岩手県の歴史散歩
岩手県の歴史散歩 その164
てんだいじ
天台寺
JR二戸駅バス浄法寺(じょうぼうじ)行天台寺下車15分
安比(あっぴ)川流域の浄法寺町は、平泉より古くから仏教文化が
栄えていた地であり、その中心が八葉山<はちようざん>天台寺(天台宗)
である。
バスを天台寺で下車、信号を左折し200mほどで高速道路のガード
に出る。ここからは道は上りとなり、しばし行くと左手にカツラの古木と、
その根元に清水が湧き出ているのが見えてくる。桂清水である。
ここから左手の参道を進み、左右に今は廃絶した堂舎の位置を示す立札を
見ながら行くと石段の下に出る。石段を上り切った所が天台寺の境内である。
参道筋や石段、境内周辺は杉の伐採跡が痛々しく、かつては多くの堂舎の
建ち並んだ境内に、現在は本堂(観音堂)・薬師堂・毘沙門堂と仁王門
のみが建っている。
縁起では、奈良時代聖武天皇の命を受けて行基が開山したと伝えられる。
伝説はともかく、1970(昭和45)年以来進められている発掘調査に
よると、本堂東部から検出された礎石建物跡は10世紀と推定され、
平安中期における天台寺の存在は確実なものとなった。
☆ ☆ ☆
天台寺も昔は栄えたが、すっかりさびれ
困った本山の中尊寺が考えたアイデアは、あの瀬戸内寂聴さんを
かつぎだしたこと。
寂聴さんは普段は京都に住んでいるのに、毎月1度天台寺に講話に
出かけてくる。
さあ、それから人が集まるようになった。押し寄せる参詣者のために、
たちまち道路は整備され、橋は架けかえられ、お寺も少しずつ立派になってきた。
私も横浜の会社からわざわざ、寂聴さんの話を聞きにきたお客さんを
案内して一度講話を聞いたことがある。
もう年もとっているので、いつまで来られるかわからないが
これも仏につかえる仕事と、彼女も生きがいを感じているようだった。
女一人の力で、荒れ果てた寺もよくなる、町も栄えると
目に見える形で効果が現われてくるから、寂聴さんもはりきって来るので
あろう。
講話は無料
しかしせっかく来た善男善女(当然女が多い)は、寂聴さんの本を
買っていったり、地元のお土産を買って行く。
一種の観光効果である。
信州信濃の善光寺も、こんなものであったのだろう。
話術は巧み、明確にわかりやすく話をする。
短い文章で、わかりやすい言葉を使って、聴衆の反応をみながら
わからなかったら言い換えたり、別な表現で繰り返して
大事なポイントを説明する。
大学の講義にも参考になりました。
岩手県の歴史散歩 その165
じょうぼうじまち
浄法寺町歴史民俗資料館
JR二戸駅バス荒屋新町(あらやしんまち)・浄法寺行天台寺下車7分
天台寺のふもとにあるので、天台寺行と同じバスで大丈夫。
天台寺への参道入口、道を挟み桂清水のむかい側に歴史民俗資料館が
建っている。展示資料として、大型壷や注口土器など縄文時代の出土品、
御札を刷った版木や健脚を祈願し奉納した鉄草鞋(わらじ)など
天台寺信仰にかかわる資料、凶作時に蕨(わらび)の根を潰し澱粉を
とった根餅舟や糧(かて)切など生活を物語る諸道具、吹子羽口
(ふいごはぐち)や坩堝(るつぼ)など鋳銭道具などがある。
しかし、何といってもこの資料館の中心は、国指定重要有形民俗文化財
の漆掻(うるしがき)と浄法寺塗りの用具及び製品である。
浄法寺町とその隣の安代(あしろ)町は古くから漆器の産地で、多くの
木地師・塗師が住み、朱と黒を基調とした素朴な椀や豪華な箔椀がつくられて
いた。現在も日本を代表する良質の生漆の産地であり、一時衰退していた
漆器生産も復活している。そのような浄法寺漆器にかかわる漆掻き用具、
採取した漆入れ用具、手引きろくろ、漆塗道具、吸物椀、片口、箔椀、権現様
などの資料が数多く展示されている。
☆ ☆ ☆
漆器 japan
陶磁器 china
岩手県の歴史散歩 その166
かづの
鹿角街道
JR荒屋新町(あらやしんまち)駅下車5分
荒屋一里塚まで
荒屋新町駅からの道を50mほど歩むと国道282号線である。
国道を右折、100mほどで左に入り登り坂を40mほど行くと
旧道に出る。秋葉神社へむかう山裾の踏分け道の木立の中に、2基の
一里塚がある。鹿角街道(津軽街道)の荒屋一里塚である。
鹿角街道は藩政時代盛岡と鹿角郡(現秋田県)を結び、さらに津軽まで
のびていた街道である。この北上川・安比(あっぴ)川流域と米代
(よねしろ)川流域の日本海側を結ぶルートの歴史は古いものである。
安代町には多数の縄文時代の遺跡があるが、赤坂田(あかさかだ)II遺跡
の竪穴式住居跡から天然アスファルトが、曲田(まがた)I遺跡からは
翡翠(ひすい)と思われる玉が出土した。ともに原産地は日本海のごく
限られた地域である。日本海岸から米代川をさかのぼり安比川流域への
交易路が、早くから生まれていたのである。878(元慶2)年、
出羽北部で大規模な蝦夷の反乱が起き、秋田城が焼き打ちされた
(元慶がんぎょうの乱)。
この時陸奥国の官兵が救援にむかうが、「三代実録」は「陸奥路を取りて
上津野かづのに入る」と記している。古代の陸奥路は後世の鹿角街道の
ルートである。江戸時代、鹿角には森岡藩の最重要鉱山、尾去沢銅山が
あった。盛岡と銅山を結ぶ街道として、日本海が荒れる晩秋から冬の間
北上川さらに東廻り航路で大坂に銅を送る輸送路として、鹿角街道は
重要な道であった。
☆ ☆ ☆
安比川がやがて米代川に変わり
鹿角街道が秋田県に入った所に、湯瀬温泉がある。
ここは秋田県の中でも秋田市から最も遠い所で、この温泉の某ホテルの
社長さんも盛岡の高校出身とか。
大館市の市外の曲田(上に書いたものとは違う)にある
木製ロシア教会(北鹿ハリストス正教会)を見に行ったことがある。
事前に見学許可が必要で、その許可証は盛岡の北山(正式には高松一丁目)
のロシア教会からもらってくることを知ってビックリ。
そこら一帯の住民の皆様は畠山の姓ばかり。
確かに盛岡に、ロシア正教の教会がありますね。
あの教会を見ていると、函館ハリストス教会やお茶の水駅前のニコライ堂
を連想します。
ついでに中央線お茶の水駅にくっついて、アーチ橋が建てられてあるが
あの橋の名前は聖橋(ひじりばし)。
近くにロシア正教のニコライ堂があるし、向かい側には江戸時代の学問所
があって学問の神様孔子を祭っていたから、どちらの聖所にも
ちなんで名前を付けたという。
岩手県の歴史散歩 その167
なんぶえごよみ
南部絵暦
絵暦には素朴な田山暦と、藩のお抱え彫師舞田(まいた)屋による盛岡暦
がある。盛岡暦は現在も印刷・販売されている。
二戸郡安代(あしろ)町田山は、米代(よねしろ)川最上流部の寒冷地の
村である。少しでも冷害・凶作から免れるためには適切な農時を知る必要
