岩手県の歴史散歩
岩手県の歴史散歩 その184
石川啄木の秘密
大沢先生の研究の紹介です。
以下に紹介するのは、岩手大学名誉教授大沢博先生の
石川啄木の秘密(Kappa Books)の内容の一部です。
この本は大学の図書館にあるはずですから、興味のある方は
ご覧になってください。
啄木の処女歌集の巻頭を
「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
の歌が飾っている。
啄木はこの歌を大事にしていた。
大沢先生は、この歌に啄木をめぐる7人の女性のイメージが
秘められているとという仮説を発表した。
つまり
東海ー節子 小ー小奴 島ー橘智恵子 磯ーいそ子
白ー姉さだ 砂ー沼田サタ 蟹ー貞子
詳しくは同書に譲るとして
ここでは重要な2,3の女性について紹介する。
啄木が「東海」という語を好んで使い始めたのは
詩人ヨネ・ノグチの英詩集「東海より」を読んでからである。
そして、啄木は白百合の君(のちに妻となる節子)より
この英詩集「東海より」を送られたのである。
橘智恵子は、啄木が代用教員として勤務した、函館市立弥生小学校
の教師であった。智恵子は非常に声の美しい人であったらしく、
啄木は友人に彼女のことを語るとき、声の女と呼んでいた。
貞子は啄木が上京してから知り合った演劇女優である。
啄木は貞子と深い関係になったが、貞子を避けたくなって絶縁状を
書いた。しかしなお貞子はやってきた。
蟹は一見かわいい小動物だが、からかえばはさみを使って攻撃してくる。
いったんはさんだら、なかなか放してくれない。
まさに、当時の啄木にとって、絶縁状を書いてもなおやってくる貞子
との関係は「蟹と戯る」であった。
啄木は節子との結婚式に出席しなかった。東京から盛岡に
帰ってくる途中の仙台で下車し仙台滞在の後、結婚式の予定日5月30日に
仙台から盛岡に向いながら盛岡に下車せず、北の好摩に下りて
友人には2,3日後に盛岡に行くと書簡を送っている。
(なぜ、そんなことをしたのか)
実は
啄木には初恋の少女がいて、その少女は幼いとき死んだのだが
節子との結婚の実現は、初恋の少女の霊への裏切りであり、
2カ月前に知らされた父の住職罷免は、そのたたりの現われで
あろうし、結婚すればわが身に死が及ぶかもしれないと
恐れたのであった。
啄木のたくさんの歌の中に奇妙な歌が混じっている。
その歌を分析して、大沢先生は幼いときの啄木の秘密を解き明かした。
啄木はおとなしい子どもだったので、女の子とよく遊んでいた。
その中でも沼田サタ(通称サダ子)と仲がよかった。
サダ子は当時はやったジフテリアで死んでしまった。
子どもの啄木はさびしくなったとき、サダ子に会いたいと思い
彼女の墓を掘っているところを大人に見つけられ
厳しく叱られた。
(大沢先生は、啄木が墓を掘ったのは
8歳から10歳の間の体験だったと推測する)
その大人は一眼失明(左眼失明)の男であった。
一眼失明の男に叱られた子ども時代の恐怖体験が
次の歌となったのであろう。
我時に天井にある節穴の目ににらまれて眠る能はず
幼き日いたくも我は怖れにき開くことなき叔父の片目を
夜の路(みち)天より高き一眼の入道ありて大跨(おおまた)に来る
また
当時は土葬だったので、啄木がサダ子の墓を掘ったら骨が出てきて
その驚いた印象から、のちに次の歌が生まれたのであろう。
砂山は墓にたとえられている。
わが友は北の浜辺の砂山の浜茄子の根に死にてありにき
一(ひと)夜さに嵐来りて築きたるこの砂山は何の墓ぞも
いたく錆びしビストル出でぬ 砂山の 砂を指もて堀りてありしに
砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日
したがって
はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
この歌も大沢説によると
「ぢつと手を見る」で思っていることは
「この手でサダ子の墓を掘ったからなあ。いくらはたらいても
生活が楽にならないのは、やはりあのたたりのせいなのだろうか」
ということになる。
この大沢先生の説が、啄木研究者や啄木ファンの間で定説として
認められたかどうかは、定かでありません。
☆ ☆ ☆
長年使っていたPC98VXが故障続きとなって
ついに新しいPC21V12を買いました。
この機会にパソコンの机の回りを整理していたら
いろんなものが見つかりました。
少し身の回りを片付けて、空間を増やそうとしています。
この本も見つけたので、内容の紹介をしました。
岩手県の歴史散歩 その185
とうらくじ
東楽寺の十一面観音
盛岡バスセンターよりバス玉山線城内(じょうない)下車3分
北上川をはさんで、岩手山と対峙してそびえているのは姫神山である。
姫神山は神仏分離令までは姫神獄権現(ひめかみだけごんげん)といい、
本地仏は十一面観音であった。東楽寺のある玉山は十一面観音の霊場
として、修験の清雲院らによって護持されてきた。
東楽寺(曹洞宗)に行くには、国道4号線の船田と盛岡市庄ケ畑を結ぶ道
を進む。小屋場停留所から北に折れ、約2kmで城内に着く。
東楽寺は城内小学校に近接し、玉山館跡とも至近である。参道を上ると、
本堂の左側に六角堂の収蔵庫がある。ここに収められた仏像は廃仏毀釈
の災厄を受け、腐朽が著しい。中央の一段と高い十一面観音像と両端の
仁王像(ともに県文化)は、1668(寛文8)に盛岡城下の仁王町から
玉山に移されたもので、他の観音像(県文化)は当地に古くからあった
ものと伝えられている。中央の十一面観音像は高さ360.6cmで、
ハリギリの一木造である。左腕と右足先を欠損しているが、均整がとれ、
衣紋も優美であって地方作とは思えない。平安中期の作と考察されており、
一説では11世紀に各郡にあった長谷観音のうち岩手郡の長谷観音
ともいわれている。仁王像も高さは2mを越えているが、脚部を欠損して
いるので原形はさらに大きかったはずである。これらは古代岩手の開発に
関わる記念碑的な仏像群である。
☆ ☆ ☆
城内も東楽寺も盛岡から近い。
岩手県の歴史散歩 その186
たいらだて
平館城跡
JR平館駅バス盛岡バスセンター行上の橋下車5分
平館城跡は平館市街の西方にある比高約40mの館山と呼ぶ丘陵を
占める。頂上は眺望がよく、物見台であった。頂上から東にのびる
尾根の先端と、南西につづく尾根にも郭があるが、最大の郭は北西
につづく尾根の先端にある。ここに行くには国道を市街にむかって
進み、商店街の手前で右折して庚申堂前を過ぎると平館八幡宮に出る。
ここが郭の西の麓である。また国道をそのまま進み、大泉院(曹洞宗)
の墓地に入ると東の麓に出る。この郭は尾根を二重の空堀で切って
つくられており、三方を2段の帯郭で囲んでいる。そしてこれを
二分するように空堀があり、二つの郭が北西ー南東に並ぶ形となる。
規模は北西側が110X80m、南西側が90X50mであるが、
頂部の平坦地は狭く、南東側が高い。また北西側の山裾に水路があるが
堀跡で、松尾村上寄木から通水したものと伝えられている。
鎌倉時代には当地を含む西根諸郷は厨川工藤氏の領地であったが、
南北朝時代に南朝方の八戸南部氏に占領された。1340(興国元)年に
南部政長は鎮守府将軍北畠顕信から西根に要害を構えたことを祝されて
いるが、雫石の戸沢氏とともに北朝方の工藤・斯波氏に対抗するため
