韓国人の
私が韓国をキライになった48の理由

祭祀(チェサ)はそんなに大事なことか?
祭祀(法事)は東洋では精神文化の華である。
特に儒教圏の国では親を慕い、先祖を崇拝することが大切な精神的風土
となっている。
近代化を進めるシンガポールでさえ、子どもが親に仕えなければ
法律で罰せられるという。
祭祀を通じて先祖の業績を称え、その精神を受け継ぐことは非常に重要である。
祖父母の名前もよく知らない子どもたちは、自分たちの血筋を考え、散らばって
いた親戚たちはひさしぶりに集まって一族のつながりを感じる機会となるから。
昔、貧しかった時代の祭祀は、腹いっぱい食べられる唯一の日と言ってよかった。
この著者はだから、子どもの頃は、祭祀の日が先祖を祀り、目上の人を敬う日だ
とは考えなかったそうである。その日が来ると、久しぶりに焼肉や色々なナムル
を食べられる日だと思ったという。
もちろん、年をとってくると徐々に祭祀の意味を理解するようになった。

ところがちまたで行われている祭祀風俗を見ていると、やらないほうがよい
と思うようになったという。
なぜなら、祭祀本来の精神は消え去り、ただ他人の目を意識するだけの行事に
なってしまっているから。
お盆や正月になると高速道路の休憩所で簡易祭祀用品と食品を販売しているのを
よく見かける。あれを見ていると、休日は楽しく遊んでいらっしゃい。
祭祀は形式的に行えばいいんですよ、と言っているようだ。そして、これがかなり
評判がいいのである。
キリスト教を信仰する人たちの祭祀は、いっけん奇妙な光景となっている。
形式的にお膳を整え、賛美歌を歌いながら礼拝をするのが一般的だが、
場合によってはキリスト教の習慣にないお辞儀をしたりする。またそれと逆に
本家の人たちがお辞儀をするのに、教会に通う分家の人たちが立ったままという
光景にも出くわす。異なる精神文化のちくはぐな点が目についてしまう。

普通の韓国の家では、祭祀の日は嫁にすべての負担がかかる。
本家の嫁は集まった親戚のために食事、食べ物、間食などをすべて揃えなければ
ならない。その間、男たちは集まって花札に興じ、酒を飲みながらのんびりとしている。
だから、祭祀の日や正月になると、女たちが腹を立てるのは当然のことだ。
嫁を一種の補充労働力、悪く言えば奴隷と同じように扱った李氏朝鮮王朝
(1392−1910)の奴隷文化が息を吹き返し、年ばかりとった者たちが
我がもの顔に振る舞う日、それがまさに祭祀の日と正月なのである。

儒教が正式な国教になったのは朝鮮王朝時代である。
李成桂(イソンギュ 1335-1408)が軍事クーデターにより政権を握り、
権力維持のために導入したのが儒教文化だった。それ以前の高麗時代(918−1392)
は仏教が盛んで、階級間のあつれきや男女差別はそれほど激しくなかった。
前政権を倒して権力を握った軍人はそんな自由な空気をそのままにしておいたら、
今度はいつ自分たちの権力が倒されるかもしれないと思い、家父長的で
男女差別的な儒教文化を積極的に擁護したのである。

著者の主張はこうである。決して目上の人を尊敬するなということではない。
ただ、それがヒューマニズムに基づいて、本心から起こるものでなくては
ならない。考えてみよう。あなたがあの世にいる父母だとしたら、真心のこもった
子どもの涙と、嫁がこき使われて作ったご馳走いっぱいのお膳とでは、
どちらがより価値があると思うだろうか。
たらふく食べて、酔っぱらって、大声で歌うのが祭祀であり正月であるのか。
男女の区別なく静かに黙祷し、経験に一日をすごすのが、真の意味で父母への
礼儀になるのではないだろうか。

儒教は人間社会に秩序を与えようとするもの。その結論は「男子=父=絶対君主=神」
であり、その結果「女子=奴隷=服従」という対立項ができたとする著者の解説は
徳川幕府が自分たちの支配秩序を儒教に求めたのと同じである。
まさしく支配者にとって好ましい儒教。儒教の功罪があって、なかなか良い面もある
とは思うが、韓国や中国では儒教の悪い面が積み重なった例がよく報告される。
西洋の民主主義やヒューマニズムが入ってくると、韓国の若い女性を中心に
儒教文化批判と嫁や娘たちに集中する祭祀の労からの逃避行為が起こったのは、
他の在日女性の本を読んでも理解されることである。

以下長くなるので、要約のみメモ書きする。
外食は決まりきった公式がある。夏には補身湯(犬のスープ)、冬には鶏粥という
季節にあわせた保養食があり、他に焼肉やテンジャンチゲ(みそ味の鍋物)などが
ある。しかし、どんな料理にもついてくるチゲには、唐辛子と化学調味料が多い。
それは家庭料理にくらべて、あまりにも辛くてしょっぱい。それは、材料不足と
誠意のなさを示すものである。入るべきものが入っていないので、本物の味が
しないのをとりつくろうため、唐辛子と塩をたくさん使うのである。
(ここは日本の外食産業も同じであろう)

