ソウルの日本大使館から

町田 貢
新潟の貧しい天理教会に生まれ、奨学金の出る天理大学に入る。
誰も学ばないから希少価値があると考えて韓国語(朝鮮語)を選び勉強する。
母校に残るという就職口は、教授が同級生の在日の学生の方を選んだので
同級生の日本における就職の厳しさに同情して自分は大学の外に出て行くことを考え
外務省の試験に合格して外務省に勤める。

韓国語を選んだのは、子どもの時に在日の優秀な友達がいたから。
当時は日本に朝鮮語のある大学は3つであったが、現在は百数十校という。

1960年に韓国に行ったときは、日本人も少なく反日感情は最悪だった。
それから日本人がたくさん訪れるようになり、最近やっとおもてだって
日本人にいらがらせをしたり、乗車拒否をするタクシーもなくなった。

韓国も貧しかったときは、地方から出てきた娘たちがキーセンになって
都会にはたくさんのキーセンがいたが現在は韓国も裕福になり
キーセンはいなくなったという。
(呉 善花の言葉を借りるなら、稼ぎのよい日本に渡ったのかもしれない)

済州島で買い物をしたら在日韓国人でもボラれるという。
済州島の価格は四段階に分かれている。
・地元の済州島の人に売る値段
・本土から遊びや観光でやってきた韓国人
・日本人などの外国人旅行者
・済州島出身の在日僑胞
日本人が韓国で高い買い物をさせられるという話があるが、どうも
韓国全体で外国人やよそから来た同胞に高く売る傾向があるようだ。

