韓国人が見た日本   朝鮮日報編 サイマル出版会 1984

これはなかなか良い本だ。  年産一億トンあまりの鉄鋼と一千百万台の自動車を作りだす世界の先端工業国日本は、 いまだに人が死んだ時は仏教、結婚するとき神道式の儀式にこだわる。 彼らがよく口にする和魂洋才の精神と生活習俗は、日本的なものを破壊しようと企んだ マッカーサー占領軍司令部も、ついに初志貫徹できなかった。  日本人はすでに百年あまり以前から、近代化を推し進めつつ和魂洋才と脱亜入欧、 すなわちアジア的後進性を脱皮し西欧的先進隊列に伍するため、歯を食いしばって努力 してきた。いまや日本は西欧社会よりいっそう西欧的な社会になったともいえる。 少なくとも、表面的にはそう思われる。  しかし日本の西欧化は、羽織袴にネクタイをつけたように、どことなくぎごちない 不調和と不均衡を感じさせる。 昔ながらのいでたちで呪文めいた祈願を口ずさむ宮司と、黒の洋服に白のネクタイで 統一された結婚式のお祝い客。 彼らはお互いに強烈な対照と不均衡をみせながらも、互いにいかなる抵抗も拒否反応も なく共存する。 天皇と民主主義がそうであり、近代的高層ビルの玄関前に備えられている神棚という名 の祭壇がそうである。  日本の天皇とその制度は、西ヨーロッパでみられる立憲君主国とも異なり、何となく 神秘的で絶対的な権威をもつようにみえる。日本は西欧式民主主義とともに神秘的で 絶対的権威の象徴たる天皇とその制度を両立共存させている。  古きものを捨てずに他国より先んじて新しいものをつくり、かつ新しいものによく 適応する日本人は、西欧化を指向する近代化の過程におけるだけでなく、その昔、 韓国や中国文化を吸収する過程においても、その態度は同じであった。  ライシャワー博士の弟子マリウス・ジャンセン教授は、最近の著書の中で次のような指摘をする。  「中国が進貢国に期待した一種の儀礼的服従を日本が決して甘受することがなかった のは、おそらく神社や神々と特別な結びつきをもつ天皇の果した宗教的役割があった ためであろう」(『日本 二百年の変貌』加藤幹雄訳)  彼はまた、「日本では二〇世紀の今日においてさえ、大衆小説を読むにも漢詩や 漢文や中国の故事、歴史などにかなり精通していなければならないということは 驚くべきことだ」と指摘しながら、にもかかわらず日本人は彼らのアイデンティティを 失わなかったとする。 かれは、「日本が中国文化の軌道上にありながら、中国文化摂取に当たっては、宗教、 詩、美術などだけを好んで取り入れ、その他については日本固有の文化を発展させる という選択を確保しつづけたのだ」ともいっている。  中国の政治制度や社会制度は、日本に導入されるとただちにその原型が見違えるほど 修正されるし、したがって日本人は文化的には中国的でありながら、政治的には中国的 秩序の軌道上に一度も乗ったことがなかった、と彼は主張している。   要するに日本人は、外来文化を吸収はするものの、その原型に耽溺せず、原型のままの 模倣にとどまらず、一種の創造的模倣を絶えず試みてきたのである。  われわれ韓国人が日本をみて評価するとき、ややもすると、日本人は模倣が巧みな 民族だとの単純明快な断定をしがちである。確かに日本人は、「よく模倣する」側面が なくはない。しかし彼らは原型そのままを模倣してはいない。原型よりいっそう優れた 独創的なものをつくりだすのである。それは一種の適応能力であり、精神的・技術的 革新の資質であると評価すべぎであろう。  そのような精神的、技術的(あるいは制度的)革新を少なくとも過去二、三百年の あいだ、毎世紀に一回ずつ成し遂げたのが日本である。そのつど日本は、新紀元を築き あげてきた。一九七九年、日本を極度に誉め称えた『ジャパン・アズ・ナンバーワン』 の著者エズラ・ヴォーゲル教授は「日本は過去一一〇年のあいだ二度にわたる制度的 大点検を行なった」と指摘している。