岩手県の歴史散歩

岩手県の歴史散歩  その151
  三船記念館

JR・三陸鉄道久慈駅バス大川目行営業所前下車5分

バス停から背後の坂を上っていくと、市民の森がある。その一角に
三船記念館がある。右側の2階建ての建物が資料館となっており、
左側は柔道場である。
この記念館は当地出身の柔道家三船久蔵(みふねきゅうぞう)十段の功績を
顕彰するとともに、青少年の健全育成をはかるため1958(昭和33)年
に市街地の巽山(たつみさん)公園に建てられたものだが、久慈市の活性化
を促すために1990(平成2)年に現在地に新築したものである。

三船久蔵は、1883(明治16)年に生まれ、仙台第二中学校に進み
柔道を始めた。1903年、19歳で講道館に入門した。1930
(昭和5)年に行われた第1回全日本柔道選手権大会の高段者乱取りでは、
佐村嘉一郎七段と対戦し、自らあみだした空気投げで勝ったのは有名である。
七段で46歳のときであった。東京オリンピックの柔道競技委員となった
のが最後の大仕事となり、1965(昭和40)年、82歳で他界した。

   ☆     ☆      ☆

久慈は盛岡から最も遠い所の一つである。
町は静かな町で、お寿司がうまい。

岩手県の歴史散歩  その152
久慈城跡

JR・三陸鉄道久慈駅バス
久慈新町(しんまち)経由久慈循環線久慈新町下車2分

バス停から西方向に少し行くとT字路がある。そこを右折し、まっすぐ行った
所が久慈城跡である。城跡は、慈光寺(じこうじ 時宗)の東側、標高約
80mの丘陵上にあり、久慈川に沿った平野を一望できる。

久慈城は新町館(しんまちたて)とも呼ばれ、周囲約4kmの中世の山城である。
現在、本丸・二の丸・三の丸・井戸・馬場・堀の跡が確認されている。
久慈城は、この地方を支配していた久慈氏の居城であった。久慈氏の祖は、
南部三郎光行(なんぶさぶろうみつゆき)の3男久慈太郎三郎朝清(くじたろう
さぶろうともきよ)と伝えられるが、諸説があり定かではない。久慈城は14代
久慈備前守信実(びぜんのかみのぶざね)が、文明年間(1469ー87)
に築城したと伝えられている。1591(天正19)年、九戸政実(くのへ
まさざね)の乱で20代久慈備前守直治(なおはる)は、九戸方につき、
九戸城に籠城して敗れた。九戸の乱後、久慈城には秀吉方の南部信直の代官
として久慈氏が駐留したが、1592(天正20)年、諸城破却令によって
とりこわされた。

久慈氏は、九戸の乱によって嫡系は滅亡し、久慈信実の次男因幡信興(いなば
のぶおき)を祖とする侍浜久慈氏と、直治の弟で九戸の乱に加わらなかった
出羽治光(はるみつ 下閉伊郡摂待村の領主)を祖とする摂待久慈氏の2系が
残った。

   ☆     ☆      ☆

九戸政実の乱は、南部藩の大ピンチ
天下は秀吉のものとなった時、弱った南部藩は秀吉の側につくことで
南部藩が生き残れることになった。
この話は二戸市の九戸城跡のところで詳しく述べます。

生き残れる、と書いて
今話題の「らぬき言葉」を思い出した。
生き残られる、とは現代は使わない日本語。

北海道は「らぬき」が多い、私も子供の頃から慣れているので
らぬきでもかまわないのですが...
東北にも、らぬき言葉があるそうです。
食べれる、とは食べることができる(可能)という意味で、
つまり食べても体に毒でない食べ物などの時に使うそうです。
 北海道でもそういう使い方をしています。

食べられる、は3つの使い分けがあります。
1.受け身 人間が大蛇に食べられる あるいは 開拓民がヒグマに
食べられた歴史もあります。北大植物園の博物館に、ホルマリン漬けの
瓶に入った人間の指が標本として展示されています。人喰いクマのお腹の
中から見つかった指だそうです。
2.可能 食べられるキノコ等が例です。ドングリも灰汁(あく)ぬきを
すれば、食べられるそうです。
3.尊敬 殿様が食べられる あるいは 上品に食べられる姿を見て
やはりお嬢様なんだなあと思いました。