である。この要害が平館城とも考えられ、平館は1419(応永26)年
に南部政光(まさみつ)から光経(みつつね)に相続されている。
戦国時代の西根町北部には一戸南部氏の庶流がおり、平館城には一戸
信濃守(しなのかみ)政包(まさかね)がいた。南部信直と九戸政実
(くのへまさざね)の確執に際し、1581(天正9)年に政包は
九戸氏について、兄の一戸政連父子を一戸城で殺害している。
しかし、その後の政包の事蹟は不明であり、地元では田頭(でんどう)城
など南部氏側の近隣の諸将を攻めたと伝えられている。
田頭城跡はここから約4km南方にあり、遺構は良好で、公園となっている。
☆ ☆ ☆
盛岡から行けば、花輪線大更の駅を右に見て進むと西根町の役場をすぎ
さらに進むと平館の町を過ぎ、踏切を越えて平館の駅にいたる。
もちろん大更の駅前付近で左に分れて、田頭を過ぎて走っていけば
やがて松尾村そして八幡平にいたるわけである。
おつかれさま。
岩手県の歴史散歩 その187
きむらたいけん
木村泰賢
木村泰賢は、原典による古代インド仏教の研究を成しとげた
世界的権威者である。
1881(明治14)年に滝沢村一本木で生まれ、名を二蔵(にぞう)
といった。幼い頃、西根町大更の酒造店に奉公し、12歳で田頭
(でんどう)の東慈寺で得度(とくど)して泰賢と改めた。
曹洞宗大学林(駒沢大学)・東京帝国大学でインド哲学を専攻し、
卒業後は曹洞宗大学林教授となった。
高楠(たかくす)順次郎との共著「印度哲学宗教史」を、また
1915(大正4)年に「印度六派哲学」を著して学士院恩賜章を受けた。
この二つの著書によって仏教成立の前提を明らかにし、学界に名を上げた。
さらに原始仏教の研究に進み、1922(大正11)年に「阿毘達磨
(あびだるま)論成立の経過に関する研究」で学位を受け、翌年
東大教授になった。1930(昭和5)年に没したが、著述は「木村泰賢
全集」にまとめられており、また顕彰碑が大更の国道西側裏にある。
☆ ☆ ☆
岩手の宗教家としては
この東大教授木村泰賢と盛岡願教寺の島地黙雷(しまじもくらい)が
有名である。
島地黙雷は明治のはじめ、信教の自由と政教分離のため活躍した。
岩手県の歴史散歩 その188
浮島古墳群
JR沼宮内(ぬまくない)駅バス大更線浮島古墳前下車3分
岩手町は北上川の上流域を占め、北上川の水源は御堂観音
(みどうかんのん 岩手町御堂、天台宗北上山新通法寺正覚院)
境内の弓弭(ゆはず)の泉と信仰されている。御堂観音は奥州三十三
観音の第32番札所で、807(大同2)年に坂上田村麻呂の祈願所
として建立され、源義家の再建と伝えられている。
岩手町は北上川の西側に古代の遺跡が多く、
寺院跡では
どじの沢遺跡(一方井いっかたい字大森)と
黄金(こがね)堂遺跡(一方井字大森)が、
集落遺跡では
仙波堤(せんぱつつみ)竪穴住居跡(久保字沢口、県史跡)、
今松(いままつ)竪穴住居跡(一方井字今松、県史跡)
がある。
浮島古墳群(県史跡)は、これらの遺跡の中では最も南に位置し、
隣接する西根町大更(おおぶけ)の谷助平(やすけたいら)古墳群
とは約2kmの距離である。
なお一方井市街の西端にある輪台(わだい)城跡は、
盛岡藩祖南部信直生誕の地として知られている。
浮島古墳群は県道に隣接しており、松や桜が植樹され、公園として
整備されている。
調査は1920(大正9)年、1923(大正12)年と
1957(昭和32)年に実施された。調査の結果、古墳群は
15基以上の円墳で構成され、時期的には出土した土師器(はじき)
の編年から古墳時代末期のもので、県内では早い時期の古墳群で
あることがわかった。
出土遺物には直刀・刀子・鉄鏃・鉄釧(くしろ)・耳環・ガラス玉・
土玉・ロクロ未使用の土師器がある。
浮島古墳群は、朝廷による征討を受ける前の蝦夷の墓制を知るうえで
貴重な遺跡である。
☆ ☆ ☆
その昔、笑い話で
SLが沼宮内駅に停って、弁当売りがお客に弁当を売りに来た。
弁当 べんとう べんとう
ちょうど駅の名前のアナウンスがある。
ぬまくない ぬまくない。
べんとう ぬまくない → べんとう うまくない
というオチだったが
果たして沼宮内駅で駅弁が売られていたことがあったのか。
あれは言葉の組み合わせの面白さだけで
弁当が売られていた事実はあったのだろうか。
岩手県の歴史散歩 その189
くずまき
葛巻城跡
JR沼宮内(ぬまくない)駅バス葛巻・久慈行田子(たっこ)下車5分
葛巻町は県北地方を縦貫する馬淵(まべち)川の水源地帯であり、
中世には糠部郡(ぬかのべぐん)南門(みなみかど)に、
1948(昭和23)年までは九戸郡に属していた。
鎌倉時代には北条市の領地で、江刈(えがり)の寺沢にある宗光館跡は
代官横溝氏の居館跡と考えられる。葛巻城も古くは横溝氏の居館だった
可能性もあるが、戦国時代には厨川工藤氏の同族と伝えられる
葛巻氏の居城である。
国道281号線が葛巻町市街に入る頃、葛巻中学校が道路の右側に見える。
この付近を「堀の内」という。中学校の背後に小高い独立丘陵があり、
八幡山と呼んでいる。これが葛巻城の一画をなす八幡館跡で、蛇行する
馬淵川はその南縁を巡って天然の堀をなしている。
田子バス停の近くに八幡宮の鳥居があり、ここから参道を上がると、
境内は郭の一つであったらしいことがわかる。
山頂の平場は100mx80mほどである。八幡館跡から国道を挟んだ
北側の丘陵先端に天井山宝積寺(ほうしゃくじ 曹洞宗)がある。
この付近に鏡沢館と葛巻館の名が伝えられているが、郭の遺構は曖昧
である。葛巻城はこれらの館を一体としたものだったのであろう。
戦国時代末期の葛巻城の城主は、葛巻河内信祐(かわちのぶすけ)で、
その子政祐が九戸政実(まさざね)の娘婿であったため、九戸政実の乱では
葛巻氏は九戸氏から応援を求められた。しかし、信祐はこれを拒否し、
3男直茂を南部信直方に参陣させて、功を賞された。
しかし葛巻城は豊臣秀吉の命によって1592(天正20)年に破却された。
☆ ☆ ☆
九戸政実につくか、南部信直につくか
大きな賭けであった。
戦国時代は領主も賭けは避けられなかった。
結婚も大きな賭けという。
岩手県の歴史散歩 その190
このシリーズも いよいよ190回
200回までもうすぐ。
だいこく
大国神社
盛岡バスセンターよりバス日詰行津志田下車3分
盛岡市内から国道4号線を南下すると都南村津志田にいたる。
(今は都南村は盛岡市と合併したので、盛岡市津志田ですね)
国道に面して西側に大国神社(祭神大穴牟遅おおなむち命)と
八坂(やさか)神社が並んで鎮座している。
盛岡藩主36代利敬(としたか)は、1810(文化7)年に城下から
この地へ遊廓を移し、歓楽街とした。その後1854(嘉永7)年に
遊廓が移転するまで繁盛は続いたといわれる。大国神社は1810年に
造営され、「大国大明神」の額は藩主利敬の揮毫である。
この町は津軽から移ってきた人々を住まわせたので津軽町ともいわれ、
町中には桃の木なども植え桃の花町とも呼ばれた。
大国神社と八坂神社には、その当時の華やかさを残している献額がある。
これは、諸願成就のために当時の遊女や楼主(ろうぬし)などが奉納した
ものや、俳人たちの奉納発句の板額などである。極彩色の板画22枚と
奉納句額4枚、朱色、黒漆塗で、170余年前のものであり、貴重な
文化財である。
