岩手県の歴史散歩

岩手県の歴史散歩  その51

和賀川流域の歴史を訪ねて

奥羽山脈の東麓に沢内(さわうち)盆地がある。
年間降水量2500mmに及ぶ豪雪地帯である。
 和賀川は沢内盆地の北端に源を発し、湯田町に入って流路を東に変え、
湯田ダムによってつくられた錦秋湖(きんしゅうこ)となる。
北上平野に流れ出て夏油(げとう)川を合わせ、北上川に合流する。
夏油川の上流には夏油温泉、湯田町には湯田温泉がある。

和賀川が北上川に合流するあたりは、奈良時代の遺跡が多い。
和賀川の北岸には八幡・猫谷地・五条丸・長沼の古墳群が並び、
大規模な集落も多い。
これらは蝦夷社会の発展を物語るものである。
「続日本紀」の延暦8(789)年に和我(わが)と記されているのが、
史料での当地の初見である。
そして和我郡の建郡は811(弘仁2)年である。
平安時代中期には安倍氏の支配下にあり、黒沢尻(北上市)には
安倍正任(あべのまさとう)がいた。

中世の領主は和賀氏とその一族の鬼柳(おにやなぎ)氏であり、
南北朝期には北朝側の勢力をなしていた。
鬼柳文書は東北中世史を探求する貴重な史料である。

近世の北上市は北半が盛岡藩の支配を受け、南半が江刺郡に属していたため
仙台藩の統治下にあった。奥州街道に沿う盛岡藩領の鬼柳と仙台藩領の相去には
関所があり、また奥州山脈の駒ケ岳からは藩境塚が築かれた。
盛岡藩の黒沢尻は北上川水運の河港であり、盛岡藩の蔵が置かれた。

   ☆      ☆      ☆

これからしばらく北上市の関係の史跡をあつかいます。
町名を黒沢尻から北上に変えたため、全国的に有名になったのは
あの北上夜曲のせいでしょうか。
したがって伝統の高校は黒沢尻がつく。

岩手県の歴史散歩  その52

北上市立博物館

JR北上駅バス江刺行展勝地下車3分

バス停周辺一帯は市立公園展勝地であり、その一角に北上市立博物館がある。

北上市立博物館は、それをとりまく自然が学べるように配慮されている。
歴史展示では「北上川とその流域に生きた人々」をテーマに、旧石器時代から
現代までの史料が集められている。
相去町にある旧石器時代の下成沢(しもなりさわ)遺跡や更木(さらき)町に
ある縄文期の八天遺跡(国史跡)を中心にした考古史料、
極楽寺(857年に定額寺ジョウガクジに指定)関係資料や藩境資料、
さらに北上川舟運の資料など、展示が多彩である。

自然科学展示は動物・植物の剥製のほか、魚類・昆虫などの標本がある。
なかでも1000余種の蛾亜目標本は、昆虫分類学上からも貴重な
ものといわれる。さらにこの博物館の背後の国見山周辺の植物標本も
見ることができる。

博物館周辺はみちのく民俗村になっており、県内の古民家や歴史的建造物を
移築したものが多い。
その数は十指に余るが、最も見ごたえのあるのが、旧菅野家住宅(国重文)
である。仙台藩の大肝入中村屋敷を移築したもので、堂々たる江戸中期の
家屋と、薬医門を見ることができる。

菅野家住宅から100mほどの所に民俗資料館がある。
黒沢尻南高校の旧校舎を移築した洋風建築の資料館には、生活用品、
農機具、農作業工程などが、実物と模型を使い一目でわかるように工夫して
展示されている。

この展勝地一帯は遊歩道も整備され、四季を通じて散策には最適のコースであり、
背後の国見山に登れば山頂に展望台があるし、前面の北上河畔には、
「北上夜曲」の歌碑も立っている。

    ☆      ☆      ☆

蛾亜目標本といっても 蝶の標本も多い。
(蝶と蛾の学問的区別は困難、もともと区別できないといったほうがいい)

そして、この博物館の蝶の標本はすばらしい。
県立博物館の蝶の標本が不十分なため、一層北上の方が立派に見える。

民俗と民族
その違いを日置孝次郎教授(元八戸大学学長)は
単数と複数の違い と教えてくれました。

民俗学 die Volkskunde
民族学  die Voelkerkunde (ウムラウト文字)

岩手県の歴史散歩  その53
なんぶりょうだてりょうさかいづか
南 部 領 伊 達 領 境 塚

JR北上駅バス江刺行展勝地下車4分

北上市立博物館を左に見て150mほど進み、突き当たりの
民俗資料館後方約200mの所に
南部領伊達領境塚(国史跡)がある。

盛岡藩と仙台藩は、1951(天正19)年から50年余りにわたって
藩境争いを続けたが、1642(寛永19)年江戸幕府の裁定で
ようやく境界が確定し、後日のため境塚が築かれることになった。
今に残る境塚はこのときに築かれたものである。

盛岡・仙台両藩の境塚は、奥羽山脈の駒ケ岳山頂から太平洋の唐丹(とうに)湾
に至る、総延長130kmにおよぶ大規模なもので、全国的に類をみない
といわれている。

なお北上市相去町と鬼柳町の境界地点は、旧盛岡・仙台両藩の藩境であり、
「二所ノ関」のいわれである。
ここから しこ名をとった江戸時代初代二所ノ関軍右衛門の墓は、
出身地の黒沢尻町黒岩の正洞寺(しょうどうじ 曹洞宗)にある。
国道4号線の相去郵便局付近にも復元された境塚があるので、
車の中からでも簡単に見ることができる。

    ☆      ☆      ☆

二所ノ関部屋から別れた花篭部屋
こうして見ると、若貴兄弟も岩手県に関係がありそう
(無理にこじつければ)

岩手県の歴史散歩  その54
 かばやま
  樺山遺跡

JR北上駅バス江刺バスセンター行橋本前下車15分

バス停から100mほど戻ると樺山遺跡と書かれた標識があり、これに
従って約1km進むと右側一帯、南西に傾斜する河岸段丘がある。
ここが通称ストンサークルと呼ばれる樺山遺跡(国史跡)であり、
多くの配石遺構が点在している。

この遺跡は、1950(昭和25)年に発見され、数次にわたる発掘調査の結果
30数ケ所の配石遺構が確認された。この配石には次のような類型が見られる。
立ち石の周囲に円形状に石を並べたもの、細長い川原石を立ち石として置き、
これを囲むように石を放射状に並べたもの、立ち石がなく、川原石を円形状に
並べたものなのである。
つくられたのは縄文中期頃と推定されているが、性格については墳墓説、
祭祀遺跡説などが出ているが、定説はないようである。

ここからは配石遺構のほか、縄文前期〜中期にかけての竪穴住居跡と甕棺
(かめかん)遺構なども発見されている。
遺物も多く出土したが、石器は種類・量ともに多く、石鏃・石刀・石斧・石皿・
石匙・石錘・石製装身具など多岐にわたっている。

このように樺山遺跡は配石遺構と竪穴住居の跡が発見されるという
類例の少ない貴重な遺跡である。

    ☆      ☆      ☆

ストンサークルは北海道にも見られます。
小樽の手宮の「古代文字」というものを思い出す。
まだ解読されない、この文字は ”小樽の人よ” の歌詞に歌いこまれている。
(あの歌詞の意味が、なにも知らない人には理解できただろうか?)

岩手県の歴史散歩  その55
  極楽寺跡

JR北上駅バス熊沢行内門岡(うちかどおか)下車6分

バス停から北上方面に200mほど行き、左折してさらに約400mで、
現在の極楽寺(真言宗)前駐車場に到着する。
背後は北上山系の一部をなす国見山であり、その山麓に極楽寺跡(県史跡)が
ある。

伝承によれば、坂上田村麻呂が国家鎮護と夷敵降伏を祈って毘沙門天を勧請し
さらに850(嘉祥3)年慈覚大師円仁が大伽藍を整え、国見山極楽寺と称した
と伝える。
この寺が857(天安元)年文徳天皇の勅命によって準官寺の定額寺に指定
された陸奥の極楽寺と考えられる。

極楽寺も堂塔の大部分が焼失し、現在では中台の極楽寺、如意輪寺、
北谷の立花毘沙門堂などに、わずかに往時の面影をしのぶだけになってしまった。

    ☆      ☆      ☆

北上には平安時代からの文化財がたくさん残っている。
もちろん、縄文時代や古墳時代のものもある。


岩手県の歴史散歩  その56
 ふたご なりた
  二子・成田の一里塚

JR北上駅バス花巻行塚越および一里塚下車各1分

一里塚は江戸時代の交通施設で、街道1里(約4km)ごとに道の両側に
一対ずつ築かれ、通行人に里程を知らせるものである。
江戸の日本橋を起点とする奥州街道の整備は、1604(慶長9)年に始まり
盛岡藩の工事は幕府の奉行大久保長安の監督のもとに行われた。
一里塚もこのころから1610(慶長15)年頃にかけて築かれたようである。

北上市内に現存する一里塚は、盛岡から10里目の成田のものと、
11里目の二子の一里塚(ともに県史跡)である。

里程標としての一里塚は、県内には多く残っているが、この二子・成田の一里塚
のように道の両側に一対ずつ、一里をへだてた地点に、鋏み塚のままセットで
計4基もそのまま残っているのは、全国にも類例が少ない。

    ☆      ☆      ☆

これから講義があります。
このシリーズずっと続きます。
北上はあと3〜4回

岩手県の歴史散歩  その57
 えづりこ
  江釣子古墳群

JR江釣子駅下車15分または北上駅バス横川目行五条丸下車3分

江釣子駅から直進すると国道107号線に出る。
左折し東へ500mほど進むと五条丸古墳入口の道標があり、バス停である。
南へ折れて100mほどで史跡センターに着く。
展示室の中央には、蕨手(わらびて)刀、直刀、鉄鏃、馬具、そして瑪瑙
(めのう)の勾玉(まがたま)、ガラス小玉を組み合わせた首飾り、
琥珀の勾玉が展示されて目を奪う。

江釣子古墳群(国史跡)は、和賀郡江釣子村と和賀町におよぶ和賀川北岸の
田園地帯に立地し120基にもおよぶ群衆墳の総称で、13万平方メートル
の遺跡である。八幡古墳13基、猫谷地古墳16基、五条丸古墳79基、
長沼古墳13基が数えられる。
なかでも東北縦貫道の東側にある猫谷地の1号墳が代表的墳墓として整備され、
川原石積の全貌を現わしている。
(今では合併したので、江釣子村も和賀町も北上市)

また、五条丸古墳は史跡センター周辺の古墳群で、墓地公園的性格をもち、
復元された墳墓、竪穴住居や民俗資料棺、曲り家、収蔵庫が建てられ、
2000点にもおよぶ民俗資料や古文書類が展示されている。

中でも、曲り家は村内から移築復元されたものであるが、入口を東側に設けた
片中門(かたちゅうもん 秋田系)の様式を伝えている。

    ☆      ☆      ☆

なかなか忙しいのですが 昼休みに時間をみつけて....

江釣子古墳群は高速道路の工事の時発見されたのだろうか
東北自動車道が、この古墳群の真ん中を横断している。
道路工事をすると遺跡は出るは化石は出るはで、喜ぶ人もいるが
処理をきちんとしなければならないので、工事関係者は大変気を使います。

この近くに新渡戸観音がある。
新渡戸稲造の先祖に関係のあるのは、このように今の北上、
花巻(新渡戸記念館がある) そして 十和田であろう。
私の参考にしている「岩手県の歴史散歩」には、このへんの記述はない。

岩手県の歴史散歩  その58
   奥寺堰と松岡堰

JR竪川目駅・横川目駅下車15分

花巻市の西南部から隣接する北上市にかけての田園地帯には縦横に用水路が
走る。これらが、藩政時代に難事業のすえ完成した奥寺堰と松岡堰を基盤に
したものである。

奥寺堰は幹線水路36kmに達するもので、盛岡藩最大の事業(石高を10万石
に復する目的があった)であった。
1664(寛文4)年、藩士奥寺八左衛門定恒(さだつね)は、江釣子村
全明寺(ぜんみょうじ 曹洞宗)住職大迦(たいか 双子の弟)の助力を
得て、和賀川から北上川へ結ぶ事業に着手した。
当初は失敗を繰り返し、水も流れず、堰の跡は空堰(からぜき)という地名
(竪川目)となって現存するが、定恒は再三にわたって取水口を探し、
横川目の綱取から取水に成功した。
北上川の合流点までの20kmにおよぶ上堰(うわぜき)の完成まで9年間を
要し、1679(延宝7)年完成した。
途中には穴堰(トンネル)や底樋(サイフォン)も6ケ所を数えた。
難工事であった。

測量や穴堰工事に、秋田の阿仁鉱山の鉱山師猫塚武兵衛(ぶへい)や
竹内平内を招いた。また、工事人夫として、藩から囚人を借り受けたが、
地元農民たちに負うところが多かった。

松岡堰は、奥寺堰より早く、1668(寛文8)年に完成した。
盛岡藩士松岡八左衛門は、1656(明暦2)年、和賀川上水の開堰に藩の
許可を受け、和賀西部(藤根、滑田、上江釣子、下江釣子、鳩岡崎、北鬼柳、
町分、里分)の新田開拓を私費でまかない、和賀・稗貫両郡の
新田開発の先駆となり、奥寺新田への発展をみた。

このほか、個人による新田開拓も進み、飯豊(北上市)に柏葉氏50石の
柏葉新田が1667(寛文7)年に完成している。

    ☆      ☆      ☆

工学部電気電子工学科の柏葉先生は、柏葉新田開発の先人の関係者でしょうか。

この記事は途中で操作ミスのため、スッカリ削除され
再び苦労して書き直しました。

矢巾町の又兵衛新田も、先人の偉業を記念して付けたのかもしれない。
地名変更になっても、こういう名前は残しておきたいものだ。


岩手県の歴史散歩  その59
  へきしょうじ
    碧祥寺博物館

JR陸中川尻駅バス川舟行太田下車2分

バス停から進行方向に数十m行くと、左手に碧祥寺(浄土真宗)の参道が
見えてくる。1625(寛永2)年の創建と伝えられるこの寺は、博物館の
ある寺としても知られている。