長年外国で生活したのち韓国に帰ってきた女性に会って、カフェで著者がお茶代を
払おうとしたら、彼女から言われたという。
「韓国はおかしい。食べたり飲んだりしたら、必ず年長者が全部払おうとする。
女性と一緒の時は全部男性が支払うけど、年長の韓国人男性はみなお金持ちかしら」
言われてハッと気がついた著者。考えてみれば、彼女の年収は著者の数倍はあろう。
彼女が払うというのはまったく正しい。しかも、著者が彼女に情報を提供する
側だから、彼女が支払いするのは当然なのである。
海外で韓国人留学生はこのように全部自分が支払うし、男らしく見えるので
もてるという。しかし、自分が年長であるかないかということは重要であるから、
韓国では、初対面の相手にまず年齢を聞くという。そして、相手がそんなに
偉い人でなくても、年上なら頭を下げることが多い。韓国のつもりで、外国人にも
会ってすぐ年齢を聞くから、大変失礼な奴だと思われている。
韓国のような「先輩文化」は時代錯誤である。支払いの時は割り勘がよろしい。

韓国の食事はどんなものにもキムチが付く。そうすると何を食べてもキムチの
影響が残るから、キムチの匂いや味からのがれられない。本来のその料理の味を
楽しむことができない。「キムチ的全体主義」の神話をこわそう。
そうやって、中華料理や日本料理のたくさんの違う味をもっと楽しもう。

欧米では騒音に対して非常に敏感である。夜の騒音禁止の国の生活体験をしてから
韓国に戻ってきた著者は、韓国の騒音のひどさに気がつく。バスやタクシーの中
で流しっぱなしのラジオから流れるつまらない話やうるさい音楽。
衣料品やレストランに入っても聞きたくない音楽が流れる。
著者はそれは、客に落ち着いて考えさせず目についたものを買わせてしまう、
あるいゆっくり友人と会話を楽しむことを妨げ早く食べて席を立たせるように
させるためと喝破している。(客に対するサービスのつもりのこれらの音は
日本でもしばしば見られることである。日本も考え直さないといけない)

この著者の書く「日本学習の熱風を吹かせよう」は注目すべき内容である。
韓国の日本文化に対する解禁問題は大きな問題である。今後も徐々に日本文化を
解禁するようになるであろうが、日本文化の害悪に部分をさけて良い部分だけ
受け入れるには、実用的な観点から取り組めという。
その際、歴史的なライバル意識や古くさい感情は脇におけという著者の論理は
韓国人にはなかなか感情的には受け入れられないだろうが、
著者の歴史観はおやと思うくらい科学的である。明治維新の時日本は韓国を
追い越したと一般に思われているが、そうではなく秀吉の「壬辰倭乱」
(文禄・慶長の役)以前に国富の差ができ、それが原因で戦争が起きたと述べて
いる。このような指摘をする日本の歴史家はまだ少ないと思うくらい鋭い指摘
である。さらに鎖国中も長崎の出島を通じてオランダ学が栄えたことも
見逃していない。不幸な植民地支配はあったが、朝鮮戦争後に日本から受けた
利益は相当なものだ。家電や自動車、医学など様々な方面のノウハウを吸収する
ことができた。さらに諸々の学問分野でも日本の概論書や理論書を吸収したおかげ
で、短期間に一定水準を確保することができた。日本にはノーベル文学賞の
受賞者が二人もいるし、他にも世界的に注目されている作家が多数いる。
こうした優れた文化を、それが日本文化であるというだけで受容できないという
なら、ただ韓国人が損をするだけである。日本人に勝ちたいと思うなら、熱心に
彼らを学んで長所を吸収して自分たちの力を蓄えればよいのだ。
したがって、著者はハングル文字と漢字を併用した「国漢文混用体」を再度導入
すべきであると説く。そして、ヨーロッパでオランダやスイスが強大国の間で
賢明に処世しているノウハウを学ぶべきだと言う。韓国は中国と日本の間で
貿易や文化交流の仲立ちをしながら自分も成長すればいいのである。
この両国の間に位置するという特性を活用して、バランスをとっていくしか生きる
道はないだろう。私もそう思う。日本や中国との間にせっかく昔からの漢字文化や
仏教文化や儒教文化があるのだから、それを利用しない手はない。
漢字をもっと教えるべきなのである。漢字を通じて、日本や中国から良いもの
吸収していくのが賢いやり方である。
今のように韓国がハングル文字だけ使って、漢字文化圏の恩恵を受けないことは
韓国だけが困ることになるのである。