岩手県の歴史散歩

岩手県の歴史散歩  その212

 多忙が続いていますが  このシリーズ健在です。
 水沢市です

駒形神社

JR水沢駅下車10分

水沢公園の一角に駒形神社がある。「延喜式」に記された胆沢郡
七社のひとつである。祭神は駒形神で、「日本文徳天皇実録」に
陸奥国の駒形神社を正五位下としたという記録があり、古代の
蝦夷地開拓の祖神として祀られたものと考えられる。
奥宮(おくのみや)は水沢市の北西、焼石連峰の東端の駒ケ岳
(標高1130m)の山頂にあり、馬頭観世音を本尊とする駒堂は
神仏混淆(こんこう)となっていて、3体の木彫りの馬が祀られて
いる。この地域の古老のあいだには、今でも春先に駒ケ岳の雪の
消え具合をみて農業を行う、というならわしがあり、駒形神との
深い関係を考えさせる。

藩政時代、盛岡藩は和賀郡岩崎村(現北上市)に、仙台藩は
胆沢郡西根村(金ケ崎町)にそれぞれ里宮(さとみや)を設けて
参宮の便をはかった。そして駒形神社が1871(明治4)年に
国幣小社(1945年廃止、明治以後の国の社格)となったとき、
奥宮・里宮とも交通不便であるとの理由で当時の塩釜神社に
遥拝所を置いたところから、本殿・拝殿を大修築して現在の駒形神社
となった。

    ☆     ☆     ☆

駒形神社は高野長英記念館に近い。
国立天文台水沢観測センターにも近い。

水沢市と江刺市は合併して奥州市となった。

岩手県の歴史散歩  その213

日高神社と消防記念館

JR水沢駅下車20分

水沢市街の西、日高小路の奥に日高神社がある。810(弘仁元)
年の創建という。主神を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
(宇宙・国土神)とし、8神を祀っている。前九年の役(1051ー62)
の折、源義家の祈願がかない、雨が晴れて日が高くのぼり、未の刻
(午後2時頃)にいたってついに安倍貞任(あべのさだとう)を
討ったことから日高未(ひたかみ)の妙見宮として尊崇されたという。
以来、藤原秀衡などの時の支配者から国家鎮護の神として崇拝を受けた。

神社の境内北側に消防記念館がある。
1970(昭和45)年、県内ではもちろん全国でもはじめての
記念館として開館されたものである。
1735(享保20)年の大火(168戸消失)がきっかけとなって、
「がえん組」がつくられたのが町火消しの始まりとされており、
日高火防せ祭の起源もここにあるとされている。

    ☆     ☆     ☆

今日は JR秋田新幹線工事見学や
学会の用語辞典の編集の打ち合わせで忙しかった。
この続きは後日。


岩手県の歴史散歩  その214

日高火防せ祭(ひたかひぶせまつり)

火防せ祭(県無形)は、日高神社に祀られている火産霊神
(ほむすびのかみ)(火の神)に防火祈願をして行われる。
旧正月22日が祭礼日であったが、1970(昭和45)年から
4月22日となり、県内外からの数万人の観光客でにぎわう。
1735(享保20)年の水沢大火がそのきっかけといわれ、約250年
の歴史をもっている。

町印(町印をつけた纏マトイ)を先頭に、打ち囃(ばやし)、
屋台囃(両囃とも県無形)とつづいて一組となり、各町から
くり出される。
本来は客分であった屋台が豪華けんらんさを競って、現在では
祭の中心となっている。金泥・朱泥や花でかざられた屋台のヒナ壇
では、20人ほどの幼女たちが、その後方で5人の娘がひく
三味線にあわせて小太鼓をうち、両側で男2人が横笛を吹く。
「一声いっせい」「祇園ばやし」など、どの曲も笛と太鼓と三味線
が巧みに組み合わされて、都風の古趣ある美しい情緒をたたえている。
現在9つの町から屋台がくり出されている。

    ☆     ☆     ☆

この祭がくると、桜が咲き春だという思いがする。

1つの仕事がようやく区切りがついて
来週から別の仕事にとりかかるので
今日はひとやすみ。


岩手県の歴史散歩  その215

明後沢(みょうごさわ)遺跡

JR前沢駅バス水沢行小山下車15分

前沢町古城の国道4号線から明後沢沿いに西に入った高台の
杉林の中に明後沢遺跡(県史跡)がある。胆沢扇状地の扇端部
の台地で、北上川を挟んで胆沢・江刺を見渡す眺望の地である。

およそ方6丁(6丁四方、1丁は約108m)にあたる範囲
からおびただしい古瓦が出土するのが特徴で、1959
(昭和34)年以来の発掘調査で、掘立て柱の建物跡・柵垣跡・
竪穴住居跡などが確認され、また土師器(はじき)・須恵器
(すえき)とその窯跡、重弁素弁の蓮花文鐙瓦(あぶみがわら)・
宇瓦(のきがわら)・鬼瓦・平瓦などが大量に発掘された。
瓦類は胆沢城のものと共通しているが、遺跡の性格は謎に
つつまれている。

    ☆     ☆     ☆

今日も
電話とFAXで次から次と仕事が飛び込んでくる。
そして電子メールでも。

便利になったら、それだけ忙しくなった。  ^^)

だから電子メールを使わないという先生もいるが
便利さを受け入れる心の余裕がほしい。
忙しい以上にメリットがある。研究だけでなく連絡事務も
学生呼び出しも、ネットワークがあると便利。

といっている私にも
東京から、編集原稿の件で返事がくることになっていて
それを待ちながらワープロ作業をしています。

それなのに
商売の電話がかかってきて
 (あまりしつこいと、ここに会社名を書きましょうか)
なんのための電話番号公開か
と思ってしまう。

先日、自宅にもその種の電話がかかってきて
ついに私は、どこから私の自宅の電話番号を知ったか
と問い詰めた。(私の自宅はNTT電話番号簿に載せていません)

そうしたら学会の名簿から知ったとのこと。
学会の名簿の管理はどうなっているのと思った次第。

岩手県の歴史散歩  その216
大林城跡

JR水沢駅バス細野行関田(せきた)下車10分

バス停から北へ通ずる切り通しを上がり、下って行くとまもなく
右側に大林城跡と県立県南青少年の家と書かれた標識が目につく。
そこを右折すると青少年の家に出る。
この青少年の家の敷地から南西部および切り通しの西側一帯が
大林城跡である。この地は南の胆沢川と北の水沢川に挟まれた
東西に連なる小高い丘陵の一角である。

全体の構造は、青少年の家から東方のスケート場にかけての
平坦地が屋敷跡で、これらの南西側の丘陵には、本丸にあたる
柏山(かしわやま)館と生城寺館(しょうじょうじたて)が
あった。また切り通しの西側が松本館であり、松本館と柏山館
の間はもとは空堀であった。大林城は奥州総奉行葛西清重の家臣
柏山氏が1191(建久2)年から1590(天正18)年までの
約400年間、13代にわたって胆沢地方の領主として居住した
所と伝えられている。柏山氏居城前は百岡(ももおか)城といい、
古代からの山城であった。
近世になって柏山氏は豊臣秀吉の奥州仕置の浅野長政軍によって敗走、
13代目で所領没収され、滅亡したのである。

松本館跡の西方山林の中に観音寺廃寺(天台宗)がある。
891(寛文3)年開基と伝えられるこの寺は、大林城主柏山氏
の祈願寺であったが、後三年の役で焼失し廃寺となってしまった。