沢内地方は名だたる豪雪地帯であり、マタギの里でもあったので、
この博物館には積雪期用具とマタギ資料が中心に収蔵されている。
これらの資料がこれだけまとまって収集されているのは、全国的に碧祥寺だけ
である。1年のほぼ半分を雪とのかかわりのなかで生活している沢内には、
積雪期間の生活用具が多く、1792点が国の重要民俗文化財に指定され、
収蔵展示されている。

博物館のもう一つの特色は、マタギ資料である。マタギとは狩人のことであるが、
狩猟用具486点と丸木舟1隻(いずれも国民俗)がマタギ収蔵庫に展示されて
いる。

    ☆      ☆      ☆

マタギといえば、秋田の阿仁のマタギ博物館も必見である。
あそこにも、この沢内ゆかりの高橋喜平さんの解説があった。
マタギも熊も、昔は秋田と岩手の県境など問題にしていなかった
活動範囲は広かったのだろう。

私の碧祥寺の印象では マタギ資料の他にチベット資料があった。
こんな山奥の寺にチベットがと思ったものである。
この参考文献には、チベットのことは全然ふれていない。

花巻の光徳寺のチベット蔵修館のことは前に紹介したが。

あと1回沢内村をあつかいます。

岩手県の歴史散歩  その60
  およね地蔵

JR陸中川尻駅バス川舟行太田下車2分

碧祥寺の南方約200mの浄円寺(浄土真宗)には、「およね地蔵」がある。
このおよねは、年貢米納入に難渋する村人の苦しみを救うため、
人身御供となったという悲しい伝説が語り継がれている。
当地方の民謡「沢内甚句」に「沢内三千石 お米の出どこ 枡ではからで
箕ではかる」という歌詞があるが、「お米の出どこ」のお米は娘の「およね」
であり、「箕で量る」は「身で諜る」をもじったものといわれる。

    ☆      ☆      ☆

今はなき農学部の菊池修二先生から聞いたことだが
沢内村にお米が三千石とれるなんて、ありゃ とんでもない
と この伝説を教えてくれました。
岩手県の中でも一番雪が多くて、春も遅い地方だから、稲作など
簡単にできるわけがない
というのです。

しかし
昭和の農業技術の発展と農民の努力により
沢内の米作りは日本でも高く評価され
ついに中国の東北地方に、沢内村の米作技術の移転が成功した。
(このへんのいきさつは新聞テレビでおなじみ)
(及川和男:米に生きた男 日中友好水稲王=藤原長作、筑波書房)
もし、あの菊池先生が生きていたら
なんと喜ぶことか。
(菊池修二先生はマンドリンクラブの創設者です)

岩手県の歴史散歩  その61
偉人の町水沢編です

高野長英記念館

JR水沢駅下車10分

市街の南、桜で名高い水沢公園の東側の一角に高野長英記念館がある。

高野長英は1804(文化元)年水沢城主の留守家の家臣、後藤実慶(さねよし)
の子として生まれ、後に母方の実家である医家の高野玄斎の養子となった。
彼はここで祖父の元端から漢学を学び、また杉田玄白の門下であった父玄斎から
蘭学の手ほどきを受けた。
17歳の夏、江戸に遊学、さらに長崎に出てシーボルトの鳴滝塾
(なるたきじゅく)に学んだ。

1828(文政11)年に起きたシーボルト事件では難をのがれたものの、
1839(天保10)年の蛮社の獄では長英は永牢の身になった。
しかし、獄舎の火災にまぎれて脱獄、名を変え、顔までも焼いて多くの門人や
学者、宇和島・薩摩藩主などに守られながら諸国を潜行し、医療と蘭書の訳述を
続けたが、ついに1850(嘉永3)年、役人に襲われて江戸青山百人町で
47歳で自刃した。

    ☆      ☆      ☆

顔を焼いて潜伏とは、いまマスコミをにぎわした謀教壇の幹部を思わせるが
学者や藩主たちにかくまわれた長英は当時の日本にとって
惜しい人物だったのであろう。

このシリーズは広く読まれているようです。
気をつけて書かないと、またミスを繰り返しそう。
そう思いながら暇を見つけて、続けます。

見るべき場所やポイントの選択は私の独断ですので、お許しを。


岩手県の歴史散歩  その62
国立天文台水沢観測センター

JR水沢駅下車20分

水沢公園の西にある。
1988(昭和63)年、東京大学天文台などと統合され、新しく
国立天文台が設置されて、その一研究機関に組織がえとなったものである。

前身の緯度観測所は、1899(明治32)年国際共同の緯度観測所として、
地球の極運動と緯度の研究観測のため、北緯39度8分の線上に、
ソ連・アメリカ・イタリアなどの3つの観測所とともに設置された。
もちろん日本唯一の緯度観測所であった。

初代所長の木村栄(ひさし)博士は、1902(明治35)年にZ項を発見し、
当時東北の片田舎の水沢が世界に知られるようになった。
それまで世界の学会では緯度の変化の要因となるものは地軸の移動だけと
考えられ、X・Y項の未知数を使って計算してきたが、博士はこのほかに
Z項が存在するのをつきとめたのである。
博士は1937(昭和12)年に文化勲章を受けた。

    ☆      ☆      ☆

Z項は数式の第3番目の項のこと、
f=ax+by+cz と書けばわかりますか。
KS鋼などは材料の開発で生まれた特殊鋼であり
発音だけで、同じジャンルに入れる人もいる。
注意しましょう。
(老婆心ながら)

岩手県の歴史散歩  その63
  じゅあんだて
    寿庵館跡

JR水沢駅バス一の台高橋行福原下車5分

寿庵館跡は水沢市の西はずれ福原にある。

仙台藩主伊達政宗の家臣後藤寿庵は、17世紀の初め、
胆沢郡見分(いさわぐんみわけ)村(水沢市福原)に1200石を領して
入封した。

キリシタン領主として家臣や住民をキリシタンに帰依させ、
居館のそばに天主堂やクルス場(墓地)をつくり、聖書の福音にちなんで
この地を福原と改めたという。
各地から信者も移り住み、福原は県南のキリシタン布教の拠点となった。

また寿庵は1618(元和4)年胆沢扇状地の高所に胆沢川から揚水し、
灌漑水路を切り開くという大事業を行った。
これ以前すでに平野の北端部には茂井羅堰(しげいらぜき)が開かれていたが、
この寿庵堰の開削は、それまで北上川流域を除き、水が得られずに
開発が遅れて荒涼としていた平野を現在のような穀倉地帯にかえることと
なった。

1623(元和9)年、幕府のキリシタン弾圧により、寿庵はいずへこともなく
福原を去ったといわれる。現在その居館跡には、寿庵記念廟堂がたてられており、
また彼の像が水沢カトリック教会にある。

    ☆      ☆      ☆

岩手大学の教官は全国から集まって来ている。
学生もやはり全国各地から岩手大学に入学している。

したがって岩手県の歴史や地域の知識に熟知しているわけではない。
私も北海道から来て、自分の勉強のつもりで調べながら、
この岩手県の歴史散歩を書いています。

ワープロミスやら自分の記憶違いで、間違いもたくさん書いています。
また独断と偏見で書いているのは自覚しているのですが、
目に余る時はフォロー記事をどうぞ
また私宛に電子メールを送ってください。
いつでも歓迎いたします。
  (御関心ありがとうございます)

岩手県の歴史散歩  その64
忙しい忙しいと言いながら書いているので、
これを読む先生から、随分忙しそうですね
と言われてしまった。   ^^;

ここ2週間くらい出たり入ったり、会議や発表が続きました。

   さいとうまこと
     斎藤実記念館

JR水沢駅下車20分

武家屋敷の面影を今に残している吉小路の西はずれに斎藤家の旧邸宅と
展示館からなる斎藤実記念館がある。
彼は1858(安政5)年に留守家家臣の子として生まれた。
後藤新平より一つ年下で2人は竹馬の友として吉小路に育ち、
藩校立生(りゅうせい)館にともに学んだことは有名である。

斎藤実は海軍兵学校卒業後、駐米公使付武官、各艦長、海軍次官などを
経て、1906(明治39)年に西園寺内閣の海軍大臣となった。
以後歴代5内閣で海相をつとめたが、第2次桂内閣(1908年)の時
は逓信大臣の後藤新平とともに閣僚であった。
この後、朝鮮総督、ジュネーブ軍縮会議全権となり、
1932(昭和7)年には5・15事件直後の挙国一致内閣の首相となった。
1936年、内大臣のとき2・26事件の凶弾に倒れて79年の生涯を閉じた。

    ☆      ☆      ☆

2月26日 その時は東京に雪が降ったという。
若い兵士も閣僚も日本の将来を思っていたのだが

岩手県の歴史散歩  その65
   ごとうしんぺい
     後藤新平記念館

JR水沢駅下車15分

水沢市公民館(後藤伯記念公民館)に隣接して後藤新平記念館がある。

彼は1857(安政4)年に仙台藩留守氏の家医後藤実崇の子として
吉小路に生まれた。
吉小路には高野長英・斎藤実が生まれており、後藤家は高野長英家の後藤家の
分家筋にあたる。

彼は福島県須賀川医学校に学び、25歳で愛知病院長となり、
岐阜で刺客に襲われた自由民権運動の指導者板垣退助を治療したことが
政治家として歩むきっかけとなったという。
内務省衛生局長を経て台湾総督府民政長官となり、初代満州鉄道総裁をも兼ねた。
1908(明治41)年に第2次桂内閣の逓信大臣(初代鉄道総裁)となり、
その後内務・外務などの各大臣を歴任、1924(大正13)年には内務大臣・
帝都復興院総裁として関東大震災の復興にあたり、「大風呂敷」の異名をとった。
東京駅、銀座通り、昭和通りはその遺産である。

政界引退後はボーイスカウト初代総裁となった。
彼は近代日本が展開した帝国主義政策の一端を担ったが、合理性に裏づけ
られたスケールの大きさでは異色の政治家であった。

吉小路の後藤新平旧宅(県文化)は、江戸時代中期の下級武士の住宅形式を
よく残している。
また水沢公園には、朝倉文夫製作の後藤新平銅像がある。

    ☆      ☆      ☆

最近、大学のニュース Iwate-u.* にユーザの情報交換が活発になって
きています。
いろんな端末をそろえて、ファイル転送やらwww掲載やらと
活発に使うユーザが増えてきたことは結構なことです。
ここまで来るのに、やはり時間がかかっています。
草木が芽を出して、花を咲かせるのにも時間がかかるように
ネットワークが盛んに使われには、ある程度の時間が必要です。

この岩手県の歴史散歩は、やっと半分くらいにさしかかったところです。
wwwと違って古いスタイルですが、あと60回位は書き続けるつもりです。
自分の勉強も兼ねています。

岩手県の歴史散歩  その66
    いさわ
     胆沢城跡

JR水沢駅バス北上行八幡神社前下車10分

胆沢城跡(国史跡)は、水沢市の北部、胆沢扇状地の先端部に位置し、
北上川と胆沢川の合流点の南側の平坦な水田地帯の中にある。

方6丁(6町四方、1町は約108m)の遺跡を囲んだ築土塀跡
(基底幅3m)は現在道路となっていて、方形に周囲をめぐり、その痕跡を
とどめている。

胆沢城は征夷大将軍坂上田村麻呂が、802(延暦21)年に築いた
大城柵である。
この地は「続日本紀」に水陸万傾と記され、蝦夷の首長アテルイの本拠地で
あった。
この胆沢城築城によって馬や金を産する古代東北に律令支配のくさびが
深く打ち込まれたのである。
翌年、さらに坂上田村麻呂は北進して志波城(盛岡市太田)を築城し、
胆沢城にはまもなく多賀城(宮城県多賀城市)から鎮守府(蝦夷征討の軍事機関)
が移され、これによって北上川流域がその支配下に入った。

    ☆      ☆      ☆

今日の午後は会議が続きます。
そういうわけで午後からは学内を移動しています。

岩手県の歴史散歩  その67
   こくせきじ
    黒石寺

JR水沢駅バス正法寺行黒石寺下車1分

水沢の市街を東にぬけて、国道343号線が北上川を渡り北上山地に入って
まもなく、その国道沿いに天台宗の古刹黒石寺がある。
収蔵庫にある本尊の薬師如来坐像(国重文)は、胎内の墨書銘から
862(貞観4)年の作とわかる。
胆沢城築城から60年後にあたり、胎内銘をもつ仏像では日本最古である。

黒石寺は寺伝によると、730(天平2)年に行基が開山し、のち蝦夷の蜂起で
焼失したが、849(嘉祥2)年に慈覚大師円仁によって妙見山黒石寺として
中興されたという。
当時は僧坊48を数えて壮大な規模を誇ったが、2度の大火でそのほとんどを
失い、現在の本堂は1886(明治19)年の再建になるものである。

五穀豊饒と厄除け祈願の奇祭、黒石寺の蘇民祭(そみんさい)は
酷寒の2月(旧暦正月7日)の夜に行われる。
クライマックスは暁方にかけて数十人の裸の男たちが激しくもみあう
蘇民袋争奪戦である。
蘇民の意味、由来については不明な点が多く、古くは蘇民将来(しょうらい)
という人物の厄病除けの説話が「備後国風土記」にある。

    ☆      ☆      ☆

盛岡は梅雨明けになったかと思わせる昨日今日の暑さです。

岩手県の歴史散歩  その68
忙しい、いそがしいと言いながらの書き込みです
(あの知床旅情のオジサンもどこかに書いていましたが、
撮影所の片隅でチョットした暇を見つけて書き物をすると書けるのに
朝から晩まで暇があると意外に書けない、とぼやいていました)
         ↑
なぜ、という疑問に対して心理的プレッシャーの問題として
良い研究テーマではないでしょうか。 菅原先生、細江先生、山口先生