最初は一八六八年、すなわち明治維新で、政治・ 経済・教育・軍事および芸術などの各分野において、もっともよき制度を吸収し、 二〇年にわたってそれらの研究に没頭したことであり、第二は、 第二次世界大戦後、連合軍の占領政策のもとで民主化のための一大改革を断行した ことであるという。  しかし、私はヴォーゲル教授のいう「二大改革」以前に、日本はもうひとつの 精神的・制度的改革を長いあいだ、すでに成し遂げていたといいたい。 それは、一九世紀末に日本が急に体験しだ西欧勢力の開国圧力に挫折せず、めげない ほどの内的成熟を築きあげた徳川幕府支配二六五年間の政治的・経済的・社会的蓄積が あったことである。   綿密な組織と相互監視体制の下にある日本の境遇はおのずと違う。誰かの悪質な 行為や陰謀は、ばれると刀剣で裁かれるのが武士中心文化の日本の社会的慣習であった。 今の日本社会でも、彼ら日本人はいくぶんか親しくなると問われもしない私生活をよく 告白するのをみるが、これは、嘘がない自己自身を隣に知らせることによって信頼関係 を築き上げた習慣が根をおろしているからだと思う。 日本人社会で一番卑しい恥辱は「恥知らず」であるが、恥とは「うそつき」を指す ことばでもあるからである。うそつきは斬られるに決まっているが、それは三世紀に わたる徳川時代(おそらくその以前から)の社会秩序が、いかに無慈悲なほど守られて きたかを物語っている。  それでは、日本の武士は、いかなる根拠で何を信じて、刀剣による秩序をそのように 無慈悲なまでに守ってぎたのか。彼らがもしも自由自在に人を斬り刀をふりかざした ならば、今日の暴力団と変わりがないであろう。日本を論ずる人びとのあいだには、 昔のサムライと今日のやくざを連関させることがある。しかし、それは混同にすぎない。 やくざがサムライの義理人情をまねることはよくある。が、そうかといってやくざが サムライの正統的後継者ではありえない。  日本の武士が尊重する秩序意識とその精神的基盤たる思想は、われわれの士族と同じ 儒教的教育の成果としてあらわれるものである。しかし日本における儒教は、儒教の 教理そのものが生活化されている韓国や中国とは異なり、学問としての領域を脱しては いなかった。日本における儒教の教理は、武士階級または統治者の行動規範として援用 されたが、民衆がそれにより拘束されるほど形式化してはいなかったのである。 徳川時代の内的成熟というのは、何よりも繊細で緻密に細分された階級社会により可能 なのではなかったか。 数多くの政治的ライバルと幾度かの血戦の末、1603年、征夷大将軍として江戸幕府を 設置し、1868年まで一五代の世襲が可能な基盤を築きあげた徳川家康は、日本統一後、 ソ連のKGBにも優る徹底的な情報政治を敷く。 情報政治を効果的に運営するために、数多くの人々にそれぞれに似つかわしい職責と それ相応の反対給付を与えなければならなかった。  この時代から始まる情報政治とそれに伴う階級社会的制度は、その後数盲年連綿と 引き継がれ、先端技術を誇る今日の日本にも根深く存在しているのだ。  将軍が今日の内閣総理大臣や大企業の社長であるなら、その下には三百あまりの藩 (現在は四七都道府県)を治める大名(知事)または支店長があるといえる。 だが天下を治める将軍は諸大名が心配で、目付という監視役をおいた。今日の秘密警察 である。目付制度は監視の網を幾重にも重ねるものであった。  将軍直属の参謀長(あるいは専務)格である家老の下には大目付があり、彼は各藩の 大名を専門的に監視する。その次は常務格の老中に直属の目付。彼は一万石以下の領地 を所有する武士(旗本)の非違を摘発する。また旗本級以下の下級武士に対する監視役 は、平役員に当たる若年寄直属の目付が受けもっていた。  そのほか将軍の下に、奉行という一種の官僚機構がある。