    ☆     ☆     ☆

本日はマレーシア人留学生が家族と一緒に
仙台での日本語研修の後に
盛岡に引越してくるのです。

イスラム文化との国際交流。

岩手県の歴史散歩  その217

永徳寺

JR水沢駅バス石淵ダム行出店(でたな)下車20分

バス停から北へ通ずる道路を1kmほど行くと胆沢川にさしかかる。
橋を渡るとすぐ道路ぎわに永徳寺参道入口の標識があり、杉林の
小高い石段を上がって行くとまもなく寺が見える。ここが報恩山
永徳寺(曹洞宗)で、金ケ崎町において最も古い有名な寺である。
曹洞宗本山総持寺(神奈川県横浜市)直末36門の1つで、
いわゆる永徳寺派の総寺である。永徳寺は南北朝時代の1356
(正平11・延文元)年、正法寺(水沢市)3祖道叟道愛禅師
(どうそどうあいぜんじ)によって開かれた寺である。「永徳寺由緒」
によると、道叟は正法寺開祖無底良韶(むていりょうじょう)と
2祖月泉良印と同じく、総持寺2世峨山紹碩25哲のひとりで、
1354(正平9・文和3)年奥州に下り、領主柏山伊勢守(かしやま
いせのかみ)の帰依を受けて永徳寺を開創したといわれる。

1361(康安元)年正法寺の無底は遷化したが、法兄月泉がその跡を
継ぎ、道叟は正法寺には入住せずに永徳寺を中心に布教活動を行った。
その後1372(文中元・応安5)年に北朝の後円融天皇から曹洞宗
の本寺、出世道場としての勅許を得、正法寺とともに奥州における
曹洞宗布教の中心として栄え、最盛期には末寺408カ寺を数えた
という。1560(永禄3)年には戦国大名葛西晴信が亡父親信菩提
のため永徳村一村を寺領として寄進している。しかしその後、2度の
火災で壮大な伽藍は失われ、現在は仏像や境内の老杉に当時の面影を
しのぶばかりである。

    ☆     ☆     ☆

この文章を書くとき、見慣れない難しい漢字がいっぱいでてきて
漢字をひろうのに疲れた。

さて話題は変わって

遠藤周作が亡くなりました。  1996年(平成8年)9月29日
キリスト教信者でありながら、まだすっかり神に身をまかせられない
正直な告白をおりまぜて書いていた作家。

若いときフランス留学での、決してかっこういいとは言えない
失敗や恥を隠さず書いているのは好感をもてる。
リヨンの町を見たとき、遠藤周作のことを考えた。
外国に行った人は失敗はあまり話さないものだから。

遠藤周作の講演から

遠藤氏の自著が入試問題に使われたエピソードから始まった。
「入試問題などは信じてはいない」
「主人公の心理として正しいものを、いくつかの中から
1つだけマルをしろという。
書いた本人が見ても、それらはみんなマルだ。
だが、1つマルをしなければならないという。
だから、入試問題などは信じられないと思っている。
もちろん、それは生活の約束事だから1つマルをつける。
しかし、いやしくも文学部の教授が、
そんな設問を出してはいかんな」
「諸君は今日まで、物事を2つに分けるやり方が染み込んで
いるだろう、善・悪、老・若、幸・不幸というように
二分法の考え方だ。このほうが物事がハッキリわかるから
便利ではある。
だが二分法によって、重要なことがボロボロと落ちている
ことがわかってきた」
「二分法の考え方は、これから後退していくだろう」
「本来、人間とは『平面ではとらえられない”重層的”なもの』なのだ」

 (CDでもディジタル録音は単純明瞭 しかし失ったものを見つめて
アナログ回帰の動きもある)

遠藤氏自身、”親切な医療”というキャンペーンを展開している。
「病院はどんどん専門化して、内科ひとつにしても、第三内科とか、
第四内科とかに分れている。が、呼吸器科の医師は、心臓については
大学で学んだぐらいしか知らない。医師は病気については知って
いても、病人については知らない」
「いま病院のキャンペーンをやっている。少しでも病院が温かい
ムードになる運動を」
「いままでは細分化する中で考えていた。二分法だ。しかし、
全体を忘れていた。そのため、もう一度全体を見よう。
全体の中から部分を見ようという、発想の転換が図られてきている」

「プラスの中にはマイナスがあり、マイナスの中にもプラスがある」
「一人の男が小心で口べただから友達ができないと相談に来た。
そのとき言ったのは、性格は絶対に直らんゾということ。
小心者が大胆になっても決してダメ。それよりそのマイナスの中に
プラスを見つける。口べただからこそ聞き上手になることは
できる」

「諸君も自分の中の重層的なものを全部生かしてもらいたい。
生きるということはソロではなく、四重奏でも五重奏でもある。
そうすることで全体の中でモノを考えるようになるだろう」

 (芥川賞をはじめ数々の賞を受賞した遠藤周作だからこそ
  言える)

予備校生に語った講演の一部を紹介しました。


岩手県の歴史散歩  その218

平泉郷土館

JR平泉駅下車10分

観自在王院跡の東の角から舗装道路が西へ続いている。
平泉郷土館入口の標識も立っている。少し坂道の道路を300mほど
行くと左側に食堂があるが、そこを左に曲がると金鶏山麓で上り口
に出る。ここに千手堂というお堂があるが、そこの裏手に、後に
建てられた義経妻子の墓のあることはあまり知られていない。

再び食堂の所へ戻り、ゆるいカーブの坂道を上っていくと左に
平泉郷土館がある。この地にふさわしい平安朝風の建築である。
花館(はなだて)遺跡の地で、中学校の跡地を利用しているので
敷地も広い。ここは常時、平泉の考古・民俗・歴史資料を展示
している。また、平泉の四季や伝統芸能を3面マルチビジョンで
上映している。さらに講演会や地域パネルを催すなど、
コミュニティセンターの役割も果たしている。

  (さて本日はこれにて帰りましょう)

岩手県の歴史散歩  その219

酒の民俗文化博物館

JR一関駅下車15分

駅前を直進し、上の橋の手前で右折するとまもなく世嬉(せき)の一
酒の民俗文化博物館がある。数年前まで実際に使用されていた仕込み
蔵をそのまま展示室として利用しており、酒造りの雰囲気を味わう
ことができる。酒造りの行程にしたがって5テーマに分け、系統的に
展示している。さらに第6テーマ「杜氏(とうじ)の世界」の中で
杜氏部屋(酒の神松尾大明神を祀っている)を再現しており、
全国的にも数少ない酒造りの博物館である。収蔵資料は約1600点で
このうち半数近い750点を常設展示しており、展示の最後に
きき酒を楽しめるコーナーもある。

   ☆     ☆     ☆     ☆

最近では地ビールの話題も。
一関は酒文化に熱心。

岩手県の地酒

>酒の民俗文化博物館

これにちなんで
岩手の地酒を紹介したいと思います。
 (これを書いた当時の全銘柄の中、もう無くなったものもある)

あさ開(盛岡市)  吾妻嶺(紫波町)  白雲(花巻市)
浜娘(大槌町)   浜千鳥(釜石市)  廣喜(紫波町)
堀の井(紫波町)  福来(久慈市)   磐乃井(花泉町)
岩手川(盛岡市)  岩手誉(前沢町)  関山(一関市)
菊の司(盛岡市)  喜久盛(北上市)  國華(遠野市)
南部美人(二戸市) 南部関(花巻市)  男山(宮古市)
いわて桜顔(盛岡市)世嬉の一(一関市) 酔仙(陸前高田市)
鈴蘭(久慈市)   宝峰(花巻市)   玉の春(千廐町)
天瓢(水沢市)   月の輪(紫波町)  雪の友(遠野市)
鷲の尾(西根町)  八重桜(岩泉町)

参考にしたのは
岩手県工業技術センター
http://www.kiri.pref.iwate.jp/kiri/hiroba/hiroba_index.html

さて皆さんは、いくつ飲んだことがありますか。


岩手県の歴史散歩  その220

泥田廃寺(どろたはいじ)跡

JR一関駅バス厳美渓(げんびけい)行岩手療養所前下車5分

バスを降りると療養所入口の左側に、泥田廃寺跡(県史跡)の標柱が
立っている。療養所建物西隣の台地草むらの中を崖に沿って進み、
急坂を上った高台に寺院本堂の礎石群があり、その後方に石碑が
立っている。