があった。そのため村の書き役であった善八が天明(1781ー89)の
初期の頃、文字の読めない村人でもわかる絵暦を考案したといわれる。
初めは手書きであったが、需要の増加により、文化(1804ー18)の
頃から木活印の手押しでつくり、正月の市日に福岡・花輪などで売った。
一方、盛岡暦は文化年間初期の頃からつくられた。横長折暦の田山暦に
対し、縦長の1枚摺で当初から販売を目的とし、広く領内一円に売られた。
幕末の旅行家松浦武四郎(まつうらたけしろう)は「鹿角日記」で
2つの暦を次のように紹介している。「南部暦と申盛岡より盲暦を出す。
其は画も甚工(はなはだたくみ)にしておもしろけれども、却(かえって)
古を捨しこと惜むに余有。実に此田山にて鬻(ひさぐ)ものは古雅を存して
面白し」
☆ ☆ ☆
絵暦のことを一般には、めくら暦と言われています。差別用語といわれ
そうですが。目の見えない人にはもちろん読めません。字の読めない
(あきめくら)の人でもわかる暦という意味です。
田山暦と盛岡暦は岩手県立博物館に展示されているので、興味のある方は
ぜひどうぞご覧になってください。
盛岡で販売されている暦は、長沢屋の黄精飴というお菓子の箱の中に
セットにされて売られている。はっきりしない味で、現代的ではない
と思うかもしれないが、伝統を守るここにも盛岡のよさが生きている
と思われます。金沢や京都のお菓子にも十分ひけをとらないと思うの
ですが。盛岡駅でも買えますよ。
松浦武四郎は蝦夷地まで探検し、旭川近くの神居古潭(カムイコタン)で
石狩川上流に幻の魚イトウを見たとか。
岩手県の歴史散歩 その168
岩手の昔ばなしから
ダンブリ長者
むかし、二戸郡田山村に、左衛門太郎という貧しい百姓がいた。
ある夏のころ、夫婦で畑仕事をして、ひとやすみしているうちに、
左衛門太郎はぐっすり眠ってしまった。
すると、一ぴきのダンブリ(とんぼ)がとんできて、眠っている
太郎の顔にとまった。そして、太郎の口に尾を差し入れると、とび立って、
また岩の方にもどって行った。
しばらくすると、またとんできて、同じことをくりかえした。
やがて目をさました太郎は、しきりと舌なめずりをしながら、首を
かしげて、「畑のむこうの山のかげに、とっても好い酒があって、
そいつを飲んだ夢を見た。とてもうまかった」といった。さきほどから
ダンブリが太郎の顔とむこうの岩との間を何度もいききしていたのを
見ていた妻は、「あのダンブリのあとをつけてみましょう」と夫に言った。
二人が岩の間に入って行くと、ほのかに酒の香のただよう小さな泉が
あった。夫婦はさっそく家に帰って、かめや桶などを持ってきて、
この酒をくんだ。それはとても良い酒だった。
夫婦はその泉のあたりを自分のものにして、酒屋をはじめた。
評判を聞きつけてやがて奥州一帯から酒を買いにくるようになり、
とうとう、奥州でも指折りの大金持になった。食べ物も豊かになり、
召使にいたるまで米を食べさせた。朝夕にとぐ米のとぎ水が前の川に
流れて、川を白く濁らせたので、この川をヨネシロ川(米白川
今の米代川)というようになった。
こうして、なに不自由ない身分になった左衛門太郎夫婦にとって、ただひと
つ不足なのは、子供がないことだった。浄法寺の桂清水観音が子供を授ける
ご利益(りやく)があるということを聞いて、夫婦はさっそく
観音様にお参りに出かけた。
それから十月のち、かわいい女の子が生まれた。桂清水観音さまからの
授かりものというので、「桂」と名づけられた。桂はだいじに育てられ、
美しい娘になった。
左衛門太郎は、財産も子供もでき、何の不足もないはずであったが、
また欲が出てきた。(人間というものはしょうがないもの)
これだけ財産があるのに、都の天子さまから、まだ「長者」の墨付(すみつけ)を
もらっていなかったから。
そこで数々の宝物を持たせて、都に使を送った。都から来た天子さまのお使は、
左衛門太郎に、お前の家の一番の宝は何か、とたずねた。「一番の宝物は、子宝です」
とこたえると、お使の者は、その宝を渡せば長者の墨付をやろうといった。
欲に目のくらんだ太郎は「田山長者」という墨付をもらうために、とうとう
桂を渡してしまった。
娘を失った長者夫婦は、やがて日毎に淋しくなり、とうとう悲しさのあまり
二人とも重い病気になってしまった。そのしらせをうけた桂が、都からはるばる
田山まで帰ってきたときには、夫婦とも相次いで亡くなってしまっていた。
(日本の民話1 津軽・岩手篇、未来社)
☆ ☆ ☆
この話は岩手の話なのに、秋田の湯瀬温泉のホテルでも紹介されていた。
もっとも、米代川の名にまつわる話なので、秋田に関係のない話でもない。
桂清水観音は、このシリーズ164回の天台寺のことです。
ダンブリ ダンブ アキヅ アケヅ
とは岩手県の残っているトンボの古語だとか。
日本のことを古くは「アキツシマ」とよんだのは、トンボが沢山いたからで
あろうという人もいる。
長者になりたくて最愛の娘を失った話は、人間は何かを犠牲にしないと
上に昇れないという宿命を述べたものか。
岩手県の歴史散歩 その169
くのへ
九戸城跡
JR二戸駅バス金田一方面行岩屋橋下車5分
二戸駅を出てしばらくするとバスは福岡の古い町並みを走る。町に沿って
馬淵(まべち)川が南北に流れている。これに市街中央を真西に横切り
合流するのが白鳥(しらとり)川である。
九戸城(国史跡)は馬淵・白鳥・猫淵三川の侵食をうけた峻嶮な断崖と
南を阻む鳥越、末の松山の山群に守られた天然の要害である。
九戸城が城郭としての役割を果たしたのは17世紀初期までであるが、
県史のみならず日本史上でも大きな意義を有している。この城を築いた
九戸氏は南部氏初代光行(みつゆき)の子行連(ゆきつら)の子孫とも、
1333(元弘3)年以後に九戸郡を領した結城親朝(ゆうきちかとも)
の家臣小笠原氏の子孫とも伝えられている。
九戸氏は長興寺(ちょうこうじ 九戸村)を本拠としたが、15世紀末の
明応年間に九戸城を築城、この地方での大勢力に成長し、九戸政実
(まさざね)の代には八戸南部氏や三戸南部氏に対抗するほどの力を
確立していた。それは九戸城が本丸・二の丸・三の丸・松の丸をもつ
雄大なもので、宗家三戸南部の拠点をはるかにしのぐ威容からも知られる。
九戸政実は1536(天文5)年に生まれ、1591(天正19)年に
南部信直(のぶなお)、豊臣秀次らと戦って滅亡した戦国武将である。
時の南部家当主晴政(はるまさ)は、男子がなかったため長女の婿である
田子(たっこ)城(青森県田子町)の信直を世子としていた。
だが晴政に晴継が生まれると両者の仲は険悪となり、信直は相続人を
辞退した。しかし、晴政・晴継があいついて死亡(病死とも暗殺とも)する
と家督争いが起き、信直と政実(弟実親が晴政の女婿、弟を推す)の対立
