岩手県の歴史散歩

岩手県の歴史散歩 その1 

外国に行って
日本や日本人のことを質問されて
あんがい自分でも知らないことに気がつきます。

たとえば我々日本人はクリスマスを祝い、除夜の鐘を聞き、
お正月になると神社参りをします。
これはキリスト教と仏教と神道にみんな参加しているわけですが
別に信念があってしているのではなく、なんとなくしていると思います。
日本人の宗教観とは ?

   (ドイツ人も自分の住んでいる町の歴史を知らない?)
  ドイツのある町に住んでいたとき、英国のエリザベス女王夫妻がこの町を表敬訪問したことが新聞に載っていました、
  そこで、私は町の人に、英国の王室とその町の大公との関係を質問したのですが
  ある人は、エリザベス女王がこの町の大公の親戚なんだよと言い
  別の人は、エディンバラ公がこの町の大公の親戚だと言うのでした。
    結局は自分で調べたらいいと言われ、町の本屋でその町の歴史書を買って調べたものです。
     結論は、エリザベス女王もエディンバラ公もそれぞれ個別的にこの町の大公一族との親戚でした。

まあ、それはともかく
岩手大学に学ぶ皆様は、もともと岩手に住んでいた人もいるが
他から来た人が多い思います。
私もそうなので、
自分の勉強もかねて
これから岩手の歴史散歩をしてみましょう。

参考文献は
山川出版の新全国歴史散歩シリーズの中の
新版岩手の歴史散歩です。
岩手県高等学校教育研究会の先生方が著者ですから
間違ったことは書いていないでしょう。

では、始まり始まり

岩手県の歴史散歩 その2 
さて
やっぱり盛岡から始めましょう。

盛岡城址
鳥居の下を通る道の左手に鶴ケ池があり
ほとりに鐘楼が立っている。
これは藩政時代に城下に時刻を知らせていた鐘で
明治になりここに移築されたものである。

鶴ケ池の反対側右手に亀ケ池があり、ともに盛岡城の内堀の跡である。

正面の桜山神社は南部氏の祖光行と信直、利直、利敬(としたか)の4侯を祀り
もと北山(旧桜山の地)にあったものを移築したものである。
1月25日には裸参りが行われている。

☆      ☆      ☆

ただの引用だけではつまらないので
何か一言書きます。
(気に入らない人は読み飛ばしてください)

鐘楼は昔の時計
だから鐘楼のことを中国では、英語にして bell tower といいます。
あそこにある、なにげない神社は、南部藩のお守り神社だったのです。

南部とは青森県の南部にあるからではなく、
山梨県(昔の甲斐の国)の南部にあったから
南部藩というわけですね。 山梨県に南部町という町があって、その町役場を見たことがあります。

南部煎餅は盛岡の名物でも、江戸時代は下北半島から八戸、三戸まで
要するに青森県の太平洋側は南部藩だったので
八戸や三戸に南部煎餅が売っていても
由緒正しいのです。

岩手県の歴史散歩 その3 

前回の記事でコメントをいただき、菅野文夫先生という強い後ろだてを得ましたので
勇気が出ました。
(ところで私は気まぐれですので、完全な何も洩らさぬ資料を作るつもりはありません。
独断と偏見で、そのときどきのテーマを選ばせていただきます)
(抜けていたり、どうしてこれをとりあげたのと言われそうですが.....
 もともと気まぐれで始めたもので)

神社の右脇の坂が大手口にあたる瓦御門跡で、そこを上がると
三の丸跡の広場に出る。
三の丸から二の丸跡に進むと
金田一京助博士の揮ごうになる
石川啄木の歌碑
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」
がある。

 ☆      ☆      ☆

金田一京助のすごいところは
横溝正史の推理小説の名探偵の関係者にしたてあげられているところ

ご当地で有名な金田一京助博士の批判はまずいでしょうが
(先人記念館にも紹介されている)
アイヌ語とユーカラ(アイヌは文字をもたないから、伝承でつたえた)や
アイヌ文化の研究者としての
金田一博士は、武田泰淳の「森と湖のまつり」では批判されている
ようです。

少なくともアイヌの中には、博士はアイヌを利用した学者と思っている人はいる。

啄木も私は同情する反面、現在そばにいなくて安心という気持ちです。
なにしろ借金の名人で、人を騙すことにかけては天才だったようです。
(釧路の小奴という芸者さんは、啄木短歌に出てきますが、
決して死ぬまで啄木を許さないと発言していました)
あの土井晩翠からも借金をしたというツワモノですから。

でも金田一京助は啄木を、生きている間変わらず友情でもって
助けたのは立派だったと思います。
 金田一京助と宮崎郁雨以外の啄木の友人たちは、啄木にあきれ絶望して去っていきました。

岩手県の歴史散歩 その4 
二の丸跡には
石川啄木の歌碑
のほかに
新渡戸稲造(にとべいなぞう)博士の
「願わくば、われ太平洋の橋とならん」
の碑もある。

本丸跡には大正天皇の御学友で、
日露戦争で戦死した伯爵南部利祥(としなが)中尉の
騎馬像が立っていたが、
第二次世界大戦中の金属供出で、
現在は空しく台座のみが残っている。

  ☆      ☆      ☆

新渡戸稲造は5000円札のモデル

でも夏目漱石や福沢諭吉ほど有名ではない
それでもお札に選ばれたのは、総理大臣になった地元の代議士の力か。

新渡戸稲造の言葉で「かけはしとならん」と言ったのではないか
と疑問に思い、何度も歌碑を見に行ったが
「はしとならん」と書いてあった。

岩手の新しい米の品種に「かけはし」とネーミングしたことで
賛否両論があった。

新渡戸稲造は家が貧しかったので、向学の志にもえ
盛岡を出てから東京、札幌、アメリカ、ドイツと苦労して学んだ。
若いとき家を出てから、とうとう母に生きているとき会えなかったとか。

岩手大学に入学したきり母に会えないで、ながの別れになることを考えたら
大変なものだ。
当時の稲造の年齢を考えたら、高校入学くらいから母と生き別れをしたようなものだ。
もっとも母は手紙を書いて、いつも息子を励ましていたという。

十和田の三本木開拓に稲造の祖父と父が功績があったので
青森県でも有名
やっと不毛の地に稲がとれるようになったので、生まれた息子の名前に
稲造とつけたという。
(日本思想史の藤原暹先生から聞きました)

札幌農学校からアメリカ留学は私費留学、
そして(佐藤昌介の配慮で、札幌農学校助教授として)アメリカからドイツへ渡る
当時の飛行機などないから船旅で

農学部の、花にも心があるという学説で全国的に有名な植物病理学の先生は
当時の札幌農学校に東京からどうやって行ったか
という旅行ガイドブックを見せてくれたことがある。
途中は松島で見物して...
もしかしたら八幡平や十和田湖を見ながら、札幌まで行ったのかもしれない。
(新渡戸稲造の足跡をたどると称して、ドイツやアメリカを現代人が
今の感覚で旅行しても違うと思う。船でゆっくり移動し、電話もFAXもない
船便の手紙をやりとりした世界を我々はなかなか想像できない)

花巻に新渡戸記念館がある。
それから北上のえずりこに新渡戸観音がある。

継続は力なり
これを最初に言ったのは、新渡戸稲造である
と巷では言われているが、
著書を全部調べたが、どこにも書いていなかったという。
(よく調べたものだと思う。電子の記憶に入っていれば検索は容易)

岩手県の歴史散歩 その5
今日は午前中 DCの書類を作ったり、来週の教務委員会の会議資料の
打合わせなどがありましたので(私は工学部教務委員長でもあります
○○長がつくと自分の意見など言っては会議がまとまらないから
じっと我慢の拷問が続きます。
したがって こういうところでウサバラシ)

 − − − − − 

石川啄木新婚の家

盛岡バスセンターからバスに乗り
岩手高校前経由、滝沢営業所行 小西医院前下車2分

バス停から10mほど戻り、左に曲がると
まもなく十字路があり、その手前左側の角が啄木新婚の家である。

この付近はもと帷子(かたびら)小路(こうじ)と呼ばれ、
藩政時代の武家屋敷街であった。
この家も武家屋敷だが、建築年代などは知られていない。

入り口から右側の方は後年建て増しされたもので
今は管理人の住居になっている。
啄木居住当時のものは、玄関から左側の部分である。

石川啄木が住んだのは1905(明治38)年の6月4日から24日までの
わずか3週間である。

この年に渋民の宝徳寺住職を罷免された父一偵、母、妹の光子が
啄木夫妻と同居。妻節子の実家が向かいにあった。

  ☆      ☆      ☆

啄木の短歌は、とてもわかりやすい。
記憶をたよりに書くので、間違いはゆるしてほしい

ふるさとの訛り懐かし停車場(ていしゃば)に、そを懐かしみ人ごみに聞く
ふるさとの山に向いて言うことなし、ふるさとの山はありがたきかな
人がみな我より偉く見ゆるとき、花を買い来て妻と親しむ
汐かおる北の浜辺の砂山のかの浜ナスよ、今年も咲けるや

私が大学の教養で学んでいたとき
三奇人と呼ばれる名物教授たちがいた。
その中の一人の教授は講義のときに
啄木の「働けど働けど、我が暮らしならず、じっと手を見る」の句をあげて
しかし、彼は働こうとせず、毎晩酒と女にあけくれ、妻子の世話もしなかった
大嘘つきだ、と喝破した。
(啄木は妻子を函館において、彼の友人が世話をしてくれた)
(上にあげた働けどの句は、啄木が朝日新聞社で真面目に働いていたときの歌だから、働かなかったわけではないという人がいるが、その短い期間はともかく全体的にみると、はてどうだろう)

たぶん啄木の側に立てば、
本当は小説家になりたかったが、才能も乏しく経済的にもゆきづまり
しかし意欲だけは強く自分自身に迫るので
(書かねばならない書かねばならない、と今日も強迫観念は啄木を責める)
ついつい酒に走り、その結果ますます自分にあいそをつかし
自虐的になっていった....
となるのかもしれない。

岩手大学教育学部の名誉教授の大沢博先生は
ライフワークとして「啄木短歌の秘密」という著書もある。

啄木は、もともと寺の息子で、幼なじみの女の子がいたが
小さいときに、その女の子は病気で死んでしまった。
そして啄木の父が住職である寺の墓に土葬された。
幼い啄木は、その女の子に会いたくて
つい女の子の墓を掘っていたところを近所の大人に見つけられて叱られた。
(この大沢先生の仮説は後に裏付け証言が得られた)

大沢先生は啄木の短歌の中に、心の病をもつ人の歌があることに気がつき
仮説を立てた。
たとえば、砂山の砂を掘っていたらピストルが出てきた
という意味の歌があるが、これは幼い啄木が墓を掘っていたら、幼なじみの
女の子の骨が出てきた、という意味ではないかと推理したのである。
(あの裕次郎の歌で、砂山の砂を指で掘ってたら、真っ赤に錆びたナイフが
出てきた、というのは啄木短歌がヒントになっていると作詞者がどこかで書いていた)