安永年間(1772ー81)の「磐井郡山目村いわいぐんやまのめむら
風土記書上ふどきかきあげ」によれば、1763(宝暦13)年には
本堂跡・鐘楼跡・鼓楼跡の礎石があったことがわかる。出土土器から
推定して10〜11世紀(平安中期)の寺院と考えられる。
出土遺物は坏片(つきへん)がほとんどで、ほかに羽口(はぐち)・
鉱滓(こうし)・瓦片がある。土地所有者千葉氏宅には、
この遺跡から出土したといわれる銅製の千手観音立像が所蔵されている。

   ☆     ☆     ☆     ☆

今朝はメールサーバの調子が悪くて
私のところに届いた電子メールを読めない状態です。
ネットワークニュースの方はどうでしょうか。

岩手県の歴史散歩  その221

 ばしょうあんぎゃ いわがさきどう
   芭蕉行脚の道「岩が崎道」

俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」をたどって平泉を訪れ、藤原3代の栄華
しのんだのは、1689(元禄2)年5月であった。
「曽良随行日記」によれば、5月12日(陰暦)戸今(宮城県登米町
といままち)を出立して、安久津(花泉町涌津わくつ)・加沢(同金沢
かざわ)を経て、黄昏時の一関に着いた。翌13日平泉を見物して
一関に戻り、5月14日彼らは栗原郡三迫(くりはらぐんさんのはざま)
岩が崎(宮城県栗駒町)にむけて一関を出発したのであった。

岩が崎道は、一関台町から蔵主沢(ぞうしゅざわ)を経て、宮城県
金成(かんなり)町片馬合(かたませ)に至る全長9kmで、古くは
松山街道または迫(はさま)街道といわれていた。このうち特に昔ながらの
道として保存されているのは、藩主沢から女殺坂下までの区間と、苅又
(かりまた)集落の一里塚入口から苅又一里塚の区間である。苅又一里塚
は、宮城県境近くの道の両側にあり、保存状態がきわめて良好である。

   ☆     ☆     ☆     ☆

>今朝はメールサーバの調子が悪くて
>私のところに届いた電子メールを読めない状態です。
>ネットワークニュースの方はどうでしょうか。

たんに私のPCのHDに電子メールが溜まりすぎて
新しいメールが読めなくなっただけ。
情報処理センターの吉田先生にファイルを整理していただいたら
すっきりした。
電子メールはその都度整理していたのだが、新しいソフトを入れたりして
作業領域が足りなくなっていたらしい。

岩手県の歴史散歩  その222

  てつごりんとう
      鉄五輪塔

JR花泉駅バス九千沢(くせんざわ)行涌津新町(わくつしんまち)下車3分

涌津町北西隅の小高い場所に涌津八幡神社があり、石段を上りつめた
境内右手格子戸の建物に鉄五輪塔地輪(国重文)がある。この五輪塔
は、もと涌津の町から約500m東南の五輪堂の地に造立されたもので、
地輪の正面には相対する阿吽(あうん)2頭1対の狛犬(こまいぬ)を
線書陽鋳し、背面中央下部には大小2つの円形の窓が並列してある。
また1268(文永5)年の鋳出銘があり、銘文によると1254
(建長6)年に40余人の衆徒が造立発願し、僧俗の合力を得て1268
年に完成し、高さ1丈1尺(3.33m)の大塔であったことが知られる。
現在は最下部の地塔だけを残すにすぎないが、この地塔だけでも
方1mを越す雄大なものであり、全体の鋳上がりもよく、狛犬の図様も
優れており、仏教文化や鋳金技術文化の貴重な資料である。

   ☆     ☆     ☆     ☆

五輪塔はいつかどこかで説明したが
地・水・火・風・空の五大を宇宙の生成要素と説く仏教思想に
基づいて平安時代に創始されたものである。

WWWなら図で説明できるが、角錐や球やサイコロ形の石を
積み上げたもので、一見するとチビ太のおでんのような全体形
をしている(三角の下に丸、その下に四角がくる)。
現代でもお寺や墓地に見ることができる。

ところで狛犬はもちろん獅子のバリエーションである。
日本では狛犬はたいてい神社につきものであるが、
中国では仏教寺院に立派な獅子の石像が守っている。
立派な建物やホテルの前にも石の獅子がガードしている。

ヨーロッパへ行くと立派な建物の前にはライオン像がガードしている。
三越デパートの玄関前のライオンは西洋流の守りの獅子であるとか。

日本にも仏教寺院で石の獅子が置かれている所がある。
記憶では京都の清水寺、奈良の東大寺(大仏のある所)
岩手県の遠野の福泉寺にも獅子の像があったと思う。
たいてい由緒ある中国伝統の仏教寺院なのであろう。
東大寺も修復のため中国から技術者を呼んで再建したという。

岩手県の歴史散歩  その223

  きのみ しょうわ こひ
      黄海城跡と正和の古碑

JR花泉駅バス千廐(せんまや)行黄海公民館下車1分

東磐井郡には、石塔婆が多く、岩手県の約半数が集中し、そのうち百余基
が黄海地区にある。

黄海公民館前で下車し、公民館の裏に立つと、黄海川をへだてて左手に
黄海城跡がある。これは伊達政宗がこの地を重視し、1591
(天正19)年に2万石をもって封じた留守上野介(るすこうづけ
のすけ)の居城跡である。地元では深堀館(ふかぼりたて)と呼ぶが、
留守氏の前に1590年の豊臣勢迎撃戦で討死した深堀氏の館があった
からであろう。

公民館前の崖に、黄海最古の石塔婆である正和の古碑がある。
正和(1312ー17)の年号をもち、上方中央に阿弥陀如来
をあらわす種子(しゅじ 梵字1字で一定の仏・菩薩をあらわす)
が彫ってある。

またここから藤沢方向へ徒歩数分で黄海駐在所に至るが、その横の
道路をへだてた人家の竹やぶに1612(慶長17)の逆修碑
(ぎゃくしゅうひ 生前に後生を願い追善供養をする)がある。

この碑も上部中央に阿弥陀如来をあらわす種子を彫り、下段には
「 (名)(氏家) (黒)(薩摩)(逆修)
 本ミやうハうちへ くろ政さつま きやくしう立之
 (黄海)(惣 扱)    (氏家)
 北きのみさうあつかい山城住人うちへ長三郎作之逆修」
と建立(こんりゅう)の意味が記されている。

山城(やましろ)国(京都府)からの移住者である北黄海村の惣扱い
(そうあつかい 村長)氏家薩摩守長三郎黒政が、法名をもらい
死ぬ前に追善供養を行ったことがわかる。

   ☆     ☆     ☆     ☆

ここらは宮城県に近くて、盛岡からなかなか行かない所。

岩手県の歴史散歩  その224

 なんりゅう しょうかんのん
    南流神社の聖観音立像

JR折壁駅下車15分

折壁駅に降り千廐町方面にむかうわずかな町並みを右に折れると、
森が見える。南流神社がそこにある。拝殿の後ろ、一段高く小さな
収蔵庫がつくられ、聖観音立像(県文化)が安置されている。
それを見ると「両眼くらみの奉る」とされ、長い間秘仏として
公開されず、そのため保存も十分でなく、右足首、左手は
なくなっており、金箔もだいぶはがれているが、右足首は公開後
補修されている。平安末期奥州藤原氏時代の作で、高さ1m余、
カヤの一木造である。

伝承によると、かつて室根松山に巨勢羅坊・三吉坊・小四坊の
3鬼が住み、人々を苦しめていたため、都から軍が下向、与五弥の
案内で討伐した。この3鬼の菩提を弔うため、朝廷は荒菰につつみ
観音像を下した。案内人与五弥の子孫が古渡氏で累代観音を守って
きた。