俳人たちの「奉納俳諧之発句」や赤い旭日に金色燦然たる雲と5匹の
亀の「初日の海と亀」、静が義経の膝に泣きくずれる場面を描く
「義経と静」などがあり、絵師は盛岡城下の狩野派の長嶺清麿
(ながみねきよまろ)・林泉(りんせん)・浮世絵師東涯北山
(とうがいほくざん)らと言われている。
☆ ☆ ☆
今から150年前には、津志田に遊廓があったのですね。
この大国神社は いわゆるドライブスルーの手前でしょう。
小野寺先生のイスラエル旅日記もはじまるようです。
旅行から1年たつので、整理された報告が楽しみです。
岩手県の歴史散歩 その191
岩手県立埋蔵文化財センター
JR盛岡駅バス矢巾営業所行三ツ森下車1分
バスを降りるとすぐ前が岩手県立埋蔵文化財センターである。
財団法人の文化振興事業団が埋蔵文化財の調査研究を行っている所
でもある。
岩手県は「埋蔵文化財の宝庫」といわれるほど数多くの文化遺産がある。
縄文時代の史跡が特に多く発掘調査されてきた。
埋蔵文化財センターに整理・保存管理されているものは岩手県内各地の
遺跡からの出土品であるが、特に東北新幹線建設や東北縦貫自動車道
建設のために遺跡の発掘調査が行われ、そのような開発にともなう
出土品が多い。都南村の湯沢遺跡・手代森遺跡や大型土偶面出土の
萪内(しだない)遺跡、あるいは松尾村の長者屋敷遺跡などの出土資料は、
特に知られている。
さらには各種の土偶、木製品、石製品の出土品など、ここに収蔵されている
資料を見学すれば岩手の埋蔵文化財のいかにすぐれているかがよくわかる。
この埋蔵文化センターでは、埋蔵文化財の調査研究はもとより、出土資料
の整理と収蔵や埋蔵文化財保護思想の普及活動などを行っている。
なお、見学は事前連絡が必要。
☆ ☆ ☆
道路建設工事と埋蔵文化財発掘は深い関係がある。
これからの建設技術者は埋蔵文化財の知識も必要であろう。
岩手県の歴史散歩 その192
都南村歴史民俗資料館
盛岡バスセンターよりバス都南村つどいの森行終点下車5分
都南村の西部、奥羽山脈の山麓の高台近くに湯沢遺跡がある。
湯沢団地開発にともない、1977(昭和52)年に発掘調査された
縄文時代の大集落跡である。湯沢団地から西にむかって果樹園の間の道を
行くと白い建物が見えてくるが、これが都南村歴史民俗資料館である。
展示資料は多種類であるが、特に岩手県中央部の北上川流域の農村と
農民生活に関するものが多い。そのなかでも農作業絵図である絵屏風
(えびょうぶ)が注目される。中村竹堂という当村に住んでいた表具師
の手によって、きめ細かく描かれたものである。また近世農村で使用
された農具、農村生活における衣食住の生活用具や刀剣・槍など、
さらに古文書類・寺社関係の資料・民俗資料などが展示されている。
この地域の歴史や民俗を知るために見学したい資料館である。
☆ ☆ ☆
この資料館と滝沢村の岩手県立農業博物館には
岩手県の農業の資料が豊富に展示されている。
さて都南村はなくなったので、この資料館の名前がどう変わったであろうか。
岩手県の歴史散歩 その193
矢巾町歴史民俗資料館
盛岡バスセンターよりバス日詰線徳田小学校前下車3分
矢巾町歴史民俗資料館は徳丹城跡の史跡公園にある。この資料館は、
徳丹城跡の発掘調査が進み、その出土資料を収蔵保管・展示し、
また町内の遺跡から出土した土器・石器などや旧家に伝わる古文書類
などの歴史資料、さらには民俗資料などを収集し、保管展示するために、
1983(昭和58)年に開館したものである。
徳丹城跡の見学とともに、この高床式平屋の資料館を見学すれば、
この地域の古代からの開拓の歴史と現在にいたるまでの民衆の歴史を
よく理解することができる。
常設展示は、徳丹城コーナー・考古コーナー・歴史コーナー・
民俗コーナーを中心に構成されている。なかでも興味を特にひくのは、
近くの藤沢狄森5号墳から出土した勾玉(まがたま)・管(くだ)玉・
切子(きりこ)玉・算盤(そろばん)玉・ガラス玉などの
玉類の展示である。
資料館のそばには、江戸時代の盛岡藩に特有の曲り家が復元されている。
この曲り家は、旧徳田村藤沢の肝入(きもいり 村長)であった
佐々木家のもので、1863(文久3)年の棟札がある。
☆ ☆ ☆
徳丹城は、このシリーズの第25回で説明しました。
この矢巾町歴史民俗資料館は平日しか開館されていなくて、
私も見学できたのはたった1回。
岩手県には多くの博物館や資料館があるが、日曜日に開館する所は
多くない。
管理人の都合を考えればそういうことになるのだが、
見学者のことをもっと考えてほしいものである。
せっかくの貴重な資料が多くの見学者に見てもらえることを
願う。
岩手県の歴史散歩 その194
こうすいじ そうとうごんげんしゃ
高水寺跡と走湯権現社
JR日詰駅バス盛岡駅行古館農協前下車5分
城山公園北側の人家が集まっているあたりは高水寺跡と伝えられている。
このあたり一帯を昔は郡山(こおりやま)と称したが、郡山の地名は
類例から平安時代の郡衙に関係すると考えられる。
高水寺は「吾妻鏡」によると768(神護景雲2)年に称徳天皇の勅願で
建立されたと伝えられ、一丈の観音像が安置されていたことがわかる。
寺は1626(寛文3)年に盛岡に移され、1871(明治4)年に
廃寺となった。
城山の北麓にある走湯権現社は「吾妻鏡」によって高水寺の鎮守社だった
ことがわかる。境内に1個だけだが礎石が現存しており、高水寺の伽藍跡
だったことが推測できる。収蔵庫に平安末期の十一面観音立像(県文化)
が収められており、高水寺の仏像と伝えられている。
☆ ☆ ☆
高水寺城跡は、このシリーズの第26回で説明しました。
国道4号線の歩道橋に「高水寺」の名前が見える。
岩手県の歴史散歩 その195
ひづめたて
五郎沼と比爪館跡
JR日詰駅バス花巻行赤石小学校前下車5分
JR東北本線日詰駅の南東800m、国道4号線に隣接して五郎沼の
土手が見える。桜の名所であり憩いの沼となっている。
奥州藤原氏の時代に紫波地域は、藤原氏の支族である樋爪氏が支配して
いたが、源頼朝が紫波に到着した時には、すでに樋爪一族はその居城
である比爪館を焼いて北に逃亡してしまった。
樋爪一族が紫波郡のこの地域を開発して、田畑をひろげ、文化を盛んに
したものであろう。そのために灌漑用水の堤としてつくられたのが
五郎沼堤であった。樋爪五郎季衡がつくった池であるとか、あるいは
幼時に遊泳した沼であるなとど伝えられているのは、そのためである。
現在は農業用溜池として、面積約4.8ha、利用の受益面積40ha
であるが、由緒ある古い沼である。
比爪館跡は、沼の北東側の薬師神社や赤石小学校から国道までと推定
され、東・北・西側の三方には堀を掘り、南側は五郎沼に面していた
ものと考えられる。調査によれば、平泉の遺跡出土のものと類似の
土師器・須恵器や柱脚なども発見された。
☆ ☆ ☆
今日はこれから仙台ヘ。
このシリーズ 200回まであとわずか。
岩手県の歴史散歩 その196
しがりわけ
志賀理和気神社
JR日詰駅バス盛岡行志賀理和気神社前下車3分
紫波町の中心街に入ると、すぐに志賀理和気神社(祭神 経津主ふつぬし
命ほか)への桜並木の参道入口がある。旧国道4号線から参道を行くと
鎮守の森に囲まれて神社が鎮座する。もとは赤石神社とか赤石大明神
ともいわれていた。御神体が赤石であるからとのことであったが、近世
まではむしろ忘れられており、したがってその祭祀も近くにあった