が深まった。重臣会議の決定は八戸南部政栄(まさひで)と重臣北信愛
(のぶちか)の推す信直であった。1582(天正10)年のことである。
この混乱の中で大浦為信(ためのぶ)が津軽を奪って独立した。
これに対する信直の津軽出陣命令を政実が拒否し、両者の関係は一段と
険悪になった。豊臣秀吉から小田原参陣命令が届いたのは、ちょうどこの
時であった。北に津軽為信、南に九戸政実の強敵を抱え危機的状況にあった
信直は、八戸南部政栄の協力を頼みに小田原へ参陣、秀吉から本領を安堵
された。これは窮地に立たされた信直の起死回生の行動であった。
一方政実は、参陣を拒否し滅亡した葛西・大崎氏の浪人を集め、和賀・
稗貫氏の残党の一揆に呼応し、5000余の兵で挙兵した(九戸政実の乱)。
政実に加勢する武将は九戸郡、青森県の櫛引(くしびき)、七戸一円、
秋田県鹿角郡一円、さらに岩手郡にも及び、正に南部領を二分する戦い
となった。
信直は苦戦を強いられ、秀吉に救援を求めた。秀吉は自らの
幕下に入った信直への敵対は、秀吉自身に対する反乱であるとして甥の
豊臣秀次を総大将、副大将に徳川家康を任じ、実戦部隊として蒲生氏郷
(がもううじさと)・浅野長政(あさのながまさ)・堀尾吉晴
(ほりおよしはる)・井伊直政(いいなおまさ)を派遣、
出羽・津軽の領主たちにも出陣を命じた。その動員数は6万5000人
とも10万人ともいわれる。
包囲軍は1591(天正19)年8月25日から数度の総攻撃をかけたが、
九戸城の天険に阻まれた。大軍ゆえに食料の輸送も困難になり、力攻めを
諦め謀略を用いた。政実の菩提寺の僧で姻戚にも連なる長興寺の僧薩天
(さつてん)を使者に、降伏を呼びかけた。政実は嗣子亀千代を薩天に頼み
配下の助命を条件に、首脳7人を引き連れて投降、こうして九戸城は落城
した。しかし、戦国の非情は、政実らが宮城県三迫(さんのはざま)まで
護送され斬首されただけでなく、一族すべて二の丸に押し込められ、門扉
をとざされ、火をかけられて皆殺しとなったことである。
呑香(どんこう)稲荷神社裏手の高台を松の丸公園という。ここは九戸の
乱後浅野長政が修理し信直に渡され、1635(寛永12)年南部氏が
盛岡城に移るまで居城としていた所である。本丸はここより北にあり、
国道に本丸入口の標柱がある。本丸は切り立った崖に囲まれ、当時の
石垣もわずかに残っている。本丸の高台に土井晩翠の「荒城の月」の
歌碑と、郷土の偉人田中館愛橘(たなかだてあいきつ)博士による
ローマ字の九戸戦顕彰碑がある。1939(昭和14)年、当地を訪ねた
晩翠は、深い感慨を覚え筆を執ったという。
☆ ☆ ☆
盛岡をひらいた南部藩の側に立てば、お家騒動を利用して津軽を奪って
独立した大浦為信を成敗するため、津軽出陣を政実に命じたのに、
言うことをきかず、秀吉からは小田原参陣命令が届いて、
泣きたい気持であったろう。南部藩最大のピンチ
津軽が反乱を起こしたという南部側の解釈に対して、津軽は元々この地に
土着していたのに南部一族が甲斐の国から侵略してきたのだから、
すきを見て自分たちの領地をとりかえしたのだという言い分がある。
これは司馬遼太郎の街道を行くシリーズに書いてあった。
今でも青森県に残っているといわれる南部と津軽の対立は、この時から
始まった(?)。
北の津軽、南の九戸政実の強敵を気にしながらも信直は、八戸南部の協力を
得て小田原参陣をしたことが、結果的には秀吉から本領を安堵され、南部藩
安泰につながった。もし津軽と同様に、九戸政実も小田原参陣すれば
秀吉からは認知され、とりつぶしにあうようなこともなかったかもしれないが、
九戸政実の判断ミスだったのであろうか。
重臣北信愛は、その活躍を認められ、一族は花巻城主とされたのは
花巻のところで説明ずみ。
盛岡駅前にそば屋があって、北信愛の文字があるのは花巻の歴史を
ふまえているのだろうか。
ここで 荒城の月のことを書きます。
土井晩翠が九戸城跡を訪れたのは1939(昭和14)年で、
もちろん荒城の月の作詞をしたのは、はるか前のことである。
図書館で調べたら
この詩は明治31年頃東京音楽学校の需に応じて作れるもの
秋陣営の霜の色
鳴き行く雁の数見せて
植うるつるぎに照りそひし ←なぜ、剣を植えるのか、疑問に思いませんか
むかしの光今いづこ (話が長くなるのでカット)
この詩は会津若松の鶴ケ城がモデルであり、仙台青葉城は二行の材料提供
のみ
「垣に残るは唯かづら、松に歌ふは唯嵐」
と本人が述べている。
出典は明治34.3.30発行の東京音楽学校編「中学唱歌」
土井晩翠
本名は「つちいばんすい」だったが、仙台名誉市民になったとき
広く呼ばれていた「どいばんすい」に戸籍も変えたとか。
作曲したのは滝廉太郎
1898(明治31)年 東京音楽学校専修科卒
1901(明治34)年、文部省留学生としてドイツ、ライプツィヒ留学
肺病にかかり翌年帰国
この年代記録から判断すると、滝廉太郎が荒城の月を作曲したのは
日本にいる時で、ドイツ留学をしたのはその後ということになる。
東京音楽学校でドイツ音楽の影響を受けて、荒城の月を作曲したのであろう。
ドイツ人は、この曲を日本人がドイツ音楽を正しく受け継いだ傑作として
今でも日本人が来ると、この曲を話題にするとか。
岩手県の歴史散歩 その166
自己フォローです。
> かづの
> 鹿角街道
>
>JR荒屋新町(あらやしんまち)駅下車5分
>あの教会を見ていると、函館ハリストス教会やお茶の水駅前のニコライ堂
>を連想します。
> ついでに中央線お茶の水駅にくっついて、アーチ橋が建てられてあるが
>あの橋の名前は聖橋(ひじりばし)。
>近くにロシア正教のニコライ堂があるし、向かい側には江戸時代の学問所
>があって学問の神様孔子を祭っていたから、どちらの聖所にも
>ちなんで名前を付けたという。
昨日現地を通りかかったので、追加書き込みします。
1690(元禄3)年 湯島聖堂建立 ここに学問の神様孔子を祭る。
1797(寛政9)年 昌平坂学問所開設 江戸時代の学問の中心地には
明治4年に、文部省、科学博物館、東京師範学校、
東京女子師範学校などができ、ここから各地へと
それぞれ発展していった。
昌平坂は江戸時代からの地名であるが、これは孔子が魯国昌平郷に生まれた
ので、それにちなんで付けられた地名だそうだ。
日本人の孔子信仰は本格的。
岩手県の歴史散歩 その170
かいほしゃ
会輔社
JR二戸駅バス軽米・金田一行呑香(どんこう)稲荷神社下車1分
二戸駅からバスで10分たらずの所に呑香稲荷神社(祭神宇迦迺御霊
うかのみたま命)がある。羽黒修験につながる古社で、南部藩公の保護も
厚かった。その入口すぐ杉木立の中に会輔社のこぢんまりした建物が見える。