観音堂は神仏分離で南流神社となった。室根神社マツリバ行事には、
当社の神輿に神体が移される儀式が行われる。

   ☆     ☆     ☆     ☆

さて、今から吉田先生にインストールしていただいた
新WinVNを使って、ネットワークニュースの読み書きをしています。
223までは古いWinVNを使っていたのです。
 吉田先生 ありがとうございます。

岩手県の歴史散歩  その225
 たかた
  高田城跡

JR陸前高田駅下車10分

駅通りの突き当たりの背後の丘陵が高田城跡である。
現在、本丸公園として市民に親しまれているこの丘は、高田一帯に勢力を振るった
葛西一門の千葉氏の居城で、かつては東館(ひがしだて)城と呼ばれた。
千葉氏は、鎌倉末期の1315(正和4)年に、馬籠(まごめ 宮城県本吉郡)
から千葉広胤(ひろたね)が鶴崎城(市内矢作町)に在来し、2代後の
重慶のとき高田城に移った。戦国時代末期頃、さらに米ケ崎城に移ったが、
まもなく葛西氏とともに秀吉によって所領を没収され、滅びた。

   ☆     ☆     ☆     ☆

しばらく休んでいました。
時間をみつけて残りを書きたいと思います。

今年も非常に忙しいようですが。

岩手県の歴史散歩  その226

  にいやま
   新山神社

三陸鉄道南リアス線三陸駅下車3分

三陸駅のすぐ南西に新山神社(祭神宇迦之御魂命)がある。同社には
「天文十一(1542)年」銘がある順礼納札が所蔵されている。
板製黒漆塗で、上部に聖観音、下部に葛西氏の三柏紋が彫られている。
東磐井郡の地頭平重持が100カ所の観音霊場を巡ったものであり、
類例が少ない。新山神社には1295(永仁3)年ほか、鎌倉末期の古碑も残る。

三陸町はリアス式海岸そのものであり、北から吉浜(よしはま)湾・
越喜来湾・綾里(りょうり)湾と三つの大きな湾が並ぶ。
綾里以外は、湾の奥に大きな集落があり、それらを
三陸鉄道が結んでいる。江戸時代には俵物(たわらもの)の産地として知られ
特にアワビは「吉浜(きっぴん)鮑」として知られた。
今でも漁業が盛んであるが、研究機関の立地により科学の町の名も高まった。
吉浜の東京大学三陸大気球観測所(吉浜駅から2.4km)は国内唯一の施設で
年間数十回、高度30〜40kmまで大気球を上昇させX線などを観測している。
越喜来湾では、館ケ崎に東北大学理学部三陸地殻変動観測所(三陸駅から1.5km)
烏頭(うとう)に北里大学水産学部(三陸駅から7km)がある。綾里には気象庁
ロケット観測所(綾里駅から8.3km)があり、毎週水曜日にはロケットが発射
される。

   ☆     ☆     ☆     ☆

本日は これから新年交賀会。
学長の海妻先生の新年の挨拶があり
名誉教授の先生方の元気な顔が一年に一度集まる会でもあります。
私もちょっと顔を出してきます。
工学部と工学部学生もなにかと他の学部の皆様にお世話になるので。

岩手県の歴史散歩  その227

   野田玉川鉱山

三陸鉄道北リアス線野田玉川駅下車15分

駅から西へ300mほど進むと国道45号線に出る。
45号線を100mほど南下し、右折して90mほど坂道を行くと白い建物と
坑道の入口が見えてくる。野田玉川鉱山である。玉川鉱山の開発は、
1905(明治38)年頃から始められた。鉱山はマンガン鉱山で、
その一部がバラ輝石といわれる美しいピンク色の宝石を産出する。
鉱山そのものは1972年に閉山したが、バラ輝石は、現在、装飾品に
加工され、「マリンローズ」という名称で売り出されている。

野田玉川は、能因(のういん)法師の「夕されば汐風こして陸奥の野田の
玉川千鳥なくなり」の歌で名高い「野田の玉川」ではないか、との説もある。
平安末期の歌人西行(さいぎょう)が庵を結んだといわれる西行屋敷跡が、
野田玉川駅から海にむかって徒歩2分の所にある。

   ☆     ☆     ☆     ☆

玉川鉱山の坑道を歩くと、静まりかえった闇の中を歩くだけのコースで
素朴な印象である。当時の採掘機械や鉱山技術の資料が展示されている。
他の鉱山跡坑道では、何かのテーマパークにした賑やかさやケバケバしさが
目について違和感を覚えるので、私はこの野田玉川の坑道に好意を感じる。

数年前に留学生の研修旅行に同行した時、この野田玉川の坑道の出口に
世界の宝石が陳列されているコーナーで留学生の家族の夫人たちが
一斉に目を輝やかせて、どれがいいなど言い合っていた。
人によっては、坑道の中を歩かないで、いきなり最後の宝石コーナーだけ
見学すれば十分という人がいるかもしれない。

あたりの三陸海岸の景色もよい。

岩手県の歴史散歩  その228

おかや
 岡谷稲荷神社

JR陸中八木駅バス上大沢行岡谷口下車25分

岡谷口バス停から南側の坂道を2kmほど上っていくと、老木に囲まれて
岡谷稲荷神社がある。
祭神は食物の霊宇迦御霊(うかのみたま)で、九戸地方の神社としては社殿も大きく、
権威ある神社として知られ、近郷近在はもとより、青森県下北地方や下閉伊郡、
遠くは北海道からも参拝者が多く、農漁民の信仰を集めている。初年祭には、
「しとぎ」の練り方でその年の豊凶を占う行事が行われる。しとぎとは、
青豆を煮てつぶし、米の粉と一緒に練り合わせ、砂糖と塩で味つけした
この地方の食べ物である。

   ☆     ☆     ☆     ☆

このテーマに関係ないのですが、昨年話題になった O157について
言葉の説明をメモ的に書いてみましょう。

大腸菌を分類するのに
たとえば寒天培養のシャーレで菌を培養したとき
皿いっぱいに菌がパッと広がるタイプもあれば、
そうは広がらずに一点を中心に固まりコロニーを形成するタイプもある。

皿いっぱいに細菌が広がる状態を ”寒い日に窓ガラスに息をふきかけると
できる白いくもりのようだ”という意味で
ドイツ語で Hauchbildung (H型 くもりを形成するタイプ)
とあらわす。
この白いくもりを形成するタイプでない場合に
  ohne Hauchbildung (O型 くもりを形成するタイプでない)
とあらわしている。

したがって O157の”O”とは、培養した時、くもりを形成しないタイプ
という意味のドイツ語"ohne"の O からきている。

O157の157とは Oタイプの大腸菌の中で、第157番目に発見された
菌ということである。

菌のタイプを判別するには、抗原抗体反応による。
つまり、食中毒で下痢をした患者Aさんから取り出した大腸菌をウサギに注射すると
ウサギの血液に抗体ができる。この抗体ができたウサギの血清を、もとのAさんの
もっていた大腸菌に混ぜると凝集反応が起こして固まる。
他の患者からとった大腸菌に、このウサギの血清を混ぜると固まるなら
Aさんの大腸菌と同じだと判別できるわけです。
(他の患者さんの大腸菌とウサギの血清を混ぜても固まらないなら
この大腸菌はAさんの大腸菌とは違うグループ)

ohne Hauchbildung のHauchbildung を辞書で調べても見つからないので
何度か 高橋壯農学部長に聞いたら、最近高橋農学部長から昨年8月5日の
河北新報の切り抜きを学内便でいただきました。
早速、辞書で調べたら Hauchbildung はありませんが、 Hauch はありました。
息という意味ですが、息を吹きかけてできるガラスのくもりの意味もあるようです。