その時の場面で、3つのうちのどれに該当するかわかるわけですが、
食べれる、と使えばいつも可能の意味になります。
だから便利、というのは若い人の弁解
国語審議会のおじ様たちは日本語の乱れが大嫌い、世代によって
意味が変わったり、使い方が違うと、老若間のコミュニケーションがとれない
と不安になるのです。

日本語は、だいたいそうやって変化してきたのに
昔の言葉を研究すればわかることなんですが。

また脱線して
秋葉原(アキバハラ → あきはばら)
数珠(ズジュ → じゅず)
正しく読んでいないのが実際に使われている日本語なんて
まったく変な話ですね。
正論を言ったら相手にされない 外国人は困るだろうな。

No.153 / 岩手県の歴史散歩  その153
   たたら館

JR・三陸鉄道久慈駅バス森前(もりまえ)・陸中小国(おぐに)行
久慈新町(しんまち)経由久慈循環線大川目三日町下車3分

大川目三日町のバス停から、西へ200mほど行くと たたら館 がある。
旧大川目公民館を利用して1987(昭和62)年に完成したものである。
「たたら」とは、空気を送るふいごのことであるが、たたらを用いて行う
鉄の製錬法や鉄を製錬する場所も「たたら」といわれる。

久慈地方には大量の砂鉄があり、江戸時代から行われた「たたら製錬」による
鉄山の跡が各地で発見されている。また、久慈駅の東側では、川崎製鉄久慈工場
が1939(昭和14)年から1967年まで操業していた。川崎製鐵久慈工場
は、日本国内では最初で最後の砂鉄製錬の近代工場であった。

たたら館には、久慈砂鉄、水車吹子(ふいご)、久慈地方のたたら遺跡から
収集した鉱滓(こうさい)・鉄具、旧川崎製鐵久慈工場の写真など製鉄関係
資料が数多く展示されている。

   ☆     ☆      ☆

製鐵は今は製鉄と書くようであるが
関係者の書いたものを読むと、「鉄」は金を失うに通じ
昔の「鐵」の字の方がいいとか。

最近の国内の製鉄産業の不振を考えると、製鐵の字に戻したほうが
いいかもしれない。

日本の製鉄産業が景気が悪くなったのは、安い外国の鉄が輸入される
ようになったからで、もとはと言えば
戦後の賠償のため、韓国や中国に製鉄の技術支援をした結果
それらの国が安い良い鉄を生産するようになったからという。

釜石の溶鉱炉の火が消えたのも、そういう理由なので
日本もアメリカから学びアメリカを追い越していったように
技術支援をした国に日本の鉄産業が追い抜かれるのも
時代の流れかもしれない。

岩手県の歴史散歩  その154
   琥珀(こはく)資料館

JR・三陸鉄道久慈駅バス白山(しらやま)行下日当(しもひなた)下車25分

バス停を降りるとすぐに北西方向の山にむかう道がわかれている。その道を
2kmほど行くと、樹木に囲まれたロッジ風のしゃれた建物が見えてくる。
これが久慈琥珀株式会社の工房である。琥珀の装飾加工品をつくっている。
琥珀資料館はこの中にある。

資料館は、第1、第2資料室からなり、第1資料室は久慈琥珀の歴史、
第2資料室には世界中のさまざまな琥珀や琥珀でつくられた美術品が展示
してある。また、琥珀資料館のある場所は過去に実際に琥珀を採掘していた所
で、旧坑道が見学できるように再現されており、地下に眠っていた琥珀の原石
を見ることができる。

久慈地方では、すでに縄文時代から琥珀が採取されていたらしく、縄文晩期の
ものと推定されている久慈市上野山(こうずけのやま)遺跡から琥珀が出土
している。また、奈良東大寺山古墳(6世紀中頃)、京都水池古墳(古墳時代
後期)から出土した琥珀や、奈良正倉院の平螺鈿(へいらでん)背円鏡(はい
えんきょう)に使われていた琥珀が久慈産の琥珀と発表されている。
このことから久慈産の琥珀は、すでに古墳時代から奈良時代初期には奈良地方へ
運ばれていたことがわかり、久慈地方と古代中央政府とのつながりが関連づけ
られて興味深い。