そして、大沢先生はかの有名な「東海の小島の磯の白砂に、我泣きぬれて蟹とたわむる」
の歌には啄木の関係ある女性達が歌いこまれている
という説をうちたてた。

啄木は結婚式に盛岡に帰って来なかった、仙台に途中下車して仙台に泊まった。
なんと結婚式は、花嫁だけという形で行われたのである。
大沢先生は、それは啄木は幼なじみの女の子の魂が渋民や盛岡をさまよい、
もし自分以外の女性と啄木が結婚したら、
その幼なじみの女の子の魂は怒り狂い、何かたたりがあると啄木は恐れたから
せめて結婚式には現れなかったのではないか
と推測する。

たぶん、この本は大学の図書館にもあるでしょう。
興味のある方はどうぞ。

大沢先生の学説は本当かどうか私にはわからない。
しかし、ユニークだ。
欧米の学者と話をしても、彼らは大沢説を評価するだろう
なぜなら、ユニークだからだ。
人の借り物や、誰かの説を改良したというものより
誰も考えたことのない自分独特の説
というのは大変説得力のあるものなのだ。

岩手県の歴史散歩 その6
読者の皆様から反響があったので

北山の寺院群 その1

東顕寺(とうげんじ)と三ツ石神社

盛岡バスセンターからバスに乗り
県営野球場線大泉寺口下車2分

バス通りを北に進むと、まず左側に浄土真宗大谷派の光照寺
ついで右側に東顕寺(曹洞宗)がある。
東顕寺は、1384(至徳元)年不来方(こずかた)館主福士五郎政長の
建立と伝えられる曹洞宗寺院で、盛岡築城開始のころ
現在地に移った。

寺の裏側は三ツ石神社で、高さ3mほどの三つの花崗岩が御神体である。
昔この付近を荒らした鬼が神につかまり、岩に手形を押して二度と荒らしに
来ないと誓ったという伝説があり、岩手や不来方の地名の起源とされている。


  ☆      ☆      ☆

鬼が岩に誓いの手形をおしたから、岩手
という地名ができた。
(この地方には)もう来ないという意味の、不来方という地名がこの時からできたので
この時、住民が喜んで踊ったのが、さんさ踊り
ということに民話ではなっている。

不来方(こずかた)も勿来(なこそ)も
もとはといえば漢文的表現である。
都からみれば、みちのくの辺地
そこにはエゾがいて、エゾよどうか都に来ないでくれ
との意味があると言われている。

この件で、現在盛岡大学の学長の高橋富雄先生の書物の中に
高橋先生は、それは意味が違うと書かれている。
この件について、菅野文夫先生にコメントをお願いしたいところです。

不来方、勿来という漢文的表現方法は、(文法的にも)実は英語に近い。
中国人が英語が上手になるわけだ。

    nevermind      never give up

  ○     ○      ○

 では また
see you again 
Auf wiedersehen
 再見

岩手県の歴史散歩 その7
北山の寺院群 その2

報恩寺の五百羅漢

東顕寺(とうげんじ)に続いて
浄土真宗の本誓寺(ほんせいじ)、証明寺(しょうみょうじ)、
専立寺(せんりゅうじ)
ついで曹洞宗の清養院(せいよういん)、龍谷寺(りゅうこくじ)が並び
専立寺前から左に入る通りを進むと、
浄土宗光台寺、浄土真宗大谷派の徳玄寺、浄土宗吉祥寺(きっしょうじ)
が並んでいる。

なかでも報恩寺は、藩政時代に領内曹洞宗寺院のなかで
重要な地位を占め、盛岡五山の一つに数えられていた。
境内には羅漢堂があり、500体の羅漢像が堂内の四壁に雛壇(ひなだん)状に
安置されている。
五百羅漢と呼んでいるが、これは京都の駒野丹下定孝ら9人の仏師
の手によって1731(享保16)年から4年間で制作されたものという。

なかに胡服(こふく)をまとった像が2体あり、
マルコ・ポーロとフビライであると伝えられている。

  ☆      ☆      ☆

報恩寺の五百羅漢は有名だが、
盛岡の古老の間で語られる
日露戦争の愛国の志士とされる
横川省三(よこかわしょうぞう)の銅像の鋳型のもととなった像も
報恩寺に展示されていた。
この銅像は高松の池の岡の上にあったそうだ。

横川省三については、このシリーズの最後に書きます。

胡(こ)とは中国人が、西の外国をさした言葉で
胡桃、胡椒、胡瓜、胡弓、胡麻、胡座 などの熟語がある。
あなたは、いくつ読めるか ?

岩手県の歴史散歩 その8
盛岡市中央公民館

JR盛岡駅バス本町経由松園行 中央公民館前下車1分

ここは旧南部家別邸跡である。
この場所は、盛岡藩主南部重信(しげのぶ)(1664-91)の時に設置された御薬園である。
南部利幹(としもと)(1708-25)は、薬園を廃止して下屋敷とし、
南部利視(としみ)(1725-52)の頃には大規模な庭園が作られ、
以後は歴代藩主の遊歩地となった。
幕末期には藩校明義堂(めいぎどう)の講義所が設置されたが、
維新の動乱のなかですべて取り壊され荒廃した。
明治の末に東京在住の南部伯爵家の別邸となり、
1958(昭和33)年に盛岡市公民館として市民に開放された。

正面を入って左側に藩政時代の呉服商「糸治いとじ」旧中村家住宅
(国重文)がある。
糸治は1861(文久元)年に建立された盛岡の典型的な商家で、
1973(昭和48)年に南大通2丁目から移築され、保存されている。

中央公民館内には、郷土資料展示室が設けられ、甲ちゅう・刀剣・藩政時代の
文書や城下町盛岡の生活をしのばせる多くの品々が展示されている。
(鎧をあらわす カッチュウ のチュウの漢字が、表現できない。
漢和辞典で調べると肉(月)部にあるのだが。
区点コードなら4941 16進コードなら5149
漢字変換ソフトの使い方にまだ慣れていないためです。     注でした)
 (これは”甲冑”ですね。当時の私のソフトは対応できなかった)

南部家別邸時代の建物は、公民館の右側に別館として
一部分が残っているだけである。
さらにその右手には池と築山を配置した回遊式の庭園があり、
藩政時代の面影を伝えている。
庭園の東隅に茶室「白芳庵」が建っている。
これは原敬(はらたかし)が別邸(現在の大通り3丁目にあった)
に建てたもので、そこから移築したものである。

  ☆      ☆      ☆

いつも、ここに何かつけたしを書くのだが
何も書くことがない。

盛岡を説明するのには、
よそから来たお客さんに
この中央公民館と県立博物館を案内すると
いいでしょう。

特に外国のお客さんには中央公民館がおすすめ。

岩手県の歴史散歩 その9
盛岡市中央公民館のうしろの愛宕(あたご)山

愛宕山には市街を一望できる展望台がある。
ここはかつて広福寺の寺域で、黒田騒動で知られる栗山大膳の墓がある。
しかし、広福寺は明治維新後廃寺となってしまい、
大膳の墓は今では近くの恩流寺が管理している。

なお、江戸時代初期、朝鮮との講和交渉以来の国書改竄(かいざん)等の
宗氏の不正が表面化し、責任を問われた対馬藩の方長老
(規伯玄方きはくげんぼう)も盛岡へ
お預けとなった一人である。
盛岡在住中の彼は、学問や文化面で盛岡藩の人々の良き指導者であり、
法泉寺や聖寿寺の庭は彼の作である。

  ☆      ☆      ☆

栗山大膳と方長老は、もともと九州と対馬から流されてきたので
互いに面識があった。
また盛岡で文化人として大事にされたので
互いに交流しながら、盛岡の文化を育てた。

  大河ドラマで有名になった黒田官兵衛の孫は、福岡藩二代目藩主となるのだが
  若くて思慮がなく、心配した後見人栗山大膳が諌めるが耳を貸さない。
  その上、軍拡も辞さなくこのままでは幕府に取り潰される恐れがあると判断した栗山大膳は幕府に相談する。
  その結果、藩主に謀反の疑いはなし、後見人不行き届きとして、栗山大膳は盛岡藩預かりとなった。(黒田騒動)
   栗山大膳の父は黒田官兵衛をよく助けたので、黒田官兵衛(黒田如水)所用の「白檀塗合子形兜」を家宝としたが
   栗山大膳はこれを盛岡に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。

皇居の二重橋(よく出てくる石アーチの眼鏡橋は二重橋ではなく、
本当の二重橋はあの奥の鉄アーチの橋です)
これの高欄のデザインや橋桁の龍の模様は
盛岡出身芸大名誉教授内藤春治が宮内庁から委託されたものです。

内藤春治は鉄瓶製作の腕がよいから、スカウトされ、後に芸大鋳金の教授となった。

南部鉄瓶はそもそも、方長老などが都の茶道を盛岡で広めたのが
きっかけとなり、地元で工夫して造られたものと言われています。

対馬の外交文書改竄事件→方長老の南部藩お預け→茶道の普及
→南部鉄瓶誕生→内藤春治→二重橋の高欄の唐草模様&龍のデザイン

という一連の技術史の研究もやっております。
この研究の参考資料などを
岩手県工業技術センターのメールサーバーのある
ハイテクネットとうほく(研究者のパソコン通信)に書き込みしています。

自分で書いたので
この記事をここに転載したいのですが
このニュースにFDから書き込むことが、私には骨の折れる作業なので
今後の努力目標にします。

龍(ドラゴン)は
東洋では神のシンボル
   中国では皇帝のシンボル 九龍壁などの例
   龍は雨を降らせたりする神とか神の使い
西洋では、しかし、邪悪のシンボル
   龍退治(ニーベルンゲンの歌)
   テレビゲームにも、この手のストーリーがありますね。

どうして、東西で龍のイメージが違ったのか
この点について盛岡出身の直木賞作家高橋克彦氏は、中近東から東西に別れて
龍文化が独自に発展していったことを想像豊かにとりあげています。

二重橋は初代の橋はドイツ製
  したがって橋桁の龍も憎々しげ
これに気がついた宮内庁は、東洋の皇帝や神のシンボルとしての龍を
ということで、内藤春治芸大名誉教授に委託した。
(東大の建築探偵の藤森照信先生が、そういう推理を書いています)
現代の二重橋の龍は堂々として威厳がある。

ドイツ製の龍は橋台の方を向いている。
内藤春治のデザインした龍は橋の中央を向いている。
なぜか。
(龍は橋桁の左右に2頭います。桁は2本あるから全体で4頭)

県立博物館の学芸調査員山内秀雄氏から、私に知らせがあって
博物館所蔵の内藤春治の資料を調べたら
内藤春治がみずから
「古い橋の龍は、橋の両端に向かっていて、
いかにも龍の頭が壁につかえて苦しそうなので、
新しい橋の龍は体をひねって頭を中央に向けた」
と書いたメモを発見した
とのこと。
(橋梁 Vol.25  No.2, 1989)

