロールしていくのをよしとする,相手に対する自分の本当の気持ちや利害開係は ひとまず腹の奥にしまっておき、相手を何よりも人間として緩かく親しく接するのが 礼儀と心得ている。それには、相手に対し十分な関心を示し、いろいろな事柄を聞き 出すと同時に、自分についても十分語り、あたかも旧友と接するように、わけへだて なく遇する事が礼儀とされている。私はここに、人間として君子の道理を見習って、 暖かさを惜しみなく分ちあう儒教的なほがらかさを認めずにはいられない。 日本人は、初対面の場合あまりに親しさを見せることは、なれなれしすぎると感じ、 かえって札を失うことになると考える。また気に入らない相手であっても、一定の距離 をもうけて接すれば良いのであって、深入りする必要はない。適当にその場を摩擦なく 過せばいいのである。日本的な思いやりは、つねに相手との一定の距離をおかさない ことにある。このような日本的なつきあい方は、韓国人からみると大変固苦しく、 もしかして相手は自分を敬遠しているのではないかという感じさえ抱く。 韓国人は、控え目で大変情のこまやかな日本人を冷い人だと思い込み、親密感を持て ないことをなげくことがあるが、これはまさに対人間の距離に対する解釈の違いに よるものである。韓国の人たちと接する機会のある日本人は、以上のことを頭に入れ て、一度ためしてみてはいかがてあろうか。歓迎されること疑いなしてある。、 もう一つの観察を紹介しよう。豊田有恒氏といえば、いうまでもなくSF作家である が、同時に大の韓国通である。あまりにも韓国や韓国人について、微にいり細に わたって知りつくしているので、在日韓国人といえどもかれの前では、ウソやごまかし は通じないだろう。かれはその著「日本人と韓国人ここが大違い」(ネスコ/文芸春秋) のなかで、つぎのように書いている。 初めて友人の李氏が東京へ来たときは、銀座のバーから韓国風クラブまで案内した。 費用は こっちもちだが、当人は、実に堂々としている。日本人の島国根性のせいか、 私は、「こいつ、このまえは意気投合したが、こんな図々しい奴だとは思わなかった」 と、やや後悔しかけた。 その夏、海水浴に行ったとき、連絡しておくと、ソウルヘ着くなり、彼は、うちの一家 五人の滞在予定表をさしだした。英文タイプで打ってある。彼自身が二日つきあい、 一日は部下に児童大公園へ案内させてくれた。 これが、世界的に有名な「韓国式歓待」だとわかり、日本にきたときの彼の態度を、 図々しいたかりだと誤解した自分に、おおいに恥いった。 韓国は、タモリじゃないが、「友だちの友だちは、みな友だちだ。世界に広げよう 友だちの輪」を地でいっている国なのだ。 外国の日本学者は、日本を仁義とか義理というキーワードで、とらえたがる。 それは、韓国にこそ、あてはまる。韓国人が、日本人と親しくなったつもりでいても、 いつまでたっても、よそよそしくて、打ちとけてこない、という不満を口にすることが多い。 確かに、日本人は、韓国人と比べると、没義道(もぎどう)に近い。良い意味でも、 悪い意味でも、日本人は所属する集団の外では、徹底した個人主義者で、プライベート なベタベタした人間関係を好まない。韓国人は、情が深い−というより情がこわいと 言うべきだろう。男でも女でも、まさに、そのとおりである。 おたがい、義理人情のしがらみに、どっぷり漬かっているような関係にならないと、 承知してもらえない。日本人からみると、奥座敷へ土足で踏み込むような関係である。 もちろん、先方が踏みこんでくるばかりではない。こっちが踏みこんでいくことも期待 されている。これは、心理的には負担になる。 両者の観察は、その表現こそ違え、同じことをいっているのではないだろうか。 すなわち日本人は、対人関係において常に「間」をおいてその距離を調節している、 ということになろう。「奥床しい」とか「控え目」というのは日本の美徳とされている が、けっきょくそれは、自分の感情で本音を内におさえ込み、対人関係に「間」をおく ことによって摩擦を避ける生活の知恵であろう。 ところが韓国人は感情や本音をストレートに発散し、白己主張が強く、それによる摩擦 をもいとわない。しかし意気相投合すれば十年の知己のように自己露出的になり、 プライベートの垣根を取り払ってしまう。限りなく接近しなければ、お互いの「情」を 実感できないのである。これがまた、日本人にはなじまない。豊田氏が「韓国人は、 情が深いーというより情がこわい」といったのは、恐らくこのことだろう。 日本人がいう「情」というのは、相手に一定の距離をおいてそのプライバシーを侵さ ない思いやりであり、気配りであろう。韓国人にとっての「情」とは、かなりその 二ュアンスが違うような感じがする。喜びであれ悲しみであれ、それを控え目に おさえ込むよりは、むしろそれを誇張して表現することこそが、「情」の証しとなる。 相手の悲しみを自分がいかに悲しんでいるか、またその喜びを自分がいかに喜んで いるかをアピールすることによって、お互いはますます接近し、ついには、一体化 して「固まり」になってしまう。 このようなカルチャー・ギャップは、本音と建前の距離のおき方にも、よく現れて いるように思われる。常々日本政府の老獪としかいいようのないしぶとい外交姿勢、 とりわけその経済外交には、舌を巻くほど感心させられる。相手が洗いざらい本音を 吐くまで、じつにおだやかに粘り、あげくの果てには「名」を捨ててでも、「実」を とってしまう。それとは逆に、「実」を捨ててでも「名」をとって快哉を叫んでいる 韓国・朝鮮人とは大きな違いがある。豊田氏のつぎのような指摘はまことに手厳しい が、正鵠をえていることを否定するわけにはいかない。 韓国にも、本音と建前が、あることはあるが、日本よりはるかに希薄である。 主義主張がまっさきに出てきてしまうから、建前を設けて、本音を隠しておく暇が ない。どうしても直情径行になりがちである。つまり、裏表がないことになる。 韓国人は、世界一スパイの適性がない国民だ、という説がある。裏表のないスパイ なんて、いるはずがないが、韓国には実在する。