   ☆     ☆      ☆

琥珀がとりもつ縁で、久慈市と姉妹都市のあるバルト三国のリトアニアが
1991年9月に独立するまで、数年間ソ連との間に険悪な関係が続いたとき
久慈市がリトアニアに激励電報を送るなど、精神的な応援をしていたことが
記憶に残っている。

阿倍比羅夫が蝦夷を討ったのが 658年
奈良遷都は ご存じ 710年
坂上田村麻呂が志波城を築いたのは 803年

大和朝廷が岩手県に最北の政府基地を置いたのは9世紀になってから
でも、それよりはるか前から
琥珀は政治とは関係なく、交易の貴重な品として久慈から南下して
はるばる奈良の都まで運ばれたのであろうか。

北海道産の黒曜石が東北にも運ばれてきた資料もあり、昔も交易は盛んだった
ようだ。現代人が想像するより、古代人は旅行を活発にしていたし
地場産業は栄えて、交易もシベリアから沖縄の範囲まで広がっていたかも
しれない。

琥珀の中に閉じ込められた昆虫や花粉を研究すれば、当時の気候や
生き物のことがわかる。

ジュラシックパークでは、琥珀の中に閉じ込められた蚊が、生きている時
吸ったはずの恐竜の血液を、蚊の中から抽出して、恐竜のDNA情報を解読し
高度のバイオ技術を駆使すれば、なんと恐竜が再現されるという、
一種の荒唐無稽の話だが面白い。
(これが実現できたら、美人の血を吸った蚊を捕まえてきて、それから
美人の秘密をさぐったり、人工美人を作ったりすることができる)

絶滅したトキのはく製から、トキをよみがえらせることができる
かもしれない。

岩手県の歴史散歩  その155
   小久慈焼

久慈市久慈町に、岩手県で最も古い技法を現在に伝えているという
小久慈焼がある。
かつては天田内(あまだない)焼といわれていた。久慈駅からJRバス
白山(しらやま)線に乗り、小久慈焼前バス停で下車すると、小久慈焼の窯元が
ある。また、同じバスで下日当(しもひなた)バス停で下車すると「小久慈焼
窯業発祥の地」の石碑が立っている。

小久慈焼の発祥は約200年前の江戸中期にさかのぼり、初代熊谷甚右衛門が
相馬から来た陶工嘉蔵に師事し、その技術を習得し釉薬(うわぐすり)は地元
から取れる粘土を元に久慈焼特有の白と飴色の独特の釉薬を使用し、その釉味
が八戸藩主に認められ、八戸藩の御用窯として茶碗・皿・ツボを焼いたことに
由来する。

   ☆     ☆      ☆

久慈に良い粘土が産出したからであろうか。
盛岡でも、その製品は購入できる。

岩手県の歴史散歩  その156
野田城跡

三陸鉄道北リアス線 陸中野田駅下車30分

野田駅から国道45号線を1.5kmほど南下し、右に曲がって800m
ほど行くと野田小学校がある。この野田小学校のある丘陵地は、古くから
古館(ふるだて)と呼ばれていた所で、かつて野田城があった場所と推定
されている。1970(昭和45)年、野田小学校建築のため、野田村教育委員
会によって行われた古館山遺跡発掘調査で、堀跡・土累が検出されている。
野田領主は、南部信長の庶子親継(ちかつぐ)が1338(延元3・暦応元)年
に来住したことに始まる。野田城は1591(天正19)年の九戸政実の乱の
翌年、諸城破却令によりとりこわされた。

城跡の北1kmほどの所に海蔵院(かいぞういん 曹洞宗)がある。ここは
1186(文治2)年に平重盛の隠し子が臨済宗の寺院として開山した、
との伝説がある。曹洞宗としての開基は、1624(寛永元)年のことである。

野田駅から、西南へ2.3kmほどの所に野田中学校がある。野田中学校のある
あたりが、野田中平遺跡(のだなかたい 県史跡)である。縄文晩期から
平安時代にいたるまでの遺跡で、平安時代の竪穴住居が200基ほど存在する
と予測されている。また、野田中学校から西へ約7kmの日形井(ひがたい)
地区に、1986年、アジア民族造形館が開設された。古い南部曲り家を
改築し、アジア各国の諸民族の民具・衣装・器などが展示されている。

     ☆     ☆      ☆

アジア民族造形館は、こんな山の中にと思うほど奥の場所に
立派な民族博物館がある。

まだの方は一度見る価値がある。

岩手県の歴史散歩  その157
多忙のためしばらく休んでいました。
今もこのうえない忙しい状態ですが、少し書かないと私も忘れそうで..

