攘夷の韓国 開国の日本
呉 善花 お そんふあ、 文芸春秋社
飛鳥時代に
朝鮮半島から文化も人種も日本列島になだれ込んで
日本ができたといいたい韓国
その説の不合理なことを説いている。
もっとも、この韓国にだけ都合の良い説に対しては
より妥当な他の説を紹介しておく。
・日本は周りが海なので、東西南北から海を渡って人種も文化も
伝わってきたというのが定説(朝鮮半島からだけではない)。
たとえば神社の作り方は南方の水上建築物である。これは南中国にも見られる。
・騎馬民族説というのがあって、それは朝鮮半島経由であるが、
そのルーツほさかのぼるとシベリアになる。だから司馬遼太郎など
モンゴル人、朝鮮人、日本人は血も文化も共通とさえ言っている。
そして、韓国人は漢民族の文化の後継者を任じているから、野蛮なモンゴル人
とルーツを共にすることは認めがたい。言語や遺伝子などで調べればもっと
わかるのに。
(ムーダンやイタコに見られるシャマニズムは、モンゴル人や満州人にもある)
つまり 韓国→日本 という流れがあったとしても ○○→韓国→日本
というほうが科学的であろう。
日本列島も朝鮮半島も、南北からの文化の通過点であったという
この著者指摘は、科学的な印象である。
日本にあってもよいはずの南方系の卵生神話が日本にはなく韓半島にあり、
韓半島にあってよいはずの典型的な北方天孫降臨神話が韓半島にはなく日本にある
ということ。
「北方シャマニズムの世界観に顕著な天上界の観念は、朝鮮半島を経由して
日本に伝えられたことは事実だが、
朝鮮は通路的役割を果たしただけで、それを受容した日本では、天照大神を主紙とする高天原の観念を著しく発達させた(依田千百子『朝鮮神話伝承の研究』)」
「朝鮮文化の基層には日本におけるよりも南方海洋文化の原形に近い面があり、
朝鮮では磯の出自の神聖性を語る卵生神話が、古い形のまま記録された(依田千百子『朝鮮神話伝承の研究』)」
卵生神話は日本では宮古諸島と対馬にだけみられる。
日本の降臨神話は北アジア系の天上紙の観念を強く表している。
だから「日本の古代王朝は北方騎馬民族の流れを引くもの」とするならば、
韓半島の降臨神話は南方の卵生神話を強く保存している。
だから「韓半島の古代王朝は南方漁労民族の流れを引くもの」としなくてはならないことになる。
スサノオ伝承をあげて
出雲の歴史層を語る。
古事記、日本書紀から
(1)父イザナギから海原を治めよと命じられたが、
「根の国」に行きたいと言い張り、髭が胸のところまで伸びる年になっても泣きわめいていた。
(2)天上の高天原で姉神のアマテラスと「子産み」をするが、やがて水田破壊などの罪を犯し地上に追放される。
(3)諸国をさすらい出雲国で八岐大蛇を退治して後に国の王となり、オオクニヌシに技術と自らの娘を与えて出雲の王となれと力づけた。
著者はそれぞれを下記のように対応するとみなす。
(1)は漁労をはじめとする狩猟採集時代から原始的な栽培農耕への移行期
(2)は原始的な栽培農耕時代から水稲耕作への移行期
(3)は韓半島などから入ってきた技術による水稲耕作時代の始まり
そして
司馬遼太郎が注目した水野祐氏の出雲の民族と文化に関する
三層説を紹介している。
これは民族学的な立場から言語・習俗・血液型などについて考察されたものだという。
(1)第一層 北方狩猟民族系の部族 縄文文化の担い手である原日本人
(2)第二層 南方漁労民族系の海人族 インドネシア系・苗族系の漁労航海民
(3)第三層 朝鮮半島系の部族 朝鮮半島南部の新羅人
著者はそれぞれ
初期縄文人、晩期縄文人、初期弥生人
としている。
武蔵国高麗郡(現在の入間郡の一部)の南に調布市・狛江市があるが、
この一体の古墳群も高句麗系のもので、6世紀のものと見られている。
また、狛江は明らかに高麗を意味する地名である。
ということから、高句麗人の関東移入は、高句麗が滅亡した668年以前、
つまり高麗若光より100年も前からあったという推測も行われている。
このように高句麗人は古くから、大磯から北武蔵の高麗郡までの関東平野の大きな部分を開拓していったとされる。
だが、それは必ずしもこの地域が高句麗人の土地だったことを意味しないと私(著者のこと)は思う。
高句麗人の足跡が残っているのはその通りだとしても、彼らがずっと高句麗人であり続けたわけではなく、
高句麗の言葉を話し続け、かたくなに高句麗の生活様式を守り続けたわけでもない。
日本化して日本人になっていったのである。つまり、高句麗人がこの地域を征服したのでもなく、
融合して高句麗文化でも土着文化でもない日本文化を作り上げていったはずなのである。
考古学の方はよくわからないが、少なくとも韓半島的な匂いの漂う人名、地名、社寺名、遺跡などを
ピンポイント式につなぎ合わせて理解してしまうことは危険だ。
そのやり方をとれば、おそらく関東全域に、いや日本全土に韓半島からの渡来人の足跡でつながれたネットワーク
ができ上がってしまうに違いない。そして、関東には韓半島からの渡来人しかいなかったような錯覚を抱かせてしまうに違いない。
しかし実は、そのような錯覚を抱かせてしまうところに、日本の精神文化の独特な構造がある、
と私(著者のこと)は思うのである。目に見えることに飛びつくよりも、その見えにくい構造を解き明かすことから、先になされなくてはならないのではないだろうか。
韓半島から日本への渡米を促進した最大の原因はなんなのだろうか。
他の何よりも、韓半島における絶え間ない戦乱・動乱・政乱の歴史をあげるべきである。
韓国人は「われわれは日本に文化を教えてあげた」というのなら、同時に
「われわれは日本にたくさんの同胞を引き受けてもらった」というべきなのだ。
紀元前108年、漢が楽浪郡を設置してから、676年新羅が韓半島を統一し、
9世紀半ば頃まで、約1000年にわたって、帰化を希望してやってきた亡命者・難民たち。
歴史学者ではないが、常識的な考察を述べた本。
たぶんこうして渡来人も元日本人の仲間となっていったのであろう。他の地区から渡ってきた人種とともに。