岩手県の歴史散歩

岩手県の歴史散歩  その101

 おおかご
  大籠のキリシタン史跡

JR千廐駅バス花泉行藤沢下車、乗換え大籠行大籠農協前下車1分

バス停西側の小高い丘に十字架の尖塔が見える。
これがローマ法王庁のお声がかりで建てられた大籠教会堂である。

仙台藩の禁教は外国貿易による藩の利益優先のため幕府より8年も遅く、
支倉常長(はせくらつねなが)がローマから帰国した1620(元和6)年
から始まる。

ここ大籠は1639(寛永16)から3カ年にわたって、
磔・打ち首・鉄砲での狙い撃ちなどで、300余人が殉教したと伝えられ、
その主要な史跡がこの教会堂周辺に点在し、資料館など大籠キリシタン
殉教公園の整備が進行中である。

大籠農協バス停のそばには地蔵の辻(一名無情の辻)がある。
ここで200余人が打ち首、磔などにされ、その鮮血は刑場下の二又川を
染めたと伝えられる。
菩提を弔う首のない地蔵や、供養碑、庚申塚など大小十数基の碑が
立っている。
地蔵が辻から道路をへだてた所に首実検石があり、仙台藩の検視役人が
この石に腰を下ろし、首実検をしたと伝えられる所である。

教会を巡る歩道沿いに上野刑場跡と元禄の碑がある。
1640(寛永17)年に94人が処刑されたと伝えられ、8基の
地蔵尊が立っている。当時、遺体の処理は厳禁されていたが、
1703(元禄16)年になりようやく供養碑が建てられたという。

上野刑場から西へ数分の所には、処刑中逃げ出した者を捕え、
銃殺にしたと伝えられる祭畑(まつりばた)刑場跡がある。
バスの高金(たかがね)停留所付近にはトキゾー沢刑場跡がある。
トキゾー沢というのは「徒刑場沢」の訛ったものと伝えている。
供養碑が2基あり、長松以下12人の名が刻まれている。

ここから100mほどの所に架場(はしば)首塚もある。
架場の名は殉教者の首を架掛(はしかけ)にして、さらしたからといわれている。

地蔵の辻から分れる道を北東に行くと上袖(かみそで)の首塚が道路わきにある。
地蔵の辻の殉教者の遺族が、深夜首を袖に包んで盗みだし、ここに埋めた
ものといわれている。

また千松沢(せんまつさわ)最北の地には大善神がある。
通称流行神(はやりがみ)と称し、
大善神(キリスト)を祀ったものと伝えている。

   ☆     ☆     ☆

あの遠藤周作も、大籠を訪れたら、また大作を書いたでしょう。

岩手県の歴史散歩  その102
 おおかご
  大籠の製鉄

JR千廐駅バス花泉行藤沢下車、乗換え大籠行大籠農協前下車1分

大籠は歴史的にキリシタン殉教の地であったほかに、製鉄地としても
知られている。
それまでの在来技術に対して新技術が導入されたのは、
永禄年中(1558ー70)に葛西氏の家臣千葉土佐が、備中国
(びっちゅうこく 梶原先生ゆかりの岡山県ですね)に千松大八郎・小八郎
兄弟を訪ね、新技術を学んで帰国し、その後千松兄弟をこの地に呼び、
砂鉄を精錬したのがはじめと伝えられている。

最初桃生郡(宮城県)福地村・女川村・鞍曽根村・橋の浦村などで精練を
行ったが、砂鉄の原料と燃料を追って精錬地は北上した。

大籠では炯屋(どうや  製鉄所)を経営する八人衆の千葉土佐・首藤伊豆・
須藤相模・佐藤淡路・佐藤治・佐藤丹波・佐藤肥後・沼倉伊賀らが
千松兄弟の門下として育ち、その後ここでの製鉄は、明治初期まで
280年間も続いたのである。

   ☆     ☆     ☆

八人衆の名前は、姓はともかく、名の方は地名みたいだ。
技術者の一種のホーリーネームだったろうか。


岩手県の歴史散歩  その103
うすぎぬ
  薄衣の町と蔵

JR一関駅バス千厩行薄衣下車5分

川崎村の町場薄衣は、北上川沿いに立地している関係でしばしば水害に
あっており、現在地に至るまでに4カ所、法道寺(ほうどうち)町場
(1199年)→下宿町場(1440年)→向本町町場(日の坂平、
1630年)→今本町町場(諏訪山、1662年)と移動したといわれてい
る。

ここの町場の発祥は、覚え書きによると1199(正治元)年河西氏の家臣
千葉清村(きよむら)が薄衣館に居住し、家臣を養ったことによる。
河西氏時代以前は、平泉藤原氏時代さらに古くは阿倍氏時代から浜街道として、
人馬の往来や北上川舟運の停泊地として格好の場所であった。

現在の薄衣町に発展した町場は、1662(寛文2)年に諏訪山に移転して
つくられたものであり、当時は仙台藩の御本蔵(ごほんぐら)が
3棟あって7万石の米が収納されたという。
享保年間(1716−36)には御本蔵の立替や一関田村藩の塩蔵もあり、
納米の搬入・人馬の往来・諸役人の駐在などで盛んに市なども立ち
繁昌したのである。

また明治・大正の初期には、砂鉄川と千厩川が北上川に合流する交通の要路
として、発動機船の運航や気仙沼線の乗合馬車が往来し、東磐井の横浜と
称せられるほどの盛況をみたといわれる。
しかし、1925(大正14)年国鉄大船渡線が開通し、かつての盛況も
終わることになるが、今でも217戸の商家と1000人の町場を保ち、
8月の北上河畔での花火大会と川崎村役場わきにある伊達藩御蔵跡の標柱が
往事をしのばせる。

   ☆     ☆     ☆

上の文章は一昨日、家でノートパソコンで書いて、本日投稿したわけですが
前に作った文書ファイルを、投稿記事のファイルに移し替えるには
もっちーさんに教わったように、ウィンドウズ上では
「ライト」という一種のエディター画面に、一昨日作った文書ファイルを
読み出して、それをコピーでコピーするわけです。
ニュース記事を読む画面と「ライト」画面の両立
わかっている人にはなんともないことが、私はようやく1年たって
自由にできるようになりました。
(ニュース記事とライトのアイコンを移動して、同じ画面で扱えるようになった)

 わざわざ報告するほどのことでもない、そういうことを書くと
自分の素人かげんを公表するようなものだと諌める向きもあろうかと
思いますが、
私の乏しい語学学習体験では、恥をかくことを恐れず
どんどん恥をかきながら覚えていくのが一番、そう思っているので
あえて書いています。

 もっちーさん、ありがとう

岩手県の歴史散歩  その104
 けんちょう
   建長の碑

JR岩ノ下駅下車15分

駅から線路沿いに南に約15分歩くと、大船渡線踏切そばに
最明寺(さいみょうじ 天台宗)がある。「略縁起」によれば、
養老年間(717ー724)鎮守府将軍として磐井地方の討伐に功績が
あった大野東人(あずまんど)の創建で、嘉祥年間(848ー851)に
慈覚大師円仁(えんにん)により中興されたと言われる。

この寺の山門左手に岩手県では最古の建長の碑(県文化)があり、
1256(建長8)年の建立である。
この碑は2基からなる双式碑で、粘板岩の薄板石の上方を山形につくり、
表面は界線で上下二つに区分し、上に種字(しゅじ)(梵字1字をあてて
一定の仏・菩薩をあらわす)、下に銘文を刻んである。

左側の碑(むかって右)には、金剛界大日如来種字(バン)を日輪の中に
あらわし、下に紀年「建長八年丙辰二月廿九日」と刻まれている。
右の碑(むかって左)には、胎蔵界大日如来種字(アーンク)を左の碑と
同じようにあらわし、下に「右志者爲父母二親也」と意趣文が刻まれ、
建碑の目的が両親の追善であることがわかる。

   ☆     ☆     ☆

1256年といえば約740年前
石は永く残るものだ。

岩手県の歴史散歩  その105
        らいごう 
   二十五菩薩と来迎阿弥陀

JR岩ノ下駅下車20分

駅から松川の町をすぎると、東山町公民館松川分館に出る。
ここの収蔵庫に二十五菩薩と来迎阿弥陀如来坐像(県文化)が納められ
ている。収蔵庫の後ろには1829(文政12)年建立の二十五菩薩堂がある。
松川分館に依頼すると見せてくれる。

本尊の阿弥陀如来は、坐像でカツラ材、坐高110cm、寄木造・漆箔仕上げ
で衣文は翻波式の名残をとどめている。頭部は後補である。
菩薩像は現在23体ある。やはり頭部はなく胴体、足の部分のみである。
製作は平安末期とみられ、奥州藤原氏時代のものである。
平泉文化圏内では来迎群像を残すただ一つの例であるだけでなく、
全国的にみても彫刻では京都の即成院にあるだけである。
他に飛天が7体残っているが、やはり頭部が欠けている。

   ☆     ☆     ☆

阿弥陀如来も菩薩も飛天も
みな頭部が欠けているのは、何か原因があるのだろうか。
(学会の謎 ?)

岩手県の歴史散歩  その106
  からうめたて 
     唐梅館跡

JR猊鼻渓(げいびけい)駅下車30分

長坂は東山町の中心街であり、砂鉄川と猿沢川が合流するところに広がる。
町の北側に比高200mの唐梅館山があり、山頂一帯が唐梅館跡である。
山全体が森林自然公園として整備され、町役場前から海洋センター脇を
通って上がる道がある。

主郭は東西53m・南北27mの楕円形で、北側に土累が巡っている。
館主は千葉頼胤(よりたね)で、葛西清重の重臣であり、磐井郡各地の
千葉市の祖である。
土累に頼胤の供養碑があり、1822(文政5)年の「御出馬東山通
御案内手控」に子孫の者が建てたことを記している。
1590(天正18)年に小田原参陣の可否について、葛西氏麾下の部将
がここに参集したと伝えられる。

館跡の東方に、猿沢川に臨んで幽玄洞(ゆうげんどう)がある。
3億5000万年前のウミユリなど海底生物の化石が発見された鍾乳洞で、
見学できる。

また駅の南方には猊鼻渓(国名勝)があり、船下りが楽しめる。
石灰岩層が砂鉄川に侵食されてできた渓谷で、2kmにわたっている。
藤の花が咲く頃と紅葉の時期が特に美しい所である。

   ☆     ☆     ☆

麾下 (きか) 大将の陣所 また、その部下
漢和辞典が離せませんね。

猊鼻渓の船下りは全国的にも有名
石灰岩を採掘しないで、渓谷の風景を楽しむような利用方法を
考えた人に深く敬服する。

岩手県の歴史散歩  その107
   あしとうざん
     芦東山先生記念館

JR摺沢(すりさわ)駅バス大原行宿(しゅく)下車10分

バス停から東川院という寺院を左に見て数分なだらかな坂を上った
所に 芦東山先生記念館 がある。

記念館に利用されている屋敷は幕末伊達13代当主の来訪を予定して
建てられたもので、その庭園とともに一見の価値がある。

記念館の所蔵品は「無刑録」原本(県文化)、元老院版「東山日記」
東山あて室鳩巣(むろきゅうそう)書簡などである。

東山は、葛西の旧臣で渋民村に帰農した岩渕氏の子として1693
(元禄6)年に生まれた。幼年時代正法寺の定山和尚に学び、のちに
仙台藩の儒臣となった。
藩主に従い江戸へ行き、室鳩巣の門下となった。
室鳩巣の「本邦に律令の書の完備せざる」という依頼に基づき
1755(宝暦5)年「無刑録」14編18巻を完成した。
その主なものは24年間の幽閉生活中に執筆され、
出版されたのは明治になってからである。

「無刑録」は「欽血」すなわち仁愛の心で対処することが
刑をなくすことであると説いたものである。
彼は中国明代までの刑律の単なる収録・研究に終わることなく
諸産業に関しても積極的に意見を表明している。
それは「貧苦ニセマリ候者ハ宜シキ心懸モ失ヒ...」
という観点から仁愛による無刑の社会の実現をめざすために
であった。

     ☆     ☆     ☆

室鳩巣はテレビ番組の徳川吉宗でも おなじみ

岩手県の歴史散歩  その108
   ぶんきゅうざんてつざん
         文久山鉄山跡

JR摺沢(すりさわ)駅バス市之通行終点下車5分

興田(おきた)川支流の鳥海川に沿って、渋民から田原峠を越えて
江刺市田原に至る道がある。
文久山鉄山跡はこの道すじの丑石集落と田原峠の中間の鳥海川西方の
畑の中にあり、標識がなければ見過ごしてしまう。

この鉄山は仙台藩が開設した洋式高炉で、芦東山の子孫にあたる
芦文十郎が計画をたてたものである。
開設の認可は1860(万延元)年で、創業は1861(文久元)年
であるから、釜石の橋野高炉に遅れること4年、日本で11番目である。

鉄鉱石は江刺市の赤金(あかがね)鉱山から運び、年間8万5000貫
を生産した。製品は鍬などの農具に加工されたが、大部分は岩谷堂から
船で石巻銭座に運ばれて銭に加工された。

文久山鉄山の生産不足を補うため、興田川上流に
1863(文久3)年に経津畑(きょうづはた)鉄山が開設され、
12万貫生産された。越路峠を越えれば赤金鉱山は近く、能率がよかった。
これら鉄山は当時としては最先端の産業であったが、
1882(明治15)年頃に廃業となった。

     ☆     ☆     ☆

しばらく休んでいました。


岩手県の歴史散歩  その109
    だいこうじ
     大光寺の薬師如来立像

JR千廐(せんまや)駅バス一関方面行本町下車3分

バス停から道を戻ると千廐川にかかる橋から大光寺の山門が見える。
大光寺(曹洞宗)は、890(寛平2)年頃天台宗真福寺として
開山し、1404(応永11)年曹洞宗に改められた。

収蔵庫に収められた薬師如来立像(県文化)は、平安時代後期の作で
ある。像高153cm、一木造である。
頭部は前後ではぎつけ、背ぐりがあり背板をつけている。
像容はおだやかで、ほのぼのとした情感を漂わせ、
中央の様式変化の影響が岩手にもおよんでいることをうかがわせる。
法衣に彩色した痕跡がある。

     ☆     ☆     ☆

千廐町は、このあたりの中心地か。
岩手県と宮城県の県境近くなので、宮城ナンバーの車も多く見かける。

岩手県の歴史散歩  その110
    むろね
     室根神社

JR折壁(おりかべ)駅下車、車利用15分

室根山の8合目に室根神社の本宮(祭神伊弉冉諾命)・新宮(祭神速玉男命)
の2社が並び立っている。
室根山は古くは「牟婁峯(むろね)山」と記されており、
これは紀州牟婁郡に由来することから、この2社は熊野権現から
勧請したといわれる。
勧請は本宮が奈良時代に大野東人によって、新宮は1313(正和2)年に
葛西清信によってである。