コーヒーに砂糖を入れるか入れないか聞くときは
ohne Zucker 砂糖なし
mit Zucker 砂糖あり
と聞くわけです。

昔 ドイツの写真屋さんで スライドの現像を頼んだら
mit Rahmen,  ohne Rahmen
と聞かれました。
何のことかと思ったら、スライドを現像してマウントをつけるかどうか
聞かれたわけです。
Rahmen ラーメンとは英語のフレーム つまり額縁など枠を言います。

構造力学で ラーメン構造とは柱と梁を組み合わせた枠組(骨組)構造物
のことで、高いビルディングはみなこのラーメン構造です。
本屋さんに行けば、建築関係のコーナーにかならずといっていいほど
ラーメンの解き方の本が並んでいます。
建設環境工学科の学生は2年生の後期に勉強するテーマです。

ohne と mit
英語にするなら
without と with
省略したらどちらも Wになるので
ハッキリ「ない」の意味のドイツ語で表現する方がいいのでしょうか。

岩手県の歴史散歩  その229

実は 228回目で 私の参考資料とした「岩手県の歴史散歩(山川出版社)」
の内容はすべて引用、記載ずみになりました。
この本の内容マル写しではいけないので、一部を紹介したり
自分で調べたことを付け加えたりしましたが。

ということで これからしばらく自分で調べたことを書いてみます。

  ☆    ☆    ☆

もりおか物語 1  惣門かいわい
 この本は地元の出版で、図書館にもあるでしょう。

新山舟橋(しんざんふなばし)
 長さ110間(約200メートル) 舟48艘並べたといわれる。

市史跡の説明板より
 新山は、盛岡城下の入口で、北上川舟航(しゅうこう)の起点であり、
奥州街道の中心でもあった。北上川は、当初舟渡(ふなわた)しであったが、
しだいに諸国の人びとが集まり、物資の流通も多くなってきたので、寛文5年
(1665)金540両あまりを投じて土橋をかけ、利用者から橋銭をとり、
盛岡以南の村々から新山橋管理税を徴収し、維持経営にあたった。ところが
たびたび大洪水で流失したので、天和(てんな)2年(1682)に大船18
艘・中船2艘を、九戸の産鉄で作った鉄鎖で、両岸の大黒柱各4本につなぎ
とめ、舟の上に長さ2間半から3間の板294枚を敷いて、人馬もろとも
自由に往来できるようにして、明治初年に及んだ。その仕組みは珍しく、
全国の名橋番付にも注目されるようになった。

「日本大橋尽(づくし)(「江戸自慢」に所載)」より
  東之方 大関 208間 岡崎矢引橋
     関脇 木50間 福井掛合橋
                石45間
     小結 55艘並 越中船橋
     前頭 120間 三州吉田大橋
     〃    48艘並 南部船橋
     〃  110間 江戸永代橋
     〃  109間 江戸新大橋
     〃  107間 奥州名取川橋
     〃   96間 仙台大橋
     〃  48艘並 越前船橋

明治橋(第1期) 明治6年(1873)−明治7年(1874)5月
  長さ80間(約150メートル)余り、幅4間半(約8メートル)
  木橋   中央に中島あり。    現在の明治橋より100メートル
  ほど下流の御蔵の前に架けられた。
明治天皇が明治9年に行幸されることになり、島県令の命により着工されたという。
北上市の九年橋も同じ時期に同じような理由で架けられたのであろう。
明治橋(第2期) 明治31年(1898)  木橋
  前の橋と同じ場所で現在の橋より100メートルほど下流。
明治橋(第3期) 昭和7年(1932)  鋼橋
  鋼プレートガーダー

盛岡築城とともに城下町を新設した南部藩では、四方の街道の出入口に関門
を設け、番所を置いて、城下を警固した。特に新穀町の入口は、盛岡城の
外堀の末端にあたっており、北上川舟航の起点新山河岸(しんざんがし)に
近接し、また陸路では奥州街道(仙北町方面)・釜石街道(神子田みこだ
方面)・宮古街道(上小路うわこうじ方面)などの要路に接続していたので、
この要所を警備するために「惣門」が建てられた。

現在、南大通り2丁目の木津屋本店前の路傍に、「盛岡城警備惣門遺趾」の
石碑が建てられている。ここは、藩政時代には土累で囲まれた方形の「桝形
(ますがた)」があり、土累の上には木柵を回し、その中には御番所が
あって役人が詰めており、城下に出入りする通行人や荷物を改めた。

岩手県の歴史散歩  その230

明治橋の次は夕顔瀬橋です。

もりおか物語 3 材木町かいわい

南部藩時代の城下町盛岡の南の玄関口を新山舟橋(しんざんふなばし)
(明治橋の前身)とすれば、北の玄関口は夕顔瀬橋であった。殊に夕顔瀬橋
は、秋田街道や鹿角街道に接続していたから、当時は交通上からも、防衛
上からも、だいじな要点を占めていたことは明らかである。

 もともと盛岡は、北上川・中津川・雫石川の合流点に築かれた盛岡城を
中心として、計画的に町づくりを進めた城下町であったが、この3川を
めぐらす要害の利点が大きかった反面、この3川の治水と架橋には、また
非常な苦心を払わなければならなかった。そして城下を貫流する中津川の
架橋については、盛岡の築城に着手してから10ほどをへて慶長14年
(1609)には「上の橋」、同16年(1611)には「中の橋」、
ついで同17年(1612)には「下の橋」と、いわゆる中津川3橋が
相次いで架橋されたが、それによって河南と河北との連絡交通が容易になり、
盛岡の市街化と発展が一段と進んだ。

 これに対して、奥羽随一の大河である北上川は、川幅も広く水深も深く、
その架橋は当時の技術では難中の難工事だった。もちろん夕顔瀬も往事は
舟渡しで、洪水のたびに川止めとなる不便な状態であって、たびたび架橋が
試みられたけれども、洪水のたびごとに流失して、多大の経費と労力とを
空費した。それで中津川3橋よりもはるかに遅れて、3橋の古材をもって
明暦2年(1656)に架橋されたのであった。

 そののち、寛文2年(1662)に盛岡に大洪水があって中津川3橋が
落橋したが、たぶんこのとき夕顔瀬橋もまた流失したものとみえて、寛文5年
(1665)には夕顔瀬橋の架橋が落成したとある。ところが、それが寛文
10年(1670)には、”白髭水(しらひげみず 白髪白髯(ぜん)の老翁が
水上に現れたと言われる)”と呼ばれる大洪水のために流失して、さらに延宝
4年(1676)には土橋が架けられたという。しかし5〜6間架けはじめた
とき、またもや大雨のために洪水となり、架橋材料や足場の木材が流されて
しまった。このようにして、夕顔瀬では舟渡しと架橋が幾度なく繰り返されて、
長い間困難を重ねたのであった。

 正徳4年(1714)の書き上げによれば、夕顔瀬は川幅48間・水深
7尺とあり、再三の架橋工事に多額の費用を要したために、藩庁では盛岡
以北の各通り(各行政区)から夕顔瀬橋料米を徴収することとし、高250
石に対して1俵ずつの割合で、年間83駄1斗を納めさせ、また橋の利用者
からは橋銭をとるなどして架橋財源の捻出につとめた。これに対して下流の
新山舟橋に対しては、やはり盛岡以南の15通りの地区から507駄余の橋
料米を徴収した。

 こうして架橋と流失とを繰り返したのち、明和2年(1765)になって、
御勘定頭(おかんじょうがしら)梅内忠左衛門の取り計らいで、御側頭
(おそばがしら)大向伊織(おおむかいいおり)が北上川の中央に大石を
もって中島を築き、橋桁を高くして両岸から土橋を架けて、洪水のときの
落橋を防ぐ方法を考案したのであった。これは大河北上川の架橋技術として
は、格段の進歩を示すもので、これが下流の新山舟橋の架橋にも応用され、
その効果は大きいものがあった。

