韓国人と日本人
金 容雲 サイマル出版会
辛口の韓国人日本人の比較
東京生まれで、戦後に韓国に帰り苦労しながら
漢陽大学数学教授となる。
データをもとに緻密に検証するという書きぶり。
主人が病死したことも知らず毎日退勤時間に出迎えに来たハチ。
死ぬまで続けたハチを深く敬愛した日本人は
渋谷駅に「ハチ公」の像を作った。
韓国の忠犬は以下のような話である。
いつも主人について歩く犬のオオスがいた。
あるとき主人は酒に酔いつぶれ枯れ草の中で寝込んでしまった。
やがて彼が吸い残したタバコの火によって火事になってしまった。
オオスは近くにあった水溜まりで体をぬらし火に飛んではいることを
何度も繰り返し、ついに主人を助けたが、自分は焼け死んでしまった。
以後、忠犬の徳をたたえ、部落の名前をオオスと呼ぶようになった。
駅名もオオスがつけられたという。
日本人は、いったん命令があれば、ほかの指示があるまで
いかなることがあろうともそれを守り続ける。
愚直とも思われる行為を称えた例は、他にも
フィリピンの密林の中で30年もの間隠れ続けた
小野田少尉の話がある。彼は日本やフィリピンの勧告を
無視し、直接命令を下した上官の新しい命令を待っていたのである。
実は小野田少尉より数年前、韓国人軍属がグアム島の密林で
小野田少尉のように隠れ住んでいたのである。
これまた日本なら感激するところだが、ほとんどの韓国人は
その報道を感動どころか漫画でも読むような気持ちで
受け取ったという。
彼はその後、日本でも有名であった旧日本陸軍大佐の金錫源
が経営する高校の守衛に採用された。おそらく韓国人の中で
一番感激したのが日本人的思考をもっていた金錫源だったのであろう。
柳宗悦は韓国の民族衣装である白衣を葬礼用とみなし、
韓国文物から、哀しみのにじむ芸術性をくみとった。
柳宗悦は韓国文化の特徴を悲哀の文化ととらえたのである。
それに対して、金両基は「柳宗悦は植民地時代の支配者側の人間であり、
韓国に同情したのはよかったが、勇み足になり、少し思いこみ
しすぎていた」と反論した。
韓国人の白衣について、金はそれが陽の光のなかでは逆に明るく、
陽気なものとみてとり、韓国文化の特性を、楽観的で生命力の強い
ものと主張した。
しかし、柳宗悦も金両基もそれぞれ正しく
韓国文化とは「悲哀と楽観が裏表になっている文化」であると
考えたい。
悲哀はあるが、それで終わるのではなく、未来に対して
希望を失ってはいない。また陽気さもあるが、その大笑いのうちに
一抹の不安が影さしているのも事実である。
それは三寒四温に象徴される、韓国の変化の多い風土が
韓国の特性を作り上げたのである。
(人間の心が環境や天候の影響を受けるのは世界みな同じ)
中国の史書を読んで気がついた。
新羅では、都を健牟羅(クンムラ)と称す。(梁書新羅伝)
クン(大きい)ムラ(村)→大きい村、都
ムラを大きくしたらコウルとなる。日本の郡山はコウルから出た言葉。
韓国語 日本語
ウル 囲い・領域
マウム(新羅語でムラ) 村
コウル 郡
ソウル 都
ナラ(新羅語でナウル) 国=奈良
みんなウルがつくのに注意