  おくのしょうぼうじ
    奥の正法寺

JR水沢駅バス正法寺行終点下車1分

黒石寺を経てさらに国道343号線を東にのぼると正法寺(曹洞宗)がある。

正法寺は、1348(貞和4)年に能登(石川県)の総持寺2世峨山の高弟、
無底良韶(むていりょうじょう)によって開かれた曹洞宗の寺院である。

2年後の1350(観応元)年、北朝の崇光天皇の綸旨(りんじ)によって
日本曹洞宗第3の本寺(ほかは越前の永平寺、能登の総持寺)、奥羽2国の本山
として紫衣・紅服の着用を許されて出世道場となり、「奥の正法寺」と
いわれるようになった。

現在の本堂は1799(寛政11)年以後の建立で、仙台藩主の援助によって
完成したという。

    ☆      ☆      ☆

私はこれからTOPICの集まりで仙台にでかけます。
(私のタイマーはグリニッジ時刻になっています。
いつか西館先生、日本時刻に設定仕直す方法を教えてください)

岩手県の歴史散歩  その69
  つのづか
   角塚古墳

JR水沢駅バス石淵ダム行角塚下車1分

バスを降りるとすぐ県道わきに高い一本杉が立っている。
ここが角塚古墳(国史跡)である。

この古墳を地元の人たちは「塚の山」と呼んだり、墳丘部に1本の杉が
あることから「一本杉」と呼んだりしている。
最初はこの地域の伝説の人高山掃部(かもん)長者の塚であるといわれてきたが、
1949(昭和24)年の調査で埴輪の破片などが出土したことから、
古墳しかも前方後円墳であると確認され、それ以来角塚古墳と言われる
ようになった。

この古墳は現在知られている限り、県内唯一の前方後円墳で、しかも
前方後円墳としては最北限のものであり、また円筒埴輪を出土した古墳としても
北限である。

    ☆      ☆      ☆

長者伝説は全国いたる所にあるようだ。
岩手県北の秋田へ続く鹿角街道や米代川にまつわる
「だんぶり長者」
これは秋田県の湯瀬温泉に詳しい話が紹介されているが、
れっきとした南部の昔話(岩手の昔ばなし)です。
ダンブリとはトンボのことです。

あるいは東北自動車道の古川付近の長者原サービスエリアにも
長者伝説があるのではなかろうか。

岩手県の歴史散歩  その70
   お物見公園

JR前沢駅下車20分

前沢の町並の西側の高台に桜の名所のお物見公園がある。
前沢小学校の通路の坂を600mほど上りきった所である。
200本の桜をはじめ、各種の樹木が植えられ、よく整備されていて
町の人たちの憩いの場所となっている。
ここは鎌倉時代以来の領主三田氏(柏山かしやま氏家臣)の築城になるという
山城の前沢城跡で、江戸時代の初め頃まで城が存続していたらしい。

公園の三方は崖が深く落ち込んでいて要害の地形をなし、その東側からは
北上川沖積平野が一望できる。
江戸時代の初め前沢領主となった大内氏(仙台藩伊達氏家臣)は、この城跡を
物見台とし、その後の領主三沢氏はこれを練兵のための陣場として
明治維新に至った。

    ☆      ☆      ☆

前沢は今や牛の里として全国的にも有名

牛の博物館は一見の価値がある。
できたばかりだが、今後も展示が増えることが期待できる。

昨日この記事を書いたのに、転送ミスで本日もう一度 

岩手県の歴史散歩  その71
   明治記念館

JR水沢駅バス江刺バスセンター行川原町2丁目下車5分

バス停前のT字路を北ヘ60mほど行くと人首(ひとかべ)川に出る。
橋を渡って左折すると、すぐ右の高い丘に洋風の建物が見える。
これが旧共立病院、すなわち明治記念館(県文化)である。

水沢県において、1872(明治5)年頃から西洋医学・医療に基づいた
病院設立の動きがあり、翌々年多くの医師の熱意と郡民の積極的な醵金
(きょきん)が実を結んで、県下初の白亜の洋風病院「共立病院」が完成した
のである。
東京から蘭方医横田信行が病院長として就任し、多くの医師とともに西洋医術の
指導や治療にあたった。病院の存続期間については明らかでないが、
その後公立(県立)病院としての申請がかなえられず、経営上の困難も重なって、
ついに閉院のやむなきに至った。

その後この建物は裁判所・登記所として使用され、さらにその後小学校・
実科女学校などに一時使用され、1912(大正元)年頃から岩谷堂町役場と
して使用された。その間、たびたび改修が行われてきたが、なお旧時の形状が
よく保存されていることから、建築史的・文化史的価値の高い遺構として
評価が高まり、1979(昭和54)年市民・県民の醵金により修理復元され、
名称も「明治記念館」と改称された。

今日、江戸から明治に至る医療・学問・教育などの資料が展示されており、
一般に公開されている。
戦後の菊田一夫作「鐘の鳴る丘」のモチーフとなった塔からは、朝夕
「鐘の鳴る丘」のメロディーが流れ、道行く人々の心をなごませてくれる。

なお、明治記念館に隣接した小高い丘にある向山(むかいやま)公園には、
江戸前期の豊農の住宅である旧後藤家住宅(国重文)と川端康成の歌碑がある。

    ☆      ☆      ☆

鐘の鳴る丘は敗戦の日本人の心を励ましてくれた名作であった。
浮浪児や戦災孤児など、今となってはほとんど聞かれないが、当時は全国に
非常に多くの親を失った子供たちが悲惨な生活をしていた。

トンガリ帽子の時計台は、だから、この明治記念館をモデルに全国に
はやったのではなかろうか。
私の子供の頃、北海道の片田舎にあった幼稚園にも、このトンガリ帽子の
時計台がついていたことを思い出す。

菊田一夫は流行作家で、君の名はの作者でもある。
今、テレビや映画で見ると、どうして大流行したのか理解できないが、
当時はヒロインの行末を日本中が心配したものだった。

あの頃はまだラジオドラマの番組で、毎回15分程度(?)だったが
いつも、いいところで終わって、次が気になるように作られていた。
これは連続ドラマのテクニックであり、「おしん」の作者もそのテクニックは
充分駆使していた。

「君の名は」と「おしん」、どちらも日本中を沸かせた、NHKにとっては
受信料集めの救いの神様だったであろうが、
再放送を見ても、「おしん」は名作といえるのは、やはり人間の時代や国情を
越えての真実があるからだろうか。
海外でも評判が高いのは、内容に普遍的な優れたものがあるからでは
ないだろうか。

岩手県の歴史散歩  その72
  いわやどう
   岩谷堂城跡

JR水沢駅バス江刺バスセンター行六日町下車7分

バス停近くの坂道を上って行くと岩谷堂高校に出る。
この高校から館山八幡神社に及ぶ広大な丘陵一帯が岩谷堂城跡である。

八幡神社境内に1311(延慶4)年建立の板碑があり、その碑銘に
「右志者爲女方父母也。右志者爲父母聖霊。延慶ニニ年六月十五日。
兼又法界衆生故也。右志者四郎三郎父母為也」  ↑
とある。                 参考文献では
                     横書きではなく縦書き
                     つまり ニ
                         ニ

四郎三郎とは江刺清昭(きよあき)と考えられ、伝えられる系図によれば
清昭は三郎といい、父清親は1311(延慶4)年に没している。
このことから、岩谷堂城は鎌倉末期に江刺氏によって築かれたものと
推定される。

江刺氏は奥州総奉行葛西清重の子孫で、葛西七人衆に数えられた名門で
代々江刺地方を支配し続けたが、戦国末期の城主江刺重恒(しげつね)は
宗家の葛西氏が豊臣秀吉によって滅ぼされたことにより、
南部信直によって稗貫郡新堀城(にいぼりじょう 石鳥谷)に移封され、
まもなく断絶した。

その後木村吉清の家臣溝口外記が配されたが一揆によって殺され、
つづいて伊達政宗の家臣桑折(こうり)政長が配され、さらにその後
1659(万治2)年、政宗の孫にあたる岩城宗規(むねのり)が城主
となっている。
岩城氏は明治維新まで岩谷堂城主として江刺地方を支配した。

    ☆      ☆      ☆

夕べ、教育学部の先生から
この岩手県の歴史散歩シリーズを、県内の紹介として活用したい
との申し出がありました。

ありがたきしあわせ
と言いたいところですが、引用が多いので
いちおう「岩手県高等学校教育研究会社会部会日本史部会」に手紙で
ここに掲載することの了解を求めています。

岩手県の歴史散歩  その73
  とよだのたち
    豊田館跡

JR水沢駅バス江刺バスセンター行終点乗換バス伊出行餅田下車1分

バスを降りるとすぐ道路ぎわに豊田館跡と書かれた標識が目につく。
松と杉の木が生い茂っている小高い丘が豊田館(豊田城)跡と伝えられる所で
ある。豊田館は藤原清衡(きよひら 1056ー1128)が平泉に館を
置く以前に江刺郡に置いたとされている居館であるが、果たしてここが
本当に豊田館跡であるかどうかは現在までのところ実証されていない。

豊田館は仙台藩の「封内風土記」や豊田城趾碑によれば、清衡の父経清が
築いてここに住み、経清の死後清衡が後三年の役の戦功として
「旧に依り」与えられ住んだところであるとされている。

前九年の役(1051ー62)ののち、安倍氏の旧領奥六郡(胆沢・江刺・
和賀・稗貫・紫波・岩手)が清原氏に与えられ、族長清原武則は鎮守府将軍に
任ぜられた。
だがその後清原氏一族に内紛が起こり、武則のあとを継いだ真衡(さねひら)に
不満を持つ一族の吉彦秀武(きみこのひでたけ)が清原家衡と清衡をさそって
挙兵した。
この時再び源義家が陸奥守兼鎮守府将軍として赴任してき、内紛に介入した。
義家は真衡に味方し、清衡・家衡は敗れて義家に降伏したのである。

その後真衡が病死すると義家は奥六郡を二分して、南部を清衡に、
北部を家衡に与えた。この措置に不満をもった家衡は清衡を豊田城に攻め、
一族郎党を討ち殺した。
清衡はただひとり難をのがれて義家の援助を願った。義家の味方を得た清衡は
金沢柵(かねざわのさく 秋田県横手市金沢)にたてこもった家衡と武衡を
攻め滅ぼし、4年間続いた戦いは終わりをつげた。これを後三年の役
(1083ー87)という。

この戦功によって清衡は義家から奥六郡および出羽の押領使に任命され、
再び豊田館の城主となった。この時清衡は33歳であった。
平泉に館を移したのは40歳頃であったと思われるから、清衡が豊田館に
居住したのは父経清と一緒にいた2歳までと青年時代の計20年間ほどで
あったといえる。

    ☆      ☆      ☆

このへんの話を、史実を中心にフィクションをおりまぜてテレビドラマ化
したのが盛岡在住直木賞(推理)作家の高橋克彦氏である。
あのストーリーを史実と違うところがあると指摘する人がいても、
もともと学者ではなく作家の目で歴史を見ているからしようがない。
歴史のおさらいをしても楽しいドラマにはならないから。

盛岡大学学長の 高橋富雄先生も東北大学教授の時代から、東北の歴史を中央の
視点ではなく、地方からの視点で見直すべきであると言い続けてきた。
高橋学長も北上出身です。
(高橋克彦氏の視点も、中央の視点ではなく、地方の視点である)
(東京での生活体験の後、忙しいだけの東京より、ゆっくり想像を膨らませ
られる盛岡での作家活動の方がよいことに気がついたそうだ)
(FAXあり新幹線のある盛岡で充分作家活動ができる)
(インターネットも整備されたら、もう東京に住む必要はない)

あの雪の研究家エッセイイストの高橋喜平氏は高橋克彦氏の伯父だそうだが
盛岡大学の高橋先生が親戚かどうかは不明である。

高橋克彦氏と昔一度だけ一緒に酒を飲んだことがあるが、高橋氏は覚えて
いてくれただろうか。
(私は誰も話題にしない、西村京太郎のある作品を話題にしたので
誉めていただいたが)

岩手県の歴史散歩  その74
   あたご
    愛宕神社

JR水沢駅バス江刺バスセンター行終点乗換バス伊手行藤里下車30分

バス停から進行方向右手の道路を南へ30分ほど歩くと愛宕神社に着く。
この神社は智福毘沙門(びしゃもん)堂の背後の眺望のすばらしい高台にあり、
地元の人たちはここを毘沙門さんと親しんで呼んでいる。

愛宕神社の前身は808(大同3)年創建と伝えられる智福毘沙門堂で、
江戸時代には羽黒派修験智福院が別当となっていた。

境内の右手には樹齢800年余と推定される大きなカヤの木、左手には
ほぼ同じ樹齢の大きな杉の木が空をおおっている。
杉の木のそばに鐘楼があり、その横に高床式建築の収蔵庫がある。
その中に兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像(国重文)、
毘沙門天三像・十一面観音立像(ともに県文化)などが収められている。

毘沙門天は四天王の1つの多聞天のことで、北方の守護神あるいは
戦勝護国の神といわれ、平安時代には東北地方で多く祀られた。
兜跋毘沙門天は毘沙門天の異形であるが、その名については明確な
解釈がなされていない。

この愛宕神社の兜跋毘沙門天は、形式的には成島兜跋毘沙門天像に近く、
11世紀頃当地でつくられたのではないかといわれている。
(成島兜跋毘沙門天像は、県立博物館や東和町のところで説明しました)

    ☆      ☆      ☆

毘沙門天は四天王の1つの多聞天のことで
と上に書いたが、
実は昔北京で寺院の見学をしたことがある。

そのときは
天安門事件のあった年の秋なので、市内を避けて郊外を中心に観光案内
してもらった。
戒台寺、潭拓寺、さらには臥仏寺、碧雲寺などを見せてもらった。
ピカピカのお寺にお坊さんがいないのは奇妙であった。
宗教は必要ないとされる中国でも、お年よりたちは寺院の釈迦像の前で
手を合わせて拝んでいた。私も拝んでいると、中国のお年よりたちが
「日本人も拝んでいるよ」と笑っていた。

