ごり押しの韓国人きれい事の日本人  申 潤植

在日韓僑の目でみた文化論

著者はソウル大学3年生のとき退学して、翌年東大に入学する。
東大農学博士で砂防工学の専門家。
山海堂から地すべり工学の専門書を出している、尊敬すべき技術者である。
日本の建設コンサルタントの創立から参画し、とうとう会長にまで上りつめた。

もう日本に50年近くも滞在した著者が、韓国と日本と中国を比較した
興味ある内容の本である。このての他の本との違いもあり、それは研究者らしい
著者の気のついた視点のユニークさでもある。

科挙の試験に受かると大変待遇は良くなる。 都会に住んでいる子弟は経済的にも地理的にも応試の機会に恵まれているが 地方に住んでいる書生は都に行くまでもかなりの日数と旅費が必要である。 一族から科挙に登用された者を出すことは名誉なことである。 したがって一族の中から優秀な者を選び、一族がその経費を出し合う。 科挙に合格し、官職についた者は、一族に対してこの負い目があり、 それに酬いなければならないのである。どのように酬いるかといえば 自らの余録、つまり正規の収入以外の所得に頼らざるを得ない。 これが、韓国における賄賂の期限であるという。 (これは中国も同じであろう) 司馬遼太郎「街道をゆく」に大丘のホテルでマッサージ師を頼んだら 日本のホテルで1000円のマッサージ料金が、日本円にすると3000円 に相当する金額を要求されたことが書かれてある。 マッサージ師の取り分が300円で、ホテルにおさめるのが100円で 電話をとったフロント係が2000円、ほかのフロントにいた仲間が 300円ずつ受け取るのではないかと、この著者も司馬遼太郎の推理を 認めている。 笠信太郎にまねて 韓国人:まずことの是非をただし、その上でごり押しで事を進める。 日本人:蛇の塀を這って越えるがごとし     (他人の目を盗んで事を運ぶ不明朗な所業をさす) 中国人:議論よりも面子を重んじ、結果的に、ただ己が思うどおりに事を進める。 台湾の大学に、日本代表として「地すべり工学」の特別講演をしにいった。 そのあと大学総長から晩餐会の招待を受け、二次会に市内の高級クラブに 行ったら、現れたホステスに「どちらから来られましたか」と聞かれて 韓国だと答えたら、「私は韓国人は嫌いだ」と言われて急に立ち去ったという。 この著者は接客業の女性に、これほどまでに嫌悪感を植え付けたのは 韓国人であろうと判断して、このクラブに立ち寄った韓国人が恥ずかしく 恨めしくも思ったという。 著者が韓国人に対していだく感じは、ソウルから北京に行く日航ファーストクラス の予約をしてチェックインするときにも、韓国人の受付女性が命令口調で 「座席を○○に変更します」と言うのにカチンと感じる。隣に立つ日本人の 男性職員が「申し訳ありません。事情があってお願いしているのです」 というのを聞いて、お客に対してサービス精神を表す日本人職員を見習うべき だと書いている。これは長年日本に住んでいて、日本の良い点に慣れた著者が 改めて韓国の直すべき点に目がいったということであろう。 朝鮮語を母国語とする著者によれば、漢字は音読みをすべきである という意見になる。訓読みはしたがって外国人には一つ一つ覚えていく しかない難しい日本語なのである。まして、日本語特有の「重箱読み」と 「湯桶読み」のような法則性のない読み方は、外国人にはパニックを起こす ようなものなのだ。 漢字は音読みをすべきであるという著者も、韓国でテレビを見ていると 渡り鳥を正しいハングル固有語チョセルと言ったかと思うと、 漢音で冬季オリンピック大会という。「とうき」とは何かと考えているうちに 冬季のことかと思い当たる。冬を意味するハングルがあり、季にあたる ハングルがあるのだから、漢音ではなくハングルで言えばよいのにと思う著者。 日本流にいえば「りょくふそく」という言葉が度々出てくるが、何だろうと いぶかしがっているうちに、やっと「ちから不足」のことだと気がつく。 ちからに相当するハングルがあるのに、それを使わず漢音そのままで言う。 しかし、日本的にちから不足をハングル固有語プラス漢音の不足で表すなら これはまさしく湯桶読みになるのだ。この時点で著者はまだ気がついていない。 先にあげた日本語の「ちからふそく」は訓+漢音であって、この日本語を 真似るとしたら、固有語+漢字とすべきところ。「りょくふそく」という言葉 はあきらかに日本語からの輸入である。なぜなら中国語では「力不従心」あるいは 「能力不足」といい、「力不足」という言葉はないから。 「ノウル」とは日本語の「たそがれ」に相当する韓国の固有語で、日本では 黄昏と表記して「たそがれ」と読ませる。韓国語には訓読みはない。 外来文物や文化が入ってきた場合、それに該当する古来語がなければ、 外来語そのままの音で読むほかはない。行燈は「あんどん」、餃子は 「ぎょうざ」、湯湯婆は「ゆたんぽ」と、外来語そのままの音で読む。 最後の「ゆたんぽ」は、それにお湯をいれて体を暖めるという使い方を 加味して頭に「湯、ゆ」の字を重ねたもので、中国語読みでは「たんたんぽ」 となってしまう。 このように見てくると、日本での漢訓、訓漢、漢漢、訓訓読みとは、 外来語としての漢字を導入する過程で、古来語を活かそうとした、日本人の 知恵といわざるをえない。 ここにいたって、この著者も日本語の不規則な重箱読みや湯桶読みを 批判するだけでなく、参考とすべき卓見であると判断する。 著者の韓国における交通標識や電話帳のすべてハングル表記についても その問題点を指摘している。 電話局に問い合わせてみたところ、同じ音で最も多い名前が kim yeong su だという。電話帳で調べてみると、なんと69名の名前が記載されている。 住所を知らなければ名前だけでは探しようがない。2,3名であれば 電話での確かめもできようが、69名もあれば、手も足も出ない。 電話帳というのは、本来索引の役割をするものであって、住所という別の 索引を付けても探し当てられないとすると、索引としての用を全く果たし得ない。 これだけでも、ハングル専用論が間違いであると言えよう。 人名は、その命名者が子孫の将来に夢をはせ、いろいろ考えた末に定めた ものである。地名もまた、その由来を明らかにするために、いろいろ考えた末に 定めたものである。このすべてを、漢字を省略してハングルだけで表記すれば、 人格無視、歴史無視のそしりを免れないだろう。 これらのハングル専用論批判は同感であって、日本語のローマ字専用表記もやはり 問題が多すぎる。 この本には、韓国人に対する改めるべき点も多く書いてあるが、日本人に対しても 反省するべき点がたくさん書かれている。それらは主に明治からの歴史についてで あるが、日本人と韓国人のものの考え方の違いを除いても、日本人が耳を傾けるべき ことが少なくない。