  うちまぎどう
   内間木洞

JR久慈駅バス陸中小国(りくちゅうおぐに)行終点下車1時間30分

山形村は、典型的な山村で、かつては木炭の産地として知られていた。
内間木洞(県天然)は、バスの終点陸中小国から南東へ約6kmの
内間木集落を500mほどすぎた所に入口がある。まだ、観光施設が
未整備のため、村の教育委員会に連絡し案内人をつけてもらわないと入洞
できない。
内間木洞は、全長3200mの鍾乳洞である。大きくわけると、北洞・
南洞・稲妻洞の3つになるが。支路も多く迷路のようになっている。
洞内は保存がよく、鍾乳石・石筍・石柱・フローンストン(洞の壁面を
被う石灰石)などが発達している。また、コウモリ類の他に、トビムシ、
ナガコムシなどの原始的昆虫が生息しており、学術的に貴重なものである。
      + ー + ー
ただいま無事、前期日程の入学試験(工学部分)が終わりました。

岩手県の歴史散歩  その158
あいかわらず忙しい状態ですが......
この後、教務係に行って成績調べ。

     うしかたぶし
塩の道と南部牛方節

三陸海岸では、江戸時代から明治時代にかけて、海水を汲み、塩釜に入れて
煮詰める直煮(じきに)製塩がいたる所で行われ、1850(嘉永3)年には、
野田通りに27基の塩釜があったという。

野田で生産された「野田塩」は
     しもとくさり         かば
野田ー小峠ー下戸鎖ー小国ー平庭峠ー葛巻ー椛の木ー沼宮内ー盛岡
のルートや
  かみとくさり  かど
野田ー上戸鎖ー安家ー門ー早坂峠ー薮川ー盛岡
のルートで運ばれ、前者は約30里(120km)、後者は約26里
(104km)の行程であった。これが塩の道である。
なお平庭峠の上り口の馬寄平(山形村)に一里塚と馬継宿・塩倉が現存
している。

野田の塩を運んだのは南部牛であった。牛は馬に比べて足は遅いが、
馬では通れない山道を歩くことができ、餌は道端の草を食べさせるだけで
よかったからである。岩手県の代表的民謡として全国的に知られている
南部牛方節(南部牛追歌)は、こうして牛を追って歩いた牛方たちによって
歌われたものである。

 田舎なれども南部の国は 西も東も金の山 コラサンサエー

 つらいものだよ牛方の旅は 七日七夜の長の旅 コラサンサエー

このようにして運ばれた「野田塩」は、内陸部の米や粟(あわ)・稗(ひえ)
などの雑穀とされた。1905(明治38)年、塩は専売制となり、1910
(明治43)年にはすべての製塩は廃止された。

岩手県の歴史散歩  その159
 たねいち
  種市町立歴史民俗資料館と南部もぐり

JR種市駅下車7分

種市町は岩手県の最北東端に位置する町である。駅のT字路を右折し、
直進すると左側に町民体育館と並んで町立図書館があり、その図書館の
2階が種市町立歴史民俗資料館である。

展示室は、考古・南部もぐり・漁具・織物・農具・馬具・生活具・釣具・
津波の各コーナーからなっている。おもな展示物として総重量70kg
もの鉄銭(ニセ銭)がある。江戸時代中期頃から銅銭の不足を補う
ため鉄銭が市中に出まわるようになった。九戸地方は、砂鉄・木炭が
豊富で、山中深く隠れてつくる場所も多く、いたるところで鉄銭が
つくられたという。
また、江戸時代に発行された数多くの暦が展示されている。

資料館の展示の中心は、南部もぐりコーナーである。種市町は、南部
もぐりとして全国に知られている所である。種市の潜水士の歴史は、
1898(明治31)年、東京の貨物船名古屋丸が種市町平内(ひらない)
沖で座礁したことに始まる。翌年、船の解体のためにきた千葉県の
三村小太郎から、地元の磯崎定吉がヘルメット式潜水服による
近代潜水技術を教わったのが、南部もぐりの始まりである。

