アリラン
韓国人の一番好きな韓国の歌は「アリラン」
2000年9月シドニーオリンピックの開会式で
韓国と北朝鮮の統一チームが入場する時
会場には「アリラン」が流れた。
日本人にもなじみの深い「アリラン」の歌詞
アリラン アリラン アラリヨ
アリラン コゲロ ノモカンダ
ナルル ポリゴ カシヌン ニムン
シムニド モッカソ パルピョンナンダ
(アリラン アリラン アラリヨ
アリラン 峠を 越えて行く
私を 捨てて 行く 愛しの君は
十里も行かずに 足が痛む)
注)韓国の十里は日本の一里
1926年10月1日に京城(ソウル)の団成社で上映された映画「アリラン」
(羅雲奎ナウンギュ監督・脚本・主演)の主題歌としてアリランが歌われた。
この映画は日本の植民地支配に対する朝鮮民族の恨みと悲哀、抵抗を描いた作品で、
韓国映画史上不朽の名作と言われている。
そして「アリラン」は無声映画であった。
クライマックスシーンで主題歌の「アリラン」をオーケストラボックスで熱唱した
のは、李正淑であった。
この映画の繰り返された上映とともに、主題歌「アリラン」は朝鮮半島じゅうに
歌い継がれていった。
この「アリラン」が少しずつ編曲され、今日よく歌われる「アリラン」
(正調アリランあるいは京幾道地方アリランと言われる)が誕生した。
この他にも、韓国にはさまざまな地域の「アリラン」がある。
代表的なものとして慶尚南道の「密陽アリラン」、全羅南道の「珍島アリラン」、
江原道の「旌善アリラン」などが有名である。
各地の「アリラン」は日本人でよく知られている「アリラン」とは、
メロディーもリズムもかなり異なっている。
各地に「アリラン」が存在するということは、それだけ韓国の地方文化が豊かであり、
方言で歌われていることから郷土愛の発露にもなっている。
「アリラン」は別離や恋愛だけを歌ったものではなく、労働や人生観そして
地域の風土・風情が豊かに盛り込まれた民族の歌であり、
童謡、民謡、歌謡、マーチ、交響曲とあらゆる曲調で歌われている。
「アリラン」の語源や由来については、「これまで多くの歴史学者、言語学者、
民俗学者や音楽専門家、さらにはアリラン研究者も加わって、古代から
近・現代にいたるまでの歴史的な事実や説話・伝説・口伝なども含め、
さまざまな立場から「アリラン」説を唱えてきたが、未だに定説はない。
「アリラン」は峠の名前とか、女真族の言葉「アリン」(山の麓の村のことで、
故郷を意味する)に由来するという説や、「密陽アリラン」に歌われた
薄幸のみめ麗しき女性の名前「阿娘アラン」から由来したという「阿娘」説もある。
また、大院君(1820−1898)が景福宮を修復した時に、
工事資金や資材の財源を捻出するために、国民に願納銭の寄付を強要したが、
執拗な催促に民衆は「但願我耳聾 不聞願納戸」(願わくばわが耳聾になり、
納金徴発の声が聞こえないことを願う)と唱え、
いつの間にか「我耳聾」が”アリラン”に訛ったことに由来するという
「我耳聾」説もある。
この景福宮修復工事の賦役に駆り出された人夫たちが、毎日の辛い労働に耐えかね
「魚遊河我難離」(魚は水で遊んでいるのに、我々はこの辛い現場を離れて
家に帰ることもできない)と嘆いた「我難離アナルリ」説。
さらには工事に強制的に徴用されてきた人夫たちが、故郷に残してきた愛しい妻、
新婚間もなくして離れ離れになった新妻または恋人との離別に悲しみ、
恋焦がれて歌つか「我離娘アイラン」から生じたとする説もある。
宮塚利雄:アリランの誕生、創知社(1995)
名画「アリラン」を作った羅雲奎は夭逝した。結核であったという。
この映画をきっかけに朝鮮半島中に広まっていったアリランは
しっかりと国民歌謡の地位を獲得したのであったが、記録に残る
アリランはすでに1800年代後期には流行していたという。
私としては、最初のアリランは李朝時代の賦役や兵役にかり出された男たちが
家族との別離の悲しみを歌った歌であったろうと思う。
そして、日本支配の時代に、民衆の生活を圧迫するのは李朝に代わった
日本であった。その環境の中で、民族独立を願う人々が
映画「アリラン」をきっかけに自分たちの音楽を発見して育てて
いったのではないかと思う。
月刊「しにか」2001.7の特集「韓国文化読本」に
アリランについて極めて要領よくまとめられていたが
やはり同じ著者の手になるものであった。