赤石山遍照寺(へんしょうじ 廃寺)がとり行っていたのである。
志賀理和気神社の祭神はもともとこの地域の鎮守神である「志賀理和気神」
であった。志賀理和気神は「文徳実録もんとくじつろく」の仁寿2
(852)年8月の条に、正五位下を加えられたと記されており、
さらに927(延長5)年完成の「延喜式」神名帳に、岩手県14座
のなかの1座として載せられている。国司から御幣をさずかる全国最北
の神であった。志波城・徳丹城の建設とともに、征夷開拓政策として
中央政府は在地民衆の神である志賀理和気神を格付けし統制したのである。
この「しか(が)り」とはどういう意味か、いろいろの説がある。
たとえばアイヌ語の「まるい」(円・球)の意味であるとか、狩人集団
の頭領を意味し、この地方を統括する神で、「わけ」はその尊称で
あるなどの説である。
志賀理和気神社は西部の奥州山麓に鎮座する水分(みずわけ)神社や
志和稲荷神社と深い関係があり、神社の位置も変遷し、近世に藩主や
日詰町の豪商たちの崇敬により、復興してきた。
☆ ☆ ☆
神社の祭祀を寺院がとり行っていたのも、日本的というか因習的。
古い宗教には見られる例であろう。
盛岡の東顕寺の裏の三ツ石神社(鬼の手形 岩手の名のおこり)
も、神社と寺の結びついた例ではないだろうか。
岩手県の歴史散歩 その197
こどう
野村胡堂・あらえびす記念館
紫波町彦部字暮坪193ー1(TEL 0196-76-6896 FAX 0196-76-6897)
JR日詰駅から車で6分
開館時間 9:00ー16:30(入館16:00まで)
休館日 毎週月曜日(祝日のときは、その翌日)
12月28日から1月4日まで
入館料 一般 300円 小・中・高生 150円
野村胡堂・あらえびす記念館は、本名野村長一の生家の近く、小高い丘に、
平成7年初夏開館した。近くには北上川が洋々と流れ、北に岩手山が
悠然とそびえ、西には生家が眼下に眺望できる景勝の地に建設されている。
記念館には、人間野村長一、小説家野村胡堂、音楽評論家あらえびす
の数々の作品や執筆資料を総合的に展示している。
このほか、最新の映像・音響機器により映像化された胡堂作品や
あらえびすが愛したレコード音楽を楽しむことができる。
野村胡堂(本名長一)は明治15(1882)年に生まれ
昭和38(1963)年に亡くなった。享年80歳。
野村胡堂が盛岡中学に在学していたとき、上級生に米内光政がいて
同級生には金田一京助、田子一民、郷古潔、及川古志郎などがいた。
そして下級生に石川啄木がいた。
村長となっていた父が事業に失敗して、せっかく東大法学部に在学して
いたのに経済的理由で中退となってしまった。
しかし、このことはかえって反対されていた橋本ハナとの結婚が
実現することとなった。
野村胡堂とハナが二人でひそかに決めていた結婚には、父が長い間
強く反対していたようであったから。
あらえびすとは中学時代に友人がつけたあだ名であり、
えびすとは朝廷からさげすまれた東北人を指した言葉でもあったので
えびすを胡と表し、胡堂というペンネームで勤務する報知新聞に
音楽会・美術展に関する記事を書いた。
昭和6(1931)年に「銭形平次捕物控」の第1作を発表する。
「銭形平次捕物控」は総計383編も執筆した。
「池田大助捕物日記」も胡堂の作品です。
胡堂とハナのささやかな結婚式には、友人として金田一京助と
智恵子(あの智恵子抄の智恵子)が出席したという。
結婚式はハナの女子大卒業にあわせたと思われるが、
ハナは夫が新聞記者として一人前になるまで働いて
助けたとか。
☆ ☆ ☆
もし胡堂が東大法学部を卒業していれば、日本のために何か良い
仕事をしたと思われるが、作家として数々の作品を残したことで
特別の意義があったのではないだろうか。
今でも平次は日本人に正義と勇気を与える。
子どものころ、よく平次の捕物映画を見て、役人の数々の提灯が出てくると
終わりになるのが不思議であった。
捕物映画を見て、江戸時代は殺人や犯罪が多くて怖いものだと思ったが
犯罪はいつの世もなくならない。
捕物だから犯罪が目立つが、たいていは江戸時代は平安で
落ち着いていたのだろう。そんなことは子どもの私にはわからなかった。
あらえびすホールでは
銭形平次の映画がビデオで見られるが、昔の映画を見ていると
年令がばれるが懐かしい。
長谷川一夫や美空ひばりや堺駿二(字は自信がない マチャアキの父親)
など往時の俳優の生き生き画面が見られる。
岩手県の歴史散歩 その198
ふなくぼ
舟久保洞窟
JR日詰駅バス赤沢行舟久保下車10分
舟久保洞窟(県史跡)は北上山地の石灰岩の層にできた洞穴であり、
美しい鍾乳石も見られる。洞窟住居としては、岩手県内では典型的な
遺跡である。紫波町の中心街から北上川の紫波橋をわたり、赤沢小学校
を過ぎて山の中に入った所にある。1931(昭和6)年猟師によって
発見された。
洞穴内の住居に使用されたと思われる所は、約50平方メートル(平米)
の広さであり、床面はかなり起伏がみられる。出土資料は、縄文時代
後期・晩期の土器や石器で、獣骨なども発見された。また、北側の端に
は炉跡も認められた。さらに、弥生土器と推定される土器片なども
出土しているといわれる。発掘調査がまだ十分に行われていないので
その全容は明らかでない。見学は事前に紫波町教育委員会に連絡する
とよい。
☆ ☆ ☆
北上山地には鍾乳洞が多い。
旧石器人類の人骨が鍾乳洞の中に保存されているという見込みで
発掘が試みられているが、きっと日本最初の考古学的発見がある
ことでしょう。
火山灰の中では、人骨は残らないそうです。
岩手県の歴史散歩 その199
民俗と文学の花巻・遠野
花巻駅から遠野ヘ岩手軽便(けいべん)鉄道が開通したのは1911
(明治44)年で、JR釜石線の前身である。岩手を代表する詩人
宮沢賢治が12歳の時であり、晩年の代表作「銀河鉄道の夜」は
軽便鉄道のイメージをかき立てたものであろう。
民俗学者柳田国男が遠野を訪れたのは1909(明治42)年で、
「遠野物語」が出版されたのは翌年である。これがわが国民俗学研究
の先駆となった名著である。
また1945(昭和20)年、今は亡き宮沢賢治の実家を頼って
彫刻家高村光太郎が花巻に疎開してきた。農耕自炊の山荘生活のなかから
「知恵子抄その後」などの詩文集を生み、精神世界が大成されたのである。
☆ ☆ ☆
賢治の童話に出てくる、なめとこ山が江戸時代の地図に記載されていた
ことがわかったので、建設省国土地理院発行の地図にも載せられる
ことになった。
本当は手続きに時間がかかるのだが、賢治生誕100年にあわせて
特別快速で処理してくれたようだ。
私小説のように自分の回りの現実について歌をよんだ啄木に対して、
賢治の方は決して現実をそのまま詩や童話に書いたりはしなかった。
一種の理想化を行って、文章にしているから、読む人によって
いかようにも解釈できる、誠に楽しいものとなっている。
岩手県の歴史散歩 その200
200回を記念して
このシリーズとうとう200回になりました。
記念に、手元にあった本から森嘉兵衛先生の文章を紹介します。
ご承知のように、森嘉兵衛先生は岩手大学名誉教授でした。
岩手県の歴史を全体ざっと見渡すと、こうなるのでしょう。
岩手県の風土と人間
ー 未見の運命を担う牛 ー
岩手県は1万5274平方キロメートルの面積をもつわが国最大の県
