近くて遠い国 韓国

宮本 裕 miyamoto yutaka  

韓国までの道
・奈良、大和路、京都  広隆寺の弥勒菩薩
ドイツ語学校
石アーチ 参考


ソウル国立中央博物館金銅仏

 

「青雲橋と白雲橋」国宝23号 
 位置    慶北 慶州市 進蜆洞 佛國寺境内 
 築造時期  新羅 景徳王10年(751年) 
 形式    階段型 石橋 
慶州 吐含山佛國寺の極楽殿前に、南向きに石を積んで高台をつくったのであるが、 
その前面二箇所に石橋を設けて堂塔に登るようにしたものである。 
上記は東側の二段の石橋で、下を青雲橋、上を白雲橋と言う。 
18段の青雲橋はxxによって左右に分けられ、元来欄干があったと思われるが今は 
上下の石柱のみが残っている。 
橋の下では小型の石材を積んでアーチ門をつくり、通行が可能にしてある。 
青雲橋を登って歩道に従い西側の幻想的な梵影楼石柱を過ぎると極楽殿に至る。 
青雲橋の上の白雲橋は16段、規模が小さいだけで、構成様式は青雲橋と同じである。 
この橋の下にもアーチ門が作られ、その両側から横に長く伸びた薄い広い甲石の手法 
も、やはり青雲橋と同じである。 
細部の様式もにしがわの石橋や、その他の堂塔と良く調和を成している。 
佛國寺の中創が、景徳王の時、金大盛の発願で行われたと伝えられるので、この石橋 
が作られた年代も、その当時であると推定される。 
青雲橋と白雲橋の西側にある 蓮華橋と七宝橋(国宝22号)

 

   錦川橋 宝物563号 
 位置 ソウル市 鍾路区 臥龍洞 昌徳宮内 
 築造時期 朝鮮太宗(李成桂を指す・・訳注)11年(1411年) 
 形式 虹橋 
昌徳宮(秘苑)錦川橋は敦化門を過ぎて仁政殿に向かう道にある。 
この橋は現存する宮殿の橋としては最も古く、太宗11年につくられた。 
二個の虹橋でつくられ、その基石上に河馬の姿をした石獣を配置し、 
橋面には龍頭像が彫刻してある。橋面は魚道形式を取り入れ、 
長大石を三つに分けて並べているが、真中の石が若干高く、曲面の 
長大石を敷いているのが特徴である。石の欄干には風穴を明け、 
長鼓形の束柱を<陽刻>するなど、 
その精巧な彫刻は、どの橋よりも美しい。 
錦川橋は幅12mで、宮殿の橋としては最も広い橋である。

1万ウォン  世宗(セジョン)大王
5千ウォン 李栗谷(イ・ユルゴク) 東方の聖人、科挙に連続して首席で及第
千ウォン 李退渓(イ・テゲ) 16世紀の儒学者の著作は日本で広く読まれた。
− 57 B.C.: 檀君(タングン)神話 B.C.2333年に人間で神様である檀君が朝鮮を建てた。
57 B.C. - 668 A.D.: 新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)三国時代。
新羅と唐の連合軍が百済と日本の連合軍を倒す(660年)。668年に高句麗が敗北。
新羅による単一国家。
668 - 935: 統一新羅の官僚組織が弱体化し、昔の高句麗と百済地域の軍部が勢い
を増し、高句麗の子孫の王建が高麗(Koryo)建国。
918 - 1392: KOREAという韓国の英語名は高麗(Koryo)から出る。
約25年間の闘争以降150年間は高麗王朝はモンゴルの間接支配を受ける。
1392 - 1910: 李成桂が高麗王朝を倒し朝鮮建国。首都を漢陽(ソウル)へ移す。
高麗時代の仏教の腐敗を防ぐため儒教を国家の根本にする。
1446年第4代世宗大王は庶民も読めるハングルを作り出す。
1592年から1598年まで日本の侵攻。1627年から1636年まで中国清国の侵略。
1894-1895 日清戦争
1897年国号を大韓帝国に変える。1904-1905日露戦争の時、中立を宣言。
1910年日韓併合。
1945年 38度線で米国とソ連の分割支配。
1948年 大韓民国成立(大統領李承晩), 朝鮮民主主義人民共和国成立(首相金日成) 
1950年 朝鮮戦争勃発  1953年 休戦協定