県立博物館には内藤春治の作品が展示されています。
岩手県庁の正面の池に内藤春治製作の噴水がありますが、
冬の間はかたずけられています。

鋳物の町、盛岡にも鋳鉄の鋳物高欄があってもいい
と材料物性工学科の堀江教授と話しています。

なお、蛇足ながら
盛岡の長沢屋の黄精飴は方長老のヒントがもとになって作られた
といわれていますが、方長老の文献を調べたら
どこにも書いてありません。
漢方の黄精によく似たアマドコロを教えてくれたのは
方長老ですが、それにちなんで
幕末近くに黄精飴を作ったのでしょう。

岩手県の歴史散歩 その9B
なお、江戸時代初期、朝鮮との講和交渉以来の国書改竄(かいざん)等の
宗氏の不正が表面化し、責任を問われれ
盛岡へ預けられた
対馬藩の方長老
(規伯玄方きはくげんぼう)
のことを
ハイテクネットとうほくから
転載してみます。

うまくいくかな

  ☆      ☆      ☆

田代和生:書き換替えられた国書
   徳川・朝鮮外交の舞台裏
   中公新書 694
を参考にしました。

盛岡に24年間くらして
方長老は71才のときに許されて盛岡を去った。
時の藩主南部重政の屋敷と方長老の庵(今の北山法泉寺のそば)
のあとに
高麗くるみの木が残された。

方長老は
南部にいる間にいろいろな足跡を残していった。
たとえば、それまで濁り酒しか飲まなかったこの地方に
はじめて清酒の醸造法を伝えたのは
この方長老だと言われている。
(岩手の清酒を飲むときは、こころして飲みましょう)
また味噌・醤油などの製造技術を向上させ
アマドコロを原料とする黄精という薬の製造法を伝えた
という説もある。

寺院などの庭園、城や寺の鐘銘には、
方長老の手にかかるものが多く残されている。

後世、南部によいことを伝えたのは
みなこの長老だ
といった伝説も生まれたくらいだ。
みちのくにおける「弘法大師」伝説と同じようなものだ。

方長老は
規伯玄方(きはくげんぼう)
といって対馬島で
日本と朝鮮の外交文書を一手にあつかう
特殊な職務についていた。

国書改ざんの罪で
遠く、みちのくに流され
盛岡の文化発展に功績のあった
人物である。

(私は八戸高専の本田教授に頼まれ
北東北の産業技術遺産の記事を
八戸の新聞に書くことにした。
テーマは南部鉄瓶と二重橋
この南部鉄瓶のできるまでに、方長老の影響があった
ことを
一応資料で調べるので
図書館から借りてきた本からメモをここに書く)

 ☆     ☆     ☆

規伯玄方
(1588−1661)
九州博多宗像郡の出身
出家して僧侶となる。
同じ郷里の出身の禅宗僧侶、景轍玄蘇が
対馬で活躍していたので、
そのお側につかえるかたちで仏門に入ったのであろう。

玄蘇は禅宗中峰派に属し
漢文の読み書きができる教養人であり、
対馬府で朝鮮外交文書の起草をする仕事をしていた。

昔から東アジア地域には
中国を中心とした国際社会があった。
中国を宗主国としてあがめ、周辺の国々を従属させる独特の
国際ルールをつくりあげていた。

交流を許した国の王に中国皇帝が印鑑を授け、
朝貢使節を迎え入れること
あるいはその国の歳事を決定する暦の使用を義務づけたり
一定の規定を設けて貿易を許したりすることである。

この国際関係を事大とよび、
すべてそうした国際ルールにしたがって行動していたのである。
日本と朝鮮とは
交隣といわれる関係で結ばれ
原則的には同格、つまりどちらが上でも下でもない国際関係であった。
しかし、これらの交流は、その事大における中国の国際的影響力の強弱や
日本・朝鮮の主権者の意識の相違によって
実際上は多様な対応をみせることがしばしばあった。

14世紀に和寇がさかんに朝鮮半島を襲うようになる、
困った朝鮮側は
武力によったり、懐柔させる作戦をとった。
おもだった者に投降を勧告し、平和に通交すれば
それなりの官職を授けて貿易を許すことにした。

この作戦は効をそうしたが、帰順者増えると朝鮮側の経済的負担が重くなった。
損失の拡大を防ぐために、日本からやってくる通交者をなんとか統制する
必要が出てきた。

中国の方式をここに適用しようと考えた朝鮮側は
日本の身分の高い者には印鑑(図書)を授けて
その派遣する使者を優遇したり
彼らに渡航証の発行をゆだねて
通交者を統制することにした。
(賢い!)

こうした歴史の中に登場するのが
対馬島の宗氏であった。
歴史的あゆみの中で、朝鮮と日本の最高権力者の間で
宗氏は巧みに仲介役を演じて成功してきた。

たとえば、日本から朝鮮へ渡る者は、
将軍(足利将軍)や有名大名(大内氏、細川氏、畠山氏)の限られた者を
のぞいて
すべて宗氏が発行した渡航証を持参しなければならず
宗氏はそれを発行するとき手数料をとるといった制度を設けたりした。
朝鮮に最も近いという地理的な位置が
対馬の何よりの利点であった。

16世紀になると朝鮮へ渡るものは対馬の者か、宗氏から特に許された者だけ
という状態になった。
江戸時代にはいる前に、宗氏による日朝関係の独占的な体制ができあがっていた
のである。

このため外交文書に精通した専従の僧侶をかかえておくことが必要とされ、
玄蘇のような外交僧が登場するのであった。

秀吉による2度の朝鮮出兵による侵略は
朝鮮に深い恨みをかうと同時に
対馬が長年にわたって築き上げてきた日朝間の特殊な権利も
すべて中断されてしまった。

朝鮮との貿易で生計をたてていた対馬にとって、まさに死活問題であったから
何度も朝鮮に使者を派遣し講話の糸口をつかもうと努力した。
また家康も善隣外交政策をとったので、宗氏の講和路線を支持した。

朝鮮の使者が対馬で講和をはかり、
後に朝鮮使者を京都や江戸城へ案内することにも成功した。
この時の外交僧玄蘇にお供をして
いわば外交僧の見習いをしていたのが17歳の玄方(方長老)
であった。

すでに家康の国書の偽造という巧みな外交が行われた。
朝鮮王朝と家康とで、講和が成立し、国交が正常にもどるための条件として
朝鮮は難問を2つ要求した。
1つ 秀吉侵略の時に
朝鮮国王の墓を荒らした犯人を縛送してこい。
もう1つ 家康のほうから先に朝鮮国王へ国書を送るように

対馬は困って
最初の課題については
対馬島内にいた罪人2人を、犯陵賊の首謀者にしたてあげて
縛送した。
(彼らは朝鮮で、ただちに処刑されたそうだ)

後の課題は
当時の外交上の慣習として相手方への恭順を意味する
先に国書を差し出す行為なので、
対馬は幕府に内密に
国書を偽造した。

国書偽造は対馬では以前から日朝関係を独占していたので
これまでにも何度か行っていた。
また玄蘇という選任の外交僧を召しかかえていたので作業としては難しい
ものでなかった。
家康の国書には日本国王の印が押されていたという。

数年かかるのではと考えていた難問を、わずか8カ月で提出した
対馬に対して驚いたのは朝鮮のほうであった。
検討した結果、体面もたったし流れにのってこのまま講和を成立
することにした。

副使節慶暹は日本紀行報告書を残しているが
その中で玄蘇との会話
「家康公は王号を用いないのに
国書に日本国王の印鑑をなぜ使ったのか」
「あの印は、先年明国の勅使が来日したとき、もたらされたもので
時の関白秀吉は冊封を受けなかった。
勅使が印を置き忘れていったので、これを使った。」
「冊封を受けないで、なぜ印だけ使ったのか」

朝鮮使者は国書偽造を疑っていたが、
明の使いが置き去りにした日本国王の印だから
由緒正しい印である
と答えた玄蘇の巧みな返答。

卑弥呼なら喜んで受けた金印も
秀吉は冊封は明の支配下になることを知って
日本国王印も認めなかった。

その印がどこをどう回ったか
いつしか宗家に手に渡った
と玄蘇は答えたのであった。

(時間がないので結論を急ごう)

1611に玄蘇が75歳で亡くなってから
若い24歳の弟子玄方は正外交官になった。

あまり若すぎるので
それ相当の僧位を得るため
京都で半年の間に平僧から五山の住持僧になるというスピード出世をした。
それは宗氏の関係者に手を回した政治力もあったようである。

しかし、玄方が京都にいっている時、対馬で
宗氏の家来が
正式に朝鮮への使者として認められ
彼らが
外交文書作成
度重なる国書偽造などの仕事をして
しだいに力を付けて
幕府にも味方をつけてから
話はややこしくなる。

つまりお家騒動
対馬の宗氏で
主家にしたがわず
お家を乗っ取りたい
自分たちこそ新しい日朝関係の主役を
願う柳川調興が
幕府に
おおそれながら
対馬は国書改ざんをやってきました
と訴えた。

幕府の結論は結局
喧嘩両成敗

長い間の国書偽造は悪いこと
しかし日朝外交の功績も認められる。

訴えた柳川調興も
外交僧玄方も
遠くみちのくに流された。
柳川は弘前に流され、そこで一生を終わる。

宗氏は一族の罪を一身に引き受けた
玄方のことを感謝し心配して
幕府に嘆願書を送り続け
やっと24年たって玄方は許され
大阪で弟子たちに囲まれ一生を終わった。

外交官とは
やりくり上手
おもての世界とうらの世界の使い分けがあったのだろう。
日朝の交流に
当時の漢文の知識はなくてはならないものだった。

玄方は罪をはじて盛岡では
無方あるいは方と呼ばせたが
いつしか盛岡では
方長老と読んだ。
呼んだ。

手で割れる高麗クルミ、朝鮮くるみ
は今も盛岡にある。

岩手県の歴史散歩 その9C
方長老 補足

対馬で宗氏と柳川氏とのあいだでくすぶり始めたころ
朝鮮半島では再度の外敵侵略に悩んでいた。
満州の女真族が、やがて清国と改めて明国を滅ぼしたのである。

1627年と1636年に
後の清となる後金国が朝鮮の国都(漢城  いまのソウルのこと)に侵入した。

この報告を受けた宗氏も柳川氏も
武器を朝鮮に送ったり、必要なら援軍を送る
と伝えている。

幕府も関心を寄せ
宗氏に、朝鮮へ使いを出し、
詳しい情報を得るよう
命令した。

そして、この時
方長老の玄方は国使として朝鮮の都に行ったのだが、
国書を持たないで行った。

彼はねばりにねばって
実質的な使者としての扱いをうけることに成功し
無事帰国した。

朝鮮と後金国の和睦が成功したので
日本からの援軍派遣は必要ない
とする朝鮮の解答を幕府に伝えたが
これは援軍を理由に再び日本から侵略されることを
警戒した朝鮮の判断でもあった。