お寺の門をくぐると、両脇にキンキラに塗り立てられた4人の仏像が
怖い顔をしてこちらを睨んでいる。

さて、こんなに極彩色な仏像は何か
と思って撮ってきた写真を根室高校時代の友人の駒沢大学袴谷憲昭教授に見せたら
これは四天王だという。
確かに4人いたが、それにしても極彩色を長く見ていると目も心も疲れてくる。
我々のイメージで四天王と言えば、たとえば東大寺の大仏殿の隅に巨大な姿で
突っ立っている仏像のことだ。

竜宮城や日光の陽明門から連想される中国のケバケバしい色彩が
本当の四天王の色だったのだろうか。

その疑問は東大寺をドイツ人教授を連れて案内したとき
二月堂か三月堂の薄暗い中に仏像を見たとき氷解した。
奈良の仏像は、そこには四天王の他に何種類かの仏像があったが、
解説を読んでから仏像を見直すと、確かに最初の塗装の色がうっすらと
残っていた。

仏像が中国、朝鮮から日本に伝えられたとき
オリジナルは色彩たっぷりだったのだ。
それから時の流れにしたがって色はさめ、日本人の好みから
自然な木の色調をそのまま愛でるようになったのであろう。

韓国の四天王もやはり極彩色だったが、どこか中国のものよりマイルドな印象だった。

岩手県の歴史散歩  その75
   ししおどり
    鹿踊

岩手県内には多くの伝統的郷土芸能があるが、その中でも有名なものは
鬼剣舞(おにけんばい)とならぶ鹿踊である。
一人立ち、多頭で踊る風流系のものを「ししおどり」と呼び、
鹿踊・鹿子躍・獅子躍などと書いている。
民俗学的には鹿に人間の感情を移入して踊る鹿踊に、威厳のある聖なる
精霊として踊るシシが加わり、鹿の意識と精霊の意識とが一体となって
共存し、それに民間の祖霊信仰が結びつくようになった。
精霊としてのシシは盆の日に山から里に下って、太鼓と踊りで仏の供養をし、
五穀豊饒を祈願する踊りとなって今日の鹿踊の型をなすようになった
といわれている。

   高原
海だべかど おら おもたれば
やっぱり光る山だたぢゃい
ホウ
髪毛 風吹けば
鹿踊りだぢゃい
  (種山高原の宮沢賢治の詩歌)

    ☆      ☆      ☆

鹿踊と鬼剣舞
先日これが話題になったので
鹿踊の説明です。

岩手県の歴史散歩  その76
夏休みに入りましたが、とても忙しいのです

   とりみのさく
     鳥海柵擬定地

JR水沢駅バス北上行下城下車15分

バス停近くの東北本線を横切ると金ケ崎バイパスに出る。
その先には東北自動車道が走っており、さらにその西方に黒沢川が流れている。
このバイパスから黒沢川までの一帯が鳥海柵擬定地とされている所である。
遺跡は東側の北上川、南側の胆沢川が合流する北岸の河岸段丘に立地する。

「陸奥話記」にみえる鳥海柵は奥六郡を支配していた安倍頼時の3男
鳥海三郎宗任(むねとき)を柵主とするもので、衣川を本拠地として
勢力をふるう安倍氏にとって、胆沢地方制圧のための要衝の地であった。
前九年の役(1051ー62)で安倍頼時(頼良)が戦死した所が
鳥海柵であるが、この鳥海柵の位置について「陸奥話記」は、衣川関より
「行(みち)の程十余里なり」と記している。
しかし従来から定説はなく、5ケ所ほどの擬定地があげられてきた。
ところが1972(昭和47)年からの発掘調査によって、深い天然の堀・
土塁・堀立柱跡とやぐら跡、野鍛冶場跡などが発見されたことから、
この一帯が鳥海柵跡であることがほぼ確実視されるに至ったのである。

    ☆      ☆      ☆

暑い暑い
と言っています。
本日はこれから仙台へ

岩手県の歴史散歩  その77
     県立農業短期大学校

JR六原駅バス農業短大行終点下車1分

バスが大学校の構内にさしかかると、道の両側約300mに桜の並木が続き、
開花期には訪れる人の目を楽しませてくれる。

この地に短期大学校が開設されるまでには、幾多の変遷があった。
その最初が1898(明治31)年に誘致された陸軍省の軍馬補充部六原支部
である。最盛期には約3000haの原野を利用し、1000頭近い軍用馬を
育成していた。

軍馬補充部が廃止されて7年後の1932(昭和7)年には、県立六原青年道場
が設立された。
石黒英彦知事の構想になるといわれるが、時代を反映し「神ながら」の
国粋主義と、徹底した勤労精神教育で全国にその名が轟きわたった。

戦後は県立六原農場に生まれ変わり、近代農業の担い手である農村青年を
育成する教育農場になり、さらに1976(昭和51)年六原営農大学校に
発展したが、1981年からは蚕業講習所・旧農業短期大学校などを統合し、
新農業短期大学校となっている。

    ☆      ☆      ☆

これから学科長会議です。

岩手県の歴史散歩  その78
  水沢方面は終わって、次は平泉編に移りたいのですが
  区切りのよいところまで 今まで書かなかった補充分を書きます。

     おにけんばい
       鬼剣舞
 
鬼剣舞は北上市の民俗芸能として有名である。

仮面をつける阿修羅(アシュラ)踊系に属し、悪霊を追い払う動作が
浄土教信仰と結合した念仏踊りでもある。

剣舞は和賀地方をはじめ、胆沢(いさわ)・江刺にも伝えられており、
鬼剣舞・念仏剣舞・ひな子剣舞・羽根子剣舞・鎧剣舞などがある。

胆沢・江刺地方では鶏の羽根を冠にして4色の面をつけ、
和賀地方では馬の毛を冠にしている。鉦(かね)・笛にあわせて念仏を
となえる踊りで、勇壮なものである。

    ☆      ☆      ☆

鹿踊り と 鬼剣舞
どちらも岩手の伝統として有名

岩手県の歴史散歩  その79
     補充編です  その2

    オシラサマ
 
オシラサマは主に旧家の農家に祀られている屋内神である。
約30cmの棒や竹を芯木にして頭部に何枚もの布を着せた塵払い
のような形をした御神体の一対をいい、東北地方の青森・岩手県の一円、
秋田・宮城県のそれぞれ北部に分布している。

毎年祭日(1・3・9月の16日)に1枚の布が着せられるが、
ご神体の頭部がこの布で覆われる包頭型と、頭部が貫き出されている
貫頭型とがあり、後者の場合、頭部に彫刻が施されており、男女一対の
人頭型と、男神が馬頭に刻まれている馬姫型とがある。
祭りは祀る家の主婦によって司祭され、一族の婦人たちが参加するが、
部落単位や家だけの場合もある。

この神は、特に馬またはカイコと関係のある伝説が多く、養蚕の神とか、
または農業の神・漁業の神とかいわれているが、一般的には、
家の平安と幸福をもたらす神であり、家の守護神として祀られてきた
ものである、と解されている。

オシラサマは、本来この神を祀るとき、その司祭である主婦が手に持つ
一対の執物であったものが、やがて御神体そのものとされるに至った、
と考えられている。

    ☆      ☆      ☆

オシラサマは岩手県内のあちこちで見られるでしょう。
中でも遠野の伝承園の御蚕神堂(おしらどう)に入ると部屋の中じゅう
オシラサマで、一種独特な雰囲気におそわれます。

岩手県の歴史散歩  その80
   補充編です  その3
  なぜかラーメンの話です。

日本人はラーメンが大好きです。パリのルーブル美術館とオペラ座
の近くに、ラーメン屋が意外なほど多い。日本人観光客の数と
比例しているようです。

中華料理を日本風に変形したようなラーメンが
なぜ日本人の心をこんなに引きつけるのか。

それは、日本人は暗い情熱に突き動かされているからではないか。
言ってみれば先祖がえりを求めて、自分の祖先がたどってきた、
生きてきた道をたどる情熱、
そんな情熱に突き動かされているのではないだろうか。

麺はどこから来たのか、
スープの味はどこからきたのか、
麺の上に乗せる具はどこからきたのか、
その1つ1つがすべて異国から来たのは明らかなのに、
自分たちの故郷から来たもののように
日本人に思わせるのはなぜか。

アルコールを飲んでも、最後にラーメンを食べてやっと満足する人が
多いですね。

ここまで読んで、なぜラーメンの話が出てくるか
疑問に思われたでしょう。

ラーメンとカツ丼は日本人に愛されている食べ物です。
もしかすると遠い先祖の食生活に深い関係があるかもしれない。
(教育学部家政の菅原先生の研究テーマとして残しておきます  ^^;       )

前に、岩手県の歴史散歩の遠野編で
柳田国男のことを書いて、椰子の実を手にした柳田は日本民族も
南の方から海流にのって移住してきたのではないかと推察しました。
(そのエピソードを聞いた島崎藤村は、波に漂う椰子の実に自分をなぞらえて
いつの日にか自分も故郷に帰ることを夢見る詩を書きました)

私が言いたいことは、
あの撃墜された韓国の飛行機の残骸が北海道のオホーツク海岸に
打ち寄せたように、日本は島国、それこそ南といわず北といわず
あらゆる方向から民族が機会あるごとに移住して来たであろう
ということです。

最近の研究によると、日本人の血液のデータ分析から、ルーツはシベリアの
バイカル湖付近だったとの説もあります。

岩手県の歴史を考えることも、甲斐の国から国替えで来た南部一族あり、
アテルイの子孫あり、近江商人あり、その他多くの人々のもたらした
文化や風俗習慣を考えることは、
つまり自分自身を考えることになります。

私のこのシリーズを続ける目的は
他の地方から縁あって、盛岡の地で学んだり研究したりする
教職員学生さんのために岩手県の紹介をすることと
岩手の歴史を通して自分自身を見つめ直すこと
であります。

    ☆      ☆      ☆

おまけ

カン水はラーメンにコシを出すために入れる。
これがラーメンの特徴になっている。

カン水は日本では 鹹水と書かれるが、これは誤りである。
ほんらい、鹹水とは塩水のことで、
アルカリ性の水をあらわす意味なら、鹸水という字を使わなくては
いけない。

現実に中国では麺に入れるカン水には鹸水の字を使っている。
だから本当は、カン水ではなく、ケン水というのが正しい。
どこかで間違ってしまった。

中国の内陸部、北西部にかけては水が悪い。
鹹にしろ鹸にしろ、字の中の歯は
地面にアルカリが吹き出た様子を示す、象形文字だそうである。

だから、塩水の湖も多い。そういう塩水の湖を鹹湖というのだが
鹹湖の岸辺や干上がった川の川岸に、アルカリが結晶して固まる。
それを鹸という。

中国人はそれを切り出して洗濯に使う。
石鹸という言葉はこれから来ている。
(薮先生、フォローをお願いします)

カン水の成分は
炭酸ナトリウム、炭酸カリウムというアルカリ物質と
ポリリン酸ナトリウムのような重合リン酸塩
の2つに分けられる。
(美味しんぼ 38ラーメン戦争)

岩手県の歴史散歩  その81
       もうつうじ
     毛越寺

  JR平泉駅下車10分

平泉駅正面の道路が毛越寺通りである。毛越寺までは約600mである。
信号を2つ横切って少し行くと、右手の町並みが切れ、史跡観自在王院跡の
広い庭園が見えてくる。

観自在王院にむかって右手の小高い山が、秀衡が金の鶏を埋めたと伝えられる
金鶏山(きんけいざん)、左の北側へなだらかな稜線が続き
さらに高い松山が塔山(とうやま)である。
毛越寺通りの正面がつき当たりになるが、広い杉山の木立一帯が
毛越寺境内である。

毛越寺(国史跡)とは、中心となる円隆寺(えんりゅうじ)や
嘉祥寺(かしょうじ)を含む一山の総称である。
藤原2代基衡(もとひら)が鳥羽天皇の勅願で、1105(長治2)年
伽藍を建立。
その後3代秀衡が継承し、嘉祥寺などの堂坊舎を造営したものである。
「吾妻鏡」に「堂塔四十余宇、僧坊五百余宇」「吾朝無双の精舎」
と賞賛されている。

表門を入って朱塗りの新本堂にむかう。古木の杉や松の香りと
玉砂利の感触がこころよい。左側に宝物館と夏草英訳の新渡戸稲造碑、
本坊があり、右側の赤松の土手に「夏草や兵どもが夢の跡」の芭蕉句碑
がある。

南大門跡の大きな礎石に立って背景の塔山をのぞめば、
そこに平安浄土庭園の大泉が池が広がる。
この毛越寺庭園(国特別名勝)の池の大きさは東西180m・
南北90mである。800年前の往時の建物は何もないが、池苑だけが
面影を残している。
南大門跡は「吾妻鏡」に「二階の惣門」と書かれ、芭蕉の「奥の細道」に
「三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は一里こなたにあり(高館より)」
と綴られた所である。

    ☆      ☆      ☆

毛越寺庭園は池だけで、往時の建物は何もないが
かえって遠い昔のことをしんみりと感じさせる。
芭蕉と新渡戸稲造が出てくるのも歴史の幅がある。

岩手県の歴史散歩  その82
       かんじざいおういん
       観自在王院跡

  JR平泉駅下車8分

毛越寺を出て駅の方向にむくとすぐ左手に道路がある。
観光道路へと続いているのだが、200mほどは車もすれちがえぬほど
狭い道である。
ここは毛越寺と観自在王院をつなぐ史跡地で舗装は許可にならない。

観自在王院跡(国史跡)は東西120m・南北240mの広さをもつ
庭園で、1978(昭和53)年、7年がかりで復元、
一般に開放されている。

平泉時代、基衡の夫人の別荘がここにあり、のちに寺院にしたところである。
南門跡・西側土塁・西門跡・舞鶴が池・中の島などが整備されている。
北部の高みに大小の阿弥陀堂跡があり、前方に洲浜がゆるやかに
傾斜する舞鶴が池がある。
小阿弥陀堂の北の木立の中には基衡夫人の墓とされる大きな碑が残っている。

ここで見落とせないのが舞鶴が池の西岸、平泉で最も大きい滝口池(荒磯)
の石組である。
往時、毛越寺の弁天池から水をとりいれ、その水がこの石組を伝わり
池にそそいでいた。雄大で黒い石が連なり、枯山水の味もだしている。