秀吉の朝鮮出兵以前は三港において認められていた貿易は釜山一カ所に限られた。
日本の貿易商人の居住地も小さな倭館だけに限られた。
倭館の敷地 十万坪  出島 四千坪
外国人に対する待遇では、倭館の日本人は出島のオランダ人以下だった。
倭館の日本人はきびしい監視下に置かれ、ソウルにまで行った使節はない。
出島のオランダ人は江戸参府を認められた。オランダ人たちは途中で
大阪や京都に立ち寄り漆器などの工芸品を買うこともできた。

雨森芳州(釜山で朝鮮語を学ぶ)と通信使申維はんとの会話
互いに相手の国の良いところを誉め、自国が相手国を理解していないことを嘆く。

*方長老 朝鮮通信使をめぐる国書改竄の罪により、盛岡に配流された。
南部藩では文化人としてあつくもてなし、都の文化や茶道や漢文などの指導を受けた。
方長老は1635年から1658年まで盛岡で暮らした。 南部鉄瓶

冊封体制(さくほうたいせい、さっぽうたいせい)
 交流を許した国の王に中国皇帝が印鑑を授け、朝貢使節を迎え入れること

貿易以外の生産手段のない対馬藩は、朝鮮との貿易が死活問題だった。
朝鮮王朝と家康とで、講和が成立し、国交が正常にもどるための朝鮮の要求した条件。
・秀吉侵略の時に朝鮮国王の墓を荒らした犯人を縛送してこい。
・家康のほうから先に朝鮮国王へ国書を送るように。 国書偽造

李 青若:在日韓国人三世の胸のうち、草思社 
彼女に近づいてきたり利用しようとする、ある種の傾向の人たち。
彼らはすべての在日が被害者の役割を果たしていると思いたい。
この著者は、彼らの日本批判に同調しない。
・『協定永住者』の在留資格ができた1965年以降、強制退去させられた実例はない。
・1991年協議で子々孫々の永住が認められるようになった。
・祖父たちは仕事をしに来て、そのまま日本にとどまった(強制連行ではない)。
著者の母親(在日二世)は韓国人との結婚を勧めない。
「どんなにソフトでリベラルな男性でも、その人の親兄弟や親戚は違う。
私ですら堪えられない『男尊女卑』の考え方に、あんたが堪えられるわけない。
父親の両親と同居した母親
 韓国式か日本式か
 座り方
 ・お祖母さんは片膝を立てて座りなさいという。母は正座しなさいという。
 食事
 ・お祖母さんはお茶碗を持ち上げないで、右手に持ったスプーンで食べるという。
 ・母は左手でお茶碗を持ち上げて、右手にはお箸を持つのだという。
 脱いだ靴
 ・お祖母さんは靴のつま先を家の内に向けるというが、母は家の外に向けるという。
娘の手紙を読む父親。 娘に怒られ、怒り狂う父親。
 「家族のプライバシーなんていらないんだ。欧米の個人主義をふりかざして....
 子どもに部屋を与えたのが間違いだった」
 50年前の韓国での体験を持ち出す父親と日本の考え方を持ち出す娘
先祖供養 
 「四代祭祀」父母、祖父母、曾祖父母、高祖父母の四代
 近代化に伴い、祭主の二代目つまり父母と祖父母だけを対象に祭祀。
 1年に6回おこなうという祭祀(チュサ 儒教にもとづく祖先崇拝のための儀式)
 女三人は祭祀で供える料理のために1週間前から支度を始める。
 父と弟は祭祀のセレモニーを行うほんの数十分だけ。
 祭祀のための料理ができるかどうか。これは在日同士が結婚するときの大問題。
韓国は父系社会 族譜(チョッポ)
 母方の祭祀はしない。祭祀の義務と権利は父から長男に受け継がれる。
 もし娘しかいない場合、家系が断絶することになる。
 血統主義ゆえ。日本のように娘婿を養子にするという発想はない。
 家を絶やさないためには、兄弟の息子を養子にもらう。
祭祀
 祭祀の料理は女たちが作り、後片づけする。
 しかし、セレモニーには参加できない。
 祭祀の決定権は母が握っている。
 父が母の機嫌を損ねようものなら祭祀はできない。
 いっけん、男尊女卑だが、父はフェミニストになった。

「高句麗は中国史の一部か?」
*渤海国(698-926)  727年 渤海国使入京
朝鮮半島の将来 アジア周辺の情勢は。