私はいかにして<日本信徒>となったか  呉 善花

スカートの風の著者が日本通になるまでの思索史

 韓国の自民族優位主義に基づく反日思想は、植民地支配にかかわることはいうまでも ないが、自民族優位主義と日本蔑視の観点そのものは、日韓併合への流れから起きた ものではない。  自民族優位主義と日本蔑視の観点は、韓国に古くからある中華主義と華夷秩序の 世界観にしっかりと根づいて続いてきたものだ。華夷秩序とは、中央の中華文明が人間 の世界でその外は夷という非人間が住む世界界だ、という考えに基づいて生み出された 東アジアの古代以来の世界秩序を意味する。韓国はずっと中華文明圏にあり続け、日本 はずっとその外にあり続けた。さらに明滅亡以後は、自らこそ唯一の正統な中華文明の 継承者だという「小中華主義」を生み、中国以上に強固な中華主義をもつようになって いった。  そういう経緯から、自らは高度で優秀な文明人であり、日本人は低級で劣った非文明 人だという価値観が、古代以来近世にいたるまで続き、それが韓国人の意識の深層を 形成したまま現在にいたっているのである。  そこをはっきり押さえておかないと、韓国人にだけ特徴的な対日姿勢はまったく理解 することができなくなる。  もう一つ、ここでは多くを語ることはできないが、戦後韓国の漢字を廃止しての ハングル一本槍での教育の弊害は、日本人が想像する以上に大きなものがある、 ということである。  漢字の廃止は韓国人から抽象度の高い思考をする手だてを奪ってしまった。韓国も 日本と同じように、概念語のほとんどが漢字語である。そういう文化で育ってきた ため、高度な概念を漢字の表意性を抜きに、表音性だけで自在に用いることには、 さまざまな熊理が伴う。  日本の朝鮮統治の問題一つとってみても、韓国人が日常的な感覚を脱した話が容易に できないのもそのためである。けっして、中華主義と反日思想だけからのことでは ない。生活感覚を誰れた抽象度の高い話が、多くのハングル世代の韓国人には通じない のである。 『スカートの風』出版から7年ほど経った1997年の暮れ、韓国は突然見舞われた 金融危機をきっかけに、経済活動がほとんど停止状態になり、大きなショックを受ける ことになった。  初期にはそれを強大国のせいにしたりすることに終始していたが、やがて、だんだん と韓国人自身のあり方への反省が出るようになっていった。経済不況に襲われたとたん に足元が崩れ、一気に自力再建が不可能な状態に陥り、海外の援助を受けるしかなく なってしまった韓国の基盤の弱さを、嫌というほど痛感させられたのである。  一方の日本は、未曾有の大不況下にあるといわれながらも、国の経済が漬れることは ないし、失業率が高いとはいっても、町はいつもと同じような平静さを保っている。 もちろん、外国の援肋などまったく必姿としていない。  今度こそ、きちんと日本を学ぼう、日本を見直そうという動きが出るようになって きた。そしていまや、韓国では雨後の筍のように、韓国を批判する一方で、「日本に 学ぼう」という趣旨の本が次々に出版されている「『日本はない』とか『日本に学んで はいけない』とかよくいうものだ。そんなにほかから学ぶ必要のない困が、地震でも ないのに橋が落ちたり(しかも日帝時代に日本が架けた橋は落ちていない)デパートの 建物が崩壊するのはどういうわけか。経済が没落するのはどういうわけか」といった ことを盛んに主張している本もあった。  また、金大中大統領になってから、安企部の者たちが不正で大勢逮捕されることにも なり、昔のように権力を傘に着てのいいかげんなことはできなくなった。私の 『スカートの風』も、小さな雑詰だが客観的に取り上げるものも出てきた。  韓国は経済危機をきっかけに、大きく変わろうとしているのかもしれない。 それにしても、依然として日本に対する民族的な優越意識が崩れたとはいえない。 韓国が変わろうとしていることは事実だが、もはや変わったとみてはいけない。  日本人はなぜか韓国人をよく見よう、よく見ようとする。それはほかの韓国の人々に 対しても同じようだが、こと韓国人については、日本人の大部分が無意識のうちに罪の 意識をもっていて、それが働いてことさらによく見ようとしていることを感じる。 それが、韓国と韓民族への見方を甘くするのである。  最も大きいのが、韓国の反日姿勢は植民地時代についての日本人の反省によって融解 する、と考える甘さである。そうではない。自民族優位主義と日本蔑視観のベースに ある中華主義、華夷秩序の世界観が崩れなくては、韓国は変わりようがないのである。

韓国の中華主義も実態があったのは江戸時代の朝鮮通信使まで。そのあとは実態が伴わない。