それから西土塁の大きな玉砂利の中にある車宿(くるまやど)りの跡である。
木の丸柱で土台の跡を示してあるが、ここに何台もの牛車(ぎっしゃ)が
常置されていたことを思うと、まさに雅(みやび)の世界である。

発掘を担当した学者は、
毛越寺は法勝寺(京都市)に、観自在王院は浄瑠璃寺(京都市)に
似せてつくらせたという。

    ☆      ☆      ☆

観自在王院と観自在菩薩との関係は知らないが
観自在菩薩と観世音菩薩について少し書きましょう。

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
とくれば般若心経の出だし。
玄奘三蔵の訳の「観自在菩薩(アヴァローキテーシュヴァラ菩薩)」は、
古くから「観世音菩薩」として知られていた。
法華経の第25章「観世音菩薩普門品(ふもんぼん)」の主人公である。

法華経を訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)が、観音経の趣意をとって
そのように美しく訳したという。
観音経には
「善男子、もし無量百千万億の衆生あって、もろもろの苦悩を受けんに、
この観世音菩薩の名を聞いて一心に名を称せば、観世音菩薩、
即時にその音声を観じて、皆解脱することを得せしめん」
という名句がある。
羅什はこの性格に基づいて、「観世音」と訳した、というのである。

(私の尊敬する仏教学者ひろさちや氏は、花火がばっと咲いてからドーンと
音が聞こえるように、人々の救いを求める願いは、声が聞こえる前に
観音さまが見る方が早いからと説明しています。光速は1秒間に約30万km)

もう一つの考え方は、この菩薩の名は、実は
「アヴァローキタ・スヴァラ」だったという訳である。
「スヴァラ」とは「音声」の意である。

しかし、玄奘は「観自在」と訳した。
恐らく、アヴァローキテーシュヴァラを、「観(アヴァローキタ)」+
「自在(イーシュヴァラ)」の合成語と見て、こう訳したのであろう。

「アヴァローキタ」は、「観られた」という、受身の形であるが、
インド語では、観られることは、観ることでもある。
観自在菩薩は、世間の多くの人々から観られつつ、多くの人々を観、
そして救う働きが自在であるといわれている。

簡単にまとめると
観世音菩薩(人々の祈りの声を聞いて救ってくれる)
観自在菩薩(人々を見守り、自在に救ってくれる)
観世音菩薩も観自在菩薩も、みな観音様
浅草の観音様、釜石大観音

岩手県の歴史散歩  その82
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>       かんじざいおういん
>       観自在王院跡

>観自在王院と観自在菩薩との関係は知らないが
>観自在菩薩と観世音菩薩について少し書きましょう。

>簡単にまとめると
>観世音菩薩(人々の祈りの声を聞いて救ってくれる)
>観自在菩薩(人々を見守り、自在に救ってくれる)

参考文献は
紀野一義:般若心経を読む、講談社現代新書 606
でした。

岩手県の歴史散歩  その83
       ちゅうそんじ
     中尊寺

  JR平泉駅バス水沢方面行中尊寺下車1分

郷土館の坂道を右に折れると国道4号線に出る。
(郷土館とは観自在王院跡と中尊寺の間にある)
4号線を北へ200mほど行くと左手に杉木立の山が見えてくる。
この一山が中尊寺境内(国史跡)である。
標高130m、寺域は110haもある。
関山(かんざん)中尊寺は天台宗東北大本山と寺格も高い。
坂下は門前をなし、土産物店などでにぎわっている。

中尊寺は前九年・後三年の役(1051ー87)の後、奥州藤原氏
初代清衡が二つの戦乱の死者を弔い、奥羽の安寧を願って建立された
寺院である。
「寺塔四十余、僧坊三百余」の大伽藍は、1126(大治元)年に
完成し、のちに何度か兵火や火災にあい、往時の建物は金色堂と
経蔵のみになったが、国宝や重要文化財の数において東北の平安の
宝庫であることはまちがいない。

金色堂(国宝)は平泉中尊寺のメインで知名度が高く、
日本史の教科書には奥州藤原氏と金色堂が、古典の教科書には
芭蕉の「五月雨(さみだれ)の降りのこしてや光堂」の句が
必ずでてくる。
現在の金色堂はコンクリートの覆堂におおわれ、空調のガラスケース
に入って保存されているが、平安末期、建立された当時は
まさに金色をさらしていたわけである。
それに他の一山の建築物が度重なる火災で焼失して無くなっているのに、
この金色堂がそのまま残っているのは奇跡に近いものがある。

金色堂は1124(天治元)年清衡69歳のときの建立である。
大きさは3間(5.45m)四方、堂は阿弥陀堂で東面を向いている。
単層宝形造(ほうぎょうづくり)といわれ、壁・柱・組物・垂木(たるき)
などすべてに厚く漆(うるし)を塗り、その上に金箔を押してある。
屋根は木瓦葺(きがわらぶき)でゆるやかな勾配と大きな反りなど、
平安の建築美の様式をいかんなくあらわしている。

堂内は内陣中央が須弥壇(しゅみだん)、奥に左右の須弥壇、
それぞれ阿弥陀如来(国重文)を本尊に観音・勢至せいし(国重文)
の2尊が脇に侍している。
さらに左右3体ずつの六地蔵(国重文)が宝珠をもち1列にならび、
前列の両隅に持国天じこく・増長天ぞうちょう(国重文)が破邪の形相で
仏界を守護している。

中央須弥壇には初代清衡の遺体、むかって左が2代基衡、右が3代秀衡の
遺体がそれぞれミイラで、それに4代泰衡の首級が安置されている。
阿弥陀堂の金色堂は葬堂も兼ねていたのである。

内部の巻柱・天井・蟇股(かえるまた)・須弥壇などはすべて螺鈿(らでん)
や蒔絵(まきえ)、透かし金具がほどこされ、瑠璃(るり)をちりばめて
ある。漆芸金工の技術や工芸的装飾美は平安後期の美術工芸の粋である。
象牙や螺鈿の夜光貝は異国のものであり、京からは一流の工芸人が
数多くよびよせられたであろう。

金色堂を出て拝観コースの後方西北に経蔵きょうぞう(国重文)がある。
「中尊寺供養願文」(国重文)にも「紺紙金銀字交書一切経」を収めた
とあり、中尊寺が保有する経典を貯蔵するお蔵である。
往時は経典が漆塗の経箱に入れられ棚に納められていた。
約5000巻あった一切経は、いま中尊寺にはなく、4296巻が
高野山金剛峰寺に移され、国宝に指定されている。
一切経が搬出された時期は、秀吉の命令で甥の秀次が1591(天正19)年、
九戸政実(まさざね)の乱鎮圧の帰途没収し、高野山に寄進したと伝えられる。
現在中尊寺では国宝の紺紙金字一切経2739巻(うち15巻が
紺紙金銀字交書経)、宋版一切経210帖を保存する。

金色堂横の坂道を南に下ると左に金色院の山門がある。
山門をくぐると休息所があり、まわりの木々のみどりや紅葉がそれぞれの
季節に美しい。つきあたりが讃衡蔵(さんこうぞう)である。
この宝物館には華鬘(けまん)や紺紙金字一切経(ともに国宝)、
三衡の遺体の副葬品(国重文)、経蔵の八角須弥壇、宝塔曼荼羅まんだら
(ともに国宝)、丈六の仏像(国重文)などが保存公開されている。
公開されているのは一部にすぎないが、平泉文化の一端を知ることができる。

    ☆      ☆      ☆

中尊寺の案内文は膨大なもので、一部だけ上に書きました。
なんといっても自分で歩いて見学することをお勧めします。

さて私は海外に行ったとき、わが岩手の紹介として
日本をJAPANということになったのは、マルコポーロの
「東方見聞録」の中で日本のことをジパングと呼び、黄金の家がある
ことを報告しているからのようであると説明し、
金の屋根の家とは京都の金閣寺ではなく、平泉の中尊寺の金色堂を
さすのであろうと述べることにしています。
 1124年 金色堂
 1299年 東方見聞録
 1400年 金閣寺
したがって岩手にこそ日本の名前の起源があるというわけである。

岩手県の歴史散歩  その84
       平泉文化史館

  JR平泉駅バス水沢方面行中尊寺下車2分

国道4号線をはさみ中尊寺の反対側に平泉文化史館がある。
コンクリート造りではあるが平安御所風である。
まわりは土産物店、バスの駐車場と喧騒である。

中尊寺側とは地下道で結ばれており、1階は中尊寺を中心とした
岩手の歴史がパノラマで示されている。
2階は遺跡分布図や中尊寺二階大堂、毛越寺、観自在王院、無量光院
などの復元模型があり、今はない往時の様子を立体的に視覚をとおして
理解できるようになっている。

なお、この建物は芸術院恩賜賞を受賞している。

    ☆      ☆      ☆

平泉には、見るところがいっぱい
したがって書くことも山ほどあります。
今日も いろいろと走り回っています。

岩手県の歴史散歩  その85
    たかだち
     高館跡

  JR平泉駅下車15分

中尊寺坂下から駅の方へ戻り、三差路を左に旧国道へむかい、
踏切を渡るとすぐ卯の花清水の標識があり、そばに「卯の花に兼房見ゆる
白毛(しらが)かな 曽良」の句碑が立っている。
増尾(ましお)十郎兼房は義経の最後を見届けて戦死した忠臣であった。
このあたりが義経・弁慶の最期を遂げた戦場でもある。

約50m進むと左に高館義経堂近道の大標識がある。
東側の小高い森の丘が高館跡である。

義経は兄頼朝の追及から逃れ、前九年・後三年の役で源氏ゆかりの
奥州藤原氏の地を頼った。
秀衡はあたたかく義経を迎え、彼にこの要害と景勝の地を居住の場として
与えた。地元では判官館(ほうがんだて)という。
この丘は数多い平泉の眺望の良さの中でも随一の所である。
蛇行する北上川、東に束稲山(たばしねやま)が広がり、
北に衣川と陣場山の古戦場が見渡せる。

秀衡の子泰衡は、頼朝の追及に屈し、家臣を使い義経一族をここに襲い、
自殺に追い込んだのである。
1189(文治5)年4月義経31歳であった。
その年の8月、頼朝が平泉に入り奥州藤原氏は滅亡する。

この高館に江戸時代の1683(天和3)年仙台藩主伊達綱村の建てた
義経堂(ぎけいどう)があり、近年、宝物館と義経主従供養塔が建てられた。
また判官びいきの伝説、義経北帰行のスタート地点もここになっている。

    ☆      ☆      ☆

まともな歴史学者なら、義経が生きのびて大陸に渡りジンギスカンになった
などとは信じていない。
でも、ここで義経=ジンギスカンの説を紹介したい。

高木彬光:成吉思汗の秘密、角川書店
 ジンギスカンは義経であるという立場で、あらゆる証拠を集めて
説明している。

・二人の時代は、ほぼ同じである。
・義経が死んだと思われる頃から5年くらいたって成吉思汗が活躍し始めた。
・義経の首を、平泉から鎌倉に43日もかけて届けているのは、腐敗させて
 偽物の首をわからなくして届ける意図があったのではないか。

義経一行は岩手県から青森県を通って北海道へ向かっていった。
八戸で義経は、土地の豪族の娘とちぎりを結び、そのとき生まれた
女の子が鶴姫であった。
鶴姫が年ごろになったころ、その美貌と気品に魂をうばわれて
思いをかけた男がいた。阿部七郎という、やはり八戸の豪族の息子であったが
この阿部家と、鶴姫の生家の佐藤家は犬猿の仲であった。
両方の親が二人の結婚を認めなかったので、二人は手に手をとって
蝦夷地への逃避行に出た。
夏泊半島まで逃げたが、姫の側の追手に追い付かれ、
二人は自殺したという。
夏泊半島には椿山(つばきやま)という全山椿でおおわれた名所がある。
そこに白椿の木が一本もないのは、鶴姫の血潮で染められた名残である
との伝説がある。

・藤原三代の富貴栄華の根源は、莫大な黄金にあった。
 そして、その黄金の原産地は大陸のシベリアにあったと思われる。
 すなわち、藤原氏は平泉から北海道、樺太、シベリアに至る交易ルート
 を持っていたはずである(義経一行は容易にシベリアに行けた)。
・岩波文庫「蒙古史」によると、成吉思汗の即位の儀式のとき、
 興安嶺(こうあんれい)上に麾下(きか)に従う各種族の首長等を
 呼び集め、総会議を召集し、九旒(りゅう)の白旗を嶺の上にひるがえ
 した(白旗は源氏の旗印、九旒は九郎判官の名前を表すものではないか)。
・中国最期の王朝清朝の歴史書「図書輯勘録(としょしゅうかんろく)」の
 中に6代乾隆帝の書いた序文がある。
 そこには「朕の姓は源、義経の裔(すえ)なり、その先は清和に出ず。
 故に国を清と号す」と書かれてあるといわれる。

・天城山心中、これは元満州皇帝溥儀の弟溥傑の長女である愛親覚羅
 慧生(えいせい)さんと八戸出身の学習院同級生の大久保君が
 天城山でピストル自殺をした事件。

高木彬光は、天城山心中こそは800年前の椿山心中の第二部である
すなわち愛親覚羅慧生は、義経の娘の鶴姫の生まれ変わりであり、
大久保青年は阿部七郎の生まれ変わりではないかと考えたのである。
それまで集めていた義経成吉思汗説の資料を、この天城山心中事件を
きっかけとして世に推理小説として発表することにしたのであろう。
彼の小説の主人公、東大助教授神津恭介探偵がベッドの上で集められた
資料をもとに推理していく、という構成になっている。

これを読んで、なるほどと思ったが、
後に北京に行って故宮を見てから、この説はおかしいと思うようになった。

中国の王朝の歴史は、漢民族とこれを支配しようとする異民族との
征服の繰り返しであるといわれている。

北京に都「中京」を建てたの金であったが、ジンギスカンの興した
モンゴルの国である元王朝が金を追い散らし大都という名前で
北京の町の基礎を造った。マルコポーロも当時世界一のこの都を訪れた。
それから元王朝が倒されて明になり、明は北方異民族の清にとって変わられた。

清朝の先祖の作った金と、成吉思汗のモンゴルとは違う民族の国である。
北京の故宮を見学したとき、乾清宮か坤寧宮の建物の上に架かっている額を
見たら、漢字をはさんで両側に見慣れない2種類の文字が書かれてあった。
写真に撮って帰ってから、その方面の人に見せたが誰もわからない
という。たぶん満州文字とモンゴル文字、あるいは満州文字とチベット文字
ではないか。

漢民族に対立する関係では、満州族もモンゴル族も同列ではあるが、
清王朝のモンゴル人に対する治世を見ると、それほど好意を寄せていた
とは思われない。
(清朝末期にのどさくさにモンゴル人は外モンゴルを造り独立した)

したがって満州族の清王朝がモンゴル帝国元の始祖成吉思汗の子孫である
という考え方は、どうも不自然な気がする。
清王朝の最期の皇帝の姪が、義経つまり成吉思汗の子孫でないとすると、
上に書いた、高木彬光の「天城山心中=椿山心中の第二部」説は成り立たない。

もっとも、高木彬光もこの矛盾に気がついたらしく、同書の中で次のことを
紹介している。
イギリス公使デビスの「清国総録」の中に「成吉思汗の孫、忽必烈の子孫は
明朝のために放逐されて、蒙古の故地及び満州にのがれ酋長の娘と婚して
諸公子を産んだ。彼らは朔地に割拠して勢威をふるい、後に大挙して
明朝を滅ぼし、国を清と号した。清帝は成吉思汗の孫、忽必烈の後裔と
するのは、けだし、このためである」の文章があるという。

どの民族も素朴な自慢のため、伝説として他民族の英雄を借用している
としか思えない。

岩手県の歴史散歩  その86
先週金曜日から週末さらに月、火と忙しい日が続きます....