玄方の大役は、宗氏の立場を幕府と朝鮮に再認識させたのであったが
相対的に柳川氏の立場が弱くなり
結局 内部告発という対決方針を柳川氏にとらせることとなった。

長年、日本と朝鮮のお互いの立場を守るために
対面を保つために
苦心してきた
宗氏の外交の歴史においては
国書改ざんが平和外交の知恵となって
効果をあげたこともあったはずであるが
公文書偽造といえば偽造である。

伊達政宗は宗氏の父の時に、朝鮮の役で助けられた恩を感じて
宗氏を応援していた。
これは大名の仲間を守ろうとする意識からすれば当然であろう。

幕府の結論は
宗氏が今までどおり幕府と朝鮮の仲立ちをせよ
悪いのは国書改ざんをした家来の柳川氏である
という宗氏の言い分をとりあげたことになった。
しかし喧嘩両成敗の方針で
宗氏側の玄方も盛岡に流された。

玄方が流されたのは、実は宗氏も大痛手で、であった。

柳川氏が強気に出たのは
幕府の老中の最高権力者土井利勝や林羅山などの多数の
うしろだてがあったからだろう。
宗氏の側は支持者が少なかった。

事件の後
宗氏にさせてみて外交能力テストに合格しなかったら
柳川氏の復活も考えていたふしがある。
林羅山などが、宗氏に無理難題をもちかけて
宗氏は苦労しながら役をのりきったという。

どうして客観的に不利だった宗氏が勝ち得たのだろう。

それは
日朝関係は他の外交関係と違って
宗氏でなくてはつとまらない
と幕府が考えたからであろう
と推察される。

日本と朝鮮が対等の関係で結ばれていた
(たとえば国書の、日本と朝鮮という文字の書き出しの高さも
揃えられていた)
しかし、この対等の関係をとどこおりなくすすめていくことは
大変なことであった。

日本も朝鮮も相手を見下そうとする中華思想的な要素があって
そこでそうした意識を直接ぶっつけることのないよう
調停役として働いたのが
宗氏であった。

(朝鮮の使節を来日するよう要請するのは
すべて対馬からなされた。
貿易を行いため、形式的には使者を派遣して外交を行う
という形をとらなくてはならないから。

使者は中世から続いていた、伝統的儀式を行っていた。
釜山山で、殿牌という国王の象徴を
使者一同が拝むのである。

その時の場面を描いた屏風絵「草梁客舎」を見ると
屋内の中央に殿牌が置かれ、手前の庭には
座らされた対馬の使者がいる。
まるで国王の威を借りたように、朝鮮の官吏や役人たちが立ちはだかった
いる図である。

昔は土の上にムシロも敷いておらず
粛拝のときは使者は額を地面にこすりつけなければならなかった。
しかもその時は国王に進呈する貢ぎ物が使者の前に並べられて
いたのだから
この絵はそれでもかなり改善されたころの様子を描いているのである。
しかしやはり日本人の目から見れば
屈辱的な光景である。

ところがこの儀式を中止すれば、これからの外交はおろか
貿易も成り立たないのであった。

つまりこれは、宗家の朝鮮国王に対する一種の朝貢儀式であり、
それが中世以来対馬と朝鮮との間で行われてきた
もう1つの外交の重要な部分であった。

対馬は自らをそのような位置に置くことで、国際上の特殊な地位を獲得した
のである。
徳川幕府と朝鮮国王の対等な関係は、こうした裏方の外交実務があって
はじめて成立していた。

この裏方の仕事は宗氏でなければつとまらない。

同じことを幕府が行うと
朝鮮国王に日本政府が朝貢していことになる。

またこの役に柳川氏をあてることはできない。
柳川調興は自分は旗本であると主張している。
将軍家の直属の家臣が、そうした位置で外交を行うことなど
もってのほかである。

地方の領主が昔からの習慣で儀式を行う
裏方の仕事は、釜山の倭館でやらなければならない。

ちょうど日本人の海外渡航を禁ずる政策をとっている
以上、
ここで幕府の役人が朝鮮国へ出向く法令を作るわけにはいかない。

やはり中世からこのことにあずかっている宗氏に任せるのが
無難ということになる。

日朝関係がうまく運営されず
両国の間にヒビが入り
戦乱ともなれば
実は幕府も困ることになる。

秀吉の過ちを正した家康の意志を尊重するよう
伊達政宗から諭された家光は
緊迫した国際情勢の中で
両国の円滑な関係を続けていく穏便な路線を採用したのであろう。

(どうやら転載はうまくいったみたい)

(FDからファイルを呼び出して、2つの画面間でコピーコマンドを
 使う方法を教えてくれた、もっちーさんに感謝 !)

岩手県の歴史散歩 その10
このシリーズも いよいよ10回目

岩手銀行旧本店

JR盛岡駅バス茶畑行 盛岡バスセンター前下車

中の橋のそばにある、おなじみ赤レンガの建物。
ドームまでついている。

盛岡では、1878(明治11)年に国立銀行条例にもとづき
旧藩士の出費により第九十銀行が設立された。
しかし、営業不振のため国や県の公金取り扱いができなかった。
そこで、地元の実業家数人が中心となり、盛岡銀行を設立
1896(明治29)に営業を開始し、やがて公金取り扱いにも成功した。
この盛岡銀行の本店として1908(明治41)年5月に起工、
3年の歳月をかけ1911年4月に竣功したのが
現在の建物である。

この建物の設計者は日本銀行や東京駅の設計で知られる
辰野金吾(たつのきんご)と彼の教え子平泉出身の葛西万司(かさいまんじ)
の二人である。
いわゆる「辰野式ルネッサンス様式」作品の典型の1つである。

  (中国)瀋陽駅  (1910年)
  岩手銀行本店本館 (1911年)
  中央停車場(現・東京駅) (1914年)
  (韓国)ソウル駅  1925(大正14)年

    ☆      ☆      ☆

東京駅の丸の内側の方の赤レンガの建物と
岩手銀行旧本店は似ている。

東京駅の中にあるステーション・ギャラリーはおすすめ
所どころレンガがむき出しの部屋の壁に絵画が架けられていて
雰囲気は悪くない。
デートの場所にもよさそう。

東京駅はオランダのアムステルダム駅とそっくり
と言われているが、
東大の建築探偵団の藤森照信先生によると
全然、似ていない別のものだそうです。
辰野教授は東大の建築の先生として
なんとか日本にもヨーロッパの美しい夢のある建物を建てたいと
自分で気に入った、あちこちの様式をつないで作り上げたのか
辰野式様式

建築物も歴史を見れば、
必ず改革者が現れて、古典を参考にしながら
しかし逆転の発送で、とんでもないものを提案する
そうして色々な様式ができてきた。

その意味では、本場ヨーロッパのどこにもない
あちこちの様式を、ゴテゴテとつないで、別の様式を作り上げた
辰野教授はオリジナル作者

たとえてみれば
豆腐をアイスクリームの中に入れて食べる
アメリカ風の豆腐料理など正調日本食とはいえないが
美味しければそれでよい。

本場の辛い辛い油の強いマーボドーフを食べた中国人には
日本のマーボドーフは偽もの、全然別なもの。
日本のマーボードーフは日本料理です。
麻婆豆腐ではない。

岩手県の歴史散歩 その11
十六羅漢

JR盛岡駅バス茶畑行八幡宮下車

八幡宮の前の道を南へ300mほど下ると、十字路の一角に羅漢公園がある。
その名の由来は、特異な風貌をもった五智如来(ごちにょらい)と
十六羅漢(じゅうろくらかん)の、計21体の
巨大な石像群が鎮座しているからである。
盛岡藩は3年に1度の割合で、不作・凶作にみまわれ、飢饉にまで至ることが
多かった。
なかでも元禄・宝暦・天明・天保は四大飢饉といわれ、数多くの飢餓者を
出した。
現在市内や県内各地で餓死者供養塔が残されているが、羅漢公園の石像群も
度重なる飢饉で亡くなった人々を供養するために造立されたものだという。
(餓死者供養のためではないとの説もある)
ここには、宗竜寺(そうりゅうじ)という寺院があったが、
明治維新後廃寺となり、建物も1884(明治17)年火災にあい、
ただ21体の石像を残すのみとなった。

  ☆      ☆      ☆

十六羅漢と如来

如来(にょらい)とは、悟りをひらいた釈迦のこと
修業中の悟りをひらきかげんの釈迦は、菩薩(ぼさつ)である。
菩薩には観音菩薩もあれば地蔵菩薩もある(弥勒菩薩もある)。
菩薩はもともと在家の人間であるから、腕輪、首飾り、イヤリングを
している。
最近、日本の若者(男の子)も耳にピアスみたいなものをつけるが、
古代インドのお釈迦様の真似と思えば
歴史や流行は繰り返していると言える。

これに対して羅漢とは、信者から尊敬される修業者であると
本に書いてある。釈迦の弟子などが羅漢に相当するのであろうか。

さて
報恩寺の五百羅漢を考えると
どうも不思議なのは
フビライとマルコポーロがいたことである。
フビライは仏教徒かもしれないが色目人を優遇したから
もしかしたら回教に理解があったかもしれない。
マルコポーロにいたってはキリスト教徒であろう。
仏教に改宗したとは聞いたことがない。
つまり五百羅漢を彫った作者の遊びのつもりだったのだろう。

西洋の絵画にも、関係のないしかし描いた画家の知り合いなどが
上手に入れられている絵もある。

岩手県の歴史散歩 その12
えいせんじ       えんこうじ
 永泉寺    から    円光寺    へ 

八幡宮から羅漢公園前への道を直進するとT字路にぶつかる。

右に曲がると、永泉寺(曹洞宗)である。
ここには釜石の大橋に日本初の洋式高炉を築いた大島高任(おおしまたかとう)
の墓がある。

その隣、京都の黄ばく宗万福寺を摸したといわれる大慈寺(だいじじ)には
中国風の山門をくぐるとすぐ左手に原敬(はらたかし)の墓がある。
平民宰相といわれた彼の遺言により、墓には「原敬墓」の三文字が刻まれている
だけである。

大慈寺前の道を堀に沿って50mほど進むと、清竜水(せいりゅうすい)と
名付けられた清水がある。
今も清らかな水が湧き出ており、清水には屋根がかけられ地域の人々の生活に
利用されている。

清竜水から千手院前を通って行くと交差点角地に、屋根にうだつのある
江戸後期土壁造の建物、木津屋(きづや  県文化財)がある。
この付近は城下町の入口で、旅人らを取り調べた惣門(そうもん)跡である。

木津屋前の坂を下り、T字路を右折し100mほど行くと
円光寺(浄土宗)がある。
この寺の本堂手前左に、終戦処理に尽力した米内光政(よないみつまさ)
の墓がある。

  ☆      ☆      ☆

大慈寺の中国風山門は
竜宮城を思わせる。

禅宗は一番あとに中国から伝わった仏教なのである。

長崎へ行くと、たくさんの中国人が移住してきたので
中国の寺があって、やはり竜宮城的な山門がある。
(江戸時代、中国は王朝が、明から清に変ったとき、
北方民族に支配されるのを恐れた漢民族の文化人や商人などが
大量に長崎に移住して、その結果長崎の文化が栄えた。
このことはトルコ人によるコンスタンチノープル:イスタンブール
陥落で学者や芸術家の文化人たちが大量にイタリアのフィレンツェに
逃げてきて、その結果イタリア・ルネッサンスが開花したことに
たとえられる)