である。
奥羽山脈と北上山脈とが平行して縦走し、奥中山の分水嶺から南走する
川を北上川といい、北走する川を馬淵(まべち)川という。
盛岡を中心に岩手山・早池峰(はやちね)山・姫神山の三山は麗しい
山神伝説でむすばれて、岩手の名を生んだ。新石器時代以来、縄文土器
文化人のなかにアイヌが雑居し、蝦夷(えみし)し貶(へん)せられ、
俘囚(ふしゅう)とさげすまれ、なお諸国にその比をみない黄金の産地
の故に、開拓の美名にかくれて掠奪をほしいままにされ、殺戮
(さつりく)をこうむった。
その蝦夷の貶称(へんしょう)をぬぐいさり、無実の罪をはらすために、
陸奥産の黄金をふんだんに使って、たぐいない荘厳華麗な平泉文化を
建設したのは、生粋の奥羽人であり、岩手人である藤原清衡(きよひら)
であった。
かれは白河から外ケ浜まで幹線道路をとおし、一里ごとに卒塔婆(そとば)
をたて、その中央に関山中尊寺を造成し、三代にわたって治世100年、
奥羽の地をはじめて王道楽土とした。
その繁栄は源頼朝のねらうところとなり、文治5(1189)年、この地は
鎌倉幕府の支配下にはいり、葛西・小山・千葉・工藤・阿曽沼(あそぬま)
・和賀・稗貫(ひえぬき)・川村・畠山・横溝らの鎌倉御家人によって
支配された。
南北朝期にはいり、国司北畠顕信(あきのぶ)最後の抗争の場となったが、
それだけに南北両朝の妥協は複雑な支配構成をうみだした。
すなわち葛西・和賀・稗貫・斯波(しわ)・阿曽沼・川村・雫石・
閉伊(へい)・久慈・八戸南部・三戸南部の支配に変わったのである。
そのなかから南部が台頭し、北奥の大領主となったのである。
ことに天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原城攻囲に参加して以来、
南部信直(のぶなお)の政略が成功し、ここに近世南部藩が形成された。
これに反して葛西晴信は対豊臣政策を誤り、没落し、旧葛西領は伊達政宗
の所領に帰し、はじめて岩手の地において伊達・南部が境を接することと
なった。
県南の旧葛西領胆沢(いさわ)・江刺・磐井(いわい)・気仙(けせん)
の4郡は伊達領、和賀・稗貫・志和・閉伊・岩手・鹿角(かづの)・
糠部(ぬかのぶ)の7郡が南部領となった。藩境は釜石ー遠野ー鬼柳ー
沢内を結ぶ線で、その藩境塚はいまも残り、県指定史跡になっている。
以来270有余年この構成に変化のなかったことは、県民性の伝統に
大きな影響を与えることとなった。
藩の財政的基礎が水稲生産力にあったことは他藩と同じであるが、
その生産力はきわめて不安定であり、しばしば不作・凶作・大飢饉に
悩まされ、孤立化し僻地化する傾向をもった。
基幹産業の利潤が低いので、それをカバーするため他の商品生産が
行われた。煙草・三階(馬具、おもかけ・はらかけ・しりかけ)・
鉄・紙・箪笥(たんす)・養蚕・木炭などが販売され、米を買いぐい
する風を生じた。
陸前・陸中・陸奥三国にまたがる三陸漁村は早くから江戸市場を目標に
鮭・鯣(するめ)・鮑(あわび)・昆布(こんぶ)などを売り出して
いたが、幕府が中国貿易に干鮑(ほしあわび)・煎海鼠(いりこ)・
鮫鰭(さめひれ)・昆布を輸出するようになると、地元漁業産物を主と
したものであるために、地元入会漁業を商品生産化した。生産物は
幕府が公定価格で買い上げたので、利潤率は低かったが、庶民産業として
発達した。その販路は長崎であったから、各種の情報がもっとも早く
はいり、関東・関西地方の水稲二毛作に魚粕(かす)の需要の高いことを
知り、魚粕・魚油生産がおおいに展開された。これはしだいに自藩の
内陸部にも浸透し、魚粕を使用して生産力を高めるようにもなって
いった。
しかし、もっとも急激な産業変革をおこしたのは北上山系であった。
それは北上山系を中心に南は東山の大籠から北は九戸郡大野鉄山に
わたってつねに数十の鉄山が稼働し、年間百万貫目にちかい鉄を生産
したことであった。鉄精錬の普及に即応して鍬(くわ)・鋤(すき)・
鎌(かま)などの農具や、鍋・釜などの鋳物(いもの)を生産し、
原鉄とともに奥羽地方はもちろん関東・新潟地方にまで広く販売し、
米を買いぐいする先進地的生産を形成するようになった。
新産業の成立は資源の配分・利用を変更し、経済構造をかえることと
なった。山村民の若年労働力は鉄山・漁村に移り、輸送用牛馬の飼育
が普及し、しだいに専門の駄賃付ー牛方・馬方が増えていった。
婦女子の手内職であり自家用であった養蚕は商品化し、木炭生産が
有利な副業として成立した。単純だった山村収入がもっとも多用な
収入に変化し、自給自足の生活が貨幣経済にかわっていった。
しかし、藩の財政政策は生産者に余剰を残すことを原則として認めず、
高率課税を行ったために、新産業は伸びなやんだ。業者は企業危険だけを
負担し、拡大再生産が困難であった。ことに新産業の急速な自然破壊は
早くも公害をもたらした。森林濫伐(らんばつ)・鉱毒・漁業入会権・
山村入会権の侵犯を生じ、これらが紛争の原因となり、業者の損害補償の
負担などで、拡大再生産をさらに困難にした。
このことは旧産業に対する増税と相まって一般庶民の過重な負担となり、
百姓一揆を頻発させることとなった。ことに南部藩では最高の一揆の
発生をみ、嘉永の三閉伊一揆には南部藩否定の意図さえうかがうことが
できるようになった。
藩政時代からの派閥抗争は明治維新まで続き、ついには維新の変革に
対応を誤らせ、朝敵の汚名をこうむることとなった。
領内は「三カ月の丸くなるまで南部領」といわれるほど巨大であるが、
派閥抗争は、古くから藩主にその人をえず、粗大な大藩の処理に対する
政見をことにし、岩手県にとって大きな苦悩となった。
しかし、この苦悩は近代社会において重厚な発想となり、刻苦精励
となって、多彩な人材を生むきずなになったことはみのがせない事実
である。
岩手の人
詩人高村光太郎が「岩手の人」を次のように感得している。
岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁(びりょう)秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余、もともと彫刻の技芸に遊ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯(かく)の如き重厚の造形なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し、
両角の間に天球をいだいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり、
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるって巨木を削り、
この山間にありて作らんかな
ニッポンの脊骨岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造形を。
(森嘉兵衛:岩手県の歴史、県史シリーズ3、山川出版)
☆ ☆ ☆
倉卒・草卒(怱卒)
「文章語」あわただしいさま。あわてるさま。
にわかなさま。
いそがしいさま。
岩手の人は、牛のようにあわてないでゆっくり確実に
物事をこなしていく、ということか。
Slow and steady wins the race.