    むりょうこういん
      無量光院跡

  JR平泉駅下車10分

高館から坂を下って国道へ出る直前の町裏の左右を見ると
水田の地形の中にかつての川の瀬がくっきりとわかる。
ここを猫間ケ淵(ねこまがふち)といい、この川は北上川にそそいでいた。
猫間ケ淵にそった東前方の現高館橋あたりに清衡・基衡の住まいといわれる
柳の御所が、さらに東に秀衡・泰衡の伽羅(きゃら)の御所があった。

旧国道を町並みに沿って駅の方へ300mほど歩くと、西側に
無量光院跡入口の標識がある。細い小道を入って無量光院跡(国特別史跡)
に立つと、往時の情景が浮かんでくる。

無量光院は平泉全盛期、秀衡が京都の宇治平等院を模して建立した
阿弥陀堂である。京文化への憧憬の結晶であった。

    ☆      ☆      ☆

そういうわけで
今回はコメント無しです。

岩手県の歴史散歩  その87
>先週金曜日から週末さらに月、火と忙しい日が続きます....
現場実測、学会発表、情報処理センター関係委員会など忙しかった1週間
でした。  今ちょっと息抜き

    ちょうじゃがはらはいじ
        長者原廃寺跡

  JR平泉駅バス水沢行衣川橋下車15分

国道を平泉方面から来て衣川を渡ると、すぐ衣川橋というバス停がある。
バス停からすぐの角を西に折れ、衣川に沿った水田地帯の小道を10分
ほど歩くと三峰神社参道入口という標識が見えてくる。
そこを右に曲がりゆるいカーブを5分ほど行くと、右側の土塁に
石碑と案内板が立っている。ここが長者原廃寺跡(県史跡)である。

このあたりは古くから金売吉次(かねうりきちじ)屋敷跡とも
朝日長者屋敷跡ともいわれた。
金売吉次(三条吉次信高)は京都と平泉を往来した商人で、16歳の
義経(牛若丸)を鞍馬寺から秀衡のもとに連れてきた人物として知られている。
彼の手をとおして京の情報や産物が平泉に、奥羽の砂金や馬は京に
運ばれたことであろう。

この廃寺跡から西北に3km行くと、村の中心地である古戸(ふると)に
出る。そこに一首坂(いっしゅざか)がある。前九年の役の折、
敗走する安倍貞任(さだとう)を追った源義家が矢をつがえ
「衣のたてはほころびにけり」と和歌でよびかけたところ、
貞任は馬をとめてふりかえり「年をへし糸のみだれのくるしさに」と
上の句をつげた。
義家はそのゆかしさを感じ、矢をおさめ引き返したという「古今著聞集
(ここんちょもんじゅう)」に出てくる故事の地である。

    ☆      ☆      ☆

安倍貞任と源義家の、戦の最中の和歌のやり取りは
実に風流と、歴史や文学で学校の先生から習いました。
岩手県は文化の片鱗が残っているところ。

岩手県の歴史散歩  その88
    たっこくのいわや
      達谷の窟

  JR平泉駅バス厳美渓(げんびけい)行達谷窟下車2分

平泉から毛越寺をとおり厳美渓のほうへむかう西南6kmの所に、
西光寺達谷の窟といわれる岩窟がある。
平安時代の初めにこの地の首領悪路王(あくろおう)らが
こもった所と伝えられる。

後に坂上田村麻呂が鞍馬寺から毘沙門天を勧請(かんじょう)し、
本尊としたと寺伝にある。
岩窟に堂をつくり平面を外にあらわす舞台造の現毘沙門堂は
1961(昭和36)年の再建である。

堂の北側の崖腹に大日如来像が浮き彫りされている。
北限の磨崖仏(まがいぶつ)として貴重であるが、長い間
風雨にさらされ気をつけて見ないとわからないほど風化している。
頭部と肩辺がやっと見えるだけである。

    ☆      ☆      ☆

北限の磨崖仏といえば聞こえがよいが、風化が進み、哀れを感じる。
美文家保田與重郎(やすだよじゅうろう)の
ローマの道や橋は直線でどこまでも延びて、強い人間の意志を
感じさせるが、日本の道は山や谷に沿って細々と続き、
はかなささえ感じさせる
という表現を思い出す。

中国の洛陽の龍門石窟や、楽山の大仏などから見れば
日本の文化はつつましいと思う。

「羅馬人の発見した橋は道の延長とは云えないのである。彼らの道さえも
日本の道や東洋の道と異っていた。山あい山がいの谷間をぬって
あまたの峠をこしてゆく道と、平原の一すじに蜿蜒と拓かれた道の異り
でもあろうか。
東洋の橋が、さらにそれとも異なった殊に貧弱な日本の橋も、ただそれが
われらの道の延長であるという抽象的意味でだけ深奥に救われている。
    ......
まことに羅馬人は、むしろ築造橋の延長としての道をもっていた。
彼らは荒野の中に道を作った人々であったが、日本の旅人は山野の道を
歩いた。道を自然のものとした。
(保田與重郎、日本の橋)」

岩手県の歴史散歩  その89
      一関城跡

  JR一関駅下車10分

栗駒山くりこまやま(須川すかわ岳)を源流とする磐井(いわい)川は、
厳美渓(げんびけい 国名勝・天然)を経由し、
一関中心部を貫流して北上川にそそいでいる。

磐井川畔の市中心部に接する小高い山が一関城跡で、いまは釣山公園として
市民の憩いの場となっている。
頂上には千畳敷といわれる東西70m・南北50mほどの本丸跡があり、
北側を大手口としている。

伝説では安倍氏の一族磐井五郎家任(いえとう)が築城し、安倍氏の
南の関門の役割をはたし、前九年の役では源義家と清原武則の軍がここで
合流して、赤荻(あこおぎ)・萩荘小松柵(はぎしょうこまつのさく)に
いた安倍氏を破ったと伝えている。

磐井郡は中世を通じて葛西氏の支配下にあり、葛西氏滅亡後伊達氏の
支配下に移った。

その後1682(天和2)年に3万石で田村建顕(たけあき)が入部し、
一関藩をおこした。
田村氏は幕府から城構えのような居館築城は許されず、
一関城跡の北側平地に通常の邸宅を築き(現一関簡易裁判所付近)、
明治維新までここに住んでいた。

    ☆      ☆      ☆

田村氏にちなむ
田村の梅が一関名物
このお菓子は、水戸の梅を思い出させる。

岩手県の歴史散歩  その90
     おおつき
      大槻家

  JR山目(やまのめ)駅下車15分

駅から国道4号線を約700m南下し、右折して中里小学校前に出る。
小学校北側に隣接した永泉寺(天台宗)には平安中期の地方仏である
木造聖観音像(県文化)がある。

小学校前の照井堰支堰に沿った小道を左側に進むと
まもなく右手に大槻家邸宅がある。池を中心とした庭が広く、
豪農であった昔をしのばせる。
ここには現在子孫の方が住んでおり、事前に了解を得ていれば数人程度の
庭園拝顔は可能である。

大槻家は葛西氏の分流寺崎氏の後裔で、中世末期には流地方に膨大な
所領を持っていたが、葛西氏滅亡後帰農し、1683(天和3)年以降は
仙台藩西磐井大肝煎(きもいり)をほぼ世襲し、西磐井13カ村の民政を
担当した。

大槻家は近世後期の学界に多くの人材を輩出させ、儒学・蘭学・詩文に
大きな足跡を残した。

たくさんの一族の中から、特に大槻玄沢と大槻文彦を紹介しましょう。

大槻玄沢は一関藩医大槻玄梁の子で、13歳のとき建部清庵由正の弟子と
なって医術を修業した。清庵は蘭方医杉田玄白と交友があったので、
玄沢22歳の1778(安永7)年に江戸の杉田門下に遊学させた。
玄沢は玄白のもとで3年間修業したのち、やがて「蘭学階梯」2巻(1788年)
「重訂解体新書」(解体新書を部分的修正、1826年刊)を著した。
その間1784(天明4)年一関藩医、1786(天明6)年仙台藩医に
登用され、1811(文化8)年には幕府天文方蕃書和解御用掛として
蘭学の最高権威者となった。

玄沢の次男の養賢堂学頭大槻磐渓は仙台藩主に開国論を説き、
詩文にもすぐれて頼山陽と並び称された。
磐渓の次男大槻文彦は1891(明治24)年日本最初の国語辞典「言海」
を編纂した。
「大言海」は文彦が晩年に増補し、没後刊行されたものである。

    ☆      ☆      ☆

一関の蘭学の学者は日本の近代化に貢献した。
この分野の専門家として岩手大学人文社会科学部の藤原暹(のぼる)教授
がいます。
藤原先生の研究会になぜか加えていただいて勉強しています。
国語の大野先生や中国語の川本先生、温厚な深沢先生と知り合いに
なりました。   ^^)

岩手県の歴史散歩  その91
途中ですが
このシリーズをふりかえって
いままでの90回の索引です。

岩手県の歴史散歩 その1   はじめに
岩手県の歴史散歩 その2   盛岡城址
岩手県の歴史散歩 その3   岩手公園
岩手県の歴史散歩 その4   岩手公園その2
岩手県の歴史散歩 その5   啄木新婚の家
岩手県の歴史散歩 その6   東顕寺と三ツ石神社
岩手県の歴史散歩 その7   報恩寺
岩手県の歴史散歩 その8   盛岡市中央公民館
岩手県の歴史散歩 その9   愛宕山  方長老
岩手県の歴史散歩 その9b  方長老
岩手県の歴史散歩 その9c  方長老補足
岩手県の歴史散歩 その10  岩手銀行旧本店
岩手県の歴史散歩 その11  十六羅漢
岩手県の歴史散歩 その12  永泉寺から円光寺へ
岩手県の歴史散歩 その13  新山舟橋跡
岩手県の歴史散歩 その14  盛岡市先人記念館
岩手県の歴史散歩 その15  原敬記念館
岩手県の歴史散歩 その16  志波城跡
岩手県の歴史散歩 その17  厨川柵跡
岩手県の歴史散歩 その18  岩手県立博物館
岩手県の歴史散歩 その19  岩手県立博物館 その2
岩手県の歴史散歩 その20  小岩井農場
岩手県の歴史散歩 その21  雫石歴史民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その22  岩手県立農業博物館
岩手県の歴史散歩 その23  石川啄木記念館
岩手県の歴史散歩 その24  松尾村歴史民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その25  徳丹城跡
岩手県の歴史散歩 その26  高水寺城跡
岩手県の歴史散歩 その27  陣ケ岡森
岩手県の歴史散歩 その28  志和稲荷神社
岩手県の歴史散歩 その29  花巻城跡
岩手県の歴史散歩 その30  チベット蔵修館
岩手県の歴史散歩 その31  同心屋敷と宮沢賢治詩碑
岩手県の歴史散歩 その32  宮沢賢治記念館
岩手県の歴史散歩 その33  花巻市民俗資料館と高村記念館
岩手県の歴史散歩 その34  石鳥谷町立歴史民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その35  山岳博物館
岩手県の歴史散歩 その36  早池峰神社と神楽
岩手県の歴史散歩 その37  萬鉄五郎記念館
岩手県の歴史散歩 その38  南部曲り家と薬師神社
岩手県の歴史散歩 その39  丹内山神社と経塚
岩手県の歴史散歩 その40  成島兜跋毘沙門天像
岩手県の歴史散歩 その41  遠野市立博物館
岩手県の歴史散歩 その42  鍋倉城跡
岩手県の歴史散歩 その43  智恩寺
岩手県の歴史散歩 その44  瑞応院
岩手県の歴史散歩 その45  新里の五百羅漢
岩手県の歴史散歩 その46  阿曽沼氏の旧跡
岩手県の歴史散歩 その47  伝承園
岩手県の歴史散歩 その48  常堅寺とカッパ淵
岩手県の歴史散歩 その49  稲荷穴洞窟遺跡
岩手県の歴史散歩 その50  新谷番所跡と小友金山
岩手県の歴史散歩 その51  和賀川流域
岩手県の歴史散歩 その52  北上市立博物館
岩手県の歴史散歩 その53  南部領伊達領境塚
岩手県の歴史散歩 その54  樺山遺跡
岩手県の歴史散歩 その55  極楽寺跡
岩手県の歴史散歩 その56  二子・成田の一里塚
岩手県の歴史散歩 その57  江釣子古墳群
岩手県の歴史散歩 その58  奥寺堰と松岡堰
岩手県の歴史散歩 その59  碧祥寺博物館
岩手県の歴史散歩 その60  およね地蔵
岩手県の歴史散歩 その61  高野長英記念館
岩手県の歴史散歩 その62  国立天文台水沢観測センター
岩手県の歴史散歩 その63  寿庵館跡
岩手県の歴史散歩 その64  斎藤実記念館
岩手県の歴史散歩 その65  後藤新平記念館
岩手県の歴史散歩 その66  胆沢城跡
岩手県の歴史散歩 その67  黒石寺
岩手県の歴史散歩 その68  奥の正法寺
岩手県の歴史散歩 その69  角塚古墳
岩手県の歴史散歩 その70  お物見公園
岩手県の歴史散歩 その71  明治記念館
岩手県の歴史散歩 その72  岩谷堂城跡
岩手県の歴史散歩 その73  豊田館跡
岩手県の歴史散歩 その74  愛宕神社
岩手県の歴史散歩 その75  鹿踊
岩手県の歴史散歩 その76  鳥海柵擬定地
岩手県の歴史散歩 その77  県立農業短期大学校
岩手県の歴史散歩 その78  鬼剣舞
岩手県の歴史散歩 その79  オシラサマ
岩手県の歴史散歩 その80  ラーメン
岩手県の歴史散歩 その81  毛越寺
岩手県の歴史散歩 その82  観自在王院跡
岩手県の歴史散歩 その83  中尊寺
岩手県の歴史散歩 その84  平泉文化史館
岩手県の歴史散歩 その85  高館跡
岩手県の歴史散歩 その86  無量光院跡
岩手県の歴史散歩 その87  長者原廃寺跡
岩手県の歴史散歩 その88  達谷の窟
岩手県の歴史散歩 その89  一関城跡
岩手県の歴史散歩 その90  大槻家