米内光政は第二次世界大戦を終わらせたが
この戦争を始めた東条英機は東京生まれだが、父は南部藩士の流れをくむ
岩手県人
したがって、人によっては
岩手県人が第二次大戦を引き起こし
別の岩手県人が終わらせた
と言っている。

さて、もっちーさんのおかげで
署名がつけられるようになりました。
あとは16進コードで文字入力ができるようになると
第2水準の漢字も自由に入力できるのですが
今後の勉強のテーマとします。


岩手県の歴史散歩 その13
しんざんふなばし
    新山舟橋      跡付近

米内光政の墓のある円光寺前を過ぎると、
北上川にかかる明治橋のたもとに出る。
この明治橋付近は、藩政時代には奥州街道の南の入口であり、
また石巻への北上川舟運の起点としてにぎわった新山船橋
および新山河岸の跡地である。

明治橋はその名のとおり1875(明治7)年に架橋されたものである。
この付近の北上川は、雫石川・中津川の水を集め、水量豊かで水勢もあり
昔の技術では架橋できなかった。
そこで現在の明治橋よりわずか下流の地点に、1682(天和2)年
舟橋がかけられたのである。
舟橋は大船18隻、中船2隻を両岸と中島の大黒柱に鉄鎖でつなぎとめ
舟の上に長さ2.5−3間(4.5−5.4m)の厚板294枚を
敷いたものであったという。
出水の際には敷板を取りはずし、船を両岸に引き上げて交通止めにした。

この舟橋の下手が新山河岸である。
米穀をはじめ銅や林産物等が積み出され、古着・反物・瀬戸物などの
日用雑貨が川を上ってきた。
明治20年代、東北本線が開通するまでにぎわった。
かつては河岸に御番所・舟宿・御蔵などが建ち並んでいたが、
今は白壁の御蔵が1棟川岸に残っているだけである。

  ☆      ☆      ☆

舟橋の有名なものは
越中神通川の舟橋がある。
慶長元(1596)年に前田侯が架けさせたと
いわれている。

富山の鱒寿司の中にも、この舟橋の絵が入れられている。

世界の歴史では
ペリシャの大王ダリウスが紀元前493年に
ギリシャ遠征をこころみて
ボスポラス海峡を渡った。
そのときサモス島出身のマンドロクレスという技術者が
この1000mの海峡に舟橋を架けて、
60万人という兵士を無事渡らせたという。
(川田忠樹:歴史のなかの橋とロマン、技報堂出版)


岩手県の歴史散歩 その14
盛岡市先人記念館

JR盛岡駅バス太田橋繋温泉行 下川原下車18分

盛岡駅からバスが雫石川を渡って、バスを降りて
停留所から戻るように歩くとまもなく雫石川の堤防に出る。
堤防上の道を右手にしばらく行くと、右手の土手の上に
子ども科学館と先人記念館が見える。

盛岡市が市政百周年記念事業として建設した施設で、
盛岡市ゆかりの先人を記念する品々が展示されている。

他に記念館のある原敬、石川啄木らは対象外となっている。

金田一京助・新渡戸稲造・米内光政の3人については
それぞれ1室が設けられ、展示の内容が豊富である。

  ☆      ☆      ☆

いちおうのキーワード

金田一京助  言語学者・アイヌ語研究者
新渡戸稲造  東大教授・旧制一高校長・5000円札モデル
米内光政  連合艦隊司令長官・海軍大臣・総理大臣

岩手県は人材派遣の県である
とは外から来た人を
先人記念館や県立博物館に案内すると
よく聞かれる言葉である。

なぜ人材をよく出したか
それは南部藩が悪政をして
藩民も貧しかったから
と言われている。

賊軍の汚名をはらすためには
立身出世しかなく、金田一京助や新渡戸稲造のように
学問で業績をあげる道にかけたのであろう。

あの盛岡大学学長の高橋富雄先生も
岩手の北上出身の人なので
高橋先生から南部藩の悪政のことを教えてもらいましたが、
他所ものの批判ではなく真実なのでしょう。
一揆が多かったこと、藩主の悪政など
資料を読めば、ほとんど倒産会社
なんとか、とりつぶしにならぬよう陰で苦労した人々がいたのでしょう。

でも
国乱れると人材おこる
の喩ではないが

人間はハングリーが必要のようです。
岩手医大の先生が言ってましたが
研究設備と研究意欲は反比例する
立派な研究環境になると、ものが足りない何もないと貧しかった時より
研究意欲が低下する
工夫することがなくなるから
と話していました

岩手県の歴史散歩 その15
原敬(はらたかし)記念館

JR盛岡駅バス飯岡十文字行 原敬記念館下車2分

バスを降りて、左手の小路を入ると原敬記念館である。

戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に属した盛岡藩は敗北し、城下には官軍が進駐してきた。
敗戦ゆえのみじめさと労苦は、原家にもふりかかってきた。
10歳で父を亡くした原敬が1871(明治4)年に東京遊学を志したとき
母は彼のために屋敷の大部分を売り払って学資にあてたのである。
生家は当時の約5分の1、主として女中部屋であった部分が残っている。
原敬の生涯を貫く反骨は、少年期に体験したこのような屈辱感のなかで
育ったものであろう。

  ☆      ☆      ☆

戊辰戦争の際「白河以北一山百文」と薩長から蔑視された反感から
自ら一山(いつざん)の号を名乗った。

新幹線が栃木から福島に入るところに
河北新報の広告が見られるが、
この新聞社名も上の故事からきているという。

高校野球の優勝旗が白河の関を越えるのは、いつか ?

 なんと
 駒大苫小牧高校が田中将大投手のおかげで優勝してしまった。
 優勝旗は、白河の関を越え、津軽海峡を越えたのであった。


岩手県の歴史散歩 その16
しわ
志波城跡

JR盛岡駅バス矢巾線 飯岡十文字下車20分

バス停から北に5分ほど歩くと右手に大宮中学校に入る道があり、そこに
志波城跡(国史跡)の案内板がある。
案内板の付近が東側の端に近く、西側には東北自動車道が走っている。
地元では太田の方八丁と言われてきた。
1976年の東北自動車建設にともなう事前調査などで、
規模と構造が明らかとなり、志波城跡と認定された。

志波城の竣功は「日本紀略(きりゃく)」によれば、胆沢城(いさわじょう)より
1年後の803(延暦22)年で、造城使は坂上田村麻呂である。
当時の蝦夷征討・開拓の前線基地として建設され、胆沢城におかれた
鎮守府の機能を北辺において代行した所と推定される。
およそ10年ほどで水害を理由にその機能は徳丹城(とくたんじょう)
に移され、811(弘仁2)年以後は記録から消えている。
志波城の規模は方八丁の地名が示すとおり約900m四方であった。

  ☆      ☆      ☆

亡くなった板橋源名誉教授の講演を科学談話会で聞いたことがある。
太田方八丁こそ当時の大和朝廷の北限の基地で、非常に価値のある遺跡である。
  この最北の基地が雫石川の氾濫がひどいため、朝廷に願い出て
結局、徳丹城に移動してしまった。その願い出の古文書もあるという。
徳丹城跡は国道4号線の矢巾町徳田にある。

建設工事で貴重な遺跡を発見したり調査することがあるので、
建設環境工学科の学生諸君は日本史や考古学の知識があったほうがいい。

太田方八丁の遺跡保存の工事を請け負っているのが
関西の大手建設会社
私も卒業生を多数お世話しています。

岩手県の歴史散歩 その17
厨川柵跡

JR盛岡駅バス繋線・雫石線 天昌寺前下車2分

北上川にかかる館坂橋西詰の五差路から、
国道46号線(秋田街道)を西に坂を上って行くと
東北本線の跨線橋にさしかかる。
跨線橋を越えると、道の左手に寺院の大きな屋根と
杉の古木を混じえた木立の繁みがみえてくる。
かつて安倍貞任(あべのさだとう)の祈願所だったとの伝承を
もつ天昌寺(てんしょうじ 曹洞宗)である。
道に沿った天昌寺の白い堀の側に、
厨川柵跡の石碑が立っている。

この天昌寺の周辺一帯が、前九年の役において
安倍貞任の最後の拠点となった厨川柵跡地と考えられている。

  ☆      ☆      ☆

歴史上有名な場所ですから
一度は行ってみる価値がある。


岩手県の歴史散歩 その18
岩手県立博物館

JR盛岡駅バス上田線 西松園2丁目または県立博物館前下車5分

岩手県立博物館は県制100年を記念して建てられたものである。
盛岡市の郊外、北上川をせき止めた四十四田(しじゅうしだ)ダムを見下ろす
小高い丘の上に建っている。

入口から階段を上ると、芝生広場に出る。
広場の中央にマイヨール作の3人の妖精像がある。

ブリッジの上を廻って南側に行くと2軒の民家がある。
曲り家(まがりや)は岩泉町にあった旧佐々木家住宅(国重要文化財)
直家(すごや)は江刺市にあった旧藤野家住宅(国重要文化財)
である。
曲り家は南部藩、直家は伊達藩のそれぞれの建築洋式

  ☆      ☆      ☆

この岩手県立博物館は
どうも秋田県立博物館を参考にして建てられたような気がする。

それにしても日本の博物館はどうして町から遠いところに建てられるのだろう。
ヨーロッパなら大抵、王侯貴族の屋敷あとを博物館にするから
町の中心にあるのだが。

内部の説明などは次の記事に書き込みします。

岩手県の歴史散歩 その19
岩手県立博物館 その2

博物館に入ると、いきなり階段の前に
巨大な毘沙門天像に驚かされる。
東和町(とうわちょう)成島(なるしま)の
兜(と)ばつ毘沙門天(びしゃもんてん)像の複製である。

展示は、
岩手の歴史や文化の通史的、総合的な理解に主眼をおいた
総合展示室のほかに
テーマ別の分類展示室、
岩手県出身の美術家の作品からなる近代美術室で構成されている。

  ☆      ☆      ☆

私の率直な感想を言わせてもらうと
歴史や文化の展示はすばらしいが
科学博物館的な、いわゆる博物学の展示が
少ないように思われる。
特に昆虫や動植物の展示は少ないという感想である。
(最近はだいぶ増えたようだ)
地質学や考古学の方は善戦している。

限られた予算とスペースだから
しようがないのかもしれないが

昨年の今頃
ドイツの教授を案内したとき
英語のできるガイドさんが説明してくれた。
パチパチパチ
(秋田の県立博物館へ、この教授を案内したときは
そのサービスはなかった)

