陸奥国最北端の古代城柵 史跡志波城跡
平安時代の初め、北東北にはいくつかの城柵が造営された。
横手盆地の払田柵(ほったさく)(801年頃)、北上盆地の胆沢城(いさわじょう)(802年)
志波城(しわじょう)(803年)、徳丹城(とくたんじょう)(812年頃)
などである。
北東北では774年から811年にかけて、いわゆる38年戦争が行われ、
北上盆地の蝦夷(えみし)は朝廷の統治下におかれた。
そして、統括の拠点として、胆沢城や志波城が造営された。
志波城跡の外回りの区画施設(外郭)は築地塀(ついじべい)と大溝(おおみぞ)
の二重からなり、それぞれ840m、930mの四方である。
各塀の中央には門、そして60m間隔に櫓が建てられていた。
そして、城の中央には、行政や儀式を行った150m四方の政庁が置かれ、
外郭とは大路で結ばれていた。
政庁周辺には行政実務の官衛(かんが)建物群、
外郭沿いに兵舎である多数の竪穴住居跡が確認されている。
復元された外郭南門は、間口15m、高さ11.1mの規模である。
門の両側には、土を高く積み上げた築地塀が続く。この築地塀は高さ4.5m、
長さ252mで、版築方式で造られた。
築地塀をまたぐ櫓は高さ6.95mで、10基復元された。材料は栗とヒバ材である。
802年に建造された志波城であったが、雫石川の洪水のため朝廷に願い出て、
南下した徳丹城に移転したのであった。
簡単マップ(このとおりには復元されていない)
現状の復元図
外郭南門と築地塀
外郭南門
外郭南門
外郭南門から政庁までの大路並木
政庁 西門と岩手山
東門
南門
北門は位置だけ
官衛建物(展示室)
役人
園内イラストマップ
こちらは徳丹城
説明板
政庁跡
遺跡一部
資料館を望む
矢巾町歴史民俗資料館
展示資料