本日の朝日新聞の天声人語には、江戸時代の対馬藩の日朝貿易
のための外交文書偽造のことが出ていました。
これについては私も
上の索引の、その9 特に その9b、その9cに詳しく説明した
のですが、朝日新聞では、江戸時代の公文書偽造に対して
現在の北朝鮮も、日本は過去の償いのため北朝鮮に米を送る
と自国民に説明して、正しい外交状態(北朝鮮の米不足に同情する
日本政府のこと)を説明していない
と述べていました。これは国民を真実からそらす政府の状態が
現代も見られるというわけです。

江戸時代に朝鮮通信史が江戸まで来たとき、外交の準備をした
対馬藩が幕府に断らず、日本国王の印を押したのは
確かに公文書違反と言えば違反ですが、当時の朝鮮と江戸幕府は
互いに自分は相手の下側に位置しないと、張り合っていて
なかなか原則論では貿易を再開するところまで行かなかった
という事情を考える必要がありそうです。

対馬藩としては、互いの権力者にとりいって苦労して
日本朝鮮のお互いの対面を保ちながら交際する方法を作っていった
のは当時としてはやむをえなかったのだと思います。
(きっかけは外交文書偽造から始まっても、その後は対等の
良い外交関係が続けられ、日本の文化人も朝鮮通信史から
得たものは大きい。鎖国の日本は情報の窓口の1つだった)

したがって朝日新聞に書かれているような
現代の朝鮮民主主義人民共和国が日本政府と交渉した内容を
正しく国民に伝えないことと、
江戸時代の対馬藩の苦労外交を一緒にするのは
中身を考えない形式論だと私は思うのですが
(ここで議論をする気持はないのですが
もし何か御意見のある方は、しかし御意見を書いてください)

私の気持としては、このシリーズを
あと50回程度続けたいのですが。
(....したいのですが  という表現はドイツ語の接続法
という表現方法です。 できたら ....したいのですが
とやんわりとお願いをするとき よく使います。
 Ich moechte ......   
英語の仮定法に対応します。
もし許されるなら、....したいのですが)

本日も蒸し暑い1日でした。
本部会議室で午前と午後にATMの会議がありました。
関係の皆様、ご苦労さまでした。

岩手県の歴史散歩  その92
     たてべせいあん
      建部清庵

「一関に過ぎたるもの」とうたわれた建部清庵とは2代目清庵由正(よしまさ)
のことである。
清庵は1712(正徳2)年に生まれ、父の業を継いで一関藩医となった。
1755(宝暦5)年の大飢饉には「民間備忘録」を著し、救荒作物の
栽培、山野草の特質と調理方法などの救荒策を講じた。

またオランダ医学をほとんど独学で研究し、その疑問点を記した手紙を
江戸の杉田玄白(げんぱく)に届けて回答を得、以来玄白と文通を重ねた。
この清庵と玄白の往復書簡集は1795(寛政7)年に「和蘭医事問答」
と名づけられて出版され、オランダ医学の入門書に利用されたといわれ、
また医学史的には、「解体新書」の翻訳過程を知る第一級の資料である。

さらには清庵はハンセン氏病の原因は外界の刺激にありとして、
狂犬病の治療とともに効果的な治療を行ったという。
これはハンセンの「癩菌」発見より100年余り前のことである。

建部清庵の偉大さは、東北小藩の藩医でありながら、
家業の鍼灸(しんきゅう)医にあきたらず、中央で進められていた蘭方に
真摯な疑問をいだき、正当な評価を下した学問性にあった。
これを支えたものは臨床医としての豊富な経験に基づく合理性と実践であり、
この根底にはヒューマニズムがある。凶作に際して「備荒草木図」を作成した
のはそのあらわれである。

なお、清庵の門人大槻玄沢は、江戸の杉田塾で学び有名な蘭学者になり、
また末子の由甫は杉田玄白の養嗣子となって、のちに杉田伯元と名乗っている。

    ☆      ☆      ☆

一関の蘭学者はすごかった。

岩手県の歴史散歩  その93
   わらびてとう  もくさかじ
     蕨手刀 と 舞草鍛冶

蕨手刀は、奈良時代・平安初期の刀で
北上川と馬淵(まべち)川流域で全国の6割以上、
岩手県で70本余を出土している。
その特徴は、中尊寺讃衡蔵(さんこうぞう)にある悪路王(あくろおう)
の刀を経て、平安中期から衛府(えふ)の兵士が用いた毛抜形太刀に
通ずるといわれる。
日本刀は平安中期の舞草鍛冶によって完成されたといわれる。
舞草は一関市街地から北上川を挟んだ対岸にあり、そこには延喜式内社
舞草(もくさ)神社がある。

舞草鍛冶の祖安房(やすふさ)は承平年間(931〜938)の刀工で、
その子森房は源義家の刀工となり、また源氏の宝刀髭切丸(ひげきりまる)
は文寿もんじゅ(安房の弟子)の作と伝えられている。
その子孫は奥州藤原氏の保護を受けて発展したと伝えられ、
東磐井郡は中世を通じて鍛冶師の活動が盛んであった。

    ☆      ☆      ☆

藤原暹先生の研究会での研究報告「続・日本生活思想研究」に
私も研究報告をまとめるのに関連して
製鉄の歴史を調べたことがある。

この分野の文献は材料物性工学科の堀江教授に教えていただいた。
日本の伝統的製鉄の技術は、溶融温度が低くてもできる、
いわゆる「たたら」による技術である。
材料は砂鉄であった。
大島高任(たかとう)によって始めて、国産では鉄鉱石を材料として、
溶鉱炉(高炉)で銑鉄を生産できた。つまり昔は高温にする技術がなかった。

なお、この銑鉄をさらに製鋼炉に入れて、溶かして不純物を少なくして
鋼を生産します。

つまり、「たたら」方式では一発で砂鉄から玉鋼が得られますが、
洋式製鋼法では、溶鉱炉で鉄鉱石から銑鉄を得て、それから製鋼炉で
鋼を得るという二段階の工程になるのです。

日本刀は傑作といわれる
さすがのドイツ人も感動するという
砂鉄を使って木炭で鉄を解かすので、木炭に不純物は少なくても
やはり材料から来る不純物が入っている。
それを根気よく叩いて、不純物を外に出して純度を高めている。
芯は堅い鉄を配置して、外側に切れ味を出す粘り強い鉄を上手に張り付ける
それは長年の技術の蓄積でできたものであろう。

髭切丸  →  弟切草 を連想してしまう

岩手県の歴史散歩  その93
自己フォローです。
実はもとの記事を書いていたとき、不安があったんですが
家に帰って事典をひらいたら、やはり間違ったことを書いていました。
その部分の訂正をします。

>
>   わらびてとう  もくさかじ
>     蕨手刀 と 舞草鍛冶
>

  ( おおはばに削除  )

>日本刀は傑作といわれる
>さすがのドイツ人も感動するという
>砂鉄を使って木炭で鉄を解かすので、木炭に不純物は少なくても
>やはり材料から来る不純物が入っている。
>それを根気よく叩いて、不純物を外に出して純度を高めている。
>芯は堅い鉄を配置して、外側に切れ味を出す粘り強い鉄を上手に張り付ける

ここが違っていました。
正解は以下のようになります。

日本刀
武器としての日本刀に対して強く求められるものは<折れず、曲がらず、
よく切れる>の3点であって、互いに相反するこの要求に応ずる道として、
折れぬためにはやわらかい心鉄(心金)を中にいれ、曲がらぬためには
堅い皮金で外から包み、よく切れるためには刃先部にさらに一段と堅い
鋼(はがね、刃鉄)を別に加えているのである。
(平凡社の世界大百科事典を参考にしました)

つまり
日本刀は中には、やわらかい心鉄(心金)を、
それを堅い皮金で外から包んで作るわけです。

人間やクジラの体の中に堅い骨が芯になっていますが、
ホヤやナマコやカブトムシでは外側が堅い皮で守られています。
日本刀は、人間の体よりカブトムシに近い。

さて、この記事は本日4度目の挑戦です。
情報処理センターのマックから投稿記事を送ろうとすると
夕べ夜中までかかって作り上げた文書ファイルのフロッピーの内容を
入力できない。

こんなときは研究室では
PC98のウィンドウズ環境では
もっちーさんに教えてもらったように
まずエディターを開いて、夕べの文章を読み込み
次にニュース記事の投稿記事の画面にして
編集のコピー機能を使って、文章のコピーをすれば
「送信」で、できあがり。

しかし、センターのマックで、そんな複雑なことがまだできない。
マック版の一太郎を買ったが、まだフロッピーから文章を入力できない。

そこで考えた末、センター2階の98端末から
夕べの文書ファイルの入ったメールを自分宛に送りました。
次にマックを立ち上げて、このメールを読み取り
それからニュース記事の投稿原稿の画面を開いて
コピー編集をしたわけです。

しかし、どういうわけか
この文章は送っても送っても受け付けてもらえなかった。
(悲鳴のような、軽快な音楽を聞いて、まさかと思った私)
マックが全角文字と半角文字が混在すると
間違いコードを送るようなことになるのだろうか。

ともかくこれで送ってみましょう。

岩手県の歴史散歩  その94
  がんじょうじ
    願成寺の薬師如来坐像

JR一関駅下車15分

駅前十字路を左折し、国道4号線を約700m進むと右側山手に
1385(至徳2)年開基といわれる願成寺(曹洞宗)があり、
本堂左側の宝物庫に平安後期の木造薬師如来坐像(県文化)が
安置されている。
この仏像はもと寺の後方薬師沢の薬師堂にあったもので、像の高さは
87.5cm、寄木造・漆箔であるが、後世の修理で多少原形を
そこねている。

宝物庫の右横に、仙台藩寛文事件(伊達騒動)で処刑された
伊達兵部大輔宗勝(だてひょうぶたいふむねかつ)の側室、
その末子の墓碑がある。

   ☆     ☆     ☆

伊達騒動は皆さんおなじみ
だいぶ前、NHKの大河ドラマで「樅の木は残った」が放映された。

あの前の年、私は札幌から冬休みを利用して東北大学大型計算機センター
を利用することにして出張手続きをとった。
まだ当時は大学院生にも計算機利用の旅費を出してくれたのです。

ところが当時はカード利用方式だったので、出発の1週間くらい前に
北大の大型計算機センターに頼んで、プログラムなどのカードを
速達で送ってもらうことにした。

さて、仙台に着いて、毎日東北大学大型計算機センターの受付に行っても
肝心の私のカードは届かない。
困りながらも、折角仙台に来たのだから、博物館や青葉城跡は見たら
という勧めにしたがって仙台市立博物館を見学した。
その時博物館の壁に来年から放映するNHKのポスターが掲示されていた。
吉永小百合と平幹二郎の主演であった。

で、待っても待っても私のカードは届かず、とうとう計算をすることができず
札幌へ帰ってきた。
後でわかったことだが、速達小包の重量制限を少し超えていたから
普通小包にされたようだった。
私が少し欲張ってカードを追加したためらしい。

それでも、東北大学大型計算機センターの設備を見学させていただき
当時日本としては最初の試みであるTSS(50bps)
の端末の説明を小川先生から受けた。
この50bps端末は岩手大学(藤田・照井研究室)にも共同研究ということ
で配置され、私が岩手大学に就職してから戦力となるのであった。
 この小川先生は後に岩手大学の先生となり、その後筑波大学に移られた。

私は
この貴重なTSSの報告を北大のセンターニュースに投稿した。
1970年頃の話です。
北大がTSSを始めたのはさらに数年後だった。

岩手県の歴史散歩  その95
  しょううんじ
    祥雲寺

JR一関駅下車20分

願成寺南方に祥雲寺(臨済宗)がある。この寺は1669(寛文9)年開基
の岩沼の田村氏菩提寺大慈寺を1682(天和2)年田村建顕入部とともに
一関に移し、大慈山祥雲寺と改めたものである。
山門を通って石段を上ると右側に、建部清庵先生顕彰碑と和算家千葉胤秀を
顕彰した流峰先生之碑がある。