森嘉兵衛先生の文章の中には、先生の学説みたいなものが
書かれているように思われるが、だいたい紹介しました。
多少、かなづかいなど変えてあります。
歴史は発掘されたり資料文献が見つかる度、書き直される運命に
あります。
このシリーズ、あと50回くらい続けたいですね。
岩手県の歴史散歩 その201
しょうぎょういん
勝行院
JR花巻駅下車20分
花巻駅広場を横断し、右の大通りを直進すると途中、伝統産業の雨傘店・
名物だんご・賢治最中・わんこそば屋などがある。1kmほどでT字路が
あり、藩政時代の職人の町鍛冶町である。右折して東北本線ガード下を
抜け、200mほどで右手に勝行院(浄土宗)がある。
本尊阿弥陀如来坐像(国重文)は鎌倉時代の製作、寄木造、翻波(ほんぱ)
文の彫りも深いのが特徴で、両手は中品上生(ちゅうほんじょうしょう)
の弥陀定印を結んでいる。円満な量感にあふれる若々しさを感じる坐像で、
台坐より光輪までの高さは340cm、輪光には五智如来が安置される。
元禄時代(1688ー1704)に京都東山の益田左近が補修し、
江戸芝増上寺大僧正祐天上人によって開眼した。延宝年間(1673ー
81)、この地で念仏講を開いた僧西念の意志を継ぎ、鍛冶町商人
清水甚兵衛・左兵衛父子や町人たちの尽力でこの像を迎えることが
できたとも伝えている。本堂は1726(享保11)年に建立された
ものである。
勝行院から西へ400m進むとY字路交差点があり、右手の石神
(いしがみ)町へ300mほど行った所に、鼬幣(いたちべい)稲荷神社
がある。藩政時代は二戸の呑香(どんこう)稲荷神社、紫波の志和稲荷
神社とともに藩内三稲荷の1つとして、南の鎮守であった。
☆ ☆ ☆
鎌鼬の夜
この漢字を読めない者はゲームをする資格がない(?)
岩手県の歴史散歩 その202
きよみずでら
清水寺とその周辺
JR花巻駅バス高村山荘行花巻養護学校前下車20分
東北縦貫道花巻南インターチェンジ入口付近の花巻南温泉郷にむかう
県道は、古代集落跡のある田園地帯を通っている。バスは古墳が残る
熊野神社前を通る。熊野神社境内を中心に、50〜60基の古墳が
あったといわれる熊堂古墳群は古墳時代末期(7世紀後半)のもので、
方頭(ほうとう)太刀・蕨手(わらびて)刀・和同銭・玉類・馬具
などが発見されている。
バスを降り、100mほど進むと清水寺(天台宗)の門柱があり、
その参道を1km進むと日本三清水の名刹清水寺に着く。寺は坂上田村麻呂
が蝦夷征討に難儀し、兜に納めておいた十一面観音に祈願して
この地に堂宇を建立したのが創建と伝える。本堂には十一面観音像を安置し、
また関流千葉六郎胤規(たねのり)銘の大算額が奉納され、寺宝となって
いる。東国三十三観音の第1番札所である。
清水寺から東南4kmの処に延妙寺(えんみょうじ 浄土真宗)があり、
寛元年間(1243ー47)の胎内銘をもつ阿弥陀如来像(県文化)を
安置する。さらに南西に1km離れて東光寺(とうこうじ 曹洞宗)があり、
1866(慶応3)年奉納の関流算額や伊勢流神楽の額が掲げられている。
一方、県道のバス停二ツ堰の北1kmの観音山には、東国三十三観音の
第2番札所円万寺(えんまんじ)観音堂がある。多田等観師がチベット法王
から下賜された千手千眼十一面観音像を安置する。境内の正慶(しょうけい)
元(1322)年の碑は北朝側の年代を示し、この地方最古の碑である。
また観音堂に隣接する八坂神社は、円万寺神楽(県民俗)を伝承している。
☆ ☆ ☆
今日は忙しいので、コメントなし。
岩手県の歴史散歩 その203
えそ
江曽の一里塚
JR花巻空港駅バス盛岡・日詰・石鳥谷・大迫線 塚の根下車1分
塚の根バス停で下車し、国道を横断すると江曽の一里塚(県史跡)がある。
1658(明暦4)年頃に築かれたもので、現在は1基のみが残る。
東西9.1m・南北10.6m・高さ2.94mで、底面はほぼ方形に近く、
原形をよくとどめている。このあたりは、1876(明治9)年と
1881年の2度にわたって天皇巡幸の小休所となり、塚の隣に記念碑が
立っている。
☆ ☆ ☆
今日も忙しいので、コメントなし。
昨日見学した、北上市の「鬼の館」については
後日、掲載する予定。
岩手県の歴史散歩 その204
こうりんじ
光林寺
JR石鳥谷駅バス花巻温泉線 八日市下車10分
バスを降りて十字路を左折し、Y字路を右に進み、ゆるやかな坂を下って
いくと左手の丘陵に、城郭風の塀に囲まれた光林寺(時宗)が見える。
光林寺を開いた寺林館主河野通重の嫡子通次は、時宗開祖一遍上人の
従兄弟である。通次の出家は1279(弘安2)年夏、京都在番の折に
一遍上人に諸宗の僧侶や在家の人々が貴賤男女の別なく、布教をうける
光景を眼のあたりに仕手、発心して弟子となったものである。
寺伝によると、館の堀に紅白の蓮花が殖生し、月光に映えたことから、
一堂を建てた時に蓮華光院と名づけていたが、その落慶法要の前夜西の林
から光明赫々(かくかく)として天地を輝かした隕石の流音があったので、
一遍は瑞相であるとし、寺号を光林寺としたと伝える。隕石は「表石」
と命名され、寺宝として4月・11月の各24日に公開されている。
光林寺は踊躍(ようやく)念仏・躍(おどり)念仏の寺とされ、本尊に
神勅念仏権現を祀り、修行道場の性格をもち、別名を寺林道場と呼ばれた。
☆ ☆ ☆
本文に関係ないが、オリンピック柔道の田村亮子はすごい。
ほとんど負けなかったのに、優勝決定戦だけ負けてしまった。
リーグ戦みたいに数カ月試合を続けたら、彼女の成績がトップになるだろうに。
日本の柔道の3個の金メダルは、プレシャーが田村にだけかかって
いったため、他の選手がのびのびと試合できたからではないか
と思う。
日本柔道はしたがって田村亮子に大変たいへん感謝しなくては
いけない。
岩手県の歴史散歩 その205
てんぽうぎみん
天保義民の碑
JR石鳥谷駅バス大迫線レナウン工場下車3分
バスを降り、逆方向に戻ると、T字路となり、左折して100mほど
進んだ右側木立の中に天保義民の碑がある。
1833(天保4)年の天候不順は、引き続き5年間の凶作となり、
村民は貧窮のどん底であった。このため大迫通の各村の農民たちは、
宮田織人知所の肝入(きもいり)である切牛の寛十郎と小簗(こやな)の
喜太郎の指導のもとに、穀改(こくあらため)反対・御用金後免などを
求めて1836(天保7)年に一揆を起こした。
亀ケ森村穀改(こくかい)一揆と呼ばれ、当地方最大規模のものであったが、
一揆の目的は達せられなかった。
翌年首謀者の寛十郎・喜太郎の2人は、大迫村と亀ケ森村の境、木戸ケ沢