頂上からは眼下に気仙沼市を越えて三陸の海、西は東磐井から平泉方面まで
ながめることができ、宮城県本吉・気仙・東磐井の総鎮守として
信仰を集めた。

閏(うるう)年の旧暦9月17日から19日まで行われる
室根神社マツリバ行事(国民俗)は古式をそのまま残し、
何百年にもわたって祭典に参加する家が固定し、子々孫々受けつがれており、
祭典の形式も基本的には変化していない。
祭典は最終日の早朝、両社の先を争う仮宮遷宮行事でクライマックスに達する。

     ☆     ☆     ☆

勧請 かんじん
とは、
寺社・仏像の建立・修繕などのために寄付を募る
ことを言います。

勧請帳とは、この勧請の趣意を記して、金品を募集する帳面
を言います。
安宅(あたか)の関で、弁慶が勧請帳を読んだ話が有名です。

勧請が寄付をいただくことから変化して
ものもらい(乞食)を表す場合は
五木の子守歌の一節
「おどま、かんじん かんじん....」
にあります。

次回からは三陸海岸に入ります。

岩手県の歴史散歩  その111
   南部三陸海岸

これから岩手県の海岸部の歴史になります。
その前に南の三陸海岸のあらましを、おさらいしましょう。

岩手県南東部は、県内で最も温暖であるが、耕地はきわめて狭く、
人々は海と山に頼って生きてきた。海岸は典型的なリアス式の
沈降海岸として知られ、黒潮が躍る沿岸にはツバキ・シュロ・ビワ
などが自生する。

旧石器文化の痕跡は乏しく、碁石遺跡が唯一の例である。
縄文時代には、海山の幸に恵まれて多くの遺跡が残されている。
特に、大船渡湾岸を中心とする貝塚群は、日本有数のものである。
また、鍾乳洞を利用した洞穴遺跡も少なくない。

古代の記録はほとんどないが、北半は奈良初期頃に閉伊(へい)郡
の前身として朝廷の支配下に入ったと考えられる。
南半では遅くとも平安初期までに気仙(けせん)郡が設置され、
安倍氏系統の金(きん)氏が郡司に任ぜられたと思われる。
平泉文化は、当地域の産物、特に金によって支えられたと伝えられている。

平泉滅亡後、南半は葛西氏、北半は閉伊氏あるいは阿曽沼(あそぬま)氏
など、関東武士の所領となった。室町時代初め、北半では阿曽沼氏の一族の
大槌(おおづち)氏が台頭する。やがて、豊臣秀吉の奥州仕置により
旧勢力はすべて没落し、北半は南部氏の盛岡領、南半は伊達氏の仙台領
となった。
古来、この地は鉱産物(金・鉄)と海産物に恵まれていた。
秀吉による玉山金山の直轄、吉里吉里の豪商前川善兵衛の活動は、
近世のよい例である。だが、北半では盛岡藩の苛政に抵抗して、
幕末に三閉伊の大一揆が行われた。その4年後、釜石でわが国初の
洋式高炉が出銑に成功している。

明治維新後、鉄・セメント・紡績などの近代産業の発達が見られたが、
全般的には近代化に取り残されてしまった。

現在、慢性的過疎化の中にあって、交通網の整備を契機にして、
地域活性化の努力が続けられている。

なお、この地は、1896年の三陸大津波を最大の例として、
たびたび甚大な津波の被害をこうむっている。

     ☆     ☆     ☆

旧石器文化の痕跡は少ないとされているが、
今後の発掘、研究によっては書きかえられることもあろう。

特に東北大学を中心とした
石灰岩性の鍾乳洞の中での、旧石器人類の骨の発掘が期待される。
火山灰では人骨は残らないそうである。

岩手県の歴史散歩  その112
  りくぜんたかた
    陸前高田市立博物館

JR陸前高田駅下車9分

駅前の交差点を右折し東へしばらく進むと、窓のない褐色の建物
が左手に見えてくる。
陸前高田市立博物館である。市の体育文化センターの一画を占めており、
図書館・市民体育館・中央公民館などが立ち並んでいる。

建物は2階建で、1階に自然・生物・歴史関係展示室、事務室、
研修室、作業室、収蔵庫、2階に民俗関係展示室、特別展示室、
収蔵庫がある。

特別展示室では、年2回 8月と11月に企画展が行われる。
なお、前庭は屋外展示場となっており、現代フランスの彫刻家
セカリーの抽象作品や、市内矢作(やはぎ)町産出の
化石標本が置かれている。

自然関係の展示品では、1850(嘉永3)年に市内気仙町
長円寺(ちょうえんじ)境内に落下した、日本最大の石質隕石(いんせき)
が注目される。当時135kgあったが、万病の薬などの理由で
欠き取られ、現在106kgである。
ただし、これはレプリカ(複製品)で、実物は国立科学博物館にある。

なお、展示されていないが、収蔵庫の目玉といえるものとして、
地元出身の博物学者鳥羽源蔵(とばげんぞう)の貝類コレクションがある。
西太平洋を中心に広く世界中から集められた標本は、
総数1万1000点余の日本有数の大コレクションである。

     ☆     ☆     ☆

鳥羽源蔵の貝類コレクションは現在は博物館に展示されているが
この陸前高田市立博物館であるかどうかは不明。
地元の皆様のフォローをお願いします。

岩手県の歴史散歩  その113
   たかたまつばら
    高田松原

JR陸前高田駅下車20分

駅の南方、水田や国道のむこうに見える松林が、陸中海岸国立公園の一部を
なす高田松原(国名勝)である。駅前の交差点を右折し、10分ほど
行った所の交差点をまた右折して、そのまま進めばよい。

1637(寛永14)年の大洪水で気仙川の流れが大きく変わり、
その後、左岸に広い田地が開かれたものの、海風の害がはなはだしかった。
そこで、高田村の菅野杢之助(かんのもくのすけ)が海岸への植林を
思いたち、1667(寛文7)年から1673(延宝元)年にかけて
松を植えつけた。さらに1720年頃、今泉(現気仙町)の松坂新右衛門
(まつざかしんえもん)が植林している。
2人が植えた松林は人々の努力によって育てられ、風・潮・砂を防ぐとともに
白砂青松の美景をなし、逍遥の地そして海水浴場として親しまれている。
長さは約1.8km、クロ松が主体でアカ松が混じる。

1926(昭和元)年日本百景、1930年東北十景に選ばれ、
1940年国指定名勝となる。1986年には森林浴の森日本百選に
選ばれている。

     ☆     ☆     ☆

この高田松原は有名。
先人の苦労をしのび感謝しましょう。

明治三陸津波や昭和三陸津波に耐えてきた高田松原も
2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災では、歴史的な大津波により
ほぼ全ての松がなぎ倒され壊滅した。
わずか一本の松が奇跡の松として残ったが、それも枯れてしまった。
しかし、この松の小枝から苗を育てているので、将来高田松原も再生されるであろう。

岩手県の歴史散歩  その114
   ふもんじ
    普門寺

JR陸前高田駅バス立根(たつこん)・広田(ひろた)行万人供養下車25分

バス停の東方の橋を渡って左折し、次の橋を渡ってそのまま行くと、
ひときわ大きい杉や松の林が見えてくる。普門寺(曹洞宗)である。

寺伝では、臨済宗の開祖栄西の弟子記外(きがい)が、1241(仁治2)
年、宋から直接当地に来て、気仙郡司金右馬助(きんうめのすけ)安倍
定俊(あべさだとし)の助力を得て、万人供養バス停の近くに寺を建てた
のが始まりであるという。

その後、一時廃絶するが、戦国時代の1504(永正元)年、浜田城(米崎町)
主千葉宗綱(むねつな)によって現在地に再興されたものである。
1591(天正19)年と1867(慶応3)年に大火にあっており、
本堂は1877(明治10)年再建のものである。

本堂裏手の三重塔(県文化)は1809(文化6)年の建立で、高さは
12.5mと小形だが、各層の軒裏の意匠はすべて異なり、江戸時代から
活躍した技術者集団気仙大工(けせんだいく)の傑作の1つである。
県内唯一の塔婆建築でもある。

塔の脇には、これも県内で珍しい露座の青銅造大仏が鎮座している。
高さは約5mで1818(文政元)年建立と伝える。

     ☆     ☆     ☆

三重塔と露座の大仏は珍しいので
私も見たいものだ。

岩手県の歴史散歩  その115
    玉山金山跡

JR竹駒駅バス遠野方面行壷の沢下車60分

バス停の少し先を右に折れ、集落を過ぎ、右手に壷の沢の清流を見ながら
上って行く。40分ほどで竹駒駅からの道と合流し、その先に岩壁が
見えてくる。このへんが玉山金山の入口で、かつて検問所が設けられていた。
途中、右手に人工の平地と石垣が残る精練所跡を見ながらさらに上ると、
玉山高原センターがある。その一角に伊達氏の金山下代松坂家屋敷跡の
標柱が立っている。ここから上手と谷の対岸にかけて、400年前頃
玉山千軒が広がっていたのである。
今はすべて山野となり、木町・肴町・穀町・呉服町・鍛冶町などの地名が
残るだけである。

古代から、宮城県北部から岩手県南部にかけては、産金地帯として
知られてきた。記録はないが、玉山金山も古い時期に開発されたとされ、
さまざまの伝承が残る。大仏造営にかかわる行基による開発、
平重盛による唐の育王山(いくおうざん)への金の寄進、宋版一切経購入や
金色堂そして金売り吉次にまつわる平泉文化の富、さらに元寇襲来の目的と
マルコ・ポーロの黄金の国ジパング説話などなど、わが国の黄金文化に
かかわるあらゆる栄光がここで語られる。

しかし、確かなことは、安土桃山から江戸初期にかけての繁栄のみである。
1592(文禄元)年に秀吉の直轄となったが、あまりの搾取に掘り子の
一揆が起こり、3年後には政宗の支配に戻っている。
隆盛も長く続かず、元和年間(1615ー24)を境に衰えはじめた。

     ☆     ☆     ☆

鉱山のはなやかなりし頃と今の廃墟の対比は
北海道の空知地方の昔の炭坑地帯を歩けば、どこにも見られる。

ひととき炭坑は経済の原動力となり、文化の中心でもあった。
そういう所を歩いてみると、昔のことを知っている者にとって
栄枯盛衰、産業や工業の交代、世の中の移ろいを感じられ
般若心経 仏教の空の意味を考えてしまう。

八幡平の麓にある、岩手県松尾鉱山跡地もまさにそうだ。

岩手県の歴史散歩  その116
  こうしょうじ
   光勝寺

JR竹駒駅バス遠野方面行世田米下車2分

バス停の斜めむかいの道を入るとすぐの所に、光勝寺(真言宗)がある。
創建は未詳であるが、平泉繁栄のとき、この地にあった野尻金山の掘り子
のために、藤原秀衡(ひでひら)が建てた阿弥陀堂が開基だと伝えられる。
その後たび重なる災害にもかかわらず、創建以来のものとも考えられる
阿弥陀三尊がそろっている。

本尊阿弥陀如来坐像(県文化)と脇仏の観音・勢至両菩薩はいずれも寄木造で、
本尊は鎌倉前期の建保年間(1214ー19年)の墨書銘がある。
カツラ材で高さは52cmである。寺では運慶の作と伝えているが、
平泉文化の影響を受けた仏像であるといえよう。

     ☆     ☆     ☆

この世田米のある住田町は車で行くなら通り道
(国道340号と107号の重なる所)
だが、汽車で行くのは大変

岩手県には、こういう場所が多い。

岩手県の歴史散歩  その117
  じゃおうどうけつ
     蛇王洞穴遺跡

JR竹駒駅バス遠野方面行葉山下車3分

気仙川の右岸の高さ約20mの崖の下部、国道のかたわらに東にむかって
蛇王洞穴遺跡が開口している。
現在の河床面より7mくらい高いが、かつて河水で侵食形成された洞穴である。
間口12m・奥行4m弱である。

1929(昭和4)年に人骨が掘り出されたが、1963年に
東北大学によって本格的に調査され、縄文早期の遺跡であることが
確かめられた。断続的に小人数の野営地として使用されたらしい。

土器・石器・骨角器などの人工品が少量と、鹿・イノシシ・サル・アナグマ・
犬・ムササビ・大型鳥類の骨やマグロ・イガイ・カワシンジュ・アサリ・
カキ・シジミなどが出土した。海産の魚介が含まれているが、
川沿いに下ると海まで約30kmの距離がある。土器には縄文のほかに、
押型文(おしがたもん)・貝殻文(かいがらもん)・微隆線文
(びりゅうせんもん)・撚糸文(よりいともん)などが施されている。

この洞穴は河水によるものだが、町内には鍾乳洞が多く、中でも
洞内に高さ29mの滝がある滝観洞(ろうかんどう)、縄文時代後期の
墓地として使われた涌清水(わきしみず)洞穴は著名である。

     ☆     ☆     ☆

蛇王洞穴遺跡のある上有住(かみありす)は
不思議な国の(不思議の国の)アリスを思い出してしまう。

岩手県の歴史散歩  その118
       大船渡市立博物館

JR細浦駅バス碁石海岸行終点下車3分

バスを降りると土蔵造の大きな切妻屋根の建物が見える。
これが大船渡市立博物館である。
ここは大船渡市の南端に位置する碁石海岸(国名勝・天然)の一角で
博物館の東の松林を抜けると、切り立った断崖が太平洋を眼下に
雄大な景観を形づくっている。
ここにはまた、旧石器時代の碁石遺跡がある。

収蔵資料では、大船渡のまるた(丸木舟、国民俗)、気仙地方各遺跡出土の
土器・石器・骨角器コレクション、古生代の化石資料などが特に有名である。

常設展示は、1000点余りの地質・考古・民俗・歴史などの資料で、
海とのかかわりで育くまれた、大船渡の大地のなりたちと人々の暮らしを
表現している。映像展示室には3面マルチスクリーンが備えられ、
展示のあらましが紹介される。地質展示室では高さ6mに及ぶ
地層レプリカに圧倒される。
当地は化石研究のメッカとして知られ、日本でも最古に属する
4億2000万年前の古生代シルル紀から中生代、新生代までの
化石(三葉虫・サンゴ・腕足類・ニッポンウマなど)が展示されている。

     ☆     ☆     ☆

私は化石を見るのが好きで、ヨーロッパの博物館をたくさん
見学しました(教育学部地学の八木下先生に聞いてみてください)。
         ^^)

それからみると、大船渡の化石は量も少ないし、完全なものも
少ないのです。
しかし、盛岡の岩手県立博物館よりは、質・量とも優れています。
やはり地元だから化石資料も手に入りやすいのでしょうね。
仙台市の斉藤報恩館の化石よりもオリジナルがそろっている
といえば言いすぎでしょうか。

屋根の形式ひとくちメモ
切妻造:大棟の両側にのみ流れをもつ屋根
寄棟造:大棟から四方向に葺きおろされた屋根
入母屋造:上部を切妻とし、下部の屋根を四方に葺きおろした屋根