岩手の彫刻家「舟越保武」の作品は全国にあるようだ。
秋田の横手にできた「ふるさと村」には
たくさんの秋田の芸術家の作品が展示されていたが、
この船越保武*の作品(天草のキリシタン兵士だったと記憶しているが)
が紹介されていた。
秋田県人の心の深さよ。

岩手県の歴史散歩 その20
このシリーズも、とうとう20回目
皆様からの暖かいお言葉に感謝します。

小岩井農場

JR盛岡駅・小岩井駅バス小岩井線 小岩井農場下車1分

盛岡市の北西に雄大な岩手山がそびえ、
その南麓に民間牧場としては日本最大の2600haの面積をもつ
小岩井農場がある。

1888(明治21)年6月に日本鉄道会社によって
進められていた鉄道敷設工事視察に鉄道局長井上勝(まさる)
が盛岡に来た。
井上は歓迎会の後に網張温泉に案内され、岩手山の雄大さに感激して
その麓に近代的模範農場を設立しようとした。
翌年に官有地の借用を出願したが、入会権問題で難行し、
結局三菱社長岩崎弥之助が資金を援助し、
日本鉄道会社小野義真が保証人となり
400町歩の払い下げと3222町歩の借用が許可された。

農場の名称は設立に関った3人の頭文字を並べて
小岩井農場とした。

その後、経営不振で
1938(昭和13)年に三菱合資会社系の小岩井農場株式会社
となった。

  ☆      ☆      ☆

小岩井農場は全国的にも有名

北海道を思わせるような自然豊かな風景だが
北海道にも、このような観光に開放されている農場はない。

乳製品は東京でも有名だ。

さて、20回も書くと
相当ミスをしてしまった。
前回、岩手の芸術家「舟越保武(ふなこしやすたけ)」と書くべきところを
*「船越保武」と書いてしまった。
岩手大学の学長が船越先生だったので
つい間違えてしまった(?)。

ほかにも色々間違いを書いたりしていると思われるので
ご指摘があれば自分の勉強として改めたいと考えます。

また、このシリーズに取り上げるのは
まったく私の独断と偏見にもとづくものであるから
岩手の全体展望を考えて、その構想のもとに書いているわけではありません。
したがって重要なのにぬけていたりするものも多いと思うが
個人の趣味でやっていることなので
それは補ったり応援していただけたらありがたいと思います。
(つまり、ご不満のユーザの方は、穴埋め記事を別個に書いてください)


岩手県の歴史散歩  その21
雫石町歴史民俗資料館

JR雫石駅バス鶯宿温泉線 安庭下車4分

鶯宿温泉に向かうバスを下車し、安庭橋へ戻ると
橋の手前左側に
雫石町歴史民俗資料館がある。

御所ダムの建設によって水没してしまう民家と民俗資料を保存するために
1974(昭和49)年に設立された施設で、収蔵品は約1500点である。

資料館は鉄筋コンクリート造の平屋建で、入口の左右に展示室がある。
右側の展示室は考古学資料を主にしており、
雫石の桜沼(さくらぬま)遺跡で採集された縄文晩期の土器や
遮光器土偶(しゃこうきどぐう)が優品である。
石器は木の柄に装着して展示してあり、使用法がわかる。
左側の展示室は、近世の資料と民具が展示されている。
藩政時代の雫石盆地は木材と椀飯物(わんぱんもの)と呼ばれた
木器の特産地であり、このことを示す展示品に木杓子(きしゃくし)の
制作工程と筏(いかだ)の模型がある。

  ☆      ☆      ☆      ☆

遮光器土偶(しゃこうきどぐう)は
青森県では縄文人のシンボルとして
大々的にとりあげられ、大きな目玉の昔のダルマ人形。
この土偶は
青森特産のように思われているむきもあるが
岩手にもこのとおりあります。
また宮城にもあるようです。
たぶん秋田でも産出されているのではないでしょうか。


岩手県の歴史散歩  その22
岩手県立農業博物館

JR盛岡駅バス沼宮内線 県立農試下車3分

要するに4号線を渋民方向へ北上し、滝沢村分れを過ぎてから
盛岡大学や産業文化センターの国道をはさんで向側にある博物館

1969(昭和44)年に岩手の農業の歴史を探り、
未来の農業を展望する目的で開設された。

前庭は広々としており、水車小屋やバッタリ(水力利用の臼)
稗室(ひえむろ)が移築されている。
入口の左側視聴覚室には害虫・草木染・水稲の標本が展示され
右側の収蔵室には稲作・畑作・加工・養蚕・畜産・農家生活の順で
多数の農具や民具が展示されている。

  ☆      ☆      ☆      ☆

博物館が好きなので、岩手県内の博物館は
なるべく見るようにしている。
この博物館は内容が充実していると思う。

これを書いている私は忙しくて
これから経理部長室に行って
総合情報処理センターの概算要求のヒアリング
そして10時の新幹線で仙台へ


岩手県の歴史散歩  その23
石川啄木記念館

JR渋民駅下車27分
または盛岡駅よりバス盛岡中山線 啄木記念館下車2分

啄木記念館は国道4号線に沿った渋民市街の中間にある。

1986(昭和61)年に新設された施設で、全国の啄木ファンからの寄付が
よせられた。

啄木が日戸(ひのと)の常光寺(じょうこうじ 曹洞宗)で生まれたのは
1886(明治19)年2月、
薄幸のうちに没したのは1912(明治45)年4月13日で
わずか26年の生涯であった。

展示はパネル・文献・書簡・写真を主とした資料を用いて
生い立ち、少年時代、詩人としての出発、代用教員時代、
北海道漂泊時代、東京時代に分けられている。

記念館の左側に渋民尋常高等小学校校舎が、
またその隣には「雲は天才である」や「面影」を執筆した頃の
借家斎藤氏旧宅が移築されている。

記念館の右にまわると、子供のころ育った宝徳寺(ほうとくじ 曹洞宗)
がある。

記念館から国道を渡って北上河畔に行くと
啄木歌碑公園がある。
歌碑は1922(大正11)年に姫神山の花崗岩を用いてつくられたもので
「やわらかに柳あおめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」
の歌が彫られている。
啄木歌碑の最古のものである。

  ☆      ☆      ☆      ☆

いつ行っても観光客が絶えない場所である。

渋民尋常高等小学校校舎は昔の小学校で
小使いさん、囲炉裏など
年配の人を案内すると、懐かしがられる。

岩手県の歴史散歩  その24
松尾村歴史民俗資料館

JR大更駅バス東八幡平交通センター行終点下車3分

松尾村は十和田八幡平国立公園の入口にあり、
この資料館のある柏台は八幡平アスピーテラインの登り口である。

1981(昭和56)年に柏台中学校跡を利用して建てられたものである。
この資料館の特色は、豊富な考古資料と松尾鉱山関係資料にあり、
長者屋敷遺跡出土の優秀な縄文土器群を一括して見ることができる。
松尾鉱山は1901(明治34)年に発見され、
1914(大正3)年から採掘された硫黄・硫化鉱の鉱山で
最盛期には東洋一の産出をほこった。
柏台はその社宅街として生まれた。
しかし、この鉱山も石油からの回収硫黄に市場を奪われ
1972(昭和47)年に閉山となった。

資料館には往時の面影をしのぶパネル写真・模型・採掘機械・索道搬機や
硫化鉱と硫黄製品などが展示されている。

アスピーテラインを上って行くと、鉱山の採掘現場跡がある。
ここにも社宅街跡があり、かつての病院や学校などは東京の大学が
合宿所として利用している。

  ☆      ☆      ☆      ☆

映画「人間の条件」は
広い中国大陸のスケールを表す場面がいくつかあるが
鉄道は、北海道の苫小牧の近くのまっすぐな線路でロケーションした。
中国の炭坑の場面は、この松尾鉱山跡でロケーションしたそうだ。
  そのくらい雄大な鉱山跡地である。

バスが出ている
大更(おおぶけ)は最初の人には、ちょっと読めない。

北海道には帯広の近くに、音更という地名がある。
東京から来た大学生が、「おとさら」と読んでもしようがない。
こちらは、もちろん「おとふけ」という。
どちらも多分アイヌ語でしょう。

岩手県の歴史散歩  その25
徳丹城跡

盛岡バスセンターよりバス日詰線徳田小学校前下車

盛岡市内から国道4号線を南下し、徳田小学校前でバスを降りると
そこが徳丹城跡(国史跡)である。

徳丹城が初めて文献に見えるのは、「日本後紀」弘仁5(814)年
11月の条である。
志波城(盛岡市)が雫石川の水害をうけたため、当時の征夷大将軍
文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)の願出により新たに徳丹城を建てたのである。
その後、辺境防備と開発のための基地として、9世紀中頃までは続いた
ものと思われる。

徳丹城跡は、1947(昭和22)年から発掘調査されてきているが、
それによると一辺約350mの規模で、丸太材列が四周をめぐらし外郭線を
なしていた。各辺の中央には八脚門が取り付けられ、70m間隔で
櫓(やぐら)も取り付けられていた。さらに郭内の中央には、1本柱列に
よる1辺80mの方形の内郭があり、そこには南面する四面廂(しめんひさし)
の正殿と、その前面に東西に向かい合う脇殿が配置されていた。
これが、徳丹城の中心部にあたる政庁であった。

現在までの発掘調査によって、徳丹城は多賀城(宮城県)の政庁をはじめ
他の城柵遺跡でも認められる地方の官衙(かんが)という性格を
もっていたことがわかった。
そしてこの政庁の周辺には掘立柱建物跡も発見されており、
地域開発の実務的機能も持っていた城とも考えられる。

  ☆      ☆      ☆      ☆

一辺350mの正方形の外郭の中に、一辺80mの内郭(正殿と2つの
脇殿)が配置されているのは
中国の古代の城郭を思わせるものがある。
北京の故宮でも、もともと北京を取り囲む城壁があって
さらにその中に置かれた皇帝の住む内城が今の故宮なのだから。

私の勉強中の、中国の影響を受けた日本古代建築に関する知識では
昔々の日本は竪穴式住居しかなかったが
(古代中国にも竪穴式住居はある)
アジア大陸から稲作文化とともに、高床式建物と掘立柱建物が
入ってきた。
しかし掘立柱方式は地面に直接柱を立て穴を埋めもどすため
腐蝕に弱い。
そこで6世紀後半に仏教伝来とともに、
基壇を築き、礎石を据えて柱を立て、組物(斗きょう)を
用いて軒を深く出し、屋根を瓦で葺く寺院建築が入ってきた。
これで建物の規模も耐久性もはるかに向上した。

だから都では当然、礎石の上に柱をおいた建築が作られていたのだが
辺地みちのく岩手では、そんな技術はもったいないと考えたのか
あいかわらずの掘立柱であったわけだ。
柱の根元が腐ったら、また新しい柱を打ち込めばいいわけだから。