磯崎定吉が手始めに行ったのが、十和田湖神社再建のため、十和田湖
の湖底から莫大な御賽銭(おさいせん)を引き上げることであった。
その後、潜水技術は、磯崎一門を中心とする厳しい徒弟制度によって
継承されてきた。現在は、種市高校に水中土木科が設置され、その
伝統が受け継がれている。

      ☆     ☆     ☆

 岩手県には他にも偽銭つくりをしたところがあるようだ。
材料物性工学科の堀江教授から聞いたことがある。

岩手県の歴史散歩  その160
 やさか  こうしんとう
  八坂神社の庚申塔
            かるまい
JR・三陸鉄道久慈駅 バス軽米本線二戸行 大野役場前下車5分

北上山地北部の大野村には、その名の示すとおり準平原地形が
広がっている。役場前の国道395号線を鳴雷(なるいかずち)神社前を
とおって進むと、主要地方道八戸ー大野線に突き当たる。
国道は藩政期の九戸街道、八戸ー大野線は八戸街道で、大野はその
結節点にあたり、内陸と沿岸との荷物の往来や大野六ケ鉄山産出の鉄の
移出の駄送などでにぎわった在郷町である。
国道とのT字路を八戸方面に100mほど行くと、左に八坂神社があり、
鳥居の右側に自然石を用いた庚申塔がある。地表に出ている部分の大きさは
高さ90cm・幅60cm・厚さ46cmである。正面に日・月の図と
「庚申塔」の文字、左側面に3行書きで「施主晴山氏 村中」、右側面に
「安永五丙申年七月」とあり、1776年の建立であることがわかる。
施主晴山氏は大野村最大の在郷商人で、代々吉三郎と称し名主も兼ね、
一時は大野六ケ鉄山も経営した。

1790(寛政2)年9月、寛政の3奇人の1人高山彦九郎が当地を旅し、
「北行日記」にその様子を記している。
高山彦九郎は八戸街道を通って当地に入り、晴山家で昼食に稗飯(ひえめし)
をもてなされている。そして阿子木(あこぎ)の二ツ屋で宿泊し、久慈に
むかって再び当地に戻り、九戸街道を赤石峠にむかっている。
天明の飢饉(1783ー88年)直後のことであり、その惨状をつぶさに
見聞し、日記に記している。当時の八戸街道は、大野村内では現在の
八戸ー大野線よりは南側を通っていたが、その遺構はほとんど残っていない。

八坂神社脇から新田にむかう途中の山林に、旧道をはさんで新田一里塚が
残っている。

      ☆     ☆     ☆

稗飯は、今では高級郷土料理として盛岡でも食べられるが
江戸時代当時いや昭和のころまで、米のできない岩手農民の主食の1つで
あったとか。あの、おしんに出てきそうな場面です。
高山彦九郎の天明の飢饉の記録は、今なら阪神大震災レポートか。

次回から一戸に移ります。

岩手県の歴史散歩  その161
 一戸城跡

JR一戸駅バス二戸駅行一戸本町下車5分

バスで国道4号線を北上し、馬淵川にかかる橋を渡った所から右手一帯が
段々畑となり高台に続いている。ここが一戸城跡である。
また、一戸バイパスを北上し、左側の道路案内を注意していれば、やがて
一戸城跡の標識が見える。高台が平地となり、公園化されている一帯が
一戸城の主要部分であり、八幡館・北館・神明館・常念館などから構成
されている。現在は公園や民家、畑地が入り組んでおり、当時の姿を示す
物は、城跡としての空間と空堀の一部のみとなっている。
代々一戸南部氏がここを居城と定め、その一族が築いた館や城が町内各地に
存在する。一戸城は1591(天正19)年の九戸政実(くのへまさざね)
の乱前は南部信直(なんぶのぶなお)の城だったが、九戸方に返り忠する
者があり、政実の南の前線基地となり、一戸彦九郎が上方勢にそなえて
籠城(ろうじょう)したが、大軍に敵せず城を焼いて九戸城に退いたという。