絵があると簡単なんですが
切妻は折り紙を真ん中で折って、その三角を屋根にした形 簡単
寄棟は切妻の簡単屋根の両角を切り取って屋根を変形四面体にしたもの
入母屋は、寄棟の上に切妻をちょこんと載せたものです。埴輪にも
その形があるとか。
そのうちに私のホームページに切妻屋根などの絵を作っておきましょう。

岩手県の歴史散歩  その119
   長安寺

JR盛(さかり)駅バス盛岡方面行長安寺下車5分

バス停から長安寺橋を渡りイチョウの大木のあいだを通って行くと、
左手に三門が見えてくる。

長安寺(浄土真宗)は、はじめ天台宗であったが、明徳年間(1390-94)
に浄土真宗になった。

1556(弘治2)年の火災でいっさいを失い詳細は不明だが、
平安時代末期に、気仙郡司金為雄(きんのためかつ)の子孫
正善坊(しょうぜんぼう)が比叡山の東塔に住んで修行した後、
この地に長安寺を創立したという。為雄は安倍姓であったが、
871(貞観13)年、気仙の郡司として都から下り、やがて黄金献上
の功により金(きん)姓を賜わったという。
なお1371(建徳2)年創建説もある。

現存最古の建物は、本堂の前方左右に立つ鐘楼(しょうろう)と太鼓堂で、
いずれも1742(寛保2)年に完成したものである。
太鼓堂は桃山様式にならっており、本堂は1883(明治16)年に竣工した。
雨落(あまおち)で32.7m4面という大きさで、天井板には神代杉を使い、
堂内にはケヤキの円柱が立ち並び、壮観である。
本尊は阿弥陀如来立像で鎌倉時代の作という。

最前面に立つ三門は高さ17.5m、雄大な建造物である。
1798(寛政10)年に竣工している。建築中に、禁制のケヤキ材を
使用したということで、仙台藩主のとがめを受けたため、工事中止を命ぜられ
袖も扉もない未完成の建物として今日に至っている。
長安寺の建物はすべて、気仙大工の技術の結晶である。

     ☆     ☆     ☆

鐘楼は昔の時計
時刻を知らせる方式は中国から伝わったのだろう。

私の卒業した大学の研究室の教授は金(こん)先生といって
岩手県出身でした。先祖は金採掘の関係者だったのでしょうか。

岩手県の歴史散歩  その120
  ちょうこくじ
    長谷寺

JR盛(さかり)駅バス猪川(いかわ)線大船渡高校入口下車10分

駅の北方の踏切を通り、中井大橋を渡り、大船渡高校の前を東へ進むと、
丘の南に立つ小さな寺が見えてくる。

長谷寺(真言宗)は、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の伝説を十一面観音の起源と
して伝えているが、946(天慶9)年、気仙郡司の金(きん)氏が
醍醐寺第3世淳祐(じゅんゆう)学匠を招いて創建したという。
鎌倉時代に最も栄え、「建治3(1277)年」銘のものなど石塔婆数基
が残る。

室町以降衰退し、火災にもあい、仏像数体以外の全てを失ったが、
1625(寛永2)年、永証法印が現在地に本堂を建てて復興した。
気仙三十三観音の第22番札所でもある。
木造十一面観音菩薩立像3体、木造如来坐像1体(いずれも県文化)、
その他若干の寺宝が伝わる。

十一面観音像は高さ2.36m、右手を垂らし、左手は胸の前で水瓶を持つ形
のもので、両足以外はほぼ原形を保つ。他の2体とともにカツラ材の
一木造で、鉈彫(なたぼり)手法がはっきり残る平安末期の作品である。

像高70cm余の、カツラ材寄木造の如来坐像は、遺存状況は良くないが、
やはり平安末期のものである。

長谷寺の南には、縄文から弥生時代にわたる長谷堂貝塚が広がる。

     ☆     ☆     ☆

このシリーズ 120回を迎えることができました。
次回からは釜石編です。

岩手県の歴史散歩  その121
しばらく休みました
シリーズ再開です
釜石編からです

     釜石製鉄所史料館

JR・三陸鉄道釜石駅バス松倉方面行小川(こがわ)入口下車5分

バス停から信号を右に折れ400mほど行くと、釜石製鉄所研修センター
があり、その中に釜石製鉄所史料館が設置されていて、貴重な史料が多く
保存されている。わが国初の洋式高炉である橋野高炉関係、大島高任
(おおしまたかとう)関係、釜石製鉄所関係の資料が中心である。
高炉のミニチュアもあって楽しめる。

釜石製鉄所は、1880(明治13)年9月に官営工場として操業開始された。
しかし燃料不足と火災などで、97日間で操業中止となった。
1882年3月に操業が再開されたが、これも木炭不足からコークスを使用した
ことによる出銑不良で200日で休止となった。
そこで払い下げられることになり、その調査にやってきた田中長兵衛と支配人
横山久太郎は自ら経営することとし、1884(明治17)年に許可され、
2年後の10月16日に出銑に成功したのである。

原料の鉱石は1880年には大橋鉱山から鉄道による運搬が開始された。
東北本線が盛岡まで開通したのが1890年だから、釜石は文明開化の先進地
であった。製鉄などの技術指導のために1877年で6人、1882年頃には
16人のイギリス人などの外国人が、釜石で生活している。
だが、産業構造の変化により1989年釜石製鉄所の高炉は休止してしまった。

釜石市は新たに鉄の歴史館(釜石市大平町3丁目、釜石駅バス平田方面行
観音入口下車3分)を開館している。
ここでは、橋野三番高炉原寸大模型を使っての光と映像によるイメージ
スクリーンなどでの製鉄についての説明や、鉄と遊ぶコーナーがあるなど、
楽しみながら鉄を知ることができるようになっている。
大島高任のコーナーもあり、史料も多く展示されている。

鉄の歴史館は丘の上にあり、釜石湾の展望はすばらしい。

    ☆     ☆     ☆

釜石説鉄所1880年からの歴史と、岩手県で最初の鉄道については
地域共同研究センターの小野寺先生が詳しいので、ゆずります。

大島高任の日記が見つかって、誰も読めなかったのを
これがローマ字で書かれてあることに気がついたのは八戸高専の本田敏雄先生
でした。ただし、大島流のローマ字表記で、それに読み慣れないといけないうえ
時々、英語、ドイツ語、オランダ語が混じるので言語の知識が必要でした。

さて、私の専門で構造用材料として大事な鋼の製造について
簡単にまとめてみます。

鋳鉄と鋼の違いは、炭素含有量2%以上が鋳鉄で、それ以下を鋼といいます。
つまり鋳鉄である南部鉄瓶は硬いが脆いので落とすと壊れる
鋼は鋳鉄より柔らかく粘りがあり構造用材料に向いている。

日本刀でおなじみの日本の古代からの、いわゆる「たたら」法による
製鉄は良質の砂鉄と木炭を使って、できるだけ高温で溶かして鋼を作る方法
ただし、できた鋼にはまだ不純物が入っているから、根気よく叩いて
不純物を外に出す、いわゆる鍛練によって名人芸の日本刀ができるわけだ。
これは直接法といわれている。

温度を高くしても限度があるため、鉄鉱石を溶かして鉄を得ることは
困難だったようです。

これに対して近代製鉄法では2つの段階にわけて製鉄を行う。つまり間接法
といわれる。おおざっぱに言うと、まず鉄鉱石を炉で溶かして銑鉄を作って
から、それを再溶融させて鋼を作っている。

大島高任は日本最初に鉄鉱石を原料にして、洋式溶鉱炉により銑鉄を生産した。
高炉から量産された銑鉄を加熱して、銑鉄の炭素分を酸化脱炭させる
歴史上有名な、ベッセマーの転炉製鋼法、シーメンスおよびマルチンによる
平炉製鋼法、トーマスによる塩基性転炉法については別のところで説明したい
と思います。
(藤原暹編続・日本生活思想研究 この中に製鉄の歴史も書きましたが
材料物性工学科の堀江教授から参考書を多数お借りして勉強しました)

岩手県の歴史散歩  その122
  はしのこうろ
    橋野高炉跡

JR・三陸鉄道釜石駅バス橋野高炉行終点下車3分

釜石と遠野の境である笛吹峠の麓でバスを降りると、すぐ前方に
橋野高炉遺跡(国史跡)が残されている。
遺構としては高炉石組・水路跡が観察できる。

北上山地は古くから砂鉄を産し、燃料としての木材はいわば無尽蔵でもあった
ので、「たたら」と呼ばれた製鉄が行われていた。
これに目をつけた大島高任(おおしまたかとう 1826ー1901)によって、
1857(安政4)年にこの地で近代製鉄が開始されたのである。

大島高任は南部藩医の子として盛岡に生まれ、江戸で蘭学を学んだ後、
長崎で砲術・兵法・冶金などを学んだ。1856年に水戸藩の要請で
反射炉を築造し、翌年に大野村(現大野村)の鉱山師中野作右衛門たちの
経済的援助で、当地に3基の日本最初の洋式高炉を築いた。

当時の橋野高炉の生産量は1日500貫(約2t弱)である。
このような洋式高炉は大橋3、佐比内(さひない 遠野市)3、砂子渡
(すなごわたり)各1の計10基がつくられ、その代表的遺跡が当所である。
高炉のレンガは花巻の円満寺煉瓦が菊池六兵衛から供給されている。

ここで製造された銑鉄は、大迫通外川目(大迫町)に運ばれ鉄銭に加工された。
外川目が遠く不便だったことから、その分座として1867(慶応3)年に
栗林銭座(県史跡、釜石市栗林町24ー91)が設けられたのである。
1874(明治7)年までの短期間の操業であるが、最盛期には約600人が
従業し、年間1万7000両ほどの銭銭を作った。
大島高任・橋野高炉に関する史料は釜石製鉄所史料館や鉄の歴史館に
展示されている。

高炉跡から8km下った所に林宗寺(りんそうじ 曹洞宗 釜石市橋野町9ー12)
がある。
この寺の6世が閉伊郡の道路開削に尽力した鞭牛(べんぎゅう)であるので、
この街道には鞭牛に関する石碑が多く残されている。

    ☆     ☆     ☆

釜石には本当に遺跡が多い。

大島高任は、それまで「たたら」で砂鉄を使って銑鉄を生産していたのを
国産で最初に鉄鉱石を原料にして、洋式高炉で銑鉄を生産したのである。
このことが、この地で日本最初の近代製鉄が開始されたということである。
(最近の研究では、岩手県においても大島高任以前にも鉄鉱石を使って
銑鉄を生産していたという研究がある。 新沼鉄夫:岩手の製鉄歴史 
要するに たたらで溶かす温度管理が問題なのである)
なお、中国では漢代にすでに鉄鉱石を溶鉱炉で溶かして銑鉄を作り
それを反射炉で溶製して加鍛鉄(錬鉄のことか)を製錬したという。
壷などを焼き上げる窯の技術があったからと解説されている。

鞭牛のことも いずれ別のところで書いてみたい。

岩手県の歴史散歩  その123
  みうらめいすけ
    三浦命助の碑

JR・三陸鉄道釜石駅バス橋野方面行板橋下車2分

バスを降りて少し戻ると三浦命助の顕彰碑と生家がある。
命助は嘉永の三閉伊一揆(1853年)の指導者のひとりとして有名である。
碑は1963(昭和38)年に建立されたもので、文字は建立当時の釜石市長
鈴木東民氏の筆である。

1833ー39(天保4ー10)年は天保の飢饉の時期である。
盛岡藩の対応のまずさもあって、一揆が多発した。1837(天保8)年には、
和賀郡など2000人の農民が仙台藩へ越訴(おつそ)しているほどである。
命助は1820(文政3)年にこの地に生まれているから、飢饉と一揆の
話の中で成長している。少年期に遠野で寺子屋教育を受け、1831年には
大槌で商売をしていた記録が残されている。

1847(弘化4)年の三閉伊一揆の指導者たちの感化を受けたであろう
命助は、1853(嘉永6)年の一揆では中心人物の一人となった。
彼らは「小○ こまる」と書いた旗印の下、仙台領の気仙郡に永住する計画で
行動を起こした。5月20日に田野畑村あたりを出発した一揆勢は、
釜石に達した6月5日には1万6000人といわれている。
平田(へいた)番所の警固が厳重とのことで、篠倉峠を越えて唐丹(とうに)村
へ入った。越境人数ははっきりしないがネ仙台藩の給食数の最大が6月6日晩の
8565人分で、あとは日を追って減少している。
最終的には45人が残留して交渉を続け、発生から5カ月たった10月20日に
一揆側の勝利でようやく解決した。この交渉団の中心人物が命助である。

一揆後帰村した命助は、老名(おとな)であったが、翌年7月に身の危険を
感じて出奔し、気仙郡にひそんだ。その後上京し二条家の家臣となったが、
生国へ戻ろうとして1857(安政4)年7月に平田村(釜石市平田)で
捕えられ、盛岡の獄舎に7年間繋がれ、1864(元治元)年3月10日
牢死した。獄中の日記ともいえる「獄中記」には、一揆の内情、彼の政治観
などが仮名まじりの方言で述べられている。彼の墓は生家の裏の畑の中にある。

    ☆     ☆     ☆

1853(嘉永6)年の三閉伊一揆については、田野畑村のところで
また説明しましょう。
田野畑村には一揆の資料館が建てられていて、静止画像で当時の一揆の人々の
越訴の様子を説明しています。

岩手県の凶作は宮沢賢治のころまで続いたわけです。
現代も天候不順で作物がよくできない年もありますが、
農学部の高橋壮先生によれば、米の不作のときはホップが豊作とか....