福岡は昔から学者や政治家を輩出し、町の気風も質実剛健、好学の精神に
富むが、これらの精神的土壌となったのが相馬大作(そうまだいさく)で
あり、彼の私塾から発展した会輔社である。
相馬大作は本名を下斗米(しもとまい)将真といい、1789(寛政元)年
に地方給人(じかたきゅうにん)の子として福岡に生まれた。時は外国船の
日本近海への出没がしきりになった頃で、北辺防備の必要を説く学者が多く
あらわれた。その中に幕臣で実用流軍学の祖となった平山行蔵がいた。
大作は江戸に出て平山に学び師範代までつとめ、郷里に戻り金田一に私塾を
開き、武家や町人に子弟の教育にあたった。
常に門弟に「わが国百年の憂いをなすものは露国なり」「有事の時には志願
して北海の警備にあたり、身命を国家に捧げねばならぬ」と北方警備の必要
を説き、教育方針は質実剛健で心身を鍛えることに徹していた。
大作は
1821(文政4)年、秋田領の矢立(やだて)峠で津軽寧親(やすちか)
を襲撃した。家臣筋の津軽氏が戦国末期に津軽を横領し独立したとする
南部側の積年の恨みと、さらに当時官位で津軽公が南部公を越え、そのため
南部利敬(としたか)がノイローゼとなり病没したことから、藩士の志気
昂揚のために津軽公の昇進を阻止し、隠居に追い込むためであったという。
大作は江戸で捕らえられて刑死するが、それは沈滞しきっていた当時の南部
領内の士気を高め、人材の育成をうながすこととなった。
大作死後、私塾は呑香稲荷神社の宮司小保内孫陸(おぼないそんろく)の
努力で守られた。そこに1858(安政5)年吉田松陰と親交のあった長州
藩士小倉健作が立ち寄り、小保内孫陸と相談して青年の志気の振作と文学の
講究を目的に、呑香稲荷神社の茶室を教場として会輔社を創立した。
会輔社の社名は「論語」の「友を会するに仁を以ってし、仁を輔くるに友を
以ってす」からとっている。
小倉が松陰の刑死を聞き福岡を去った後、
常陸の吉田房五郎(のち天狗党の乱で死)が1860(万延元)年に訪れ、
3年滞在し経史・兵法を講じた。その間、社規をつくり役員を指名したので、
会輔社の組織は一段と強まった。社長の岩館民弥を中心に小保内孫陸、
その子定身(田中館愛橘の師)、田中館札之助がその経営にあたった。
ここでの教育は長幼の序を重んじ、厳格厳罰主義を貫き、講義内容は歴史・
経書・経書・文書・兵術・律令にまで及び、実践を重んじ、人の模範となる
ことを目標とした。
1865(慶応元)年、藩の郷校開設の指令により福岡に令斉(れいさい)
場を設けたとき、基礎となったのが会輔社である。社員が郷校の教官とな
っている。
明治維新後の1878(明治9)年に会輔社私学校として復活、日本と西洋
の学問が並んで教育され、学んだものも二戸郡から秋田県鹿角郡にまで及ん
だといわれる。自由民権運動が高まるや会輔社は、1882年政治結社に
組織を変えていく。
☆ ☆ ☆
相馬大作は、津軽藩主を襲撃することを、噂でわざと流しておいて
大事をとった津軽藩の行列が正規の(しかし襲われる危険性の高い)コースを
避けさせ、それによって武士としての対面をつぶすことにより
津軽藩主を懲らしめる作戦に出たという。
自分は南部藩に迷惑がかからぬよう浪人となって行った行為なので
まあ計画的だったのではないか。
一国の殿様津軽公が、一介の浪人の襲撃を恐れて、行列を脇道に
そらせたというのは、面目まるつぶれのニュースとして全国に知れわった
ことであったろう。
現代の我々から考えると、なにもそんなことをしてまでもと思うところだが
藩主の存在が、その領地のすべての人間の運命を変えるくらいの
重大な意味があったのであろう。
導関数がプラスの昇り調子の津軽藩主に比べて、マイナス勾配の落ち目の
南部藩主を思えば、忠臣相馬大作は......
と講釈師なら言うところ。
次は、この会輔社の流れをくむ、日本物理学の基礎を築いた田中館愛橘
の話。
岩手県の歴史散歩 その171
たなかだてあいきつ
田中館愛橘
田中館博士は日本物理学の基礎を築いた世界的大学者、またローマ字の
推進者として知られている。博士は1856(安政3)年二戸市福岡の
地方給人(じかたきゅうにん)の家に生まれ、幼少から和漢の学を学んだ。
1876(明治9)年、東京開成学校(現東京大学)に入学し物理学を
学んでいる。英国留学の後、1891年に教授・理学博士となる。博士は
純粋物理学のほか重力や地磁気・地震・航空など諸学の基礎を次々と築く
一方、Z項で有名な木村栄らのすぐれた後継者を育て上げた。
水沢緯度観測所つまり国立天文台・地球回転研究系水沢観測センターの
設置にも尽力した。
メートル法や日本式ローマ字の普及を推進し、貴族院議員を努めるなど
多方面で活躍した。海外旅行21回と国際交流の輪も広げた。
1944(昭和19)年文化勲章受賞。墓所は九戸城跡南隣勧善寺にあり、
会輔社での師小保内定身と並び、墓碑銘はローマ字で記されている。
☆ ☆ ☆
1つ前の170の記事では
1878(明治9)年となっていたが
これは参考文献の印刷ミスらしい。
1876(明治9)年が正しい。
海外旅行21回というのは、かかった旅行時間だけでもすごいこと。
今の10時間余りで直行便でパリ到着というわけにはいかない。
たとえば
夏目漱石が日本の家族からの手紙を受け取るには、船便で2カ月近くも
かかっていた。
芥川賞作家故柏原兵三の父柏原兵太郎氏は、ヨーロッパ鉄道事情研究のため
昭和8年8月末に出発し、ロンドンに11月25日に到着している。
田中館博士の体力もすごい。
田中館博士が海外から研究者の訪問を受け入れて、日本国内を説明しながら
案内していたとき、その会話を聞いていた東大生が
後で博士に、「先生のドイツ語は格も性も間違いが多かったですよ」
と正直に言ったら、
博士は、「この馬鹿者、会話というのは真剣勝負なんだ。文法を気にして
考えていたら、こっちが切り込まれる。」
と答えたそうだ。
確かにドイツ語は格変化や名詞に性があるから、英語より難しい。
文法的に正しい文章を考えている間に、相手は次の話題に移ったり
向こうへ行ってしまうかもしれない。
私の経験でも、会話で大事なことはタイミングであり
多少の文法間違いを気にせず、大事なキーワードを的確に入れて
いくことだと思う。
こういうことを失礼ながらドイツ語の先生方には、お話ししたことがあります。
昨日、情報処理センターのマックで、この記事を書いて投稿しようとしたが
失敗した。どうやら文章の中に半角文字が入っていて、悪さをしたらしい。
岩手県の歴史散歩 その172
大変忙しく、このシリーズにも手がつけられない心境です。
といっても長期休載を避けるため、4月は1回だけ書き込みします。
