松尾茂 私が朝鮮半島でしたこと、草思社

著者は朝鮮で建設業を営む叔父夫婦の養子となって、朝鮮人たちと一緒に
主として灌漑工事にたずさわった。
関連の橋の工事をして地元の人の喜ぶ顔を見たりする。
灌漑工事は終戦になって中断され、結局決死の国境38度線越えをして
日本に帰国する。

伊万里に生まれた著者は、日本での貧しい生活に将来が開けず 父親が自分の妹夫婦が朝鮮で土木請負業を営んでいて子どもがなかったから 養子に預けて土木の仕事を教えてもらうように考えた。 母親の反対の気持ちを知りながら、自分の村から朝鮮半島までは わずか200キロメートルという近いところなので異国に行くという気は しなかったらしい。むしろ、若いときにひとはたあげてやろうと思い 18歳の時、夢と希望で朝鮮半島に渡ったのであった。 はじめて取り組んだのは、忠清南道の公州の近くの牛城水利組合の発注した 工事だった。その平野は雨が降ると一面水溜まりになり、稲が水没する 被害を受けていた。そのため堤防を築き、雨水が堤防の外側を流れるように する工事だった。排水口や水の取り入れ口を設けて、道路の整備もする。 時には橋を架けなくてはならない。 この現場で「出面(でずら)係」をして「出面取り:作業員の人数を数え 賃金を払う」をすることを学ぶ。彼の作った伝票を1日の賃金として 受け取った労働者は、それを米屋や食べ物屋に持って行って買い物をする。 これで酒も飲める。こうして使われて余った伝票は、決められた日には換金 できるようになっていた。しかし、よほど余裕のある労働者しか、伝票を 持ってきて現金化しなかった。たいていの者は米を買ったり酒を飲んだりして 使い切って手元に伝票は残っていなかった。結局は店屋や酒屋や仲買人 がまとめて伝票を換金することが多かった。 1日の支払金額は、出来高払いだった。 まだ当時は電気もなく、暗くなるとロウソクをつけて伝票を切る仕事をして 全員に渡し終えると著者も宿舎に帰ることができる。 宿舎で晩飯を食べてから、その日の数百人の作業員の伝票を整理して 次の日の支払いに間に合うよう準備をしなくてはならない。忙しいときは 夜中の12時までかかったという。 まわりを見渡すと、養父を含めて日本人は2,3人しかいなく、あとは みな朝鮮の現地の人だった。彼らは貧しい人もいたが、白い米の弁当を もってきた人もいた。忠清南道や京畿道のような南の方は早くから 日本が水田の整備を指導したので、たくさん米の収穫ができるように なった。しかし、北の方は開発が遅れていた。平安南・北道や黄海道の とくに奥地の方では米が獲れず雑穀を食べていた。 作業員は、20代の若者は少なく、主に30代から50代までの人が多かった。 来ても仕事のあまりできない人には「あんたは、だめだよ」と言わねば ならないこともあった。家庭的に恵まれず、かわいそうな年寄りを 近所の人に頼まれて道具番や倉庫の番人に雇うこともあった。 そして、養父の下は、そういうときに直接指示する朝鮮人が何人かすでに 育っていたので、著者はそのことで煩わされることはなく、それらの常雇い的な 朝鮮人が養父の意向を受けて作業員を指示してくれた。 若い著者が、自分より年齢の高い作業員と仕事するのは大変である。 今日の日本の世界でも、大学を出たての若い技術者が経験豊富な作業員と 一緒に現場で働くときは気苦労がつきものだ。 この著者も、朝鮮語を覚え、作業員が仕事をさぼっていると注意したり きちんとした仕事をしないと「それをちゃんとやらないと伝票をださないぞ」 と言うようになる。しかし、あまり厳しいと仕返しされることもあるから 厳しくしたり優しくしたりの体験を積んで逞しくなっていく。 朝鮮半島に渡って2年過ぎて、養父は京城の工科学校に通わせてくれた。 そこで設計や製図や施工を学び2年後に卒業した。 ときは昭和7年で満州国の建国が宣言され、著者は中浪橋の架設工事の現場代理人 となったのである。22歳にして一人前になったわけである。 日本人のヤクザに脅され、小金を渡したりして苦労もしたが、しだいに 建設業者として成長する。 江原道の伊川水利組合の工事に取り組む。山には樹木が見られなかったという。 どうやら人々は木を切り倒して薪にしてオンドルに焚いてしまうらしい。 当時も日本が指導して植林をしていたが、大きくなるのを待たずに オンドルに焚くものがなくて伐採するらしい。(植林と伐採のいたちごっこ。 今の韓国や北朝鮮はどうなのだろうか) 山に木がないものだから、雨が降ると一気に川が増水して水田も水没し 道路も壊れてしまう。だから、水田のために水路をきちんと作り 道路や橋梁を整備することはとても大切なことなのだ。 そして山間部には貯水池も作った。 しだいに戦争が続くと元気な日本人たちは兵にとられ、そのうちに朝鮮人も 徴兵されるようになる。作業員が少なくなると役所に頼めば、作業員は斡旋して くれた。著者は工事中に足を怪我してします。それが幸いしたのか徴兵されず、 残った年寄りたちと一緒に建設工事に励む。朝鮮人の中にも仕事をよくおぼえ 態度の良い者もいて、だんだん朝鮮人幹部も育ってきた。著者が、将来性の あると思われる若者を4人選んで、著者の母校である京城昭和工科学校に 入学させた。終戦になって帰国した著者は、彼らが今どうしているだろうか 気になっている。 鴨緑江に清城大橋を架けた。この橋は水豊ダムから10キロメートル下流 にあった。この橋は現在も残っているだろうか。中国との国境の橋になる。 著者の最後の工事は、安州の平南水利工事だった。 しかし、終戦で安州干拓は未完に終わってしまった(3割くらい進んだ)。 著者は思う。もし、この利水工事が完成してれば、北朝鮮の人々は 米の収穫をおおいに上げられたはずなのに。その後工事は完成されただろうか。 終戦になって、38度線の北の安州に残された日本人たちは、ここで 建設工事を続けるように説得されるが、資金も資材もないこの国での 将来の不安を感じて、日本への帰国を決意し深夜に逃亡する。 10日間で300キロメートル、よくみんな歩いたものである (トラックで約100キロメートル移動があったが)。 途中でロシア人や朝鮮人に、金品を奪われたが、中年以上の朝鮮人は みな同情の目でみてくれ親切だった。迫害を加えたのは若者たちだったという。