コメがよくできない一昨年には私も芋や麺類をよく食べました。
米作の他に酪農や魚の増殖と、現代の岩手県人は科学の進歩でよくなったのでは
ないでしょうか。

岩手県の歴史散歩  その124
   せいざせき
    星座石

JR・三陸鉄道釜石駅バス本郷方面行本郷下車1分

バスから少し戻ると星座石入口の標識がある。
そこから少し上がると星座石、測量の碑などが残されている高台に着く。

全国沿岸の測量を行った伊能忠敬(いのうただたか)は、1801(享和元)年
9月に唐丹村に来た。この時測量に協力したのが、忠敬が宿泊した葛西(西村)
家一族の葛西昌丕(まさひろ)である。彼が、忠敬が測量のために持参していた
星座を写し取り、後日刻んだのが星座石(券文化)で、長径70cm・短径
44cm・厚さ18cmの石の中央円内に「北極出球弐拾九度十弐分」と
刻まれ、周囲に黄道12宮と黄道12次が書かれている。

昌丕は地球が微動することを知り、その動く程度を知ろうとして、測量の
基点となった所にそこの緯度を刻んだこの石を置いた。
そのことは同じ所にある陸奥州気仙郡唐丹村測量之碑の碑文から知ることが
できる。

昌丕はこの碑文の中で「我が郷に及び測定し三十九度十二分と爲す....
天道幽玄、究知す可からず.....所謂(いわゆる)地球微動する者有ら
ざらん乎(や)、請願はくは後世諸彦或は其異同を知らん矣」と述べ、
文化11(1814)年と刻んでいる。
星座石と測量の碑はセットで測量地点を標示したものである。
しかしこの石は2,3度移転されたので、彼の目的を達することは
できなくなった。

石碑から海岸へ5分ほど歩くと、仙台藩の藩境番所である本郷番所跡
(釜石市唐丹町本郷108)へ行くことができる。ここから石塚峠を越せば
盛岡領となる。峠を降りた所には盛岡藩の平田(へいた)番所跡(釜石市平田
3ー13)もある。
藩境の難所であった石塚峠は、現在はトンネルであっさり通過してしまう。

    ☆     ☆     ☆

「矣」は漢和辞典をひくと「イ」と出ている。
矢部の二画

矢が物にあたって止る意。
已(い)字の意に借用して、ずばりと言い切る文章の本末に
語気詞として用いる。

矣は置字(おきじ)といわれ、普通読まずにおく。
そういえば昔、漢文で勉強しましたね。

学也祿在其中矣
まなぶや ろくそのうちにあり

岩手県の歴史散歩  その125
   おおつち  こびょうざか
    大槌城跡と古廟坂

JR大槌駅下車10分

大槌駅を出て国道45号線を左へ100mほど歩くと大槌小学校がある。
ここは江戸時代の盛岡藩大槌代官所跡である。
そこから山の方に約10分上ると、大槌城跡である。
屋根の稜線に築かれた典型的な山城で、堀跡が観察され、本丸跡には、
石碑が建立されている。

大槌城は15世紀初め頃、遠野領主阿曽沼朝綱(あそぬまともつな)の次男
大槌次郎によって築かれた。このときから200年以上も、大槌氏の居城として、
平田(へいた 釜石市)から豊間根(とよまね 山田町)までを支配地とした。

江戸時代になって、大槌孫八郎政貞が謀反の疑いで南部利直に捕えられ、
1632(寛永9)年大槌代官所の支配となった。

1437(永享9)年、南部守行が主家に背いた大槌孫三郎を討つ途中、
流れ矢に当り戦死した所を御廟坂(ごびょうざか 現古廟坂)と名付けている。
ここは大槌町・釜石の境となっており、今はトンネルで通過する。

古廟坂トンネルの大槌口にある民宿金沢から左手に500mほど入ると、
鞭牛(べんぎゅう)和尚の橋供養塔(1778年)と飢渇亡者供養塔が
残されている。1783(天明3)年からの飢饉で大槌代官所管内23カ村
でも1458人の死者が出た。古廟坂に庵を結んでいた当地出身の慈泉和尚は、
引き取りてのない死者を集めて埋葬し、供養塔を建てた。
現在、上記2つと金華山の碑が同じ場所にまとめて残されている。

    ☆     ☆     ☆

岩手県にある豊間根(とよまね)
と
樺太にある豊間内(とよまない)
は
どちらもアイヌ語であり
食べられる粘土
という意味であることを
アイヌ語学者金田一京助が指摘したそうです。

飢饉のときは 食べられる粘土(珪藻土)を水で漉(こ)して
珪藻を取り出して食べたらしい。
辞書をひくと珪藻土は珪藻の遺骸が積み重なってできたもので
みがき粉の原料と書いてあるが。

ラン藻の遺骸からできたラン藻土というものもあり
こちらも食べられるとか。

岩手県の歴史散歩  その126
  まえかわぜんべえ
    前川善兵衛の墓

JR吉里吉里(きりきり)駅下車2分

駅を出て左へ行くとすぐ墓地である。前川善兵衛の墓と一族の墓が
数十基まとまって残されている。

吉里吉里の地名は、海岸の砂が歩くとキリキリと鳴ったことから付けられ
たという。
この地は江戸時代に前川善兵衛によって発展した。前川氏の先祖清水上野介
富英は北条氏に仕えたが、小田原征伐で主家が滅亡したときに
当地に逃れ、前川善兵衛を名乗った。

彼は1616(元和2)年に藩から百石船建造を許され俵物(たわらもの)
貿易商となった。
かつての縁で江戸・下田などと取引きをし、利益を蓄積した。

3代助友(1676ー1746)・4代富昌(1691ー1763)時代
特に勢力が大きかった。遠野・山田に支店を持ち、メ粕(しめかす)・魚油・
鉄などを扱い幅広く商売している。

しかし5代富能(1723ー1801)時代に、莫大な御用金(たとえば
日光東照宮修理の際は7000両の献金)・宝暦の飢饉・海産物生産費の上昇
などによる収入減・支出増によって衰退した。

    ☆     ☆     ☆

この頃は、吉里吉里(きりきり)国のことは下火になったが
一時日本中独立国がはやったことがありましたね。
 (日本人はあきやすい)

砂がキリキリとなるのは、きれいな海砂だからという。
今は砂も汚れてしまったか。

岩手県の歴史散歩  その127
   オランダ島

JR山田駅下車10分巡航船発着所船10分(夏のみ)

1643(寛永20)年に黄金の島を求めて、3回目の探検をしていた
オランダ船ブレスケン号が、悪天候のために僚船にはぐれ、飲料水・食料品
を求めて山田湾に入港した。このとき乗組員たちは、山田大島に上陸して
捕えられた。それから大島はオランダ島と呼ばれるようになった。
逮捕にあたって、オランダ人がなかなか下船しないので、美人を見物人に
仕立てて黒船を乗寄せ、こんな美人がいるよと呼びかけたところ艀をおろし
移動したので、織笠(おりかさ)村の細浦とのあいだで船長以下10名を捕えた
と「大槌古城物語」に記されている。
彼らは陸路江戸へ護送され、取調べられている。

この大島には白浜の浜辺があり、海水浴場になっているので、夏のあいだは
島への観光船が運航されている。

    ☆     ☆     ☆

艀(はしけ)は、岸と沖がかりをつなぐ船
「はし」とは物の端(はし)の意味が転化して、端と端をつなぐもの
という意味に変わったとされている。
その名残とし 箸(口と食べ物をつなぐ)、柱(地面と屋根をつなぐ)、
梯子(はしご 低い場所と高い場所をつなぐ)、艀(上記)などがある。

1622年に長崎で、1624年秋田でそれぞれキリシタンが処刑され、
1628年にはオランダ平戸商館閉鎖とキリスト教禁止・鎖国政策が
取られます。
しかし1636年にオランダはキリスト教の布教はしないとの判断で
オランダとの貿易が再開されます。
1641年に平戸のオランダ商館を出島に移して、長いオランダとの交際が
続きます(まがりなりにも西欧との窓口を開けておいて蘭学が成立したことが
明治維新後の日本の学問技術の発展の基礎となったわけです。)。
こういう時代背景をみると、オランダ船ブレスケン号の一行は当時としては
幕府からまずまずの待遇を受けたのではないかと思います。

長崎のハウステンボスには当時のオランダ船の航海の苦労話をドラマにして
観客に見せています。

夕べはINS秋季公開講演会があり、その後に懇親パーティがありましたが
この岩手県の歴史散歩シリーズも学内の先生方に広く読まれているようです。

岩手県の歴史散歩  その128
   大沢六角塔と絵入り道標

大沢六角塔
国道45号線のバス停から、宮古・大沢方面行のバスでホテル陸中海岸前で
下車すると、すぐ目の前に大沢六角塔が残されている。
これは、閉伊地方の街道開削にあたった鞭牛によって、1762(宝暦12)
年に建立されたものである。正面に「道橋普請供養塔」と刻まれた六角塔で、
他面には「普請悪所難所百八箇所、和井内邑薬水湯開基、人足六万九千三百
八十四人、宝暦元年ヨリ十二年迄、願主林宗寺六世牧庵鞭牛和尚」と
刻まれている。

絵入り道標
山田駅から山田高校行のバスに乗り、終点一つ手前で山田中学校前で下車し、
左へ200m進むと絵入り道標が残されている。刻んだ絵が薄くはなって
いるが、「槌」の絵で大槌(おおづち)、「船漕ぐ人」で船越(ふなこし)
をさしていることがわかる。

    ☆     ☆     ☆

釜石から宮古までの山田線は東日本大震災の津波のため、現在鉄道は走っていない。
北リアス線と南リアス線が開通したのに。
しかし、将来山田線はJRの経営からはなれ第三セクター路線となり
北リアス線から南リアス線まで、一本の鉄路でつながりそうだ。

   次回からは宮古です。

岩手県の歴史散歩  その129
    北部三陸海岸
  北部三陸の全般的お話

北部三陸海岸は、岩手県内では宮古市を中心に北は久慈市、種市町、
南は山田町までが含まれる。
宮古以南はリアス式海岸であるが、宮古以北はその趣を異にした男性的な
隆起海岸で、100mにも及ぶ断崖が続く。熊ノ鼻展望台から
見おろす太平洋、鵜ノ巣断崖、北山崎は絶景の一語につきる。

三陸海岸はわが国の代表的な好漁場である。龍泉新洞遺跡(岩泉町)を
はじめ、数多く発掘された縄文時代の遺跡から、骨角製釣針などが出土している。
また、「続日本紀」は閉村(へいむら 宮古付近と考えられる)からの昆布
の貢納を記すなど、この地方の人々は古くから海に依存して暮らして来たので
ある。しかし、一方では海からは大きな痛手も受けてきた。凶作の原因とも
なる「偏東風やませ」と「津波」である。特に1933(昭和8)年の
三陸津波、その回復を見ないままの翌1934年の大凶作と、その惨情は
現在も多くの人々によって語り継がれている。

源頼朝による奥州平定後、この地には鎌倉御家人と閉伊氏が移り住んだ
といわれる。この閉伊氏は牧場を経営し、県北の糠部(ぬかのぶ)郡とともに
ニ大馬産地となった。豊臣秀吉による全国統一以後は、南部氏の支配地と
なった。漁獲物は長崎貿易の俵物や魚粕などに商品化がはかられ、漁業が
はじめて産業として確立した。また、砂鉄を原料とする製鉄業も栄え、
松前(北海道)や相馬(福島県)、江戸にまで移出された。
しかし、藩政は苛酷を極め、この地方の商品経済の発展に目をつけた
度重なる重税の結果、藩政を否定するような「三閉伊一揆」が起きている。

    ☆     ☆     ☆

儲けた商人や地場産業に重税をかけた南部藩を
発泡酒にビール並の課税をしようとする大蔵省にたとえたら
大蔵省から怒られそうですが....

三閉伊一揆の実態を知るにつけ、あのドラマ徳川吉宗の名政治を
思わないわけにはいきません。
ドラマはドラマとしても、町火消制度 目安箱 小石川薬園 サツマイモ
オランダ語学習 などのキーワードは日本の歴史に残っています。

政治をする側の工夫で、民衆の生活は変わる。

岩手県の歴史散歩  その130
        きょうづか
    永和二年の経塚

JR宮古駅下車10分

駅前の交差点を左折し、山口川の橋を渡り100mほど行くとY字路がある。
そこを右折するとまもなく地元の人たちから一石山(いっせきさん)の名で
親しまれる高台に出る。その高台に永和二年の一石一字経塚(県史跡)がある。
永和2(1376)年とは、南北朝時代の北朝側の年号で、この経塚は
高さ2.64m・幅1.85mの巨大な花崗岩の自然石の碑である。
碑面に直径55cmの円を描き、その下に「五部大経 一石一字雲公成之
永和二年」と刻まれている。この経塚は、庶民の幸福と国家の平和を祈願して
1個の石に1字ずつ経文の字を書き写し、土中に埋めたもので、紀州の
雲公上人が建立したといわれている。

同じような北朝側の年号の碑が鍬ケ崎(くわがさき)小学校裏にもあり、
暦応(りゃくおう)の碑と呼ばれている。この碑には、1.2mほどの自然石
に梵字が1字、下部に「暦応三(1340)年七月十五日」と小さく刻まれ
ている。梵字は金剛界の大日如来を意味するもので、当時この地方で
密教が流布していたことを証明する貴重な資料とされている。

また、これより古い南朝側の年号の碑が新里(にいさとむら)村蟇目(ひきめ)
の八坂神社(JR蟇目駅下車10分)にあり、元弘二(1332)年の碑
といわれている。

    ☆     ☆     ☆

梵字と言われても、マスコミをにぎわす某宗教団体のせいで
あんまり、ありがたくない世の中になってしまった。

1336年 後醍醐天皇、吉野へ移って 南北朝分立
1392年 南北朝合一
この間 みちのく宮古にも、その影響はあった。

岩手県の歴史散歩  その131
   みやここうせんせきひ
    宮古港戦蹟碑

JR宮古駅バス鍬ケ崎(くわがさき)行漁協前下車5分

バスを下車して大杉神社にむかい、その石段を上ると、宮古湾が一望できる
広場に出る。この広場に宮古港戦蹟碑がある。碑文の文字は東郷平八郎の筆に
よるもので、当時16歳の彼が新政府軍の士官として「春日」に乗り組んでいた
縁による。

1868(慶応4)年、鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争が起こると、
この戦禍は宮古にも及ぶことになる。江戸を敗走して函館の五稜郭に
たてこもった榎本武揚以下の旧幕府軍を討伐するため、新政府の軍艦「甲鉄
(こうてつ)」など8隻が1869(明治2)年3月18日、食料・燃料の
補給のために宮古港に停泊した。函館の旧幕府軍はこれを察知し、機先を制して
この装甲新鋭艦「甲鉄」を奪取する計画をたてた。総指揮に荒川郁之助、
「回天」の艦長に甲賀源吾、そして新撰組の土方(ひじかた)歳三も
この軍艦に乗り込み、「蟠竜ばんりゅう」「高雄たかお」の2隻とともに
宮古に向かった。しかし、この2隻は途中大風にあい、結局「回天」のみが
宮古港に侵入することになった。

3月25日未明のことである。「回天」は、米国旗を掲げ「甲鉄」に近づくと
にわかに日章旗にかえ、大砲をうち、抜刀隊がつぎつぎ「甲鉄」に飛び降りた。
「甲鉄」は修羅場と化したが、激戦30分で旧幕府軍の敗北は決定的となり、
湾外に敗走した。新政府軍の死者19人、負傷者34人、すさまじい死闘
だったと伝えられている。

なお、宮古港海戦が日本で初めての洋式海戦といわれる。この海戦で戦死した
新政府軍の勇士を弔う官軍墓所が、大杉神社の北西400mの愛宕小学校の
後方山頂の公葬地にある。
また、藤原須賀の浜に漂着した榎本軍兵士の遺骸は、里人の手で藤原観音堂の
裏に無名戦士の墓として埋葬された。

    ☆     ☆     ☆

日本最初の洋式海戦は一種の内乱だった。
アメリカ南北戦争のように、秩序に至るまでに通らなければならない
カオスか。
江戸(東京)と函館をむすぶ中間に宮古があったゆえ。