締切りの迫った原稿、学会の辞典の編集、4月30日には
工学部博士課程の入学式と考えただけで頭が疲れてしまう。
能力を越える環境設定 ともかく全力を尽くしましょう。
二戸市歴史民俗資料館
JR二戸駅バス軽米行長嶺下車5分
バス停を少し戻り左折すると中央公民館がある。その左側に歴史民俗資料館
が並設されている。奥ゆかしいほどの入口から入ると、展示物の内容が
意外なほど充実しているのがわかる。
資料館から2kmほど北の道路側に竪穴住居が復元されているが、
その辺一帯が堀野遺跡(バス矢沢下車2分)で馬渕川の河岩段丘上部に位置し、
縄文早期から近世に至る各時代の遺物が出土している。資料館にはその遺物
が200点ほど展示されている。特に貴重な物としては蕨手刀(わらびてとう)
があり、千数百年もの風化に耐え木造部までよく残っている。
なお青森県境にある雨滝(あまたき)遺跡の出土品も収容されている。
また当地方の特産である漆・蝋・麻の生産道具などが展示されており、
公民館2階に展示されている民具・木やり関係の用具も合わせると、
かなりの量が収蔵されている。
歴史関係の展示としては郷土の3大偉人ともいえる相馬大作(下斗米将真)、
田中館愛橘、初の民選岩手県知事国分謙吉(こくぶけんきち)の関係資料が
ある。明治・大正・昭和にかけての大物理学者田中館愛橘の遺品は、1987
(昭和62)年と1988年の2度にわたり東京国立博物館並びに遺族から
奇託され、第1級の資料を収蔵している。未整理の物も多く、将来新たな
機関へ収容される見込みである。また、九戸城攻防戦のようすも図解され
展示されている。
岩手県の歴史散歩 その173
あいかわらず多忙ですが
四戸城跡
JR金田一駅バス二戸行陸奥荒田下車10分
金田一駅の南西1kmほどの所に長寿寺と八坂神社が並んで鎮座している。
四戸城跡はその寺社の裏山を上り切った平坦な畑地一帯である。
畑の中にベコ石という径4mほどの大岩があり、このあたりが本丸跡
といわれ、周囲に空堀跡が見られる。城跡は南北に伸びて広大な面積を
有しており、九戸政実の乱で政実にくみし滅んだ城主四戸南部氏の往時に
おける位置の重要さを物語っている。
☆ ☆ ☆
このシリーズあと数回で終わりますが
一回りしたら、積み残したものについて書こうと思います。
再び盛岡を出発点として全県を回る予定です。
ただ、いつになるやら。
岩手県の歴史散歩 その174
やはり多忙です
軽米(かるまい)町歴史民俗資料館
JR金田一駅バス久慈行萩田下車5分
軽米駅から道を戻り、中学校・高校のある坂を上っていくと、
えぞと大自然のロマンの森がある。
この一角に軽米町歴史民俗資料館がある。軽米町は縄文時代の
優れた遺物が出土したことで知られており、また発掘調査も進んでいる。
当資料館の収蔵品にも縄文時代の遺物が多いが、展示スペースの関係で
常時展示されているのはその一部である。
全長70cmにもおよぶ石剣や、青竜刀型石器はみごとである。
また上館(かみだて 資料館の南約1km)は近世に鉄器生産が盛ん
だった地域で、そこの鋳鉄資料も特色がある。目を引くのは猿田彦の立像で、
八幡宮祭典の山車行列の先頭にひかれるものである。
資料館の南側に民家が移築されている。狄塚(いづか)(軽米町の西南端)
の草分け百姓狄塚氏の旧宅で、1833(天保4)年の建築である。
またその隣に八戸藩軽米代官所の倉庫1棟も移築されている。
岩手県の歴史散歩 その175
>やはり多忙です
徳楽寺(とくらくじ)の萩薬師(はぎやくし)
JR金田一駅バス軽米行終点下車5分
バスを軽米で下車し、進行方向にそのまま進むと右手に医王山徳楽寺
(曹洞宗)がある。このあたりを蓮台野(れんだいの)という。
古くは風葬地であったのであろう。
徳楽寺は永禄年間(1558〜70)の創建であるが、いく度か
火災にあっており、現在の本堂1954(昭和29)年の建立である。
山門を入りみごとな彫刻に飾られた本堂の左に回ると、1803
(享和3)年に再建された旧薬師堂がある。3間四方の宝形(ほうぎょう)
造で、もとは茅葺(かやぶ)きであった。左側に新しい収蔵庫があり、
薬師如来坐像・菩薩立像、二天立像および十二神将の小像が安置されている。
これらの拝観は住職に依頼しておかねばならない。
薬師如来坐像(県文化)はカツラの一本造で、伝説によれば
ここから約1km西南の萩田にあったハギカツラの大木から、徳楽寺の
西、七木田で7体の如来像を造像したうちの1体と言われている。
ハギカツラとは当地方の古い方言で雌カツラのことであり、そこから
萩薬師と呼ばれるようになったと伝えられている。
像高125cmで、両腕と足を欠損している。補修以前のようすでは
頭部と胴部は1本の材でつくられており、内刳(うちぐ)りをして
背面を別の材でつないでいる。立体感に乏しく、側面から見ると板状を
なしている。また衣文(えもん)は様式化されており、これらは地方作の
特色を示すものであろう。顔は量感があって柔和な印象を与え、
藤原仏と共通している。平安時代後期の作と考えられる。
菩薩立像(県文化)は薬師如来の脇侍仏で、左手を地触印とすることから
日光菩薩であり、むかって左側に安置されるものである。
この像もカツラの一本造で像高は126cmである。
量感豊かで素朴、結髪や宝冠の様式は簡素化されているが、藤原仏と
共通する特色をもち、薬師如来と同時代の作であろう。なお、旧薬師堂
には多くの絵馬と額が奉納されており優品も多い。
☆ ☆ ☆
これを書いている間に、教務係長さんが先週の会議の議事録を
もってこられたり、学生がレポート提出に来たり
就職の相談に来たりと忙しい。
岩手県の歴史散歩 その176
長興寺(ちょうこうじ)
JR二戸駅バス伊保内(いぼない)行長興寺小学校前下車3分
二戸市から白鳥川をさかのぼる道をバスは走る。この道は小峠(ことうげ)
を越えると、九戸村を縦貫する国道340号線に出る。
国道を南に進むと左手に鳳朝山長興寺(曹洞宗)があり、イチョウが
目を引く。このあたり一帯が藩政時代の長興寺村で、戦国時代の武将
九戸氏発祥の地でもある。長興寺の西南約1kmには九戸氏居館の
大名館跡や九戸神社がある。
九戸氏は鎌倉時代初期に南部光行の5男行連(ゆきつら)が糠部
(ぬかのぶ)郡九戸を光行から給せられたことに始まると伝えられて
いる。しかし、長興寺の位牌や九戸神社の資料によれば、九戸氏の祖先は
建武の新政により九戸を与えられた結城氏の侍大将小笠原政康であり、
この説が妥当であろう。長興寺は九戸右京信仲の請により、1504
(永正元)年に当地を巡錫した加賀国石川郡(現金沢市)宗徳寺の大陰恵善
が創建し、九戸氏の菩提寺としたものと伝えられている。
本尊の聖観音菩薩像は14世紀の秀作で、60cmほどの坐像である。