 こうして夕顔瀬橋の架橋が一応完成し、人馬の往来・物資の交易が
盛んに行われるようになると、藩庁ではこの北の関門を警備するための体制を
整えることになり、夕顔瀬橋の際に惣門警固の役人の詰所である御番所を
おいた。これは南の惣門と御番所とに対応する城下の北の守りであった。

大向伊織(おおむかいいおり)
第34代南部利雄の明和2年(1765)、南部藩は鹿角郡尾去沢銅山を
直接経営し、坂牛(さこうし)新五左衛門を総奉行とした。明和4年(17
67)に藩侯の命によって、新五左衛門は大向伊織と改名した。伊織は、鹿角
の尾去沢銅山の山法・田名部の檜山の山法を立て、盛岡市中に石橋を架け、
夕顔瀬の橋塚(中島)を築くなど、功績も多かったが、藩侯の公印偽造の罪
により、明和6年(1769)に中野筑後に預けられて家禄没収となり、更に
遠野の八戸弥六郎に預けられて、翌年配所の遠野で死去したという。
(南部史要による)


岩手県の歴史散歩  その231

明治橋と夕顔瀬橋を説明したので
中津川に架かる 上(かみ)の橋、中の橋、下(しも)の橋
について書きます。

上の橋 下の橋あり 雪の町(山口青邨)
みちのくの夏の夕風 盛岡の ぎぼしゅが橋を吹き渡るかも(岡本かの子)

中津川には盛岡城下町ができたときから
上の橋、中の橋、下の橋が架けられた。
これらの橋が架けられて城下町の機能がそなわった。

北上川にくらべて川幅の狭い流れの静かな中津川には
橋を架けることは比較的容易であったと思われるが
それでも何度か中津川も洪水にみまわれ
擬宝珠は災難を受けている。

擬宝珠は上の橋に18、下の橋にも18、合計36あって
このうち18個は昭和20年に国の重要美術品に指定されている。
橋の擬宝珠で紀年銘の明らかなものは少ないので貴重である。

擬宝珠は橋梁の親柱・中柱・袖柱のほかに階等の勾欄親柱の上部先端にも
つけられることがある。
橋だけでなく、建築の手すりにも見られる。
明治の洋風建築の二階のベランダの手すりに日本古来の擬宝珠を発見した時
私も嬉しくなった。 大工の棟梁も洋風建築の写真や絵を見せられて
見ようみまねで、それらしいものを作ったのであろうが、
手すりには日本の伝統の擬宝珠を取りつけて悦に入ったのであろう。

土木学会の土木用語大辞典に、この擬宝珠を載せることを提案したのは
盛岡に住んでいる私でした。

擬宝珠の形は玉ネギ。
ミュンヘンの教会 南ドイツの教会の玉ネギ形の塔は
東欧からきた様式のようである。
つまりロシア教会(ギリシャ教会)の建築様式は
どうもルーツは回教モスクにさかのぼるらしい。
イスラム建築がロシアや南ドイツのキリスト教会に影響を与え
いっぽう東洋の橋の擬宝珠にも影響をあたえたのであろうか。
はたまた、擬宝珠の玉ネギ形とイスラム建築の玉ネギ塔とは無関係か。
今後の研究テーマですね。

擬宝珠のついたのは慶長14(1609)年の上の橋と、
慶長16(1611)年の中の橋の二橋だけで、下の橋には擬宝珠はなかった。
しかし度重なる洪水で擬宝珠が橋とともに流出したりしたので
擬宝珠を補修して、現在は上の橋と下の橋に取りつけられている。
その結果、現在の上の橋には本来上の橋にあったものと中の橋から移転して
きたものになっている。
下の橋の擬宝珠は全部上の橋と中の橋から持ってきたものである。
 このへんは、古来の事実をそのま保存することを願う人にとっては
見逃すことのできない(許されない)行為と思われるかもしれない。

擬宝珠のある日本伝統の風情の上の橋や下の橋を見ると楽しいが、
よく見ると上の橋は木の高欄の下にはコンクリート桁が橋を支えているし、
下の橋も木の高欄の下には鋼桁の本体があることがわかる。
橋の主構造も木ならわかるが、コンクリート桁や鋼桁の上にだけ
木の高欄や擬宝珠を張りつけたような構造物で私など残念な気持になる。
 まあ、いいか。

中の橋は完全にモダンな鋼の橋で、専門的にはドイツの技術者の名をとって
ゲルバー形式の橋であるが、かえって近代橋梁という橋で、東京駅と同じ
建築様式の流れをくむといわれる旧岩手銀行本店の赤レンガとともに
明治以降の日本の雰囲気を伝えている。

上の橋のあたり数十メートルの地域は江戸時代の雰囲気を伝え、
中の橋のあたり数十メートルの地域は明治の雰囲気を与えて
くれるのだろうか。

中津川には、明治になって沢山の橋が架けられた。
現代でも少しずつ橋の数は増えていくだろう。

岩手県の歴史散歩  その232

明治橋や夕顔瀬橋のことを調べるために、盛岡市立図書館から
「もりおか物語」のシリーズを年末からずっと借りていました。

北山かいわいを読んで、横川省三の資料を
ここにまとめておきたくなりました。

横川省三については、この岩手県の歴史散歩シリーズの中で
いくつか簡単に紹介したはずですが、盛岡市民の中でも
知っている人は少ないようです。

旧桜山の南部家の霊廟のうらの小高い林の中に、横川省三の墓がある。

横川省三はもとの名前を三田村勇治という。生家は下米内字一本松にあった。

横川省三の父三田村勝衛(かつえ)は南部藩士であり、幕命により
北方警備のため副司令官となって函館に行っている間にキリスト教に入信した。

ロシアの東方侵略政策によりカムチャツカまできたロシア人は、
千島・樺太を南下し北海道をうかがっていた。

このときロシア皇帝ロマノフはギリシャ正教の法皇でもあるから、
ニコライ神父を北海道に上陸させ、函館に教会を作らせた。

このニコライ神父は、よほど説得力のある人間だったようで、
日本の侍たちが感動してキリスト教の信仰に入った。
(士農工商という身分階級制度のきびしい時代に、人間は平等
であり、お互いに神の子であるという思想は、日本人に
非常な感動を与えたのかもしれない)

東京お茶の水のニコライ堂は、このニコライ神父が建てたという。

三田村勝衛も函館でキリスト教に入信し、盛岡に帰ると妻クニにも
信仰を植えつけた。妻クニも熱心な信者となった。

このような両親のもとで生まれた横川省三が、やがて死ぬまで聖書を
手離さない熱心なキリスト教信者になったのであろう。

少年時代の勇治は、明治6(1873)年に山岸小学校に入学した。
世界地図を見ながら、父から「日本は極東の小さな島国なんだから、
お前は大きくなったら支那大陸でも、メリケン(米国)へでも、
どんどん出かけて行って大いに活躍するんだぞ」と少年時代から
海外に雄飛する思想を吹き込まれていた。
この父の言葉を、彼は後日そのとおり実現したのである。

それから中学に入学するが、中途退学をして鍛冶町小学校や山王
小学校の先生になる。小学校の先生のときには、”乱暴先生”の
異名をとっており、ひまさえあれば剣道や戦争ごっこをさせて
生徒を大いに鍛えていたという。

やがて、県庁の多田氏の世話で、東和町の横川家の養子に入った。
横川省三は、東京に遊学させてもらえるということで養子になったのだが、
当時寺子屋の師匠をしている養父の財力ではとうてい東京遊学は実現する
べくもなかった。

そうしているうちに、横川家の親戚のうちには、学費を出して
遊学させねばならぬようなムコなら追い出してしまえ
というような乱暴なことをいう者もあったらしい。

それがいつとはなしに横川省三の耳にも入ったものだから、
「こんなところで埋もれてしまったんではたまらない」と思ったのか、
家を出て、かねてより念願であったのか東京へと向かった。