戦後韓国において激しい反日感情の中で、韓国人から慕われた日本人がいる。
曾田嘉伊智翁
 1867(慶応3)年山口県生まれる。30代で台湾に病に倒れているところを
 ある韓国人に救われ、それが縁となり夫人とともにソウルに渡る。
 医師佐竹音次郎氏がソウルに設立した鎌倉保育園の責任者となり、1913
 (大正2)年から終戦により日本に帰るまで三十数年間、この保育園で
 孤児を育ててきた。この間に育てた孤児は千名以上におよんだ。
 戦後まもなく、精神に異常をきたしていた孤児の放火により保育園は全焼した。
 失意のうちに、1947(昭和22)年夫人をソウルに残し、今後の
 身の振り方を考えるため日本に帰国したが、夫人は1950年に亡くなり
 翁も韓国に戻ろうとしたが、李承晩政権は一切日本人の入国を認めなかった。
 1960(昭和35)年に李承晩政権が倒れ、翁の「韓国で骨を埋めたい」
 という望みを伝え聞いた韓国永楽教会の韓景職牧師が政府にかけあって
 翌年に韓国に渡ることができた。鎌倉保育園のあとてに建てられた永楽保育園
 で翌年3月に、園児や関係者に見守られながら95歳で永い眠りについた。
田内千鶴子さん
 1912(大正元)年高知県で生まれた。父親は木浦府庁に勤める官吏だった。
 7歳の時、母に連れられ木浦に渡りやがて木浦女学校を卒業した。
 木浦貞明女学校の音楽の先生をしたあと、1936年に24歳の時孤児施設である
 木浦共生園に勤めた。共生園は施設も粗末な、親分気質のあるユン
 (伊から人偏をとる)致浩という青年伝道師が園長をしていた。
 1938年に26歳の田内さんは29歳のユンさんと結婚する。終戦の翌年
 田内さんは母ハル、長女清美、長男基を連れて一旦高知に引き揚げ、翌年
 子どもを連れて木浦の夫のもとに帰る。1950(昭和25)年に朝鮮動乱が
 勃発し、国内が混乱する中、光州にある全羅南道庁に食料調達に出かけた夫は
 そのまま行方不明となり、このときから田内さんの苦労が始まる。
 共生園は、田内という日本人名義にできないので、李という牧師名義にした
 のだが、これがのちに園の所有権をめぐってのトラブルが起きることとなる。
 長男基氏は「母は鼻をたらしている子がいると、自分の子のように鼻水をかんで
 やっていたし、乞食の子どもの垢を一生懸命に洗ってやっていた。しかし、
 われわれ兄弟は他の孤児とまったく同じに扱われ、親子のようではなかった」と
 語った。そして、子どもの頃は、これが不満で反発したこともあるが、自分が
 母に代わって大勢の孤児を相手にしてみて、母のやり方は正しかったと思ったし、
 本当に偉大な母だったとしみじみ述懐していた。
 1967(昭和42)年、田内さんは病に倒れソウルの病院に入院した。
 それまでずっと韓国語を話し、韓国式の食事しか食べなかったが、病床で
 長男基氏の手を取り「梅干しが食べたい」と言って息をひきとった。56歳だった。
 木浦市は、田内さんの功績に対し、木浦海港以来初の市民葬で報いた。
 孤児とともに32年間、この間に2万9095名の子どもたちを育てた。
松永カズさん
 著者は1964(昭和39)年に松永カズさんと会った。
 当時は、日韓国交が正常化する前で、外務省職員が長期出張という形で
 交代してソウルに駐在した。韓国に住んでいる日本人女性たちがよく
 事務所に訪ねてきた。その中の一人が永松カズさんだった。
 無許可の理髪店をやりながら、30人近い韓国孤児を育てていた。
 まだ一般市民も貧しい生活を強いられていたなかで、女手ひとつで
 大勢の孤児を育てることは並大抵ではなかった。
 何とか救いの手を差しのべなければならないということで、外務省が
 毛布20枚を送ることになった。日本航空が特別に運んでくれ、事務所に
 毛布の包みが届いたので、松永さんに連絡してとりにきてもらった。
 毛布10枚ずつ縛って、二つの大きな包みをタクシーに乗せて
 松永さんと二人で理髪店まで運んだ。
 著者が松永さんと会ったときは、彼女は37歳で元気いっぱいだった。
 ソウルの区画整理のため店が強制撤去され住む場所を失ったり、自分の血を
 売った金で雑穀を買ったりして苦労の連続だった。
 やがて、松永さんの苦労が日本にも伝わり、「松永カズさん支援の会」
 が結成され、日本人有志の間で支援運動が始まった。こうした人たちの
 支援により、小さなビルも建てられた。
 1983(昭和58)年にソウルの自宅で脳出血のため亡くなった。
 56歳だった。富士山の見えるところで眠りたいという遺言により
 富士市の瑞林寺の墓地に眠っている。
李方子妃殿下
 李氏朝鮮最後の皇太子李垠殿下の妃である。
 お二人の住まいは現在の赤坂プリンスホテルであり、当時は1万7千坪
 の広大なお屋敷だった。戦後は生活も困窮され、一人息子の李玖さんも
 学習院大学を出てから米国MITの建築科に留学したがアルバイトをしながら
 勉強したという。李垠殿下ご夫妻の帰国には李承晩政権が難色を示し
 そんな中で李垠殿下は高血圧で倒れられた。1961(昭和36)年朴正煕時代
 になってようやく話が進み1963年に帰国できたが、李垠殿下はベットに
 横たわったままの旅であった。6年間病床に横たわったまま1970(昭和45)
 年に亡くなられた。
 李方子妃殿下は韓国に帰国されると間もなく、李垠殿下の雅号「明暉」の名を
 付した身体不自由児と知的障害児とのために慈恵学校を設立した。
 この大事業のために、ご自身で七宝焼きや韓国陶磁器を製作販売して資金を
 作ったり、日韓の企業や財団に棋譜をお願いして歩いたりして、大変苦労された。
 ソウルオリンピックの翌年1989(平成元)年に多くの人々に惜しまれ
 ながら亡くなった。享年88。

1966(昭和41)年、歌手の小畑実がソウル、釜山、大邱、木浦、普州
で講演をした。彼は在日僑胞康チョル(吉がふたつ)の名を正面に出し、横に
小畑実と記した。日本の歌謡曲を歌ったがすべて韓国語だった。
1968(昭和43)年、フランク永井がソウル、大邱、釜山で歌ったときは
主催が大韓日報という新聞社だった。釜山公演のとき英語の歌のあとに
「日本の歌を歌え。有楽町で逢いましょうを歌え」と激しい要求が観客から
出された。釜山の観客は英語の歌に満足しなかった。会場の雰囲気におされ
新聞社の金局長が腹をくくって「問題になったら俺が責任をとるから、日本の歌
を歌え」と言って、フランク永井は会場の声援にこたえて「有楽町で逢いましょう」
を日本語で歌った。そのあとも会場からは「日本の歌、日本の歌」と騒然となり、
フランク永井は自分の持ち歌を4曲日本語で歌った。これは許可なくして日本人の
歌手が日本語で歌った最初のケースだった。
公式の許可を得てはじめて日本の歌が歌われたのは、1993(平成5)年の
大田エキスポのときだった。会場の中心の建物で「ジャパンデー」のときだった。
松崎しげるとサーカスが日本の歌を歌った。