なお本堂は1852(嘉永5)年に再建されたものである。
山門脇にある大イチョウは九戸政実が出陣に際しての手植えと伝え
られている。政実は信仲の子で、南部晴政に仕えていたが、晴政の死後
家督相続をめぐって南部信直と対立した。近隣の諸将を誘い1591
(天正19)年に九戸城(二戸市)に篭城(ろうじょう)し、豊臣秀吉の
派遣した蒲生・浅野氏らの中央軍に包囲された。この時、攻撃軍の要請で
政実に降伏を勧告し乱の終結に大役を果たしたのは、長興寺4世薩天で
あると伝えられている。
☆ ☆ ☆
誰の子供が誰で、と家系を説明するのを聞いて、
疲れるあるいは興味がないと思うかもしれません。
長崎ハウステンボスはオランダ王室から許可をもらって
同じ宮殿や庭園を建設した。
宮殿を見学している時、オランダの王家の家系図の前で、あるオジサン曰く
「わしゃ、よその家の家系など興味がない」
確かにそうだが、ヨーロッパの歴史を語るとき、ハプスブルク家の華麗な
家系を無視しては語れない。ドイツとフランスとの因縁の関係、あるいは
ユーゴ問題も遡るとオーストリア帝国の歴史に原因を認めることもできる
(といわれている)。オランダ王朝も神聖ローマ帝国とのかかわりあいも
あるわけで、ハウステンボスに来れば、生きたヨーロッパ、生きたオランダ
そのものを学べるのにそういう機会をのがすなんて、
なんのためにここに来たのと
笑われそうな光景でした。
フランクフルトのゲーテの生まれた家に毎日、日本人の観光団体が
押し寄せます。でもハードスケジュールで疲れた年配の方々は
見学もそこそこにソファーに座り込んだまま。
このゲーテの家の係員にしてみれば、たくさん日本人は来るけど
ゲーテの価値や意義を認めて来ているのだろうかと疑問に思っている
ようでした。少なくとも私には、あのドイツ人の顔からそう思って
しまうのです。
こちらが器を用意して行かなかったら、何を見てもむだなこと。
人は旅行してその器の分だけ何か持ってくる。
(逆にいえば、自分の見たいものだけ見ればよい。おつき合いも
よいが、自分の眼の高さで自分のためになるものを見て回りましょう)
岩手県の歴史散歩 その177
このシリーズ 一応終わりです。
盛岡から始めて県北まで行きました。
しばらく忙しいので、暇ができたら
積み残したところを改めて書き加えたいと思います。
それまで、ごきげんよう。
なお 1〜176回までの索引です。
岩手県の歴史散歩 その1 はじめに
岩手県の歴史散歩 その2 盛岡城址
岩手県の歴史散歩 その3 岩手公園
岩手県の歴史散歩 その4 岩手公園その2
岩手県の歴史散歩 その5 啄木新婚の家
岩手県の歴史散歩 その6 東顕寺と三ツ石神社
岩手県の歴史散歩 その7 報恩寺
岩手県の歴史散歩 その8 盛岡市中央公民館
岩手県の歴史散歩 その9 愛宕山 方長老
岩手県の歴史散歩 その9b 方長老
岩手県の歴史散歩 その9c 方長老補足
岩手県の歴史散歩 その10 岩手銀行旧本店
岩手県の歴史散歩 その11 十六羅漢
岩手県の歴史散歩 その12 永泉寺から円光寺へ
岩手県の歴史散歩 その13 新山舟橋跡
岩手県の歴史散歩 その14 盛岡市先人記念館
岩手県の歴史散歩 その15 原敬記念館
岩手県の歴史散歩 その16 志波城跡
岩手県の歴史散歩 その17 厨川柵跡
岩手県の歴史散歩 その18 岩手県立博物館
岩手県の歴史散歩 その19 岩手県立博物館 その2
岩手県の歴史散歩 その20 小岩井農場
岩手県の歴史散歩 その21 雫石歴史民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その22 岩手県立農業博物館
岩手県の歴史散歩 その23 石川啄木記念館
岩手県の歴史散歩 その24 松尾村歴史民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その25 徳丹城跡
岩手県の歴史散歩 その26 高水寺城跡
岩手県の歴史散歩 その27 陣ケ岡森
岩手県の歴史散歩 その28 志和稲荷神社
岩手県の歴史散歩 その29 花巻城跡
岩手県の歴史散歩 その30 チベット蔵修館
岩手県の歴史散歩 その31 同心屋敷と宮沢賢治詩碑
岩手県の歴史散歩 その32 宮沢賢治記念館
岩手県の歴史散歩 その33 花巻市民俗資料館と高村記念館
岩手県の歴史散歩 その34 石鳥谷町立歴史民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その35 山岳博物館
岩手県の歴史散歩 その36 早池峰神社と神楽
岩手県の歴史散歩 その37 萬鉄五郎記念館
岩手県の歴史散歩 その38 南部曲り家と薬師神社
岩手県の歴史散歩 その39 丹内山神社と経塚
岩手県の歴史散歩 その40 成島兜跋毘沙門天像
岩手県の歴史散歩 その41 遠野市立博物館
岩手県の歴史散歩 その42 鍋倉城跡
岩手県の歴史散歩 その43 智恩寺
岩手県の歴史散歩 その44 瑞応院
岩手県の歴史散歩 その45 新里の五百羅漢
岩手県の歴史散歩 その46 阿曽沼氏の旧跡
岩手県の歴史散歩 その47 伝承園
岩手県の歴史散歩 その48 常堅寺とカッパ淵
岩手県の歴史散歩 その49 稲荷穴洞窟遺跡
岩手県の歴史散歩 その50 新谷番所跡と小友金山
岩手県の歴史散歩 その51 和賀川流域
岩手県の歴史散歩 その52 北上市立博物館
岩手県の歴史散歩 その53 南部領伊達領境塚
岩手県の歴史散歩 その54 樺山遺跡
岩手県の歴史散歩 その55 極楽寺跡
岩手県の歴史散歩 その56 二子・成田の一里塚
岩手県の歴史散歩 その57 江釣子古墳群
岩手県の歴史散歩 その58 奥寺堰と松岡堰
岩手県の歴史散歩 その59 碧祥寺博物館
岩手県の歴史散歩 その60 およね地蔵
岩手県の歴史散歩 その61 高野長英記念館
岩手県の歴史散歩 その62 国立天文台水沢観測センター
岩手県の歴史散歩 その63 寿庵館跡
岩手県の歴史散歩 その64 斎藤実記念館
岩手県の歴史散歩 その65 後藤新平記念館
岩手県の歴史散歩 その66 胆沢城跡
岩手県の歴史散歩 その67 黒石寺
岩手県の歴史散歩 その68 奥の正法寺
岩手県の歴史散歩 その69 角塚古墳
岩手県の歴史散歩 その70 お物見公園
岩手県の歴史散歩 その71 明治記念館
岩手県の歴史散歩 その72 岩谷堂城跡
岩手県の歴史散歩 その73 豊田館跡
岩手県の歴史散歩 その74 愛宕神社
岩手県の歴史散歩 その75 鹿踊
岩手県の歴史散歩 その76 鳥海柵擬定地
岩手県の歴史散歩 その77 県立農業短期大学校
岩手県の歴史散歩 その78 鬼剣舞
岩手県の歴史散歩 その79 オシラサマ
