江戸時代の算木(さんぎ)が浦和市で確認された資料を見たので、紹介します。
江戸時代には、そろばんと並んで計算道具として算木が用いられていた。
和算に携わっていた人々は算木の使い方を知っていた。
浦和市内の旧家、綿貫さんのお宅に古い算木が発見され、
古いタンスの引き出しから算木と免許状が出てきた。
その算木は精巧な木箱に収められ、赤と黒の彩色別に約百本ほどずつが残されていた。
(この箱は算木が取り出しやすいように、左右の側面が開くようになっている。)
計算棒としての算木は、そろばんが発明される以前に東アジアの全域で
用いられていたものである。
計算の際には縦横に舛目を書いた「算盤」(さんばん)の上に算木を並べて運算する。
算木による数の表記の仕方は次のようになる。
算木による数字の表記
算木による数字には縦式と横式がある。一、百、万 ……の位の数は縦式で、
十、千、十万……の位の数は横式で表現する。一桁ごとに縦、横、縦、横と
互い違いに置くことで混同を防ぐ。
また、赤の算木で正の数、黒の算木で負の数を示す。
[例]
赤い算木で正の数を、黒い算木で負の数を示し、数字の0が必要な場合は算盤
の舛目を空白としておくか、その箇所に碁石を置くということが行われていた。
綿貫さんのお宅の算木の収納箱には、算木とは別に白い碁石も収納されてあった。
これは明らかに0を表示するための碁石であった。
算木によって解かれた問題は、四則演算、平方根や立方根を始めとする任意の
累乗根の算出、高次方程式の数値解法などが挙げられる。
特に最後の高次方程式については、中国の13世紀において「天元術」という
技法が発明されて一大飛耀を遂げたが、そろばんの発達と共に忘却されてしまった。
その幻の計算法、天元術が再発見されたのは江戸時代の日本人によってであった。
関孝和(?〜1708年)を始めとする和算家たちは、天元術をさらに一般化させる
ことに成功し、後の和算の基礎をつくったのである。
江戸時代後半に和算は趣味文化として定着し、ほぼ全国的に「数学マニア」
(和算家)が続出していた。彼等和算家は家元を頂点とした流派をつくり、
問題の出し合って勉強していた。
また各流派の家元は弟子を統率するために、教育段階に応して免許状を与えていた。
それらは今も各地に現存し、綿貫さんのお宅に残されたものもその一つである。
免許状は、当時の和算家 都築彦次郎(現浦和市三室の人)が発行し、
弟子の高橋輿喜智に明治三年閏十月の日付で与えられている。
この高橋なる人は、後に綿貫家に婿養子に入ることとなり、今日発見されたわけである。
この人物は明治期に浦和町(現浦和市)の助役にもなられたという。
(浦和市内の旧家に残る算木について、国立科学博物館ニュース 第353号 1998.9)