      ☆     ☆     ☆

戦国時代最後の戦争とされる九戸城をめぐる戦争については
二戸市のところで説明します。

岩手県の歴史散歩  その162
 とりごえ
  鳥越観音堂

JR一戸駅バス二戸駅行鳥越観音前下車30分

バス停から100mほど戻ると鳥越観音の巨大な鳥居がある。
その左手下の道の民家群を過ぎ、さらに山道の参道を30分ほど歩けば
1859(安政6)年改築の仁王門があらわれる。その平和の鐘
(1953年奉納)を叩き、さらに石段を上り詰めると岩屋があり、観音像が
安置されている。

岩屋への道は幽玄な大自然そのものであり、内部はヒンヤリと冷たく古く
から続く信仰の神秘性を感じさせる。807(大同2)年慈覚大師の開祖と
伝えられ、代々天台宗の修現道場であった。奥州糠部(ぬかのぶ)の第29番
札所でもある。御詠歌「いにしえの名のみを聞いて尋ねくる鳥越山とは
これぞこの山」と歌われ、遠近からの参詣者も多かった。1688(元禄元)
年火災にあい古文書・宝物の多くを失ったのが惜しまれる。

      ☆     ☆     ☆

本題とは関係がないが(一種の息抜きです)
鳥越と聞くと、大瀬しのぶという御当地のタレントを連想してしまう。
ペコ&ペコを世に売り出す時のコマーシャルで大活躍した
あのおじさん。

小牧温泉でも芸を見たし、いわゆる南部土着の芸人。

彼が、冷麺を食べたときの一声「kitah」と叫ぶのを
「chitah」と聞こえたら、あなたは東京言葉に害されている。
情報工学科の三輪先生の音声の研究によれば
東北の言葉は、母音の混ざり合った音で
アとエの中間音、アとオの中間音、アとウの中間音などがあふれる
英語やドイツ語に近い
つまり東北の言葉はヨーロッパ言語に近い、世界的な発音ということになる。

新幹線が北上駅に近づくと、アナウンスが
「kitakami」と車内放送されるが、私には「chitakami」と聞こえるので
まだ訓練が必要。

 決して、当地の言葉を揶揄しているわけではありません。

岩手県の歴史散歩  その163
 おうえい ほうきょういんとう
  応永五年の宝篋印塔

JR一戸駅バス出(いず)ル町行宮田温泉下車5分

バスを降り100mほど歩くと右手に民家がある。その脇の薮道を上り
裏山に出ると雑木の下にわずかな平地があり、そこに宝篋印塔(県文化)
がある。県内最古の宝篋印塔で、左端の1基の3面に「右意趣者(は)
為二親兄五人忘妻息三人故也乃至(ないし)法界平等利益故也 応永五年
戊刀(寅)二月廿九日施主敬白」の銘文が刻まれている。
応永5年は1398年に当り、銘文の内容から両親・兄5人・妻及び
子供3人の霊を慰める目的で建てたことがわかる。またこの地を数代に
わたり支配していた豪族がいたことが考えられる。

宝篋印塔はインドのアショカ王の建てた8万4000塔の故事に習い
中国五代(10世紀前半)につくられた金銅製の塔で、日本へは957
(天徳元)年に僧日延によってもたらされたという。
鎌倉時代には石造となり、墓碑や供養塔として建てられている。
形式は下から基礎・塔身・笠・相輪の四つの部分からなり、平面形は相輪
以外すべて四角で、笠の四隅に隅飾りという耳状突起が立つのが特徴である。

分布は二戸地方に100基以上集中的に存在し、県中央以南にには少ない。
対照的に同時代の石塔婆(板碑)が県中央以南に1000基以上存在するの
に、
県北部はわずか5基のみである。板碑の集中地域は北上川を下り
宮城県石巻まで続き、中世葛西氏領で盛んであったことを物語っている。
これに対して、宝篋印塔の造立者は南部氏にかかわる人々と思われるが、
南部氏の拠点の三戸・八戸地方に少なく、今一つ不明な点もある。
この解明は中世南部氏の移住及び勢力拡大過程を知る手がかりとなりうる
ものである。

      ☆     ☆     ☆

両親・兄5人・妻及び子供3人の霊を慰めるため建立した人の
悲しみは、いかばかりだったろうか。どうやらひとりぼっちになったらしい。
現代なら交通事故か火事か、あるいは地震被害が考えられるが。