岩手県の歴史散歩  その132
   横山八幡宮と宮古の伝説

三陸鉄道宮古駅脇の狭い道を行くと、まもなく踏切に出る。
その場所から右手前方に、応神天皇を祭神とする横山八幡宮(宮古市宮町
2丁目)が見える。創建は、伝承によると680(白鳳9)年とされる。
また、和銅年間(708ー715)に「小倉百人一首」の歌人で知られる
猿丸大夫がこの地に追放されたとき、里人の依頼によってこの八幡宮の
禰宜(ねぎ)になったと伝えられている。

一条天皇の1006(寛弘3)年、阿波の鳴門が異常に荒れる、という地変が
起こった。これを聞いた横山八幡宮の禰宜は、日夜祈祷をして何とか鎮め
ようとした。すると夢枕に八幡の神があらわれ、一首の和歌を授け、この歌で
嵐を鎮めよといわれた。
さっそく禰宜は鳴門に旅立ち、声たからかに「山畠につくりあらしのえのこ草
阿波の鳴門は誰かいふらむ」と神歌を詠んだ。
すると、たちまち嵐はやみ、静かな海にもどった。天皇は大いに喜び、この
禰宜を宮中に招き横山八幡宮のようすをたずねると、「我が国に年経し宮の
古ければ五幣のくしの立つところなし」と、和歌をもって答えたという。
天皇はこの歌に感服し、「宮の古ければ」の一節をとり、都と同音異字の
「宮古」という地名を授けたという。

現在宮古第一中学校の校庭にある逆さイチョウは、鳴門の帰途にこの禰宜が
使用した杖に根が生えたものと伝えられ、横山八幡宮の神木として祀られて
いる。

    ☆     ☆     ☆

そこで百人一首から 猿丸大夫(さるまるだゆう)の歌を

奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の
声きくときぞ 秋はかなしき
       (猿丸大夫)

人里遠く離れた奥深い山で、散り敷いた紅葉を踏み分けながら、
妻を求めて鳴いている鹿の声を聞くときが、一層しみじみと秋は
悲しく感じられることだ。

猿丸大夫は伝説の人(小野小町と同様に)
まして陸奥宮古まで来たとは unglaublich (unbelievable)

岩手県の歴史散歩  その133
   岩手県立水産科学館

JR宮古駅バス浄土ケ浜ターミナルビル行終点下車5分

ターミナルビル広場前のゆるやかな坂を上っていくと左手に
岩手県立水産科学館が見えてくる。展示室は「いわての海」「漁場とくらし」
「躍進するいわての水産」など5つのコーナーにわかれ、古代から未来への
水産業の流れが展望できる。

まず、本館を代表するのが中央にあるジオラマである。このジオラマは海上の
岩場から海底1000mまでを模式的にあらわし、一目で海の中のようすを
知ることができる。

模型による「未来の岩手の漁場」も興味をそそる。海洋牧場といわれる
未来の漁場を、いろいろな新しい技術を結集して総合的に管理・生産する
システムを紹介する。また、網漁具・釣漁具と漁法の模型もある。

さらに、サケ・アワビ・ホタテガイ・ワカメの増殖・養殖技術を具体的に
説明するコーナーがあり、楽しみながら水産業に関する知識を学ぶことが
できる。

ターミナルビルから坂を下っていくと浄土ケ浜に出る。

    ☆     ☆     ☆

本記事とは直接関係がないが
ターミナルという言葉について

ターミナルはもともとローマ帝国の言葉ラテン語からきたもので
テルミニとは終着駅であるが一般には駅のこと。

ターミナルは日本語では端末だが、中国では末端と書いてあった。
ホスト機からすればエンドユーザの操作盤にあたるからか。
terminal
(ついでに情報処理センターのことを情報中心と書いてあった。わかるわかる)

映画のterminatorは、どういう意味なのだろう。
ある人は「最後の人」という意味ではないかと言っていたが。
観客の認識では、terminatorは、未来の人類終末期に現われる
正義の味方のロボットで
補助エンジンのついている強いヤツというところか。
それとも、あのロボットの敵(液体のごとく体や手足を変える)のこと?

岩手県の歴史散歩  その134
しばらく忙しくて手が付けられませんでした。
本日も これから仙台出張

   浄土ケ浜

あまりにも有名 JR宮古駅からバスが出ている
(盛岡駅からも)

浄土ケ浜(県名勝)は陸中海岸国立公園を代表する名勝であり、
また観光の拠点である。
入江を囲んで東方に突き出た細い半島は純白の流紋岩で、はげしい海食を
受けて鋸歯状となっている。
これに松の緑、青い海と空がみごとな調和を見せる。
この浄土ケ浜の名は、天和年間(1681ー84)に宮古の常安寺(じょうあんじ)
7世霊鏡(れいきょう)禅師が命名したもので、極楽浄土がこの世にあらわれた
ものと賛嘆したことによるとされている。

    ☆     ☆     ☆

年末も忙しい 毎日会議

岩手県の歴史散歩  その135
前の記事の表題 Re をとるのを忘れていた

寄生木(やどりぎ)記念館

JR宮古駅バス宮園団地行慈眼寺前下車3分

バス停近くに慈眼寺があり、同寺の境内に寄生木記念館が建っている。

徳冨蘆花の小説「寄生木」という作品がある。
この主人公のモデルは当地出身の小笠原善平であり、彼の遺品などを展示して
いるのが寄生木記念館である。彼は28歳の短い生命を自らピストルで
断つまでの波乱に満ちた数奇な運命を、克明に手帳40冊に書き綴っている。
そして「自分がこの世に生きた記録を後世に残さなければ死んでも死にきれない」
として、当時文名の高かった蘆花を訪ねて小説化してくれるよう依頼した。

蘆花は、できるだけ原文を尊重し、「寄生木」の名作を著した。
当記念館は、原作ノートのほか、乃木希典や蘆花からの手紙など380点が
展示されている。

    ☆     ☆     ☆

蘆花は不如帰という小説を書いた。
不如帰は結核のため愛する夫から引き離され(離婚させられた)
かわいそうな女性の話を同じ宿で泊まった客から聞いて、
創作意欲がわいて一気に書いたという。

「寄生木」の主人公もやはり、運命にもてあそばれ、かわいそうな一生
であった青年のことを本人から頼まれて書いたのです。


岩手県の歴史散歩  その136
このところ忙しくて書けませんでした
他のところでは 鬼のように書いている、と言われますが  ^^)

   黒森神社

JR宮古駅バス山口団地行西町3丁目下車30分

バスを降りて進行方向右手に見える山が黒森山である。
この中腹に、坂上田村麻呂の創建と伝える黒森神社がある。
古来から修験者の霊場となり、黒森大権現、黒森観音などと呼ばれてきたが、
明治以降は黒森神社となった。この黒森山には樹齢1000年をこす巨木がある。
すさまじい落雷のあとを残す翁(おじ)杉・婆(おば)杉は、
太平洋に出た船からは格好の目印となり、三陸沿岸の漁民の信仰も同時に
集めてきた。

この神社に伝わる芸能が黒森神楽(県民俗)である。
神楽は山伏神楽で、神社の祭礼においてだけでなく、黒森神社を中心に
普代(ふだい)村までの北廻と吉里吉里(きりきり)までの南廻りに分け、
1年おきに「廻り神楽」と称して、権現様と呼ばれる獅子頭をたずさえ、
家々を祈祷してまわった。

黒森神社には「文明17(1485)年」銘のものを含む新旧20頭の
獅子頭が残されているが、16頭は県指定文化財となり、
市立図書館に保管されている。

    ☆     ☆     ☆

樹齢1000年の翁(おじ)杉・婆(おば)杉とくれば、
次のように連想してしまう。

双児杉(お梅様の杉・お竹様の杉)
そして
博労(井川丑松・片岡吉蔵)
さらに
分限者(東屋田治見久弥・西屋野村荘吉)

横溝正史:八つ墓村は主人公をめぐる動機不明の連続殺人事件
対立する2つの一方がつぎつぎに殺されていく。

主人公は美青年なのであろう
主人公に一目ぼれの典子は、それから人が違ったように美しくなっていく
主人公の姉は血がつながっていないので、主人公を弟ではあるが異性として
見ていて相手にされない悲しさも述べている。

竜泉洞に行く度に、八つ墓村を思い出してしまう。

岩手県の歴史散歩  その137
このところ忙しくて
(どうしてこうネットワークがらみの予算が沢山つけられるのだろう....
情報ネットワークの整備という政府の大方針もあるが
本学のポテンシャルが高いので投資する価値ありと
文部省から評価されている、と我田引水的に解釈しています)
  日曜日登校の投稿

   千徳(せんとく)城跡

JR千徳駅下車10分

駅から宮古寄りに約800m行くと、家並の背後に山が迫ってくる。
その山が千徳城跡である。主郭は近世城郭では本丸に相当し、標高78m・
幅29m・長さ41mのやや変形につくられ、これを中心に副郭・二の郭・
三の郭などが整然と配置されている。その雄大な規模と見事な縄張りは、
中世の城としては第1級のものであったと思われる。
大手口は北側に設けた三の郭の先端部にあり、近内(ちかない)川に
架けられた橋(浄海じょうかい橋と呼ばれた)のふもとが大手門とされている。

本城の築城者は、河北閉伊氏(所領問題を契機に河北閉伊氏と河南閉伊氏
に分裂)と考えられ、その年代は14世紀末頃と推定されている。
河北閉伊氏はのち千徳氏と称し、宗家田鎖氏(河南閉伊氏)とともに閉伊川
流域の二大勢力に成長していった。
その後千徳城は、1592(天正20)年城主一戸孫三郎(千徳氏)が
豊臣秀吉の朝鮮出兵に従って九州名護屋に出陣の留守中、三戸南部氏によって
密かに破却されてしまった。

また、南北朝の動乱期、2度にわたり北畠顕家(あきいえ)の南朝軍に
したがって西上した閉伊親光ちかみつ(河南閉伊氏)が築城したのが中根
(根城)である。この城は閉伊親光がいつ襲ってくるかもしれない北朝方の
大軍の恐怖に脅え、楠木正成(くすのきまさしげ)の千早(ちはや)城の
影響を受けてつくったものとの話も伝えられている。

千徳城跡の東方に長根I遺跡があり、沿岸地方で初めて古墳群が発見された。
調査された古墳は28基で、副葬品には直刀・立鼓刀・蕨手刀各1振と
ガラス玉約200点、和同開珎などがある。715(和銅8)年に昆布の
貢納をした須賀君(すがのきみ)古麻比留(こまひる)との関係も
考えられよう。

    ☆     ☆     ☆

忠臣楠木正成の像は皇居まえにありますね。

さて本題とは全然関係ありませんが、「ちはや」と聞けば落語の「千早振る」
を連想しますので、そのことを書きます(日本文化を理解する教養講座)。

<落語 千早振る chihayaburu>
ちはやぶる 神代もきかず 龍田川
からくれないに 水くくるとは

[百人一首の歌の意味が知りたいので、町内の物知りに聞きました]
じゃあ教えてやろう、よく聞きな。
龍田川とは相撲取りの名だ。
その龍田川が吉原の花魁(おいらん)にほれちまったんだ。
花魁の名が千早だ。
ところが千早は、わちきは相撲取りなんかイヤでありんすと、
龍田川を振ってしまったのさ。
それじゃしかたないと、妹分の神代という花魁に、話をもちかけたんだが、
その神代にも振られてしまったんだ。
それで、がっかりした龍田川は相撲をやめて国へ帰って、豆腐屋になってしまった。
(おやおや)
そして、豆腐屋になって月日は流れ、ある日のこと、
龍田川の店の前におちぶれて女乞食になった、千早が通りがかったそうだ。
「もう三日も何も食べておりません、おからでもください」
龍田川がよく見ると、なんと昔自分を振った千早ではないか。
そこで龍田川は怒ったね。「お前に振られたばかりに、俺は相撲をやめて
豆腐屋になったんだ、おまえなんかにくれるおからはない、どこへでも行け」
それを聞いた千早は、悲しんで近くの井戸に身を投げて死んでしまった。
わかったかい、この歌の意味はこういうことなんだよ。
千早に振られ、神代も言うことを聞かなかったので、相撲をやめた龍田川が、
昔のことを怒って、おからをくれないから、絶望した千早は水にくぐっちまったのさ。

正しい解釈は下記の通りです。

ちはやぶる 神代もきかず 龍田川
からくれないに 水くくるとは
       (在原業平)

遠い神代の昔にも、このような不思議なことがあったとは聞いたことがない。
龍田川が、美しい紅色に水をくくり染め(絞り染め)にするなどという
ことは。

平城京の西方にある龍田山には、秋の女神龍田姫が住むと信じられた。
またそのほとりを流れる龍田川は古来紅葉の名所でもあった。紅葉が
川面一面に散り落ちて流れる様を絞り染めの絹と見立てたのは、自然を
人事によって知的に解釈するという、古今集時代に好まれた手法である。

龍田川に紅葉が流れて、錦織と見立てた他の歌も紹介します。

嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は
龍田の川の 錦なりけり
      (能因法師)

山の風が吹き荒れている三室山、その風に紅葉が、乱れながら散り落ちて
いく。
それが実は龍田川のあの錦織り ー 落ちた紅葉が水面に重なり浮かんで
まるで錦織りのようだ。

蛇足を付け加えるなら
「ちはやぶる」は神の枕詞(まくらことば)
神という言葉を引き出すための形容詞ですね。
(たらちねの)母
(ぬばたまの)夜
(あしびきの山鳥のしだり尾の)長い
こういう言葉の遊びは、江戸から現代にまで受け継がれている....
(おそれ入谷の)鬼子母神
その手は桑名の焼はまぐり
また
うら山鹿 さいなラッキョウ (かけことば) ← おぼっちゃまくん

日本三大奇橋の1つ
岩国の錦帯橋も錦川に架かる橋で
錦川の名は、流れてくる紅葉を錦織に見立てたからと言われます。

岩手県の歴史散歩  その138
   新里(にいさと)村民俗資料館

JR茂市駅下車1分

茂市駅を出ると、すぐ前に民俗資料館が建っている。
ここには新里村が生んだ2人の偉人、すなわち生涯を道路開削にかけた
牧庵鞭牛(ぼくあんべんぎゅう)と「籠の鳥」の作曲で知られる
鳥取春陽(とっとりしゅんよう)の資料が展示されている。

春陽は1900(明治33)年新里村刈屋(旧刈屋村)に生まれた。
幼い頃から音楽好きでハーモニカを吹きながら通学した。11歳のときに
家業の製糸工場の倒産にあい、14歳のとき、学業半ばに東京へ出奔、
上京後演歌師となり、添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)の強い影響を受けた。
17歳から作曲活動に入り、「浮草の旅」(シーハイルの歌)や「失恋の唄」
などを作曲、1922(大正11)年には自作の「籠の鳥」をレコード化し
大ヒットさせた。1924年には映画化までされ、成功をかち得た。
1926年には日本初のレコード会社専属(歌手・作曲)として、
オリエントレコードから「船頭小唄」や「馬賊」の唄を吹き込み多大の人気を
えた。その後演歌にとどまらず、新民謡・歌劇・ジャズも手がける幅広い
活動を続けたが、1933(昭和8)年結核が悪化し、妻子を残し、わずか
31歳の短い生涯を終えた。