ところが、そのときはすでに長女律子が
妻のお腹の中に入っていたのであった。

それを知らないで東京に出て行って自由民権論の政客たちの
たむろする”有一館”に入って、大いに政治運動を
していたのであった。

当時の政府は、官憲の圧力で自由民権論を押さえつける方針
をとっていた。秋月の乱とか、神風連の乱とか、方々で
騒動が起こった。

その1つに加波山(かばさん)事件というものがあった。
茨城県加波山で自由党の河野広中が一味徒党をくんで、
政府の転覆をはかった。ところが計画が未然にもれて
一網打尽に捕まってしまった。

その網の目をのがれて東京に走った者を横川勇治がかくまった。
”犯人隠匿罪”ということで、勇治は監獄に1年半入れられた。

この獄中生活が、横川を変えることになった。監獄の中で
差し入れられた漢訳の聖書を読むにしたがって、彼は
これまで腕力をふるい乱暴するのをあたりまえのことだと
していたが、これではいかん、こういうことをしていると
自分は恥ずべきつまらない人間になってしまうと考えた。

荘子という本に「日に三度己を省みる」ということが
書いてあるが、自分などは1日に三度反省するだけでは
とても足りないほどの者だということで、みずから
”省三”と名前を変えたのであった。

やがて出獄できたが、保安条例により、東京から十里以外に追放される
ことになったので、それなら岩手に帰り、郷里の青年たちに
自由民権運動の思想を吹き込んでやろうと考えた。

郷里といえば、東晴山に残しておいた妻のことが気になった。
さすがにまっすぐに横川家の敷居はまたぎかねて、妻の姉の
嫁いだ八重樫家を訪ねたら、姉から「一体あなたは
どうしたんです。横川の家には、あなたの娘が生まれている
んですよ」といわれ、横川家から赤ん坊を連れてきて
省三に会わせてくれた。

それから、盛岡で自由民権の運動をやり、岩手青年会を組織して
自由民権の思想を鼓吹した。

そして、このまま盛岡にいたのでは一家を養うわけには
いけないと考えたのか、新聞記者になろうとした。

そして都合のよいことに、盛岡出身の佐藤北江という人が
東京朝日新聞の編集長をしていたので、横川省三は朝日新聞
に入社した。

明治26(1893)年に、郡司大尉の千島探検に同行した。

日本の領土千島列島にロシア侵略の手が伸びてきていたので、
日本人を住ませて千島を開拓しようということで、
海軍退役大尉郡司成忠を中心に国民に募金を呼びかけ、
海軍からカッター(短艇)を払い下げてもらった。

この千島列島の探検記を35回にわたって朝日新聞に連載する。
この冒険記事「短艇遠征記」は当時としては大した読物で、
一躍朝日新聞の読者が二万も増えたと言われた。

そうしているうちに、日清戦争が起こり、横川省三は海軍従軍記者として
志願し、軍艦に便乗し実戦記事を書いた。これも読者に大評判であった。

ところが、あれほど名声をかちえた新聞記者としての地位を弊履のごとくに
捨てて、突然朝日新聞社に辞表を出した。アメリカに行って開拓事業でも
やってみたいといって。
(真相は、当時朝日新聞の内部で政治的な意見の相違があって、社会の
木鐸としての新聞の使命を果たせないということで辞めたらしい)

横川がアメリカに渡った時は、まだ西海岸のカリフォルニア州の
方にはアメリカ人が根をおろしていなかったので、日本からの
移民を大いに歓迎したため、日本の移民がどんどん行っていた。

ところが横川がアメリカに渡った時は、アメリカは非常な不況の
ドン底にあり、資金を借り出して農場を経営しようにも、
なかなか資金のメドがつかない。

そのうちに彼は気がついた。日本の移民はなりふりが不潔で、
しかも日常の行動がいわゆる飲む打つ買うといったことで、
品性がおそまつな人間が多いということだった。

この点に着目した横川は、これではいけない、
将来このような状態では他の人種から侮蔑を受けるばかりである、
やはり人間を鍛え直さねばだめだということに気がついて、
アメリカにいた日本人有識者と相談して、アメリカでは二番目の
邦字新聞”北米日報”という新聞社を作った。

そして横川みずから編集にあたり、故国の興味ある記事を載せ、
邦人一戸一戸をたずね回って購読をすすめた。こうした努力が
実を結び、在米邦人の教養が非常に高まったということであった。

ところが在米2年目の頃、突然郷里から手紙が来て、妻の佳哉
の病状が悪いから早く帰国してくれというのであった。

急遽故国に帰ることになり、途中船待ちのためにハワイに立ち寄った。

ハワイは砂糖キビの栽培がさかんで、アメリカの資本家が日本の
移民を使ってやっていたが、10人も20人も、まるで
ニッパ小屋のようなところに寝泊まりさせて、暑いところで
1日10時間も働いて1ドルか1ドル15セントという安い
賃金であった。

これを見た横川は、これはいかん、何とか日本人が発展できるように
待遇を改善しなければならないと考えた。

横川は故国に帰り、東晴山の自宅で1週間妻を看取り、妻が
夫の腕の中で昇天してから、葬式をすませて、再びハワイへ
戻ったのであった。

親友井上敬次郎に、南洋各地に移民をやるよりは、ハワイに
集中して移民をやるほうが有望であることを説得する。

それなら横川が移民の世話をしてくれということになり、
ハワイの移民を大いに世話した。待遇改善ためには、
ストライキもやった。また、ストライキの調停もやった。

こうしてこれまで牛馬のようであった待遇を、時間的にも給料的にも
改善して行った。また日本人にも畑を持たせてくれるような
運動もやっている。

今日のハワイの邦人発展の根本をなすものは、横川がハワイにいる時
邦人の世話をしたわずかの間に、その種が蒔かれたのだといっても
過言ではないだろう。

やがて、日露戦争に入る。ロシア軍によって満州が侵略され、
朝鮮もこの支配下に入ると、やがて一衣帯水の日本も餌食に
なってしまうんじゃないかということで、
外務大臣小村寿太郎は次官の内田康哉(こうさい)を
清国公使に任命して北京に派遣する。

このとき内田公使が、いわゆる懐刀(ふところがたな)として推薦された
横川省三にほれこみ、あらゆる機密活動を横川に頼むことになる。

満州の蒙古方面の視察旅行に行ったが、満蒙はもうロシアの手が
回っており、日本人とみれば捕えられるから、清国政府から
旅券をもらい、支那の毛皮商人に化けていく。このときは、
伊東忠太という東大教授などが同行していた。

伊東忠太は中国大陸を旅行して多くの建築調査を終え、帰国してから
ギリシア神殿の柱のエンタシスが法隆寺の柱にまで伝わったという学説を
うちたてた(この説は途中の中国大陸などに証拠が残っていないから
現代は認められていない)。また琉球の建築調査も行った。戦後になって、
沖縄首里城が復元される際に、伊東忠太の資料が唯一の資料であった。

横川は蒙古から奥地まで入り、ハイラルに着いたとき嫌疑を受ける。

ハイラルの旅館の日本人の主人が、一目で横川の任務を見破り
横川から調査した秘密文書を預かってくれる。秘密文書を旅館の主人に
渡したその晩に、ロシア兵に踏み込まれ、怪しい奴だとばかり
パルピンまで護送されてしまう。

ハルピンで9日ほど取調べをうけるが、幸いにして身につけたものに
何ら怪しいものがないので、証拠不十分で放免される。

日露戦争直前に、ロシア公使が秘かに清国と秘密条約を結ぼうと
していた。

横川省三は、清朝の高官と酒を飲んでいるとき、露清密約
は明日明後日にも批准されるばかりだということを聞いて、
すぐ席をはずし内田公使に知らせる。

そして内田公使と外交官が集まり相談した結果、横川省三の活躍で
露清密約の批准は防げたのである。
(やや身びいきの人の話だから半分くらいに聞いたほうが
いいかもしれない)