奉行は勘定奉行、寺社奉行、 町奉行などに分かれ、勘定は今日の財務・財政、寺社は宗教・文化、町奉行は一般行政 を担う。 奉行、旗本、大老、老中、若年寄、その他あらゆる役職を監視する目付は必ず将軍 または大名直属で、それぞれの段階でチェックとバランスを維持する制度的機構だ。 同時期の朝鮮王朝には、中央に六曹(省)、判書(大臣)、地方に八道(県)、観察使 (知事)があるだけで、中央集権体制下の彼らの縦的組織を監視する目付役はたまに 奇襲的に地方を巡る暗行御使(あんぎょうぎょし)以外になく、地方官吏の専断的秕政 を制御する制度的装置は欠けていた。  限られた座を競い争い一旦その座を占めると、上から与えられる禄も下に分ける配分 もないから、苦労の末、座を獲得した官吏は、現地で可能な限り物品・金品をかき集め、 在任中に富を蓄積しておかぬと老後が保障されない。このような韓国的メカニズムは 現代もあまり変わらぬ。  日本の知識人は、徳川幕府から明治時代への移行期などを例にあげながら、よく日本 は外圧をうまく利用して自己改革をしてきたという。もちろん、そのなかには戦後の 一連の民主改革も入る。事実、戦後の一連の民主的な改革は、先にみたように基本的 には米占領軍当局の圧力、すなわち外圧の産物であった。  多くの日本人が「戦争に負けてよかった」といい、「戦争に負けたおかげで、もっと よくなった」とまでいうのは、まさにその外圧が自分たちにプラスに作用し、いつかは 自分たちが遂行させねばならない歴史的な課業を米占領軍当局という外圧によって徹底 的に遂行することができ、その「幸運の結果」を今日享有しているという自覚から出て くることばだ。  もし、ソ連に占領されていたら、そのような幸福な結果を享有できなかったであろう。 われわれがみすごしてはならないのは、敗戦後の民主改革が、明らかに外圧の産物で あることはまぎれもないが、ただ外圧だけの所産ではないという点である。もし、 外圧のおかげだけによるものであるならば、どの国も外庄によってでもそのような改革 が遂行されさえすればよくなるはずである。  しかし、必ずしもそうでないことは、歴史が教えている。外圧によって日本がよく なりえたのは、その外圧をうまく活用できる能力と与件を日本自らが内部に備えていた からである。いかによい改革であり、いかに強い外圧があっても、それを具体的に 遂行、運営するのは、その国の国民である。その能力と意志なくしてはでぎもせず、 改革を可能ならしめる基本的与件がそれなりに整っていなくてはできない。その点、 日本の場合、まず近代的国家運営の経験と人材があったし、文盲がいないのはもちろん、 多くの高等教育人口を輩出していたなど、全体的な教育水準が高かった。そして、 戦後日本の各界を実質的に担当した主役や中堅層が、人問形成期であった中学から大学 に至る時期に[大正デモクラシー」の洗礼を受け、民主主義を受け入れられる素地を もった層がいたということが、重要な点だ。  戦後日本の主体的条件としては、以上のような点をあげることができるが、それ以上 に何よりも重要な与件は、日本人の民族的自尊心と再生への意欲が強烈だったという点 である。これなくしては、すべてのことが空しい与件としてのみ終わったことであろう。  端正に剪定された日本の街路樹、自由奔放に自然に自生した韓国の街路樹。その 風趣や姿を尺度にしてその善し悪しを問うのは愚行だ。 美の基準と尺度は民族や国ごとにちがうのだ。 このような相違点を見過ごしての文化論や民族論が、あたかも正論のごとく閻歩して いるのをよくみかける。  韓国の陶磁器を世界的に評価した人の多くは、日本人であった。 その彼らが韓国に花瓶がない理由と原因を、物心両面から花を愛する余裕が なかったからだと説いた。つねに外から侵入された韓国は、民衆は飢え、 生活に汲々とし、花を愛する心の余裕がなかった。 それで、焼物の国である李朝に花瓶がつくられなかったということだ。 