岩手県の歴史散歩  その26
 こうすいじ
   高水寺城跡

JR日詰駅バス盛岡行御幸(みゆき)新道下車5分

バスを降りると国道4号線の東側に独立丘陵がある。
これが高水寺城跡で、城山公園として整備されている。

城跡へは明治天皇行幸記念碑のある御幸新道を上ればよい。

1268(文永5)年に足利家氏(いえうじ)が奥州奉行人として当地に
下向し、斯波氏を称したと伝えられる。
高水寺城の築城は家氏の玄孫斯波家長(いえなが)のときであったらしく
足利尊氏が北畠顕家や八戸南部氏を抑えるために家長を陸奥守に任じて
紫波郡に下向させた1335(建武2)年以降であろう。
以来この城は北奥における北朝勢力の拠点であり、室町・戦国期を通じて
斯波氏の居城であった。
しかし、斯波詮直(あきなお)のときに南部信直と戦い、1588
(天正16)年に家臣の謀叛が原因で落城した。
信直は城を郡山(こおりやま)城と改め、中野康実(やすざね)を
城代に任じた。また盛岡築城に際しては、南部利直が十数年間の居城としており、
1667(寛文7)年に至って廃城となっている。

このあたり一帯を昔は郡山と称したが、
郡山の地名は類例から平安時代の郡衙に関係すると考えられる。

  ☆      ☆      ☆      ☆

城山公園は桜の名所として知られる。

(特殊な漢字があるため、現在使っている漢字変換ソフトになくて
別のPCでワープロソフトを使って、文書ファイルを作り
それをこちらにコピーするという苦労をしています)

岩手県の歴史散歩  その27
 じんがおかもり
   陣ケ岡森

JR古館駅下車30分

紫波町宮手にある標高136mの小高い丘が陣ケ岡森である。
JR東北本線古館駅の西方3kmの所にある。

ここには、特に居城や城郭は築かれなかったが、
歴史上の大きな戦乱があったときに4回にわたって、軍勢の駐兵地として
利用されたと伝えられている。

陣ケ岡は「吾妻鏡」に初めて見えるが、伝承では、830(延暦22)年
志波城を築くとき坂上田村麻呂が軍勢や人夫を1万有余人も宿営させたと
いわれる。
そして志波城が完成し、その成功を感謝し戦勝を祈願して頂上に建立したのが
いまもある蜂神社の起源とされている。

2回目は前九年の役で源頼義・義家父子が約3万有余人の大軍勢を
駐兵させ、前進基地としたという。
その後、藤原秀衡が、この陣ケ岡の蜂神社を1182(寿永元)年に
参拝した。
その際に、源頼義・義家父子が厨川柵攻めの時、源氏の旗に描かれていた
日・月が金色に輝き勝利したという故事を思い出し、その記念に
月の輪形の池をつくったといわれている。西側に大きな池があり、
その池の中に源氏の白旗が描かれている太陽のような丸い島と三日月の
形の島が浮かんでいたという。現在この池はそれらの形跡は残っているが
池の水は枯れている。

次は1189(文治5)年、源頼朝が奥州征伐のため陣ケ岡に宿営し、
ここに全軍28万4000人が集結したと「吾妻鏡」に記されている。

4回目は1588(天正16)年、南部信直がこの地を支配していた
斯波氏を攻め、陣ケ岡に駐兵してついに勝利した。

  ☆      ☆      ☆      ☆

紫波町の造酒屋の「月の輪」という酒は、この池の名前
月の輪からとったようである。

岩手県の歴史散歩  その28
   しわいなり    しわこいなり
   志和稲荷神社・志和古稲荷神社

JR日詰駅バス志和稲荷行終点下車5分

志和の街道町を過ぎると
山ふところにいだかれた志和稲荷・志和古稲荷の
両神社につく。
両稲荷神社は県内外の農漁民から家業、商売繁盛の神として
崇敬されてきた。

稲荷神社は、源頼義・義家親子が安倍氏を討つため
陣ケ岡に布陣したとき
武運勝利を祈願し勧請したといわれているが、
古代の地方神として近くの水分神社や志賀理和気神社とも
関係が深いと考えられる。

  ☆      ☆      ☆      ☆

あたり一帯は霊山という雰囲気で
一度、参拝する価値がある。

岩手県の歴史散歩  その29
    花巻城跡

JR花巻駅下車10分

花巻駅前広場を横断し、右折するとY字路交差点があり、
その左手を400mほど直進し、本丸橋右手を上ると
花巻城跡の本丸に出る。

城跡は鳥谷ケ崎(とやがさき)公園として、堀には今なお水をたたえ、
往時をしのぶことができる。
現在、二の丸から三の丸にかけては官庁街である。
花巻城は、かつて鳥谷ケ崎城と称し、
鎌倉時代以来の豪族稗貫(ひえぬき)氏の居城であったが、
1590(天正18)年豊臣秀吉の小田原参陣に従わずして滅び、
一時浅野重吉が城主となった。
九戸政実の乱後、南部信直(なんぶのぶなお)の領有するところとなり、
北秀愛(きたひでちか)に和賀・稗貫8000石を与えて城代とし、
城も花巻城と改められた。
秀愛の父北松斎(しょうさい)(信愛のぶちか)は2代目城代として城を整備し、
城下開町に尽力した。

花巻城は、1869(明治2)年に廃城となって取り壊され、
城の遺品は散逸した。
現在その遺構として、円城寺(えんじょうじ)門と
時鐘堂(じしょうどう)が残る。

円城寺門は二の丸跡の南側、薬研堀(やげんぼり)跡にできた市道を
横断して、法務省合同庁舎わきを左折して300mほど行った
鳥谷ケ崎神社入口にある。
慶長年代(1596-1615)の風格ある木造2階建櫓門として復元され、
装飾的手法はとらず素朴な重厚さの中に、城門の威容を示している。

また時鐘堂は、花巻市役所前の追手門(大手門)跡にある。
1646(天保3)年、盛岡藩主が盛岡城に時鐘堂をつくったが、
鐘が小さくて盛岡城下に響かず、そのため花巻城に移したと
伝えられる。

鳥谷ケ崎神社を中心として繰りひろげられる花巻祭は、
城下開町の祖北松斎の観音信仰に基づき、市民総出の行事として
毎年9月5−7日に開催される。
京都祇園の流れをくむ十数台の山車(だし)や花巻ばやし、
町内や職場が競う120余もの樽みこしが大パレードを披露し、
城下町花巻をしのぶにふさわしい。

  ☆      ☆      ☆      ☆

盛岡駅前に北信愛という名の蕎麦屋があったが、あれはこの花巻城下開町
の北信愛にちなんで名付けたのであろう。
(この蕎麦屋はうま舎という居酒屋になってしまった)
北信愛が、ピンチにおちいった時の南部信直(のぶなお)を助けて
北の津軽為信、九戸政実(まさざね)、南の伊達政宗の圧力を受けながら
南部藩の運命を開くのに大いに貢献したことは
このシリーズのどこかで書けるかもしれない。
  (できたら後ほど)

八戸の三社祭といい、花巻の花巻祭といい
南部藩ゆかりの町の祭の方が、本家の盛岡の秋祭をしのぐ。

岩手県の歴史散歩  その30
           ぞうしゅうかん
    チベット蔵脩館

JR花巻駅バス北上駅・賢治詩碑・晴山行上町口(かみちょうぐち)下車3分

バス停から30mほど戻ると十字路があり、南北に光徳寺(こうとくじ)・
専念寺のともに浄土真宗の寺が見える。
左折して光徳寺に着くと、
境内左側に多田等観(ただとうかん)師がチベット行脚で収集した遺品を納める、
西蔵式建築のチベット蔵脩館がある。

等観はチベットの国賓として来日したデ=トゥル僧正一行に同行し、
1912(明治45)年にダライラマ法王に謁見して師弟関係を結んだ。
その後10年にわたりラマ教奥義の研究を積み、ラマ教最高位のゲシュに
任ぜられ、法王の内政顧問として活躍し帰国した。

その後、太平洋戦争激化にともない、
等観はラマ法王下賜の仏像・仏画を実弟(光徳寺住職)の住む
花巻市に疎開保管した。
そのなかでダライラマ13世下賜の
金銅降魔釈迦牟尼仏は、1300余年前にインドからチベットに
伝来し歴代法王の持内仏であったといわれる。


     ☆      ☆      ☆

私の高校時代の友人に
東大インド哲学をおさめ駒沢大学教授となっている男がいるが
彼の言うことには
ラマ教というのは学問的でなくて
チベット仏教というのが正しいのだそうです。

多田等観は西本願寺宗主の大谷光端の命により、苦労してチベットへたどり着き、ダライ・ラマ13世のもとでチベット仏教の奥義を学んだ。
約10年間にも及ぶ僧院での活動で、教義を極めた者としてゲシェーの称号を授けられ、デルゲ版チベット大蔵経をはじめとする多くのチベット仏教関係資料を日本に持ち帰った。

それらの貴重な仏教資料は、花巻市博物館に収蔵され、毎年一般公開されています。
花巻市博物館は宮沢賢治記念館の近くです。 

岩手県の歴史散歩  その31
同心屋敷と宮沢賢治詩碑

JR花巻駅バス 賢治詩碑行終点下車3分

バス停から民芸品店わきを入り、賢治詩碑へむかう途中100mほどの所に
2軒の茅葺(かやぶ)き曲り家の同心屋敷が復元されている。
1591(天正19)年 九戸政実の乱後、総奉行浅野長政は
鳥谷ケ崎城の守備一隊を残し、花巻同心組とした。

同心組は、1869(明治2)年、花巻城廃城とともに解任され、
建物と敷地(200坪区分)が交付され、子孫が受け継いだ。
停留所手前のバス通りがその街道である。

同心屋敷から300mほど東に進むと、花巻市の木であるコブシや
ギンドロ(どろ柳)・桜・松の古木に囲まれた
旧羅須地人(らすちじん)協会跡地に
「雨ニモマケズ」の宮沢賢治詩碑がある。
詩人高村光太郎の揮ごうにより、碑の下には賢治の分骨が納められている。
毎年命日の9月21日には市民や全国のファンが訪れ、夕刻から
盛大な賢治祭を催し、詩の朗読やコーラスでその生涯をしのぶ。

旧羅須地人協会の建物は、ここから8kmほど北の県立花巻農業高校地内に
復元され、建物と「精神歌」の詩歌がある。
建物内部に、机やオルガンが残され、農業理論を力説した賢治をしのばせる。
入口の「下ノ畑ニ居リマス」と記した黒板も教育者賢治を象徴する。

     ☆      ☆      ☆

また、新しく行を変えて
このシリーズを続けます。

「下ノ畑ニ居リマス」と書かれた黒板は
胡四王山(こしおうざん)の上の宮沢賢治記念館のわきにも見られます。
下のバラ園へどうぞ、という意味でしょうか。

あれを見るたび、賢治は今にもひょっこり現れてくるような錯覚をおぼえます。
賢治に会いたくなったら、私は材木町の通りで座っている賢治像を見に行きます。

岩手県の歴史散歩  その32
宮沢賢治記念館

JR花巻駅・東北新幹線新花巻駅バス 新幹線リレー号賢治記念館下車10分

バス停の記念館入口には「求道」の詩碑が立つ。

宮沢賢治記念館がある胡四王山(こしおうざん 標高176m)は館跡で、
山頂には坂上田村麻呂東征の武運祈願所と伝える胡四王山神社があり、
山腹には平安時代の竪穴住居跡と堀跡が確認されている。