岩手県の歴史散歩 その80 ラーメン
岩手県の歴史散歩 その81 毛越寺
岩手県の歴史散歩 その82 観自在王院跡
岩手県の歴史散歩 その83 中尊寺
岩手県の歴史散歩 その84 平泉文化史館
岩手県の歴史散歩 その85 高館跡
岩手県の歴史散歩 その86 無量光院跡
岩手県の歴史散歩 その87 長者原廃寺跡
岩手県の歴史散歩 その88 達谷の窟
岩手県の歴史散歩 その89 一関城跡
岩手県の歴史散歩 その90 大槻家
岩手県の歴史散歩 その91 索引(1〜90回)&朝鮮通信史
岩手県の歴史散歩 その92 建部清庵
岩手県の歴史散歩 その93 蕨手刀と舞草鍛冶
岩手県の歴史散歩 その94 願成寺の薬師如来坐像
岩手県の歴史散歩 その95 祥雲寺
岩手県の歴史散歩 その96 豊吉の墓
岩手県の歴史散歩 その97 金森遺跡
岩手県の歴史散歩 その98 貝鳥貝塚
岩手県の歴史散歩 その99 千葉胤秀と一関地方の和算
岩手県の歴史散歩 その100 索引(1〜99回)
岩手県の歴史散歩 その101 大籠のキリシタン史跡
岩手県の歴史散歩 その102 大籠の製鉄
岩手県の歴史散歩 その103 薄衣の町と蔵
岩手県の歴史散歩 その104 建長の碑
岩手県の歴史散歩 その105 二十五菩薩と来迎阿弥陀
岩手県の歴史散歩 その106 唐梅館跡
岩手県の歴史散歩 その107 芦東山先生記念館
岩手県の歴史散歩 その108 文久山鉄山跡
岩手県の歴史散歩 その109 大光寺の薬師如来立像
岩手県の歴史散歩 その110 室根神社
岩手県の歴史散歩 その111 南部三陸海岸
岩手県の歴史散歩 その112 陸前高田市立博物館
岩手県の歴史散歩 その113 高田松原
岩手県の歴史散歩 その114 普門寺
岩手県の歴史散歩 その115 玉山金山跡
岩手県の歴史散歩 その116 光勝寺
岩手県の歴史散歩 その117 蛇王洞穴遺跡
岩手県の歴史散歩 その118 大船渡市立博物館
岩手県の歴史散歩 その119 長安寺
岩手県の歴史散歩 その120 長谷寺
岩手県の歴史散歩 その121 釜石製鉄所史料館
岩手県の歴史散歩 その122 橋野高炉跡
岩手県の歴史散歩 その123 三浦命助の碑
岩手県の歴史散歩 その124 星座石
岩手県の歴史散歩 その125 大槌城跡と古廟坂
岩手県の歴史散歩 その126 前川善兵衛の墓
岩手県の歴史散歩 その127 オランダ島
岩手県の歴史散歩 その128 大沢六角塔と絵入り道標
岩手県の歴史散歩 その129 北部三陸海岸
岩手県の歴史散歩 その130 永和二年の経塚
岩手県の歴史散歩 その131 宮古港戦蹟碑
岩手県の歴史散歩 その132 横山八幡宮と宮古の伝説
岩手県の歴史散歩 その133 岩手県立水産科学館
岩手県の歴史散歩 その134 浄土ケ浜
岩手県の歴史散歩 その135 寄生木記念館
岩手県の歴史散歩 その136 黒森神社
岩手県の歴史散歩 その137 千徳城跡
岩手県の歴史散歩 その138 新里村民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その139 鞭牛和尚の道
岩手県の歴史散歩 その140 鞭牛の出家と道路改修
岩手県の歴史散歩 その141 西塔幸子
岩手県の歴史散歩 その142 西塔幸子 側面から解説
岩手県の歴史散歩 その143 大圓寺
岩手県の歴史散歩 その144 津波記念館
岩手県の歴史散歩 その145 龍泉新洞遺跡
岩手県の歴史散歩 その146 瓢箪穴遺跡
岩手県の歴史散歩 その147 百姓一揆顕彰像
岩手県の歴史散歩 その148 百姓一揆顕彰像 その2
岩手県の歴史散歩 その149 鵜鳥神社
岩手県の歴史散歩 その150 九戸・下閉伊の砂鉄生産
岩手県の歴史散歩 その151 三船記念館
岩手県の歴史散歩 その152 久慈城跡
岩手県の歴史散歩 その153 たたら館
岩手県の歴史散歩 その154 琥珀資料館
岩手県の歴史散歩 その155 小久慈焼
岩手県の歴史散歩 その156 野田城跡
岩手県の歴史散歩 その157 内間木洞
岩手県の歴史散歩 その158 塩の道と南部牛方節
岩手県の歴史散歩 その159 種市町立歴史民俗資料館と南部もぐり
岩手県の歴史散歩 その160 八坂神社の庚申塔
岩手県の歴史散歩 その161 一戸城跡
岩手県の歴史散歩 その162 鳥越観音堂
岩手県の歴史散歩 その163 応永五年の宝篋印塔
岩手県の歴史散歩 その164 天台寺
岩手県の歴史散歩 その165 浄法寺町歴史民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その166 鹿角街道
岩手県の歴史散歩 その167 南部絵暦
岩手県の歴史散歩 その168 ダンブリ長者
岩手県の歴史散歩 その169 九戸城跡
岩手県の歴史散歩 その170 会輔社
岩手県の歴史散歩 その171 田中館愛橘
岩手県の歴史散歩 その172 二戸市歴史民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その173 四戸城跡
岩手県の歴史散歩 その174 軽米町歴史民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その175 徳楽寺の萩薬師
岩手県の歴史散歩 その176 長興寺
☆ ☆ ☆
岩手県に直接関係のないことでも、自分で気になって調べたことも
わきに書いておきました。
画像データがあると説明も楽なところもありました。
そのうちにWWWで皆さんのところにお届けできるかもしれません。
岩手大学にできたインターネットをもり立てるための
私のパフォーマンスでした。
ご声援とご関心をありがとうございました。
岩手県の歴史散歩 その178
ひさしぶりに書き込みします。
(なかなか忙しいのですが)
盛岡の伝統工芸 その1
南部鉄器
南部鉄器には盛岡と水沢の2つの系統がある。
盛岡は藩主の庇護のもとに、茶の湯釜・鉄瓶を中心に発達した。
1641(寛永18)年鈴木氏が、1659(万治2)年小泉氏が
藩に召し抱えられたのをはじめとして、鋳物師鈴木・有坂・藤田、
釜師小泉の4氏が藩に用いられ、以後の鉄器発展に大きな力を発揮した。
南部鉄器の代表的製品に鉄瓶がある。その特色は伝統的技術の修練に
よって生み出された重厚な造形美、そして金気(かなけ)がなく
錆びにくいことにある。
岩山の橋本美術館に優品が展示されている。
☆ ☆ ☆
このシリーズの9回目(正確には9,9b,9cの3回)
に説明した、対馬藩に仕えた方長老がそのころ南部藩にお預けの身となり
盛岡城下で文化人として茶道を広めたから
茶釜や鉄瓶の生産が盛んになったとされている。