そして日露戦争が始まる。
当時日本軍は、ロシア軍がハルピンに集結するのを何とかして阻止して
即戦即決で一日でも早く短期決戦をしたいというのが戦略であった。

ロシア軍はシベリア鉄道の単線一本をたよりにして兵隊や
弾薬を満載してくる。もう貨車はどんどん乗り捨てて、後から
後から新しい貨車で送り込んでくる。

それを知った日本軍は何とかしてそれを妨害したいというので、
特別任務班という挺身隊を編成した。

内田公使は、横川が決死隊となって特別任務班に入るのを
何回も止めたという。「横川君、君は十分以上に任務を
遂行したんだからゆっくり休養しろ」といったにもかかわらず、
祖国の危急存亡のときだということで、横川省三は進んで
特別任務に参加した。

横川たちの作った特別任務班は八班に分けられていたが、
横川省三は最初の特別任務班12名に加わり、蒙古のカラチン
王府で旅装を整えて、そこから大興安嶺をめざして、
シベリア鉄道爆破に出かけた。

4月11日チチハル南方4キロのフラルキという鉄橋が
見えるところまで行き、そこに天幕を張った。

ここで横川省三・沖禎介の2人は天幕に残って作戦をねり、
松崎はじめ4人は鉄橋を偵察しながら、水を汲んでくるため
出かけていった。

その4人の留守中に、コサック騎兵6騎の一団が、見慣れない
天幕があるというので調べに駆けつけた。

中に蒙古の僧が2人座っている。お前たちはどこへ行くのかと
いってみても、言葉がわからない。よく蒙古の僧が旅をして歩く
というのはロシア兵もわかっていて、これは本部へ表敬のために
来たんだろうぐらいに思って、一旦は嫌疑を晴らして
立ち去ろうとした。

しかし、そのコサック兵の中に注意深い軍曹がいて、
「待てよ。あの蒙古僧には、見慣れないものがあるぞ」
と、ホウロウ引きの食器に気のついた者がいたのが不運だった。

そこでもう一度引き返し、2人を取調べてみたら何と
天幕の敷物をはぐと、中から黄色火薬や黒色火薬の袋が見つかって
しまった。そして、2人はハルピンに護送されてしまう。

4月17日軍法会議でのロシアの記録である。
「お前らは、日本の軍人か」
「そうです。大日本帝国軍人陸軍大佐横川省三」
「同じく陸軍大尉沖禎介」
「何のために来たのか」
「シベリア鉄道爆破のために、密命を帯びてやってきたものである」

このようなシベリア鉄道爆破をめざす特別任務班は他にも
設置され、度々シベリア鉄道が爆破されたため、
シベリア鉄道警備として急遽コサック騎兵50数個中隊を
シベリア鉄道沿線に配置した。これはロシア軍の大きな戦力
削減であった。

のちに奉天の大会戦のとき、あのコサック騎兵50数個中隊が
あれば、日本軍には負けなかったものをと、クロパトキンに
地団駄を踏ませたということであった。

クロパトキンは、直ちにスパイの罪名で絞首刑にしろという
命令を下した。ところが、裁判にあたった大佐が横川たちに
同情して再三クロパトキンに願い、ようやく軍人の待遇で
銃殺刑ということになる。

4月21日処刑の日
裁判官のメジャーク大佐は2人の家族に遺書を書かせる。

横川省三は自分の2人の娘宛てに書いた遺書の最後に
「此手紙ト共ニ支那北京ノ支那銀行手形ニテ五百両ヲ送ル。
井上敬次郎・山口熊野等ノ諸君ト相談ノ上、金ニ換ユル
工夫ヲ為ス可シ」と一旦書いてから考え直した。

となりの沖に「沖君、考えてみれば、われらの所持金は
いわば公金である。これをロシアの赤十字社に寄付しては
どうだろうか。君の意見はどうか」と聞いた。沖は直ちに
「日頃尊敬する貴下の意見に対して賛成です」と答えた。

そこで二人はさっそくメジャーク大佐に対して、この旨を申し出た。

これを聞いた大佐は、意外に思って「お前たちの家族が
困るだろう。適法によって遺族に送ってやるが、どうか」
といって奨めた。

横川省三は「あなたの御厚意は、まことにありがたい。
しかし日本国天皇陛下は、決して遺族を見殺しに
はなさらない。かつまた国民は、遺族を王侯の待遇をもって
遇するから、少しも心配はいらない」と答えた。

すると大佐は、「しからば、何故にロシアの赤十字に寄付をする
のか」と聞いた。

横川省三は「この戦争において不幸にして日本軍の砲弾によって
傷つき病める貴国軍人に対し、少しでも罪滅ぼしをしようという
気持であるから、どうか納めてほしい」と答えたという。

この「もりおか物語 7」には昭和9年11月に横川省三を
処刑した指揮官シモノフが盛岡に来たときの、関係者が集まり
シモノフを囲んでの記念写真が掲載されている。

横川省三は、一生貧乏の中で暮らした。なぜかというと、
東和町東春山の横川家の養父母・自分の妻や幼い娘をみなければ
ならなかったほかに、自分の生家の方もみなければならなかった
からだった。

横川省三が送金したときの手紙も残っている。
母親から七円送れという催促の手紙に対して「七円と思った
けれども、何としても工面がつかなかったから五円でがまん
してください。あとはまた送るから」といった手紙も残っている。
 
   ☆     ☆     ☆

横川省三という人は一言ではくくれない人物だろう。
あるときは自由民権運動の志士、あるときは新聞記者
あるときは従軍記者 あるいは血わき肉おどろ冒険記事ライター
あるときはハワイの日本人移民の救い主、そして日露戦争特別任務員
(従軍記者+ヘミングウェイ+同胞救済者+ゴルゴ13 ?)
いずれの時も、一生懸命に生きた人であった。

「一生懸命にした、一生懸命だった」とキリスト教作家三浦綾子は自分の半生を語る。
そして
「一生懸命にやったと言っても、問題は何に対して一生懸命だったのか」
ということを続けて話す。

三浦綾子は戦前に北海道のある炭坑の小学校の教師として
熱心に子供たちを教えたが、終戦とともに昨日まで教えていた教科書に
スミを塗らせて、全く反対のことを教えなければならない自分に
いやになって教師をやめたという。

 過去が正しいなら今は誤り。 今が正しいなら過去は誤り。
いずれにせよ自分の信ずるべきものは何だろうと道に迷ったという。

一生懸命なのはいい 問題は何に対して一生懸命なのか。
目的とかテーマが大切なのは、論文を書くときだけでなく
人生においても大事なこと。
日本と日本人の生き方についても、目的とか哲学が問われている。

横川省三のすべてを肯定するつもりもなく、また否定するものでも
ありません。
今から50年前、当時の日本人があたりまえに考えていたこと
そのことを知る資料になると思ったからです。

横川省三がロシア軍人に、日本では遺族は大切にされるから
自分の子供のことは心配していないと答えるのは
今の靖国神社の意義につながっていると書いたら
問題だと思う人がいるかもしれませんね。

いろんな考え方があって、そういうことの存在をまず認めてから
自分の考えをすすめる、そういうことが大切と思うのですが。
あたまから相手の考えは間違い、自分の考えのみ正しいという
固定した考え方というのは、国際交流においても
まず改めなければならない姿勢だと思うのですが。

日本を守るためにロシアの鉄道爆破の任務中、捕えられ処刑された
横川省三を
フランスなら凱旋門に国に命を捧げた兵士たちとしてたたえるだろう。
イギリスでも同様のことをしている。
中国でも一般に墓は認められないが、特に国のために命を捧げた者(共産党の英雄)
には、墓を作っているようだ。
海外旅行をして気のついたことです。
横川省三の立派な墓を作るべきだとは言うつもりはないのですが。

この記事は2日かかって書きました。
ようやく、この本を市立図書館に返してきましょう。

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