さて以下にはやや専門的解説が続くので、興味のない人はとばして
ください。

野外につくられた石造物は、石造美術といってもよく、
石造文化財ともよばれている。主として仏教信仰にかかわるものをいい、
古墳時代の石棺・石人石馬などは石造美術とはよばない。
便宜的には石塔(墓碑)と石仏に2分し、それ以外の石造遺物を加えるのも
一方法であろう。
ここでは石塔のみ説明することにする。

層塔
石造の卒塔婆(そとうば 塔)を広義に石塔とよぶが、
狭義には石塔すなわち層塔のことである。
層塔は、多宝塔・宝篋印塔・五輪塔などの基本でもある。
中国では5世紀、朝鮮では7世紀から遺品がみられ、日本の石塔は朝鮮の
影響によってつくられるようになった。
多層塔・多重塔ともいわれ、三重、五重、七重、十三重と奇数につくられる。
わかりやすく言えば五重の塔のミニチュアを石で造ったもの。
日本のお寺にも時々見られるが、中国や朝鮮には立派なものがあるようだ。

多宝塔・宝塔
下層平面を四角にとり、円形の下層に四角の屋根をのせ相輪をたてるのが
多宝塔である。塔身の平面は円形で、上に首部をつくり、四角の屋根の上に
相輪をたてる単相のものを宝塔とよぶが、前者の遺品はきわめて少ない。
大小の木造塔から発達して平安前期から密教系の石造多宝塔がつくられる
ようになる。

宝篋印塔
過去現在未来にわたる諸仏の全身舎利を奉蔵するために「宝篋印陀羅尼
だらに経」を納めた供養塔を宝篋印塔といい、石造は鎌倉中期から造立され
た。
基本的には基壇上に、基礎・塔身・笠・相輪をつみあげ、塔身の四面に
梵字を彫る。次の五輪塔とともに、石塔のうちでもっとも普遍的である。

五輪塔
地・水・火・風・空の五大を宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づいて
平安時代に創始されたものである。宝篋印塔とともに、全国的に分布してい
る。
在銘最古のものが中尊寺釈尊院塔である。 仁安4(1169)年銘
またまたひらたく言うと(専門家から抗議がきそうだが)
立方体サイコロの上にお団子(トマトかカボチャのような偏平の球)
その上に三角屋根をのせて、さらにその上に石を2個重ねたもの。
このネットニュースに絵が入れられたら簡単にわかるのだが、
あのコミックおそまつ君のキャラクターのチビ太が
好きなオデンをイメージしていだけたらよいのだが。

石塔婆(板碑)は簡単に言えば墓石にトンガリ屋根をつけたようなもの。
鎌倉時代におこり、室町時代には形式化しながらも量的には増加をみ、
ほぼ中世にかぎって造立された。東北では凝灰岩(ぎょうかいがん)を
多用している。
オウムで有名になった梵字が彫られている。もちろんオウム真理教が
梵字を借用したわけであるが。

釈迦の没後、遺骨(舎利)を納めるため建立したのが
舎利塔(stupa)である。紀元前3世紀アショカ王は舎利を再分割し、
全土に8万4000塔を建てさせたわけである。
現在インドの有名なサーンチーのストゥーパ(塔)は、この塔をもとに
紀元前1世紀に建立したものである。
仏教崇拝の歴史はやがて仏塔の前面に礼拝堂をつくり、その周囲に
伽藍・僧坊が建てられ、寺院の規模が成立したとみられる。

1世紀末、ガンダーラやマトゥーラに仏像が出現すると、その仏像を安置し
礼拝し、修行・布教するところの建物が必要になった。仏教の進むところ
堂塔・伽藍がいとなまれ、寺院が建てられていった。

日本が世界に誇る五重塔も、もとはと言えば、サーンチーのストゥーパ
から来たものであるとか。
石塔もそのバリエーションとみなせないこともない。

いちおう歴史散歩事典(山川出版社)を参考にしました。

この文章を書いている最中に、編集ソフトが突然ハングアップ
キーが動かない。
前にも起こったことだが、私もさすがに慣れて、組み込まれている別の
簡単なワープロソフトに作りかけのこの文章をコピーして
そちらで完成させて、送る文章に再度コピーしなおしてから
さあ投稿。うまくいくか。

   つぎへ    はじめにもどる