なお、資料館には、このほか当村にかかわる和紙・金山・民俗・剥製・考古の
各資料を1000余点展示している。

    ☆     ☆     ☆

鳥取春陽の年令計算があわないのですが、とりあえず原文のまま。

シーハイルの歌は、スキーの歌で
(Schi Heil !  Schi は Ski  Heil は万歳 ドイツ語ですね
Heil coelacanth は大昔の桑田次郎のマンガにあった 誰か覚えているかな)
機械工学科の藤田尚毅先生はシーハイルの歌詞をほとんど知っています。

岩木のおろしが吹くなら吹けよ 山から山へと我らは走る
 .......
昨日は ぼんじゅれ 今日また あじゃら
 ..........
   おお シーハイル

岩手県の歴史散歩  その139
  鞭牛和尚の道

牧庵鞭牛(ぼくあんべんぎゅう)は1710(宝永7)年、新里村和井内に
生まれ、22歳で出家、38歳で橋野村林宗寺(釜石市橋野)の6世となった。

鞭牛が道路開削に最初に取り組んだのは、この林宗寺住職時代の1750
(寛延3)年のことで、それは橋野村から代官所のある大槌町へ至る不便で
危険な道の直行路線化の改修であった(小枝街道)。

この道づくりを契機に村人の厚い信頼をかち得た鞭牛は、1751(宝暦元)年
正月、下閉伊郡花輪村長沢山上(宮古市花輪)で道づくりに生涯を捧げる悲願を
たてた。そして盛岡藩に未曾有の大飢饉が襲来した1755(宝暦5)年、
46歳で隠居し、仏事から解放され道づくりに専念した。

1756(宝暦6)年に書き上げた「忘想歌千首」の中に見える次の一首は、
この仕事に全生命をかけた鞭牛の不退転の決意を示すものである。
「読み置くぞ かたみとなれや歌こごころ 我はいずくの土となるらん」

1758年から始まる鞭牛の道路改修事業は、盛岡ー宮古間の閉伊川沿いの
工事で、ここではそれまでの川伝いの道から洪水にそなえての一段高い場所への
道の付け替えと牛馬の搬送路の確立をめざす道幅の拡大を行った。よそから
やって来た僧侶の行為に最初は嘲笑を浴びせていた村人たちだったが、一人黙々と
玄能とツルハシをふるう鞭牛の姿にこころ打たれ、やがて多くの人々が協力する
ようになる。

川井村平津戸(ひらつと)ー新里村間の蟇目(ひきめ)の約50kmの難所の
改修時は7カ村から3500人の協力を得て42日間で完成するにいたった。

以後鞭牛の名声は高まり、藩からも1767(明和4)年から
毎年15貫文の扶持が与えられることとなり、各村からこわれるままに出かけて
改修を指導した。閉伊街道改修の際、鞭牛が住み家としたとされる岩窟が
宮古市にある(花輪南川目、宮古バス花輪行神倉かくら下車30分)。

さらに岩窟から長沢川に沿って1kmほど下った山の右手斜面に十三仏と
呼ばれる奇岩がある。ここに彫られている石造物は鞭牛の手になるものと
言われている。

鞭牛は道路開削に多くの道供養碑を建てているが、その中で特に重要なものは
山田町の大沢六角塔である。

また、茂市の袰地(ほろじ 新里村茂市)には「宝暦八寅年、新道供養林宗六世、
十月十日」の銘をもつ新道供養碑がある。このときは川岸すれすれの駄馬道路
を山際に切り替えて新道を開削し、尽力してくれた人々のために建立した
のである。

彼は死の前日までつるはしをふるったが、1782(天明2)年入寂した。
死期を悟った座禅往生であったと伝えられる。それはあたかも天明の大飢饉の
前年であった。

    ☆     ☆     ☆

岩手の道路建設工事の先駆者
したがって 次の記事で詳しい鞭牛和尚の資料を紹介します。

岩手県の歴史散歩  その140
鞭牛の出家と道路改修
ここに紹介する資料は、地元の鞭牛研究者の本を参考にしたものです。

鞭牛が20歳の頃、牛方として遠く栗林村(上閉伊郡栗橋村)方面まで
でかけた時のこと、牛に草を喰ませながら、道端に腰を下していると、
常楽寺三世の林応和尚が、通りかがりに鞭牛に目をとめて問答をした。

「君、和尚にならぬか」との林応和尚から言われ、「小僧にでしょう」と即座に
応酬した鞭牛は、その後間もなく出家したという橋野村(上閉伊郡栗橋村)
地方伝説がある。

郷土史家として著名な太田孝太郎先生は、「鞭牛は8歳で大槌通栗林村
常楽寺に弟子となった」と書かれているが確証はないようである。
これは恐らく、郷土史学の大先輩、新渡戸仙岳氏が、東京日々新聞に、
「鞭牛は8歳で仏門に帰依した」と書かれたそうだが、
それをそのまま引用されたものと思われる。

鞭牛和尚の出家は一応22歳、出家の動機は、最愛の母の死に直面した
青年鞭牛の無常感が主な理由ではないかと思われる。さらに33歳で
父に死なれて、無常のどん底につきおとされ、そのとき出家したのではないだ
ろうか。いずれにしても幼少の出家でないことだけは言えるようである。

青年時代牛方として諸方を歩いた伝説、若い頃鉱山師をしたのではないかと思われる
伝説、これに22歳で母を失った多感な青春時代の鞭牛の心情を併せて考えると
そういう推理が妥当のようである。

林宗寺の現住職菊池昭童氏は、先代から「鞭牛の出家は30過ぎてからで、
いわば成績優秀だったので33歳で一山の住職となったそうだ」と聞いたという。
これも何れは鞭牛が相当の年齢で出家したことを示す資料である。

大家畜といえば馬だけで占められている和井内村で、鞭牛が牛方をした
という伝説は奇異にも聞こえようが、鉱山師の経験あることを推察させる
伝説から考えて、鉱石運搬をしながら諸方を見聞して歩いたのではないだろうか。
鉱山特に金山に牛はつきものであったから。

又鞭牛和尚生家に残る道路工事用具も、鉱山の用具として当時使用されたものと、
全く同型であること等合わせ考えると、鉱山や牛方の経験があったと思われる。

青年時代に鉱山労働者として、或いは探鉱家として、諸方を遍歴したであろう。
そうして道なき道を分け、峨々とした店嶮に阻まれながら牛に鞭をくれる鞭牛は、
道路改修の切実さを人一倍感じたのではないだろうか。

林宗寺世代書では、6世牧庵鞭牛大和尚は、常楽寺弟子云々とあって、
修業時代の鞭牛和尚の動静を告げる資料はない。閉伊川地方に残る伝説
では、下閉伊郡織笠村龍泉寺、奥の正法寺、盛岡の東顕寺を転々とした
ことになっている。

林宗寺先住の談話と諸寺を転々したという伝説とは大きく食い違っていて、
どれが正しいと断定することもできないが、一つの寺に修業して、1、2年に
して住職となることはまず考えられないので、出家後2、3年転々したとする
閉伊川地方伝説によることとしたい。

こうした修業時代と、それ以前の牛方行脚時代において、村から村への
往還筋が難渋の上、脈絡のないままに放置されていることに、鞭牛自身が
悩まされ、又旅行く多くの人々の難儀に、思いをよせたのではないだろうか。
後年の雄大な構想にもとづく産業道路開鑿の着想は、既にこの時に芽生えていた
ものと思われる。
(伊藤麟市:牧庵鞭牛の生涯、昭和29年)

       牧庵鞭牛の生涯
1710 (寶永6)年 下閉伊郡刈屋村字和井内の農家に誕生
1717 (享保2)年 上閉伊郡栗林村(現鵜住居村)常楽寺に出家
1719 (享保4)年 鞭牛林宗寺へ転住
1731 (享保16)年 鞭牛の母死亡
1731 (享保16)年 鞭牛常楽寺に出家
1742 (寛保2)年 鞭牛九戸郡種市村東長寺の住職となる
1742 (寛保2)年 鞭牛の父死亡
1747 (延享4)年 鞭牛林宗寺の住職(六世)となる
1748 (寛延元)年 鞭牛家屋付の畑を購入
1749 (寛延2)年 鞭牛林宗寺を中村の地に移す
1750 (寛延3)年 鞭牛最初の小枝街道開鑿
1751 (寶暦元)年 この年一斎に道路工事に生涯をかける悲願をなす
1752 (寶暦2)年 鞭牛村人と庚申供養をなす
1752 (寶暦2)年 花輪村北川目に念仏供養塔を建立する
1755 (寶暦5)年 花輪村長澤北川目に架橋する
1755 (寶暦5)年 鞭牛橋野村太田林輿三郎より隠居屋敷を寄進
される
1755 (寶暦5)年 鞭牛和尚隠居す、得水に七世の依鉢を嗣ぐ
1755 (寶暦5)年 鞭牛、牧庵と号、隠居屋敷に棲む、次々と
隠居屋敷に碑を建てる
1755 (寶暦5)年 鞭牛大乗妙典一字一石の血書供養をなす
1755 (寶暦5)年 下閉伊郡大澤の地に南無阿彌陀仏の碑を建立
1755 (寶暦5)年 花輪村長澤南川目の岩窟開山を宣言しここに
住む
1756 (寶暦6)年 鞭牛、忘想歌集「千歌」を完成、道路開鑿に死
を決意
1758 (寶暦8)年 閉伊川街道の開鑿始まる、茂市村腹帯の大淵の
難所開鑿
1758 (寶暦8)年 川井村下川井の難所開鑿
1758 (寶暦8)年 川井村古田さらつほの難所開鑿
1758 (寶暦8)年 茂市村袰地ふぐとりの難所開鑿
1758 (寶暦8)年 茂市村蟇目太平の難所開鑿
1758 (寶暦8)年 川井村川内淵の上の難所開鑿
1758 (寶暦8)年 十三仏の霊場に大般若理趣分の一字一石血書
供養をなし碑石を建つ
1758 (寶暦8)年 川井村巻淵の難所開鑿
1758 (寶暦8)年 以後2ヶ年にわたり十三仏霊場を完備
1758 (寶暦8)年 茂市村と腹帯村間新道開鑿
1759 (寶暦9)年 花輪村長澤南川目に七ツの滝発見し開山供養する
1759 (寶暦9)年 花輪村の長澤川に架橋
1759 (寶暦9)年 花輪村長澤北川目の難所開鑿
1759 (寶暦9)年 鞭牛女色に迷い以後花輪村を踏まず
1759 (寶暦9)年 再び閉伊川筋の難所開鑿
1759 (寶暦9)年 川井村岡村の難所開鑿中岩窟に寝泊り
1759 (寶暦9)年 川井村岡村の難所開鑿中岩窟に寝泊り
1759 (寶暦9)年 茂市村と宮古市の間の難所開鑿
1760 (寶暦10)年 鞭牛生家を訪れて長逗留する
1760 (寶暦10)年 和井内の薬水発見開起
1760 (寶暦10)年 和井内本村から和井内湯迄道路開鑿並びに
架橋する
1760 (寶暦10)年 下閉伊郡船越村山内部落民の請いに応じて
南無阿彌陀仏碑を建立する
1760 (寶暦10)年 船越村山内部落難所を開鑿する
1760 (寶暦10)年 林宗寺町ケ口の長太郎より畑を購入
1762 (寶暦12)年 川井村川井の難所開鑿
1762 (寶暦12)年 寶暦元年の道路開鑿発願以来12ケ年の輝か
しい成果を記念して六角塔を建てる
1765 (明和2)年 織笠村から大槌町へ越える裏街道開鑿
1765 (明和2)年 織笠村から山田に越える道路開鑿
1765 (明和2)年 宮古町の閉伊川岸の七戻りの難所開鑿
1766 (明和4)年 織笠川に架橋
1767 (明和4)年 鞭牛和尚多年道路改修の功労を認められ南部藩
三十五世利正公より終身扶持(年額15貫文、米10石分)を受ける
1769 (明和6)年 宮古市田代街道開鑿同部落民の難儀を思い南無
阿彌陀仏碑を建立する
1769 (明和6)年 宮古−岩間の有芸道路開鑿
1769 (明和6)年 山田町民の難儀を思い南無阿彌陀仏碑建立
1777 (安永6)年 橋野村−鵜住居間の道路開鑿
1778 (安永7)年 上閉伊郡小槌川に架橋、大槌−鵜住居の間
御廟坂開鑿
1779 (安永8)年 鞭牛古希を迎えて祖父母父母の冥福を祈り碑を
建てる
1781 (天明元)年 吉里吉里ー大槌間の道路改修を師匠の大到見牛
とともに行う
1782 (天明2)年 鞭牛和尚死に臨み林宗寺に6貫文寄付

(伊藤麟市:牧庵鞭牛の生涯、昭和29年)

       ☆       ☆      ☆

鉱山師だった鞭牛が、その技術を応用してトンネル工事をしたり
道路改良をしたというのは無理がない推論である。
行基や鞭牛のような宗教家が土木工事にあたったのは
学問知識があった上に、道路交通をよくすることは布教活動にも
貢献することを知っていたからだろう。

聖職者が指導者になれば民衆も自然に協力する。
時の施政者も、そういう民衆のリーダとしての宗教家の力が
道路改良工事のような誰の目にも是とうつる行為に向けられている間は
黙認したり、あるいは適宜援助したのであろう。

これは古今東西に見られる普遍的事実であろう。

岩手県の歴史散歩  その141
    西塔幸子  さいとうこうこ
最近、岩手県のあちこちで歌碑が建てられている薄幸の歌人です。
僻地の小学校の先生でしたが、川井村江繋(えつなぎ)や新里村押角(おしかど)峠
に歌碑があるので、ここで紹介します。

  山峡(やまかい)
灯を消せば山の匂のしるくしてはろけくも吾は来つるものかな
山峡は時雨るるままに夕暮れて訪ふ人もなく戸をとざしけり

 草深き北奥の山村僻地に訓導として、また母及び妻として、はた人間として
歌いつづけて死んでいった西塔幸子の歌集を読むと、山間の環境が深く歌われて
胸を打つ
と書いたのは、遺稿歌集山峡の序文を書いた金田一京助の言葉である。
    (昭和11年9月12日)