で処刑された。後に、彼らの壮挙をたたえてここに供養碑が建てられた。
☆ ☆ ☆
「後に 供養碑が建てられた。」
このように受動態は、主語を隠すのに使われる。
碑を建てた者に影響が及ぼさないようにとの配慮か。
岩手県の歴史散歩 その206
おおはさま
大迫城跡
JR石鳥谷駅バス大迫線大迫営業所下車、乗換え内川目線古館下車15分
バスを降りて、右手坂道を上りつめた高台に大迫城跡がある。大迫城は
桂林寺館(けいりんじたて)・右近館(うこんたて)とも呼ばれ、桂林寺山
の中腹に築かれた。背後は連山で、前方には稗貫川が流れる。遺構は
堀だけである。
大迫城は稗貫氏の家臣大迫右近が、1565(永禄8)年に居城とした
もので、1592(天正20)年、城は整理され、南部信直の代官
九日町(ここのかまち)十郎兵衛の支配下におかれた。現在、雑木・
松林の中に小さな稲荷社があり、東側に降りると大迫氏の菩提寺桂林寺
(けいりんじ 曹洞宗)がある。
このほか、大迫氏滅亡後、新しく領主となった盛岡藩家臣田中藤四郎
(とうしろう)の居城である藤四郎館跡(現県立大迫高校)があり、
その隣あわせの丘陵にワイン工場が設置されている。
☆ ☆ ☆
大迫ワイン工場は何度も見学した。
だんだんワインの質量ともよくなるようである。
大迫町も花巻市に合併された。
岩手県の歴史散歩 その207
たていし
立石遺跡
JR石鳥谷駅バス大迫線大迫営業所下車、乗換え内川目線立石下車1分
バスを降りると、右手に内川目小学校があり、その敷地内に立石遺跡がある。
この周辺には縄文遺跡が多く、さらばば遺跡(中期)、稲荷神社遺跡(後期)
そして大規模な向村(むいむら)遺跡(中期)などがある。
立石遺跡は縄文時代後期祭祀遺跡である。祭祀遺物として、仮面につけた
と思われる土製素焼の耳形、鼻形や土偶218点、イノシシ形土製品を
はじめ、全国でも最大級の蓋付壷と呼ばれる特殊な土器もある。遺構には
配石遺構群と10基あまりの炉跡が確認されている。
なお、遺物は大迫町立コミュニティ公園内の資料展示室(大迫町教育委員会
内)で公開されている。
☆ ☆ ☆
記事に関係ないが
フーテンの寅さん
こと渥美清が亡くなった。
ご冥福を祈ります。
岩手県の歴史散歩 その208
とうぜんじ
東禅寺跡
JR遠野駅バス大出・桑原行桑原下車60分
東禅寺跡は、バスを桑原で下車し、約1時間を要する。バス停から進行
方向に約400mで左に折れ、東禅寺橋を渡り、常福院(じょうふくいん)
という東禅寺の末寺の前を通り、綾織(あやおり)に抜ける山道へと進む。
そこから20分ほど歩くと、右手の杉林の中に、1437(永享9)年
阿曽沼氏とともに大槌氏討伐を企図し、大槌城を攻めて戦死した三戸南部氏
13代南部守行(もりゆき)の墓と殉死の侍12名の墓石が参道を挟んで
左右に配置されているが銘文は読み取れない。
さらに進むと、道の左側に緑色のトタン屋根の無尽堂(むじんどう)が
見えてくる。東禅寺(臨済宗)は、無尽和尚の開基になる寺院であったと
古くから伝えられ、その時期については諸説あるが、建武年間(1334ー
36)頃と推定される。15世紀中頃の著作とされる「和漢禅刹次第」
(わかんぜんさつしだい)によれば、陸奥・出羽両国内の禅宗寺院の
筆頭に記されており、したがって、この頃からすでに名刹であったことが
わかる。しかし、慶長年間(1596ー1615)頃に兵火のために全焼
し、廃寺となったらしい。現在盛岡北山にある東禅寺は、遠野で廃寺と
なったものを1635(寛永12)年頃までに中興したものである。
1958ー59(昭和33ー34)年に、岩手大学板橋源教授によって、
3回にわたり発掘調査が行われた。その結果、総門・山門・仏殿・法堂
と東西に並び、山門の両脇に東司(とうす)と西浄(せいじょう)、
仏殿の西側に僧堂と庫裏(くり)、法堂の左右に鼓楼、さらに南側に
塔頭(たっちゅう)の常福院(じょうふくいん)があり、西に無尽和尚の
墓、北に早池峰山の霊水を移したという開慶水(かいけいすい)、総門前と
仏殿横に池があったことなど、かなり大規模な伽藍であったことがわかった。
桑原バス停からさらに7kmの終点大出で下車し、うっそうと茂る
老杉・ヒノキを左に見て進むと、仁王像が左右に安置してある神門が
目に入る。この奥に嘉祥年間(848ー851)創建と伝えられる早池峰山
を祀る早池峰神社がある。
☆ ☆ ☆
戦死した三戸南部氏13代南部守行(もりゆき)については
このシリーズ第125回の大槌城跡と古廟坂に書きました。
岩手大学教育学部の板橋源(いたばしげん)教授には科学談話会で
徳丹城や志波城(太田方八丁)の講演をしていただいた。
板橋先生は退官後に岩手県立博物館の館長になられたので
私は、博物館の展示品の中の金色堂の模型を撮影することをお願いした。
というのは、私が海外で岩手の紹介をするとき
日本、つまりジャパンは、マルコポーロが黄金の家のある国と
報告したことから国名になったわけで
その黄金の家とは中尊寺の金色堂のことであると
スライドを見せながら講演をしたいと思ったからだ。
黄金の家は金色堂であって、金閣寺ではありません。
1124 金色堂
1299 東方見聞録
1400 金閣寺
さて板橋先生は快く許可してくださって
大矢邦宣さん(現在学芸課長)も特別明るいライトを持ってきて
くださり、閉館後に博物館2階で無事撮影が終わった。
博物館での撮影はヨーロッパはともかく、日本ではだいたい禁止されている。
国立科学博物館で知らないで写真を撮っていたら、警備員に注意された
ことがある。そこであの恐竜博士の小畠郁生部長に申し上げたら、
前もって関係者に頼んでからなら許可されると教えてくれた。
(現在は、国立科学博物館も東京博物館も撮影可能となりました)
金色堂は実は、オリジナルももちろん撮影禁止だが、県立博物館の
複製品の撮影にも中尊寺の許可がいるそうで、中尊寺には大矢さんから
話しておくからと言われた。
こうして撮影した金色堂のスライドは、ドイツのカールスルーエ大学で
講演したとき、雫石の世界アルペン競技会とともに紹介してきました。
岩手県の歴史散歩 その209
こうのみちのぶ
河野通信の墳墓
JR北上駅バス江刺行金比羅前下車20分
バス停の近くに「聖塚(ひじりづか)」の指導標識があるので、これに
従って東の方に2kmほど歩き、ブドウ畑の小道を200mほど行くと、
2本の松が枝を広げた墳丘が見えてくる。これが鎌倉時代の武将河野通信の
墳墓(県史跡)である。通称「聖塚」と呼ばれ、一辺が11.5m四方で、
空堀をめぐらした上円下方の塚である。
河野通信は伊予国(愛媛県)の豪族で、河野水軍を率いて壇の浦の合戦
