「親日」と「反日」の文化人類学

崔 吉城 (2002)明石書店
【朴正熙大統領のセマウル運動は実は日本がモデル】
セマウル運動は農村振興運動からつくられた。
朴正熙大統領は農村振興運動の指導者「中堅人物」を養成した経験を
思い浮かべたようである。
農村振興運動は宇垣総督が発案し「朝鮮農地令」「儀礼準則の制定」
などを発表、1935年からは全部落を対象として実行された。
朴正熙は語録や揮毫に「自力更生」「農村振興」「維新」などの言葉を
よく書いた。更正は病人や犯罪者などの蘇生や社会復帰のときにしか
韓国では使われないのに、朴正熙が好んで使ったのは日本語のイメージ
からきたものと思われる。

1970年第二回農漁村所得増大競進大会でビニールハウス栽培に
成功した河四容夫婦の成功事例を朴正熙は賞賛激励し、
以後農閑期を利用して全国の里洞にセメントを無償で支給し、
里洞委員会を中心に村の環境改善を推進した。その結果半分くらいの
村で自らの資金と労働を加え良い成果を上げた。
これから朴正熙は自信をもってセマウル運動を展開するようになった。

セマウル運動の基本精神は近代化と民族主義に要約される。
朴正熙の近代化政策の思想的中心は農村の近代化、つまり農村の
前近代的意識構造の官尊民卑思想、職業貴賤観、党争の遺産、事大主義、
儒教的形式主義、男尊女卑、依他主義、家族主義、派閥性
などを近代化することであって、儒教的家族指向から民族や国家のために
奉仕する人間へ改造することを強調したのである。
セマウル運動、維新憲法など政府は総和団結のために民族主義を高揚
するようになった。

これは戦前の日本がモデルであったと思われる。
朴正熙 日本名岡本実、通称高木正雄は1917年慶尚北道で生まれた。
大丘師範学校を卒業、三年間教員として働いた。1940年満州新京(長春)
の軍官学校二期生として入校、1942年卒業時は満州皇帝から金時計を
受賞した。
1944年東京の陸軍士官学校第57期生として卒業時陸軍大臣賞を受賞した。
朴正熙は常に親日的であり、武士道や剣道を高く評価し、
日本批判は一度もなかったという。朴正熙は国政モデルを日本におき、
経済政策のモデルは池田内閣の所得倍増政策であったといわれる。
(つまり朴正熙は金時計を受賞した成績優秀者。それだけ日本のいいところどりだった)

宇垣一成と朴正熙はともに農村出身者であり、陸軍大将として軍を背景に
権力を握る。宇垣は自立・勤倹・協同共栄を叫び、
朴正熙は自助・自立・協同を叫んだ。
このように日本植民地時代の経験は戦後遺産として維持しているといえる。

私が韓国で受けた教育のように独立運動の延長戦で、日本の悪口をいいたい
放題のような態度や教科書の内容は見直すべきである。
中国の教科書では日本に勝利したこと、韓国では被害を受けたことを強調している。
中国では日本海を「日本海」と書いてあるが、韓国では「東海」、
北朝鮮では「朝鮮日東海」と異なる表記をしている。
ある韓国人は日本海が日本の領海になっているといって改名を主張するが、
「インド洋」「香港風邪」「日本脳炎」などはどうするのだろうか。
その論争を見ると冷笑が出る。
戦没者が葬られている靖国神社の首相参拝は軍国主義が復活するのでは
ないかとという憂いがある。しかし韓国には国立顕忠苑(国軍基地)がある。
そこにはベトナム戦争時の戦死者四千以上の霊位が眠っている。
政治家がそこを公式訪問しても韓国では問題になることはないが、
ベトナムから見ると心の痛いことかもしれない。


もちろん、この本には日本のした悪いことも整理されています。
しかし、韓国の教育制度や鉄道などに残した日本の跡はしっかり守られていて、
その上に韓国の繁栄があることを分析しています。 

著者は1940年韓国生まれ、ソウル大学卒、日本留学後筑波大学から文学博士取得、
韓国の啓明大学校教授 この本を執筆時は広島大学教授