境内に入るとすぐ左側に田村記念館があり、一関藩主田村家関係資料約30点
が展示されている。その左手には「薩雲」という見事な偏額のある土蔵造の
転輪一切経蔵があり、広さ5間四方、壁の厚さ3尺、高さ6丈2尺の堂々たる
覆堂の中に黄檗版一切経6771巻を入臓した木造の八角転輪経堂
(はっかくてんりんきょうどう)がある。
この経堂は釘を1本も使わずに組み立てた見事なもので、八角堂を回転させ
ながら121個の引出から経文を出し入れできる仕掛けになっており、
この種の転輪堂としては日本最大のものである。

経蔵内の右側片隅に保性院廟(ほせいいんびょう 県文化)といわれる
高さ2m・間口76cm・奥行97cmの優れた工芸品がある。
保性院は仙台藩寛文事件(伊達騒動)の中心人物伊達兵部大輔宗勝の
生母(伊達正宗側室)で、1669(寛文9)年死去し、菩提寺豊谷寺
(廃寺)に葬られ、そこにこの廟をつくったのではないかといわれている。
廟そのものは小型であるが、屋根の下の細い木組や内外壁面に描かれた
桃山調の唐獅子図・百花図など往時の豪華さが、この時期の仙台藩最高実力者
としての権勢をしのばせる。

   ☆     ☆     ☆

経堂は釘1本も使わず建てられたと書いたが、
昔の東洋木造建築は本格的には、釘は使わないのです。

北京の天壇公園にある祈年殿は、3層屋根の、キノコを重ねたような
印象的な建物であるが、釘1本も使っていないとガイドは説明する。

天壇とは、ここでは明、清の歴代皇帝が天に五穀豊穰を祈ったところである。

祈年殿の瑠璃瓦の青が北京の秋の青空に映えて印象的である。
盛岡で秋になると、北京にまた行きたくなる。

岩手県の歴史散歩  その96
  豊吉の墓

JR一関駅バス花泉方面・仙台行真柴八幡下車1分

バスを降りた反対側線路沿いの草むらの中に
豊吉の墓 と彫られた墓碑がある。
本来は現在地より170m北の橋田原(はしたばら)刑場跡に
あったものである。

碑文及び他の史料から、これは1785(天明5)年11月13日に
菊池崇徳(玄和)ら16人が、医術修業のため賊豊吉の死体を藩より下賜
されて解剖し、その業績を後世に伝え、また豊吉の霊を慰めるために
建立されたことがわかる。

医師16名中氏名が明瞭なのは菊池崇徳・笠原中也の2名のみであるが、
杉田玄白門下生で修業した3代建部清庵由水帰郷後8年目なので、
上記16人は蘭方医の影響下にあったものと考えられる。
もしそうであるならば、この解剖は蘭方医自身による、あるいは蘭方医の
影響を受けた医師たちによる人体解剖としては、全国で初めての
ものであったといえる。

   ☆     ☆     ☆

蘭学といい和算といい、一関付近は当時学問の盛んな所だった。

岩手県の歴史散歩  その97
 かなもり
  金森遺跡

JR清水原駅下車15分

駅を出て清水の町並みの西端を通って金流川を渡り、花泉駅方面に
少し進むと、「ハナイズミモリウシ生誕の地」及び「古代陸獣化石埋蔵地域」
と記された標柱があり、このあたり一帯が金森遺跡である。

1953(昭和28)年から1962年まで7次にわたる発掘調査が行われた。
その結果、獣骨化石(牛類・大角鹿の角、象牙・象歯)や骨角器・植物化石・
石器などの遺物が多く発見され、後期洪積世の動物相・植物相を復元する
資料となっている。
このうち1954年に発見された野牛は「ハナイズミモリウシ」と命名
されている。

このころの花泉地方は現在のシベリアのように森林におおわれていたと
推定されており、1988年の発掘の結果、当時の河川跡が発見され、
原風景の実相にさらに一歩近づいた感があり、今後の継続発掘が待たれる。

   ☆     ☆     ☆

ハナイズミモリウシの骨格標本は、岩手県立博物館と前沢町牛の博物館に
展示されている。

昔岩手県が今もよりも寒かった時、北の生き物が岩手にも棲んでいた。
たとえば寒い所にすむ蝶もいた。
やがて温かくなり、その蝶は山の上へと移動していった。
ベニヒカゲという蝶は高山蝶として今も県内の山に残っている。
日本アルプスにもいるベニヒカゲは北海道では場所によっては
平地にいる。

岩手県の歴史散歩  その98
 かいとりかいづか
   貝鳥貝塚

JR油島(ゆしま)駅下車20分

油島駅から線路沿いに南へ15分ほど歩き、右手陸橋を渡って線路の
東側に出た右手丘陵地帯に貝鳥貝塚(県史跡)がある。
この地帯は、かつて湖沼地帯であった仙台平野の最奥部である。
この貝塚は縄文中期から弥生時代の遺跡であり、
1969(昭和44)年の緊急調査では、石斧(せきふ)約250点、
石鏃(せきふ)・石匙(せきひ)多数、土偶数種、骨と牙約180点、
貝輪(かいわ)約70点、小土器で復元可能なもの30点が出土した。
さらに淡水性の貝・魚類の骨をはじめ、鹿・熊・ウサギなどの骨も
多数出土した。

この貝塚からは、過去3回の発掘によって縄文中期から後期の特徴を
もつ人骨が32体発掘されており、屈葬・抜歯の風俗が明らかになった。

   ☆     ☆     ☆

このシリーズもあと少しで100回
多分、150回は続くでしょう。

岩手県の歴史散歩  その99
いよいよ このシリーズも99回目

千葉胤秀(たねひで)と一関地方の和算

和算は元禄期に関孝和(たかかず)が点竄術(てんさんじゅつ
筆算で方程式をたてて解く方法)を発明して以来
関流和算が主流となった。
流峯(りゅうほう)千葉雄七胤秀(ゆうしちたねひで)は、
磐井郡流郷清水(ながれごうしず)の百姓の子に生まれた。
やがて関流和算を一関藩家老梶山次俊(つぎとし)に、次いで
江戸の長谷川寛に学び、帰国後一関藩士にとりたてられた。

一関藩校で数学を教授する一方、家塾や農村への巡回教授などで
一関周辺の農民に数学を教授して門人3000人と称された。
門人の中に安倍保定(ほてい)・菊池長良(ちょうりょう)・千葉胤雪
(たねゆき)らの優れた和算家がいる。

胤秀により1830(文政13)年に刊行された「算法新書」は、
秘伝主義の関流和算を広く普及させる役割を果たし、明治になっても
版を重ねた。

和算の発達に大きな役割を果たしたものとして算額がある。
その現存状況(1986年現在)をみると、岩手県は福島県の99面に
次ぐ全国第2位の93面であり、このうち藩政期のものは全国1位の51面で、
2位(群馬県31面)以下を大きく引き離している。

岩手県内では、一関・花泉を中心とする県南部に圧倒的に多く、
しかも千葉胤秀門下の者たちの掲額が大部分を占める。
すなわち、藩政後・末期における一関地方は、和算が盛んな地域であり、
しかも農民中心の和算であった点が特筆される。

   ☆     ☆     ☆

秘伝は昔のやり方で、現代なら秘密主義のものは
それ以上発展しないから学問の競争に負けるであろう。
公開して、みんなで切磋琢磨していくと学問は発展する。

和算は方程式を立てないで解くのが特徴であるが、
汎用的な方法ではないから、現代数学では、やはり置いていかれる
ものでしょう。

コンピュータで剛性マトリックス法を解くことが容易になる前は
やはり小さなマトリックスですむ、応力法の方が実用的であった。

岩手県の歴史散歩  その100
Date: Wed, 6 Sep 1995 00:20:24 GMT
いよいよ このシリーズも100回を迎えました。
(ご声援ありがとうございます)

きちんとした歴史シリーズではなく
自分の思いつきや偏見で書いているので、
大事なものが抜けていたり、書いた記事にも不適当な表現が
あったかもしれません。

盛岡から南下して一関まで書いてから、次は沿岸に変わり
海を北へ上って、またそこから南下して盛岡に戻る
という説明の順序になっています。

私がこのシリーズを始めたのは、まず自分の勉強のためでした。
それから、せっかくできた岩手大学のネットワークを大勢の皆さんに
使っていただくために、何でもいいから興味を引きだすことを
やってみようと思ったからです。

これをきっかけに、皆さんもネットニュースに自分の情報を
発信してみませんか。

ということで100回までの索引です。
岩手県の歴史散歩 その1   はじめに
岩手県の歴史散歩 その2   盛岡城址
岩手県の歴史散歩 その3   岩手公園
岩手県の歴史散歩 その4   岩手公園その2
岩手県の歴史散歩 その5   啄木新婚の家
岩手県の歴史散歩 その6   東顕寺と三ツ石神社
岩手県の歴史散歩 その7   報恩寺
岩手県の歴史散歩 その8   盛岡市中央公民館
岩手県の歴史散歩 その9   愛宕山  方長老
岩手県の歴史散歩 その9b  方長老
岩手県の歴史散歩 その9c  方長老補足
岩手県の歴史散歩 その10  岩手銀行旧本店
岩手県の歴史散歩 その11  十六羅漢
岩手県の歴史散歩 その12  永泉寺から円光寺へ
岩手県の歴史散歩 その13  新山舟橋跡
岩手県の歴史散歩 その14  盛岡市先人記念館
岩手県の歴史散歩 その15  原敬記念館
岩手県の歴史散歩 その16  志波城跡
岩手県の歴史散歩 その17  厨川柵跡
岩手県の歴史散歩 その18  岩手県立博物館
岩手県の歴史散歩 その19  岩手県立博物館 その2
岩手県の歴史散歩 その20  小岩井農場
岩手県の歴史散歩 その21  雫石歴史民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その22  岩手県立農業博物館
岩手県の歴史散歩 その23  石川啄木記念館
岩手県の歴史散歩 その24  松尾村歴史民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その25  徳丹城跡
岩手県の歴史散歩 その26  高水寺城跡
岩手県の歴史散歩 その27  陣ケ岡森
岩手県の歴史散歩 その28  志和稲荷神社
岩手県の歴史散歩 その29  花巻城跡
岩手県の歴史散歩 その30  チベット蔵修館
岩手県の歴史散歩 その31  同心屋敷と宮沢賢治詩碑
岩手県の歴史散歩 その32  宮沢賢治記念館
岩手県の歴史散歩 その33  花巻市民俗資料館と高村記念館
岩手県の歴史散歩 その34  石鳥谷町立歴史民俗資料館
岩手県の歴史散歩 その35  山岳博物館
岩手県の歴史散歩 その36  早池峰神社と神楽
岩手県の歴史散歩 その37  萬鉄五郎記念館
岩手県の歴史散歩 その38  南部曲り家と薬師神社
岩手県の歴史散歩 その39  丹内山神社と経塚
岩手県の歴史散歩 その40  成島兜跋毘沙門天像
岩手県の歴史散歩 その41  遠野市立博物館
岩手県の歴史散歩 その42  鍋倉城跡
岩手県の歴史散歩 その43  智恩寺
岩手県の歴史散歩 その44  瑞応院
岩手県の歴史散歩 その45  新里の五百羅漢
岩手県の歴史散歩 その46  阿曽沼氏の旧跡
岩手県の歴史散歩 その47  伝承園
岩手県の歴史散歩 その48  常堅寺とカッパ淵
岩手県の歴史散歩 その49  稲荷穴洞窟遺跡
岩手県の歴史散歩 その50  新谷番所跡と小友金山
岩手県の歴史散歩 その51  和賀川流域
岩手県の歴史散歩 その52  北上市立博物館
岩手県の歴史散歩 その53  南部領伊達領境塚
岩手県の歴史散歩 その54  樺山遺跡
岩手県の歴史散歩 その55  極楽寺跡
岩手県の歴史散歩 その56  二子・成田の一里塚
岩手県の歴史散歩 その57  江釣子古墳群
岩手県の歴史散歩 その58  奥寺堰と松岡堰
岩手県の歴史散歩 その59  碧祥寺博物館
岩手県の歴史散歩 その60  およね地蔵
岩手県の歴史散歩 その61  高野長英記念館
岩手県の歴史散歩 その62  国立天文台水沢観測センター
岩手県の歴史散歩 その63  寿庵館跡
岩手県の歴史散歩 その64  斎藤実記念館
岩手県の歴史散歩 その65  後藤新平記念館
岩手県の歴史散歩 その66  胆沢城跡
岩手県の歴史散歩 その67  黒石寺
岩手県の歴史散歩 その68  奥の正法寺
岩手県の歴史散歩 その69  角塚古墳
岩手県の歴史散歩 その70  お物見公園
岩手県の歴史散歩 その71  明治記念館
岩手県の歴史散歩 その72  岩谷堂城跡
岩手県の歴史散歩 その73  豊田館跡
岩手県の歴史散歩 その74  愛宕神社
岩手県の歴史散歩 その75  鹿踊
岩手県の歴史散歩 その76  鳥海柵擬定地
岩手県の歴史散歩 その77  県立農業短期大学校
岩手県の歴史散歩 その78  鬼剣舞
岩手県の歴史散歩 その79  オシラサマ
岩手県の歴史散歩 その80  ラーメン
岩手県の歴史散歩 その81  毛越寺
岩手県の歴史散歩 その82  観自在王院跡
岩手県の歴史散歩 その83  中尊寺
岩手県の歴史散歩 その84  平泉文化史館
岩手県の歴史散歩 その85  高館跡
岩手県の歴史散歩 その86  無量光院跡
岩手県の歴史散歩 その87  長者原廃寺跡
岩手県の歴史散歩 その88  達谷の窟
岩手県の歴史散歩 その89  一関城跡
岩手県の歴史散歩 その90  大槻家
岩手県の歴史散歩 その91  90回までの索引&朝鮮通信史
岩手県の歴史散歩 その92  建部清庵
岩手県の歴史散歩 その93  蕨手刀と舞草鍛冶
岩手県の歴史散歩 その94  願成寺の薬師如来坐像
岩手県の歴史散歩 その95  祥雲寺
岩手県の歴史散歩 その96  豊吉の墓
岩手県の歴史散歩 その97  金森遺跡
岩手県の歴史散歩 その98  貝鳥貝塚
岩手県の歴史散歩 その99  千葉胤秀と一関地方の和算
岩手県の歴史散歩 その100 100回までの索引

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