  西塔幸子の年表
明治33年(1900) 紫波郡不動村(現矢巾町)村松雄一郎氏別邸にて
生まれる。父大村幸一郎母ソメ共に紫波郡白澤小学校教員
長女カウと命名
明治36年(1903) 父の転任のため九戸郡大川目村山口に転住
明治40年(1907) 九戸郡山口尋常小学校尋常1年に入学
大正2年(1913) 九戸郡山口尋常小学校尋常科卒業。父転任のため
九戸郡小軽米村に転住。九戸郡軽米尋常高等小学校高等科に入学
大正4年(1915) 九戸郡軽米尋常高等小学校高等科卒業。岩手県師範
学校女子部本科へ入学。肋膜炎のため帰省、小軽米において静養し9月全快帰校
大正8年(1918) 岩手県師範学校女子部卒業。九戸郡久慈尋常高等小
学校訓導として赴任
大正9年(1920) 稗貫郡花巻町西塔家へ嫁す
大正10年(1921) 九戸郡中野尋常高等小学校へ転任。下閉伊郡
磯鶏尋常高等小学校へ転任。夫は同郡鍬ケ崎尋常高等小学校へ転任。長女出産
大正11年(1922) 長女花巻で病死。磯鶏村藤原に居住し類焼にあう
大正14年(1925) 下閉伊郡山田尋常高等小学校へ転任
昭和2年(1927) 下閉伊郡二升石尋常高等小学校へ転任。移転の途次
折からの荒天悪路をついて雄鹿戸峠の険峻を越ゆ
昭和6年(1931) 下閉伊郡田野畑村沼袋尋常小学校へ転任。弟次治病
のため九戸郡葛巻村にて長逝
昭和7年(1932) 三陸津波の惨状の記事を新聞に掲載。父幸一郎盛岡市
にて病のため長逝
昭和9年(1934) 下閉伊郡小国村江繋小学校へ転任
昭和10年(1935) 凶作にあえぐ児童たちの給食費を得べく、また学
用品購入の足しとなすため、福寿草根採取をなす。
仙台放送局より教育者の体験談「ある日の出来事」を放送、行き帰り盛岡市
の実家に立ち寄る
昭和11年(1936) 6月22日岩手病院にて14歳以下7人の子どもを
残し母弟妹にみとられつつ不帰の客となる
昭和12年(1937) 西塔幸子遺稿歌集出版

(山峡の歌人西塔幸子・その作品と生涯、西塔幸子記念館建設委員会、平成
4年)

西塔幸子の家庭

6人の幼い子どもを残して、36歳の女教師西塔幸子は病死した。
さらにそのとき、幸子自身8カ月の身重でもあった。

幸子が薄幸の歌人と評される理由のひとつに、夫庄太郎の酒乱があった。
ただの酒飲みと違い、酒乱というのはこわい。
家族の受ける被害と苦痛は体験したものでないとわからない。
家庭内暴力ともいえる悲惨な光景になるのだから。

長女が生まれたころは、
 「酒召して帰り給へる時にても吾子はと吾に聞き給ひけり」
と安らかな家庭であったが、大正12、3年ごろから状況が急変した。

夫庄太郎は酒を飲むと、子どもを投げ飛ばし、妻を殴って離婚を迫り、
住民とのいさかいから毛虫のように嫌われ、警察ざたになる事態を引き起こす
こともしばしばだったという。

庄太郎は7人兄弟の長男で、西塔家ではただひとりの師範出であり、
家族から経済的にあてにされたようである。

大正4年11月に義父が死亡し、間もなく庄太郎の実家は多額の借財のかたに
取られるし、さらに200円の借金を庄太郎・幸子夫妻が返済しなければ
ならなかった。

追い打ちをかけるように義弟たちからは、毎月の生活費を請求され、疲れた庄太郎は、
酒にひたり、外泊が続くようになる。このころ、帰宅する庄太郎の羽織についた
おしろいや、襟の口紅を幸子が発見する。

つかの間の現実逃避を求めて飲む酒は、ますます庄太郎を横暴に駆りたてた。
住まいは戸が壊れ、障子が破れ、悲惨な状況を呈していった。

 「夫のため我が黒髪もおしからずささげて祈る誠知りませ」
新婚当時、きれいだと夫に褒められた髪を切り、酒乱から脱するよう祈る
幸子だった。

  「酒を嫌(い)む吾にはあれど旅にして夫のみやげに良きを求めつつ」
いさかいをおこす仲の夫でも、夫のために旅のみやげを買ってくるのは、
やはり夫婦だからであろうか。

  「障子紙買う銭もなしガラス戸と思へ」と言える村の収入役
  「障子の骨折りてはならぬ外し置け銭(ぜんこ)ないない」と言へる収入役
   みちのくの閉伊の郡の冷えしるく障子なき教室の寒さ思ふべし
この3部作は、貧しい村の予算では、幸子の小学校の障子紙も買ってもらえず、
ガラス戸と思えばよいと役場から言われ、障子戸さえ外して寒い教室で
子どもたちが学ぶ姿を詠っている。冬に戸のない教室で1時間もいたら
すっかり体が冷えてしまう。冬休みの補習を防火のため、そうやって受けた
経験のある私には、理解できる歌だった。

   凶作地の教師は哀(かな)し商人のともすれば吾をさげすみにけり
就職で求人に来る会社の人から、なんとなくこの大学をさげすまれたような
覚えのある私には、ものの言い方に気をつけようと言う気持ちにさせる歌
であった。

幸子が自分で書いているように「作歌の多かったのは生活が安易で暇の比較的
多かった時ではなく、反ってその反対の場合のようです。生活の苦しく感ぜ
られた年次に、反って多く詠んで居るのであります」というのは、
歌を詠む動機とはそんなものであろうと思う。人生に問題のない順調なときより、
何か感じ、何か訴えたいことがあるとき、心をなぐさめるため、
書かねばならないと思うだろうから。

「私の歌は生活と密接な関係があって歌は単なる趣味ではなかったということです。
歌によって自己の生活に徹しようと務め、自己の安ずる道を求めようとした
内心の欲求からであったということです。」と本人も分析しているように、
真剣に創作活動にとりくんだことで、自己を見つめ、結果としてそれが心の安心を得る
ことになったのである。

今どきの言葉でいえば、自己実現ということであろうか。

日本中が生活に追われていたような、現代からすればなかなか想像もできない
当時の日本の中で、とりわけ貧しかった北上山地であった。教え子の身売りの話を
聞いたり、粗末な身なりをした生徒たちに囲まれ、かつ自分も夫との愛の少ない家庭を
もち、死にたいという歌を残した幸子は、歌を作ることで自分を見つめ
生きる意味、つまり生きがいを確かめたのであろう。
 「亜砒酸と青酸苛里とつぎつぎにおもひ浮べて夜を熟睡(うまい)せず」

特異な彼女の人生ではあったが、喜び、悲しみ、苦しみの中で懸命に生きようとする
姿を文字で残したことは、現代にも通じるものがあるのではなかろうか。
真剣に人生を生きたこと、心のさけびを三十一文字で結晶化させたこと、
それがその人間の存在意義を表すことであり、生きたという証でもある。
生きたことと作品を残したことの意味は現代にも将来にも通じることであろう。

(山峡の歌人西塔幸子・その作品と生涯、西塔幸子記念館建設委員会、平成
4年)を参考にしました。

       ☆       ☆      ☆

「はろけくも吾は来つるものかな」の歌の一節を紹介しながら
岩手日報夕刊に女流解説者が西塔幸子記念館設立のことを書いていた。

西塔幸子記念館と歌碑は旧江繋小学校の場所にある。
遠野川井の路線と早池峰小田越からの道が交わる所。新道ができていて
旧道との間の集落の中に記念館があるから、最初わからなくて探したものだった。

今なら盛岡から車で1時間あまりで行ける場所にある
川井村江繋の西塔幸子記念館であるが、当時は大変な奥地であったろう。
「灯を消せば山の匂のしるくしてはろけくも吾は来つるものかな」
この歌の当時を考えるには、車で盛岡から現地に行ったのでは、
とうてい想像できない。わざわざ大迫から早池峰小田越を越えて
歩いて行ったほうが、山の匂いを感じることができるかもしれない。

「九十九(つづら)折る 山路を越えて 乗る馬の ゆきなづみつつ
 日は暮れにけり」
この歌碑のある押角峠のトンネルの新里村側出口に立てば、北上山地の
絶景のすばらしさと通行の厳しさを今も感じることができる。

岩手県の道路交通事情を改善するために、私たちの学科の卒業生は
今日もがんばっている。

西塔幸子も、もっと岩手の交通事情がよくて便利であったら
そんなに苦労もしないで早くして亡くなることもなかったろう
(人生に疲れないから、心の叫びの短歌もそう沢山出なかったかもしれない)
といっても仮定の話。

若しクレオパトラの鼻が少し短かかったならば
世界の表面に大変化を来たしたろう(パスカル曰く、吾輩は猫である)。

岩手県の歴史散歩  その142
  西塔幸子 
続いて西塔幸子の生涯を<新聞の特集記事を参考にして>側面から解説

   ーーーーーーー

幸子が岩手師範を卒業して、九戸郡久慈町(現久慈市)の久慈尋常高等小学校
に初めて赴任した。
そして、翌年には同じ年齢の同僚教師、西塔庄太郎氏と結婚する。幸子が
21歳のときだ。

ところが、この結婚は大村家としては、望んだものではなかったようだ。
「家柄の違いとか、相手の酒癖とかが問題となったらしい。」と弟大村次信氏が語る。
大村家は、旧南部藩士の家柄であり、西塔家は花巻市の鉄道員一家だった。
昔は家柄の違いで結婚できないということが多かった。

西塔庄太郎氏は、幸子より1年遅れて、久慈尋常高等小学校に赴任してきた。
師範学校では同学年だったが、卒業は遅れていた。幸子にひかれた庄太郎氏は
求婚するが、なかなか受け入れてもらえなかった。

庄太郎氏は5尺7、8寸(175メートル前後)、柔道3段のスポーツマンタイプだった。
幸子がなかなか承知しないので、「海に飛び込んで死ぬ」とおどしたという。
また、師範時代の友人4人が、幸子に庄太郎のことを頼みに来た。

このころの幸子には「職場の苦しみ」もあった。
 同僚の 冷たき仕打に 泣きぬれて うなだれながらかえるうら道
60数年前の小学校教員室でも、新任教師に対するいじめがあったのであろうか。

またこのころ幸子には母袋(もたい)中慰へのあこがれがあった。
母袋中慰は、当時の盛岡騎兵隊に所属していた独身の職業軍人で、
盛岡市大沢川原の幸子の親戚宅に下宿していた。

しかし、二人の仲が結婚の約束までいかないうちに母袋中慰は朝鮮の京城
(ソウル)に転勤する。そして京城で、母袋中慰は幸子から紹介された
盛岡出身の叔父宅に出入りして、その一人娘と結婚が決まる。

母袋中慰との別れをあきらめるかのように、庄太郎の愛を受け入れたのかもしれない。

    ーーーーーーーーー

昭和2年3月、幸子夫妻は下閉伊郡岩泉町の二升石尋常高等小学校に転勤を
命ぜられた。師範出の庄太郎氏は28歳で校長に昇進した。

 ゆきなやむ 峠路にして 日は暮れぬ みぞれさへふり 吾子泣きしきる

「雄鹿戸峠」と題したこの歌は、一家がいまの国道340号の押角峠を
越えて岩泉町二升石に向かうときのもの。3月末のこの地方は1年でもっとも
雪が多いとき。一家は雪道を馬の背に揺られて峠越えをしたらしい。

幼児だった長男晃さんが、このときの模様を「馬の鈴」と題した短文にまとめて
いた。「雪空の中を7頭の背のひくいダンゴ馬(北海道産)が列をなして、
押角峠をのぼって行く。先頭の馬には父が、その次に祖母、そして私の前に母、
私の馬には両側にふりわけにされた篭の中に、左に姉(当時4歳)右側に私が
乗っていた。...........................馬を引く人が、
校長先生もう峠は近いですよというのを聞きながら、
チラチラと降りかかる雪を顔に受けて、いつの間にか眠っていた」

歌碑が建っている、新里村の押角峠のトンネルの入口あたりは
当時の峠より下であったろうから、幸子一家はもっと山を登って行ったのであろう。

    ーーーーーーーーー

昭和9年、幸子は終焉の地当時の小国村江繋小学校へ転任する。
昭和11年の江繋には電気もまだなく、もちろん医者もいない。

凶作に苦しむ農民たちとその子どもたちの悲惨な生活を見る一方、自分の家庭の
苦しさに死にたいと何度も思いながら、歌の創作活動は続けられていた。

そしてとうとう、苦労が重なり、体力も衰えたせいか、突然幸子は手足の関節に
激痛が走り、ついにきた死を覚悟したのだったろう。
そのとき、14歳の長女をかしらに6人の子どもがいるうえ、
幸子は妊娠8カ月であった。

すぐ入院することになり、馬車で陸中川井駅に運ばれ、列車で盛岡に着き
岩手病院(岩手医大病院)に運ばれた。戸板にのせられた幸子の足には
油紙に包んだ歌稿ノートがしばってあった。このノートをもとに死後
歌集「山峡」が出版された。

急性関節リューマチと診断され、3日後には4男を早産(5カ月後に死亡)した。
そして産後22日目の6月22日に肺炎を併発して死んだ。

幸子の死に深刻な痛手を受けたのは庄太郎氏だった。酒は飲まなくなったという。
その後下閉伊郡釜津田尋常小に転任したが、昭和13年8月自殺未遂を
ひきおこした。その後一家は身内を頼って上京、庄太郎氏は懸命に子ども
たちを育てた。再婚はしなかった。

長男晃さんは、旧制中学に入った年に庄太郎氏が自殺未遂をしたため、退学して
東京・日本橋で店員になった。軍隊から帰ってからハイヤー会社で働いた。
「母が、父の酒で苦労したと聞くのはつらいことだ。私たち兄弟は父が、母なきあと
苦労したことしか知らない。父はつらかったはずだ」

子どもからみれば、父も母も大切な親。子どもを精一杯かわいがってくれたのだ。

昭和12年10月、盛岡公会堂で歌集「山峡」の出版記念会があり、母親ソメさんは
次の歌を披露して謝辞とした。
 幸あれと 名づけし名には あやからで 幸薄くして 逝(ゆ)ける吾子はや
(山峡の歌よみ 西塔幸子の作品と足跡、岩手日報)

    ☆       ☆      ☆

 九十九(つづら)折る 山路を越えて 乗る馬の ゆきなづみつつ
 日は暮れにけり
この歌碑は国道340号の押角峠のトンネルの新里村側の出口
に建っている。

峠から下に続く北上山地を眺めると、ここを行き来することの厳しさを実感する。
すぐれた眺望しかし交通の難所は、岩手県には多い。

いまも、ここは交通の難所
鉄道は廃止してよいか。

岩手県の歴史散歩  その143
鞭牛和尚と西塔幸子のことを書きました。
キーワードは岩手の道路、岩手の交通事情です。
広くて山の多い岩手県は今でも交通ネットワークの整備が重要です。
 したがって当学科の存在意義は大きい。
 
 だいえんじ
  大圓寺

JR川井駅川井村民バス小国(おぐに)方面行小国下車2分

川井駅から、村民バスで早池峰(はやちね)山の東麓を遠野にむかって
南行すると、10分ほどで小国に入る。
そこに大圓寺(曹洞宗)がある。
記録によると、開山は曹洞宗奥州総本山正法寺の第2世月泉良印和尚である。
月泉は早池峰権現を信仰し、登山口の小国に留まることが多く村民の
尊崇を集めた。江繋(えつなぎ)の桐内(きりない)に草庵を結んだが、
のちに湯沢へと移り、さらに現在地寺倉(てらくら)に堂宇を建立し
大圓寺と称した。寺の名称の由来は、本山の大梅の大と圓通の圓にある。
大圓寺はその開創が1394(応永元)年とされ、県内でも有数の歴史をもつ
古刹である。