に活躍し、源頼朝の平泉遠征にも従軍した武将であった。しかし、
通信は承久の乱(1221年)のとき、後鳥羽上皇方についたため、戦いに
敗れて捕われ、鎌倉幕府によって奥州の江刺郡に流された。それから
2年後の1223(貞応2)年、通信はこの地で68歳の生涯を閉じた。
通信は時宗の開祖一遍の祖父であり、元寇のときの弘安の役(1281年)
で勇名を馳せた河野通有の曾祖父である。1280(弘安3)年孫の一遍が
はるばるこの地を訪ね、祖父の墓に詣でた様子が、「一遍上人絵伝」
(国宝、京都歓喜光寺蔵)に描かれている。この絵巻物は写実的な描写で
知られているが、絵伝第5巻第3段の「祖父通信墳墓」の場面は、現在の
「聖塚」付近の景色にそのまま残っている。
☆ ☆ ☆
承久元年(1219年)に実朝が殺され源氏は滅亡した。
これをチャンスとみて
北条政子を中心とする北条氏の鎌倉幕府を倒そうとして、公家方が
起こした承久の乱だったが、時代はもう武士の世の中になっていた。
後鳥羽法王は隠岐(おき)、順徳上皇は佐渡に島流しとなった。
河野通信は奥州江刺郡に流された。
岩手県の歴史散歩 その210
岩崎城跡
JR藤根(ふじね)駅下車30分
藤根駅から国道107号線に出て右折し、商店街を進んだ所の信号を
左折して夏油(げとう)温泉方面200mほどで和賀町立東中学校
(北上市と合併したので名前は変わった?)がある。その正門を挟み、
芝草のなかに墳丘13基が並ぶ長沼古墳群(国史跡)がある。
江釣子古墳群の支群で、奈良時代前期(8世紀)のものである。
出土品は岩崎城跡の郷土資料室に展示されている。
中でも3号墳からゴールドサンドイッチグラス(ガラス製金張丸玉)が
発見され、奈良県新沢千塚、鴨山の両古墳に次いで国内3番目の出土と
いわれ、古代オリエント様式を伝える装飾品である。
ここから南進し、和賀中央橋を渡ると、左手2kmの所に岩崎城跡があり、
丘陵上に城郭建築の公民館がそびえ立つ。丘陵東南部は夏油川に接して
急崖をなし、周囲からは城跡の土塁・堀割・穴倉をはじめ竪穴住居跡や
無数の柱穴跡群が発見されている。
城の起源は中世の山城で、1144(天養元)年多田行義が和賀郡を拝領
して以来の居城と考えられるなど、諸説がある。1590(天正18)年、
豊臣秀吉の小田原参陣を無視したかどによって、和賀義忠が領地を没収
されたが、遺児忠親(ただちか)は仙台伊達政宗の支援によって、
1600(慶長5)年盛岡領となっていた旧領復活をはかった(岩崎一揆)。
忠親は花巻城を攻めたが、城代の北松斎(きたしょうさい)らの防戦に
あって敗れ、飛勢城(とばせじょう 北上市)、岩崎城と退いて仙台に
逃れ、落城した。忠親主従の墓は仙台市白萩町の国分尼寺跡にある。
岩崎城には、その後城代柏山伊勢守を置いたが、まもなく廃城となった。
☆ ☆ ☆
伊達政宗は南部領に侵略せんと策をめぐらした。
花巻は盛岡と結びつきの強い南部領
これに対して、北上は半分南部で半分伊達ということになって
江戸時代が続く。
岩手県の歴史散歩 その211
北上市立 鬼の館
JR北上駅バス煤孫経由横川目行、瀬美温泉行岩崎橋下車10分
TEL・FAX 0197-73-8488
開館時間 9:00ー17:00(入館は16:30まで)
休館日 月曜日(国民の祝日の場合は開館)
国民の祝日の翌日(土・日・月曜日の場合は開館)
上記開館の振替日
12月28日ー1月4日
館内整理日(11月27日ー30日)
入館料 小中学生150円 高校生200円 一般300円
はじめに(パンフレットから)
「北上市立鬼の館」は、「鬼」をめぐる様々なことがらを集め、
調べ、学びあう場として開設されたテーマ博物館です。
古来、「鬼」は、日本の至る所に出没し、人を越えた力を持ち、
私たちの蔭の部分に暗躍してきました。
また、「鬼」は、蝦夷(えみし)とともに東北に住む人々に与えられた
蔑称でした。
北上市民憲章に「あの高嶺 鬼すむ誇り」とうたった私たちにとって
「鬼」は見過ごすことのできない課題です。
「北上市立鬼の館」は、怖い鬼から愛すべき鬼まで様々な鬼の姿を
紹介しながら、鬼の原像に迫ってゆきたいと考えています。
鬼とは人間の力を越えた存在で、鬼神という言葉にもあるように
時には人間に災いをなすが、人間に力を与えてくれることもあるという
ものだろうか。
百科事典で調べてみました。
鬼
鬼は<和名抄>によると、<隠(おぬ)>のなまりだという。姿が
かくれてみえないからであろう。日本の鬼の概念は時代によって
うつりかわりがみられる。古くはおそろしい形をして人を害し、
人を食う怪物の意味に用いられた。<出雲国風土記>には、
目一つの鬼があらわれて、田で働く男をつかんで食べた話がある。
奈良時代(8世紀)に仏教の影響を受けて餓鬼(がき)があらわれ、
平安時代(9〜12世紀)には地獄には赤鬼、青鬼、牛鬼、馬鬼や、
人界には<こぶ>を質にとった鬼、羅生門で渡辺綱に腕を切られた鬼
などが、<今昔物語>や<宇治拾遺物語>などに出てくる。これらの
鬼の観念が仏教の羅刹(らせつ)、夜叉(やしゃ)と混同されたりした。
また、丑寅(うしとら)の方を鬼門とし、鬼があつまるとする陰陽道
の影響を受けた。
いまも残る山岳信仰に関連して、鬼が里にあらわれて乱暴をした後
征服されるという筋を展開する神事芸能(神楽、舞踏)がある。
これは鬼が民間信仰の上で山の荒ぶる神を代表するものであったこと
の証拠である。
(平凡社世界大百科事典)
鬼の定義や意味は確定してはいないように思われる。
だから研究の対象になり、発展途上的にみんなで民俗学としても
考えようということだろうか。
鬼門という言葉があるが、東北の方向をさす言葉である。
当時の都の朝廷や貴族からすれば、東北地方には言うことをきかない
人々が住んでいて、だから鬼門(都から東北方面)
そこで東北みちのくには鬼が住んでいると揶揄したのであろうか。
みちのくの子孫は、今も鬼と呼ばれた先祖を誇りに思い
鬼にこだわり、鬼剣舞(おにけんばい)を見て、鬼剣舞という名の酒
を飲むのであろうか。
☆ ☆ ☆
世界の鬼面のコレクションはたいしたもの。
インドネシア・バリ島の祝祭劇「チャロナラン」のバロンとランダ
東インド・ブルリア地方の春祭り仮面劇チョウ
タイの宮廷舞踊劇コーン
インドネシアの仮面劇ワヤン・トペン
スリランカの悪魔払い儀式「サンニーヤクマ」
ネパールの秋祭り「インドラジャド」ラのラケー
チベット祈とう師
展示されていた今昔百鬼夜行之図は愛嬌。
なぜかナウシカ(風の谷のナウシカ)やネズミ男が行列に加わっていた。
桃太郎侍も展示されてもいいかもしれない。 (^^)
つぎへ
はじめにもどる