それこそ愚な分析である。それは、日本的な文化価値観を尺度としての分析で あり、ひどい誤認である。  韓国人は自然に咲いている花をみることを好み、日本人は室内で花を観賞するのを好む。 美の観賞と鑑賞の仕方がちがうということを、日本人は理解しえなかったのである。  一九一九年の三・一独立運動に対する日本政府の弾圧に、即時、筆をもって 強く抗議した柳宗悦は、韓国の民衆工芸をとおして民芸論という民衆芸術論を 確立し、韓民族を非常に愛した日本人であった。 韓国美の特徴を「白と線」だと説いた、その人である。 宗悦は、「朝鮮の美はすべて悲哀の美だ」という美論を展開し、 その美論が五十余年間、定説のごとく通用してきた。 一九八三年、宗悦のその美論を批判する論が、韓国でも話題を集めている。 時期遅れの感はあるが、歓迎したい。  じつは七〇年代のはじめ、私は日本で柳宗悦の韓国美論について批判を 展開し、朝日新聞の紙上で数年間論争を続けた。それを、世聞では白の論争と よんでいる。  宗悦の悲哀の美論を、わたしは過去の日本の植民地歴史観に汚染された美学 であり、宗悦の誤認であると批判した。白の論争をとおして、韓国の美を 悲哀の美だと説いた宗悦の定説は、日本からその姿を消していった。 少なくとも、マスコミでは使われなくなった。それとは反対に、私が主張した 韓民族の楽天性と飛翔が注視されている。  ところで、白の論争での私の主張と相通じる芸術論が、十余年後の今年、 韓国内でも話題にのぼっているが、遅きに過ぎると指摘せざるをえない。  民族芸術論を確立する作業は、たいへん急を要するということは、二言を 待たない。ところが、その作業は宗悦の悲哀の美論を黙殺したり無視しては、 不可能。その点から、時期が遅きに過ぎたと指摘しておきたい (白の論争については拙著『キムチとお新香―一日韓比較文化考』を参照)。  天才的な美学者であった宗悦が、工芸と同じ程度に、韓国の民衆のなかに 深く入っていったならば、そうした誤認は絶対に起こらなかったにちがいない。 宗悦も韓国の民衆芸術を表層的に観察したにすぎない。 それは、外国文化を鑑賞したり観察する時など、必ず起こってくる問題である。 韓国人もしばしば、日本文化を表層的に観察して、それをあたかも真理のごとく 誤認することが少なくない。お互いにその点を深刻に反省しなければならない。  韓国と日本の文化には、似たところが世界のどの国よりも多いだろう。 しかし、類似性が濃いからといって、それが必ずしも共通点になるとは限らない。 同じ素材で作っても、異色なものに仕上がるのが、民族的な特徴なのである。  日本のお新香も韓国のキムチも、同じく白菜を素材にした漬け物である。 同じ素材の白菜を用いた漬け物なのに、漬けあがったキムチとお新香は、 あまりにも対照的だ。お新香に唐辛子をまぶしたからといってキムチには ならない。同様にキムチを水で洗い、唐辛子を洗い流したとしてもお新香には ならない。こうした例は、たんにキムチとお新香にかぎらず、文化、芸術、 政治、経済などでもしばしば見受ける。  文化や芸術などで誤認や錯覚が生じても、時間的な余裕があり、生命や 民族の存在に直結するようなことは非常に稀である。が、政治や経済の面では、 瞬間的に大変大きな問題に発展する憂いがある。  韓日間に不協和音が生じるたびに、両国のりーダーたちがもう少し、 お互いに相手国の民族心理や思考方式を理解していたならば、もう少し 睦まじい交流が生まれるであろうに、と思う。  それを解決する最善の方法は、文化の始発点にこだわらず、それぞれの 独創的な文化をもっているという点をお互いに認め合う作業を始めることだ。 お互いの文化に、キムチとお新香にみるような独創性と相違点を発見する ことの必要性を強調し、文化の質は異なっても文化には上下の差はない、 ということを強調しておきたい。 (金両基)