1502(文亀2)年、武田氏が大梵天館(だいぼんてんだて)
(当寺後方山頂)を築城すると、その帰依を得て寺勢は大いに隆盛したが、
領主の移転後、閉伊郡諸士の争乱が続くと衰運にむかい、無住時代が続いた。
1665(寛文5)年、新領主の保護により壇家も安定し寺運も上向くが、
1794(寛政6)年火災にあい、記録・宝物の大半を失った。
現在、寺に残る宝物には阿弥陀如来坐像と雲龍文透(すか)し地絽(じろ)
九条袈裟(県文化)がある。現在の堂舎は1805(文化2)年の再建である。

    ☆       ☆      ☆

中国や韓国にある寺院も戦乱で焼滅したものが多い。
政権が代わると、寺院はスポンサーを失い、ひどいときは前政権のゆかりゆえ
故意に破壊されたという。

したがって法隆寺は世界の歴史的にも残った特別な寺であろう。
奈良東大寺は僧兵ぎらいの清盛に火を放たれ、その結果大仏と大仏殿の
補修工事に、わざわざ中国から技術者が日本に招かれた。
当時の中国人は日本の仏教建築の先生でありお医者さん。
(奈良の東大寺大仏殿には、中国流の一対の獅子像がガードしている)

戦乱をまぬがれても、スポンサーを失った寺社は生き延びることが
大変だったであろう。
多少の税の優遇処置はあってもよいか。
(明細は明らかにしてね)

岩手県の歴史散歩  その144
 つなみきねんかん
  津波記念館

三陸鉄道北リアス線田老駅下車20分

宮古市から北部の陸中海岸は今までに数十回にも及ぶ津波におそわれ
悲惨な体験をしている。特に田老湾は入口部分の水深が深く、周囲が絶壁
であるため津波が起こった場合、湾口で回し波の現象が起こって岬の内側に
大きな被害をもたらす。

史料によると、田老町が甚大な被害を受けたのは1611(慶長16)年
といわれている。それに次ぐものとして、1896(明治29)年、
1933(昭和8)年の津波があり、いまだに町民の脳裏になまなましい
記憶として残っている。山王閣国民宿舎の崖下にこの2度の津波の高さを
印した岩があり、規模・被害の様子を記す資料がその場所に建てられている。
また津波に関係する碑としては、役場の脇の慰霊碑があり、さらに田老
第一小学校脇には津波記念碑がある。

       1896.6.15        1933.3.3
最大波高    15m              10m
死者・不明者 859人            911人 
 
1933年の津波により壊滅的な打撃を受けた町民は、防潮堤の建設に
のり出した。その計画はまず村費だけで着工し、戦争で一時中断したが、
1954年関係官庁に陳情してついに町民の願いはかなえられ、工事が再開、
1958年延長1350m、海面からの高さ10mという他に類を見ない
防潮堤が完成した。その後、第2・3期工事が行われ、現在総延長2433m
に達しこの防潮堤は町を2重に守っている。

    ☆       ☆      ☆

私ごとですが明治の三陸津波で親族が被害を受けています。
ちょうどその日は旧暦の節句だったので、チマキを持って山の上に
逃げたとか......
あの時一家全滅なら、今の私は存在しなかった。

岩手県の歴史散歩  その145
 りゅうせんしんどう
   龍泉新洞遺跡

JR岩泉駅バス龍泉洞行終点下車2分

バスを下車して小さな橋を渡ると、日本三大鍾乳洞にあげられる龍泉洞がある。
この龍泉洞は、宇霊羅(うれいら)山の東麓にあり、千変万化の洞窟美を
見せてくれる。総延長は推定5000m以上とされ、洞内には豊富な地下水に
よってつくられた地底湖がいくつかある。

龍泉洞の筋むかいにあるのが龍泉新洞遺跡である。1967(昭和42)年
に発見された龍泉新洞遺跡は、現在世界にも類のない洞窟科学館である。
龍泉洞が男性的な雄大さに富むのにくらべて、真白な鐘乳石・透きとおった
鍾乳管などはまさに女性的な美しさの極地ともいえる。この洞窟から、
動物の骨とともに縄文時代早期初頭の薄手無文土器・石器(石鏃・石錐・
掻器・石斧など)・骨角製の針・装身具など1000点余りが、炉跡とともに
あるまとまりをもって発見された。なお、この科学館では、当時のキャンプ
構造を復元しているほか、洞窟学・地学・生物学に関する資料も展示している。

    ☆       ☆      ☆

 龍泉洞か竜泉洞か
龍は当用漢字でないらしく、新聞には龍の字は使えず、竜の字を代用する
とか。テレビの方はおかまいなしに、龍の字を使う。
したがって日本中が注目した、離ればなれに埋葬された親子3人が一緒に
集められたとき、小さい子どもの名が、龍彦か竜彦か疑問に思った人がいた。
龍彦が戸籍上の名前のようである。

中国の東北地方の省であるが、黒龍江省か黒竜江省か どっちが本当?
本場の中国の龍の字は別の簡体字
ここに表現できないのが残念(外字になってしまう)

台湾のオーソドックスな漢字 國 學
日本の略字         国 学
中華人民共和国の簡体字 (外字は書けません 日本と同じ字もいっぱい)
 川本先生や薮先生は みな読める。

岩手県の歴史散歩  その146
 ひょうたんあな
  瓢箪穴遺跡

JR岩泉駅バス龍泉洞行岩泉営業所下車30分

バス停岩泉営業所から龍泉洞方面に向かい、岩泉中学校脇の道をさらに進み
横道地区から右手の山の上に上がると瓢箪穴遺跡がある。
この遺跡も龍泉新洞遺跡と同じく石灰岩の岸壁にある洞窟遺跡である。
1962(昭和37)年から数回にわたって発掘調査が行われ、縄文時代早期
から弥生時代後期までの動物の骨、貝類とともに、土器・石器(石鏃・石匙
せきひ・尖頭器)、骨角器など2000点あまりが出土した。
この遺跡は層位が明確なため、土器の編年を知るうえで貴重な資料となっている。

    ☆       ☆      ☆

宮城県の研究者が、日本にも旧石器時代があった(石器は発見)
だから旧石器人の人骨があるはずだと発掘調査をしている。

火山灰の中では人骨は解けるため残らないそうです。
そこで、その先生が目をつけているのが 岩手県は北上山地の石灰岩層
この石灰岩の中なら人骨は残っているはず。

首尾よく、旧石器人の人骨が見つかることを祈っています。
日本にもいた北京現人なんて

岩手県の歴史散歩  その147
 しばらく多忙のため、この連載を休んでいました。

    百姓一揆顕彰像

三陸鉄道田野畑(たのはた)村駅バス岩泉行田野畑村下車10分

バス停留所から坂を上って行くと、百姓一揆顕彰像の標識が目につく。
一本道をさらに進むと四方見山(よもみやま)公園があり、その公園内
の田野畑村を一望できる場所に弘化・嘉永一揆の指導者切牛(きりうし)
弥五兵衛と畠山太助の像がある。

盛岡藩は近世において最も多く百姓一揆が発生し、1627(寛永4)年
に遠野で起こった南部直栄(なおよし)に対する新領主反対一揆を最初に、
1869(明治2)年までに132回の一揆が数えられる。特に18世紀末から
一揆は増加の傾向をたどり、強訴(ごうそ)の形式をとって広い範囲にわたって
参加者を集めた。

幕末の九戸郡・下閉伊郡地方は、ようやく鉄・魚油・魚粕が商品化され、
経済的に発展しつつあり、財政が行き詰まっていた藩はこれを新たな財源に
しようと画策する。1847(弘化4)年、大坂の豪商を蔵元として
水産物を安く買い上げる専売制を行った。

さらに総額5万2500両という巨額の御用金が賦課されたが、中でも
三閉伊通(野田通、宮古通、大槌通)への賦課が他の通りに比較して格別に
大きかった。こうした藩の圧迫に対して藩政改革を要求し、農民の生活に
安定をもたらそうとする者が出現した。それが切牛(きりうし)弥五兵衛
である。笛吹峠を越えて遠野城下になだれこみ、早瀬川原に野営して
新税の撤回をはじめとする26カ条の要求を提出する。藩は全面的に
要求を認めたが、一揆が鎮静すると次々に公約を破棄し、ふたたび増税・
新税の徴発を強行する。そのため弥五兵衛は再度一揆を計画するが、1848
(嘉永元)年に捕えられ獄中で没した。

 ーーー  この項は次回に続きます  ーーーーーー

   ☆     ☆      ☆

南部藩はふだんから貧しい藩で、飢饉が続いたから一層一揆が多かったようだ。
みちのく、やませ、冷害
これは宮沢賢治の時代まで続いた。
 ものの本を読むと、江戸時代にも牛馬は飼っていたのだから
肉を食べなくても乳製品(バターやチーズ)等を作って食べたらよかったのに
と書かれてある本があったが、そういう意識革命はなかなか困難であったろう。
馬や牛の乳を飲むことを知っていただろうか。
 モンゴルの馬乳酒なんて飲物も日本の食文化には存在しなかった
のだろうか。

  先祖の苦労に合掌

岩手県の歴史散歩  その148
    百姓一揆顕彰像   その2

一揆の指導者切牛(きりうし)弥五兵衛が死んでからの続きです。

ペリーが浦賀に来航した1853(嘉永6)年、盛岡藩はまたも厳しい
御用金をかけた。
そこで安家(あっか)村・野田村・田野畑村の農民らは野田代官所を襲撃し、
竹槍・鉄砲で武装をととのえ「小○ (こまる)」と書いた蓆旗をおしたてて
藩境の唐丹村(とうにむら 現釜石市唐丹町)まで進んだ。
沿道の村々は次々と一揆軍に参加し、大槌をへて釜石に至ったときには、
その数は1万6000人に達したといわれている。6月6日、一揆軍は
ついに藩境を越え仙台領に越訴した。その内容は、藩主南部利剛(としひさ)
の罷免、三閉伊通百姓の仙台領民化、三閉伊通の天領化または仙台領化の
3カ条で、この要求はいずれも百姓一揆の要求としてはまさに異例のもので
あった。その後百数十日間にわたる粘り強い交渉の末、ついに家老の交代と
新税の廃止および一揆の指導者を処罰しない旨を約束させることに成功した。
この一揆の中心的指導者が畠山太助であり、栗林村(くりばやしむら 
現釜石市栗林町)の三浦命助ら弥五兵衛の意志をつぐ45人衆であった。
1人の犠牲者も出すことなく、ほぼ完全に要求を実現したこの一揆の
みごとさは、日本農民闘争史上の一大金字塔といえよう。

この像は、畠山太助の100年忌にあたる1971(昭和46)年、その子孫
によって除幕された。

   ☆     ☆      ☆

私は偶然、盛岡市の北山の寺町の本誓寺近くの墓地に
この畠山太助の墓のあることに気がつきました。
どなたか確かめてみてください。

私の研究室では毎年、田野畑村にある橋の公園「思惟公園」に架けられた
木の歩道橋の振動実測に行っています。
国道46号を北上すれば、大きなアーチの思惟大橋のそばに作っている公園です。
まだ全部完成していませんが、だいぶ整ってきました。
すでに歩道橋は3つ架けられています。

そして実測と解析をまとめてから、研究論文を発表しているのです。

資料など教えていただいている役場の土木課長さんに案内されて
いつか、この百姓一揆顕彰像のそばにある百姓一揆資料館を
見学したことがあります。

南部藩に苦しめられた百姓たちの子孫が、現在も田野畑村の発展のために
努力しています。
陸中海岸国立公園という財産があるので、今は観光客が押し寄せ
また三陸鉄道の島越駅などは、なぜか銀河鉄道のイメージで
ロマンをかき立てます。
皆様も暇があったら、ぜひ田野畑村のおいしいアイスクリームなど
食べに行ってみてください。

岩手県の歴史散歩  その149
   うねとり
     鵜鳥神社

三陸鉄道普代駅バス久慈行力持下車50分

普代駅から北リアス線と平行して走る国道45号線に出る。
普代の中心街を通って北上すると、普代トンネルがある。トンネルを過ぎると
国道左側に案内標識があるから標識に従って山手の道をかなり行くと、
樹木に囲まれた鵜鳥神社(祭神 鵜草萱葺不合うかやふきあえず命)の拝殿が
ある。
卯子酉(うねどり)山の頂上にある本殿(奥宮)までは、山道を800m
歩いて上らねばならない。本殿の後ろの卯子酉山の突端にお岬様があり、
ここからは眼下に太平洋を展望することができる。

創建は804(延暦23)年で、卯子酉山薬師寺と称したと伝えられる。
鵜鳥神社にし義経に関するいい伝えが残っている。
宮古から普代に北上し、しばし滞在していた義経は、近くの山で金色の鵜を
見て、この山を神の住む山と思い、祈り続けたところ、玉依姫命(たまより
ひめのみこと)・鵜草萱葺不合命・海神命(かいじんのみこと)の3神が
あらわれた。そこで蝦夷地渡航の安全祈願を行ったところ、「安全に
渡航すべし」とのお告げを得た。義経はこれを鵜鳥大明神と名づけ蝦夷地へ
むかったという。

   ☆     ☆      ☆

国道4号線とか国道45号線と、私たちは普通言っていますが、
道路を建設したり維持管理する関係者の間では
国道4号とか国道45号といいます。

つまり、専門的には 国道45号線というよりは国道45号
といったほうが正しいのです(勉強になりましたか)。

大国主命(おおくにぬしのみこと 大黒様と一緒に言われている)
これを、大国生命(だいこくせいめい)と保険会社のように読んだ
大学生がいたそうです。
 日本語は難しい。

岩手県の歴史散歩  その150
ようやく150回目

くのへ しもへい
 九戸・下閉伊の砂鉄生産

九戸・下閉伊郡は日本有数の段丘砂鉄鉱床地帯で、1967(昭和42)年
まで川崎製鐵久慈工場が操業を行っていた。

この地方の砂鉄の歴史は古く、8世紀初めの鉄器の生産が確認されている。
本格的な生産は近世になってからのことである。江戸時代、中国出雲地方と
ともに国内二大産鉄地を形成し、その遺跡(タタラ遺跡)は約180に
およんでいる。製錬の技術は、中国地方の砂鉄を原料とした和鉄製錬法を
導入し、その製品はやがて江戸市場まで進出している。

砂鉄製錬の発展にともない、燃料用木炭の生産と物資輸送のための牛方稼業
が盛んになった。

   ☆     ☆      ☆

この後の連載は、久慈、県北の浄法寺、二戸を回れば
一応終わりですが、途中積み残したものもあるので、
一通り終わったら、もう一度盛岡から回ろうと思います。
(自分の勉強のためです)

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