橋本美術館の素晴らしい鉄瓶をモデルに、切手が発行された。
ところが鉄瓶の模様は普通は、注ぎ口を右にして配置される。
主が客をもてなすため自ら右手で鉄瓶を持って、お湯を注ぐ。
そうすると客からは右手を外から見るから、注ぎ口が右手にくる。
そういうわけで普通の鉄瓶は、注ぎ口が右になるような面に
お客のため良い模様などを付けている。
ところが、切手になった鉄瓶は、わざと裏側に素晴らしい模様が
付けられてあった。
そのため、この切手は通常の鉄瓶の配置とは逆に
注ぎ口が左になって置かれていた。
皆さんも気をつけてみてください。
ほとんどの鉄瓶は客から見て、注ぎ口が右になるように置かれている
はずです。
逆に置くのは鉄瓶の作法を知らない場合か、このような特別の場合。
岩手県の歴史散歩 その179
今日も午後3時から会議があるのですが
盛岡の伝統工芸 その2
南部古代型染
岩手県の染物として、無地染には南部紫根(しこん)染や茜(あかね)染
模様染には南部型染や簡単な絞りを加えた紫根染、茜染などがある。
糊で白地を残す糊防染の方法が発達したのは江戸時代で、
南部型染の成立もその時代である。
盛岡藩の御用染師小野家は、寛永(1624ー44)の頃から
藍を染料に型紙による糊置きなどの方法で、気品の高い
裃(かみしも)・袴(はかま)・小袖(こそで)などを製作している。
小野家では家伝の型紙による染めを現代生活に再現、実用化することに
努め、「南部古代型染」と名付けて製作・販売を行っている。
代表的な図柄は向鶴(むかいつる)・小菊・千羽千鳥(せんばちどり)
などである。
☆ ☆ ☆
この小野染彩所は夕顔瀬橋のたもとにある。
染め物には北上川の水が必要だったから。
盛岡に紺屋町という地域があるが、ここも中津川の清流を利用した
染物屋がたくさんあったのであろう。
今も染物屋は残っている。造酒屋もあるが。
岩手県の歴史散歩 その180
盛岡の伝統工芸 その3
桐下駄
岩手の桐下駄は、江戸末期から明治初期頃つくられ始めたものと思われる。
特色として、柾目(まさめを用いて軽く丈夫、色がうっすらと紫がかって
光沢があり、柔らかく細かな砂が歯先に食い込んでもへりにくいという。
原料の南部桐は需要増加とともに不足気味となり、嘉永年間(1848
ー54)から植林が行われるようになった。
明治以降も時の県令が植林を奨励したこともあり、桐下駄や桐箪笥の
生産が高まった。
☆ ☆ ☆
岩手県の花は桐
岩手大学のマーク(徽章きしょう)も桐花
岩手大学学生歌も 花ふふみたる桐の葉を
岩手県の歴史散歩 その181
盛岡の伝統工芸 その4
盛岡手づくり村
(盛岡駅バス繋温泉行手づくり村下車)
南部鉄器の他、染物・建具・陶芸・南部せんべいなど城下町盛岡で
育った伝統産業の生産工程を見学でき、自分でも体験できる施設である。
また、各種資料を提示したフロアもあり、多角的に伝統工芸について
知ることができる。
☆ ☆ ☆
手づくり村はなかなかよい。
伝統産業を見たりお土産を買ったりできる上、時間があれば
体験もできる。南部せんべいも自分で焼くと格別美味しい。
秋田街道国道46号線を左に曲がって手づくり村に行くのだが
この交差点あたりに
MLで話題になっている焼肉レストラン「ひげ」がある。
岩手県の歴史散歩 その182
安倍館跡
JR盛岡駅バス厨川中央線安倍館下車2分
バス停留所の前は道路に沿って窪地がのびている。安倍館の空堀跡であり、
空堀のむかい側一帯が安倍館の跡である。
天昌寺から1kmほどの所にあり、かつては厨川柵跡とみられていたが、
現在では嫗戸柵跡に擬せられている。北上川をのぞむ崖ぎわに立地して
いる。
道路に沿った空堀から直角にのびる数本の空堀は、さらにはっきりと
残っている。
これらの空堀によって館は6区に分けられ、それぞれ南館・中館・本丸・
北館・外館・勾当館の名が伝えられている。
現在本丸跡にある八幡宮や中館跡の稲荷神社に立つと、北上川の流れや
川むこうの盛岡の市街が眼下に広がり、神社わきの台地を深く刻んでいる
空堀の様子がよく観察できる。
奥州藤原氏の滅亡後、鎌倉御家人の工藤小次郎行光がこの地に御家人に
任じられ、巌鷲山(がんしゅうざん)大権現の宮司をも兼ねつつ
この地を支配してきた。安倍館は、その後南部信直の支配下にあったが、
1592(天正20)年、豊臣秀吉の命令でとりこわされた。
☆ ☆ ☆
安倍館は岩手大学からも近い。
安倍館は「あべだて」と言うらしい。しかし、バスの停留所は
「あべたて」である。
夕顔瀬橋も本当は「ゆうがおぜばし」なのだが「ゆうがおせばし」
のほうがポピュラーになっている。
札幌に月寒という地名がある。
アイヌ語から取られた地名なので「ツキサップ」と読まれていた。
私などもその呼び名が正統と思うのだが
住民投票の結果、漢字のとおりの「つきさむ」という味気ない
呼び名になってしまった。
札幌の西には発寒という地名もある。
これも今では漢字の通りに読まれるが、もともとは
「ハッサブ」と言ったようである。
母から発寒川(はっさぶがわ)のことを聞いたから。
地名も新しく来た住民が増えると
簡単化され、統一化されるのも避けられない傾向なのであろう。
岩手県の歴史散歩 その183
雫石城跡
JR雫石駅バス雫石鴬宿線堀割下車3分
雫石駅から旧国道46号線の商店街に出て盛岡方面に進むと、左側に
八幡神社の鳥居がある。この八幡神社境内が雫石城の本丸跡で、杉林
の中に堀が観察できる。本丸は東西90m・南北60m、堀は
幅6ー12m・深さ2ー5mである。
南北朝時代の雫石の領主は戸沢氏で、安庭に沼田神社があって戸沢氏の
祖先が祀られており、発祥の地と思われる。
戦国時代の1540(天文9)年に戸沢政安(まさやす)は南部高信に
攻められて出羽に亡命し、戸沢による雫石支配は終わった。しかし南部氏
も斯波氏と厨川工藤氏の反撃で雫石を放棄し、斯波詮貞(あきさだ)が
雫石に入って雫石御所と呼ばれた。この雫石城は1574(天正2)年に
雫石御所の軍師となった綾織越前広信が築城したものと考えられる。
広信は土樋堰(つちといぜき)をつくり、約5km西方から雫石城に
引水したと伝えられる。
その後、南部信直(高信の子)は、1586(天正14)年に雫石御所を
滅ぼし、雫石城はこの戦いで焼失したと伝えられている。そして1591
(天正19)年に破却され、以後は南部氏の代官による支配が明治に
いたるまで続いた。中町交差点の角が代官屋敷跡である。
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南部氏も南部領を統一するまで苦労した。
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