館内には7部門に分類した展示と中央のドーム(大銀河系図)をはじめ、
3面スライド(賢治の四季)、ビデオ(科学の世界)やサウンドボックス
(賢治の歌曲)が装置されて、賢治の世界に浸ることができる。

南の長い石段を降りた所に賢治の設計した南斜花壇・日時計が作られている。

   ☆       ☆       ☆

この宮沢賢治記念館にお客さんを連れて行けば
たいてい喜ばれる。

宮沢賢治記念館に展示されているセロには、こんな話がある。

賢治の親友藤原嘉藤治(かとうじ)は貧しいから粗末なセロしか買えない。
賢治は父親からたっぷりお金をもらって立派なセロを買った。

盛岡での演奏会のため、賢治は自分のセロと嘉藤治のセロを交換してあげた。
 その嘉藤治のセロには小さな穴か開いていたのを見て
 「セロ弾きのゴーシュ」の子ネズミが穴からセロの中に入ることを思いついたようだ。
 賢治の家は空襲を受けてセロは失われたが、嘉藤治が大事に使っていたセロは彼の死後に
 遺族から宮沢賢治記念館に寄贈された。  情けは人のためならず


さて、このシリーズ
私も忙しいので気長に書くことにします。
ゆっくり、休まず

岩手県の歴史散歩  その33
花巻市民俗資料館と高村記念館

JR花巻駅バス 高村山荘行終点下車2分

バスを降りると花巻市民俗資料館があり、館内の中央には
藩政時代からの伝統工芸、花巻人形400体ほどが飾られ、
鍛冶丁焼(かじちょうやき)や台焼(だいやき)の陶器が展示されている。
また館内は農村の仕事とくらし、山村の仕事、町人の仕事のコーナーに
分けられている。

民俗資料館からあやめ園前の遊歩道を進むと高村山荘に着く。
1945(昭和20)年4月、太平洋戦争激化により
花巻で疎開生活を始めた高村光太郎は、戦災にあった宮沢賢治旧宅から
ここに移り、7年間の独居生活を送っている。
山荘は套屋(おおいや)を二重に建てて保存され、
詩人草野心平が無得殿(むとくでん)と命名した。
土壁の質素なたたずまいのなかに、光太郎の旺盛な創作活動を彷彿とさせる。
山荘を出ると、雑木林の中に「雪白く積めり」の詩碑があり、
その前では毎年5月15日に高村祭が盛大に催される。
さらに100mほど奥には高村記念館があり、
光太郎・智恵子夫妻の遺品を展示している。

生前の宮沢賢治と高村光太郎の交流から、光太郎が賢治の弟の誘いで
花巻に疎開したという。
   
岩手県の歴史散歩  その34
石鳥谷(いしどりや)町立歴史民俗資料館

JR石鳥谷駅下車15分

駅前広場の商店わきを左折し、150m先のT字路を左に行き
跨線橋を渡る。ほどなく右折し、1kmで左手に
石鳥谷町立歴史民俗資料館がある。

石鳥谷町では酒造技術近代化によって失われていく南部杜氏(なんぶとじ)
の酒造用具を収集し、1788点が国の重要有形民俗文化財に指定されている。

この地方は藩政時代初期から酒造りが盛んで、その酒造技術者(杜氏)は
全国の酒造家に従事し、技術も高く評価されている。
1613(慶長18)年、藩主に招かれて盛岡に来住した近江商人村井氏が
寛文年間(1661〜73)の権兵衛(近江屋)の時、滝名川の砂金経営の
ため紫波町志和に移り、酒造りを兼業したことに始まる。
志和米の産地であったこの地域の農民にはドブロク(濁酒)造りの名人も多く、
冬季の寒さや酒樽用の木、水車を回す急流という自然条件や、消費地盛岡に
近いという背景があった。
村井氏は酒造業に成功し、盛岡藩領きっての資産家となった。

南部杜氏の名で有名な技術者は、稗貫・紫波郡の農民たちで、
18世紀末に大阪の池田流技術を導入し、秘伝の方法を作り上げていった。

機械化による酒造業のなかでも、貴重な存在である杜氏たちは、
東北・北海道・関東で活躍し、その数は2000人にも及ぶ。
南部杜氏協会(南部杜氏会館)は、技術講習や鑑評会を通じて
技術向上をはかっている。

   ☆       ☆       ☆

ここは国道からも入られる。
いわゆる道の駅となっている。

このあたりの地名、中寺林(なかてらばやし)は
思わず、中林寺 → 少林寺を連想してしまう。

杜氏は「とじ」と参考文献には、かながふられているが、
ワープロの辞書では「とうじ」と入力して変換される。
「なんぶとうじ」という言い方も一般に行われている。

岩手県の歴史散歩  その35
しばらくぶりの書き込みです 忙しかったもので     ^^;

山岳博物館

JR石鳥谷駅バス大迫(おおはさま)線大迫営業所下車10分

バスを降りて、信号のある十字路を左折すると、大迫町立山岳博物館の案内板が
あり、右手の坂を上りつめた所に山岳博物館がある。

1969(昭和40)年に大迫町とベルンドルフ市(オーストリア)が
姉妹都市となったことを記念し、オーストリアの山岳民家を模して建てられた
ものである。
姉妹都市提携は早地峰(はやちね)山(標高1914m)に咲く
ハヤチネウスユキソウとアルプスの名花エーデルワイスが似ていることから
行われたものである。

館内は1階に早地峰山高山植物帯(国特別記念物)などの自然を物語る資料が、
2階にはベルンドルフ市の民芸品が展示されている。

山岳博物館と名のつく建物は、全国でも長野県大町市とここの2カ所だけで
登山愛好家によく知られている。

   ☆       ☆       ☆

この博物館には、アラスカで遭難した植村さん愛用のピッケルも展示されている。

エーデルワイスは映画サウンド・オブ・ミュージックで有名だが
ドイツ語なら エーデルヴァイスと発音したい。
  Edelweiβ    Edelweiss はドイツ文字の無い英文タイプで打つとき
高貴な白い花 というところであろうか。
高山植物として日本にも数種あるが、実際に見ると地味な花である。

岩手県の歴史散歩  その36
本日も大変たいへん忙しいのですが     ^^;
  (これを書いている時、のべ3名の来客と2件の電話ありました)

早池峰(はやちね)神社と神楽(かぐら)

JR石鳥谷駅バス大迫(おおはさま)線大迫営業所下車
乗換え岳行終点下車3分

バスを降りると、早池峰(はやちね)山(標高1914m)の登山口の宿坊が
並ぶ岳(たけ)集落入口である。
宿坊を縫って30mほど進み
大鳥居を通っていくと早池峰神社の本殿(県文化)がある。
由来によると、807(大同2)年、田中兵部(ひょうぶ)成房(しげふさ)が
遠野郷の猟師四角藤蔵(しかくとうぞう)と早池峰山の山頂に一宇の
祠堂を建立、瀬織津姫(せおりつひめ)を勧請し東子嶽明神(あずまねだけ
みょうじん)と称したと伝えられる。

早池峰山は、古くは東峰(あずまね)と呼ばれ、北上山地の主峰として、
岩手山や姫神(ひめかみ)山とともに旧盛岡藩領の三鎮山として信仰されていた。
早池峰山霊(山神・狩猟神)と山そのものが神体とされ、古代は
本地垂迹の中で薬師如来と習合され、中世には熊野信仰から三所権現
(弥陀・薬師・観音)となったが、近世に早池峰山頂の本宮(本尊十一面観音)
と若宮(阿弥陀如来)を結んで、早池峰権現別当妙泉寺(みょうせんじ)
(真言宗、内川目1岳)が祭祀権を握った。

1612(慶長17)年には、京都の政商田中清六の長男彦右衛門が
早池峰権現の新山堂・山門・鳥居などを再建し、宝珠盛岡山永福寺(真言宗)
の支配下となった。

その後、神仏分離により妙泉寺は廃され、新山堂をもって現在の早池峰神社と
なった。

早池峰神楽(国民俗)は、早池峰山が三鎮山の道場として信仰を集めていた頃に
修験者によって伝えられたものといわれる。
大償(おおつぐない)集落や岳集落で伝承され、それぞれ大償神楽・岳神楽
と呼ばれており、現在、早池峰神社わきに郷土文化保存伝承館が設置され、
その保存がはかられている。
早池峰神楽は山伏の祈祷の形から起こったといわれ、「能」以前の古式舞踏で、
芸能史研究上貴重であり、8月1日の岳集落祭礼には、前日の宵宮から
盛大に早池峰神楽が奉納される。

   ☆       ☆       ☆

これを書いているうちに気がついたのは
早地峰 → 早池峰
でした。
岩手県の歴史散歩 その35 間違いを訂正します。

山伏はどちらかというと
仏教ではなく神道でしょう。

しかし昔の信仰では、複雑に交じりあっていたらしい。
月山信仰は山伏だが、岩手県の天台寺(瀬戸内寂聴さんの講話すっかり有名)
は中尊寺と同じ宗派(当然天台宗)だが、月山の流れもくむので、寂聴さん
わざわざ月山にまで使いを走らせたという。

大迫のあるのは稗貫郡
この、ひえぬき とは昔の豪族稗貫氏(花巻城参照 このシリーズ29)
から来た言葉だが、
早池峰登山道路の近くに、「笛抜きの滝」という滝があるという。
笛抜きの滝 のことを宮沢賢治は「どんぐりと山猫」の中で
笛吹きの滝として書いているようだ。

次回からは、東和町です。
  

岩手県の歴史散歩  その37
たくさんのフォロー記事をいただきまして
ありがとうございました  (^^)
学内のユーザの皆様にけっこう読まれているので
それなりに気をつけていかないとと思いながら
これもネットワークおこしのためになってほしいと願いつつ....

本日も大変たいへん忙しいのですが     ^^;
  (これを書いてすぐ新幹線)

萬鉄五郎(よろずてつごろう)記念館

JR釜石線土沢駅下車10分

土沢駅前を直進し、T字路を左折する。商店街を300mほど進み、
花巻信用金庫東和支店から右折して、坂道を200mほど上ると
萬鉄五郎記念館がある。
萬鉄五郎は、1885(明治18)年東和賀郡十二ケ村(今の東和町土沢)に
生まれ、後期印象派や野獣派(フォービズム)の先駆者として、
日本画壇で活躍した。

   ☆       ☆       ☆

時間のない方は盛岡の岩手県立博物館に行くと、萬鉄五郎の作品の一部を
見ることができます。

わざわざ東京から東和町まで来て、萬鉄五郎記念館を見学する人も絶えません。

岩手県の歴史散歩  その38
南部の曲り家と薬師神社

JR晴山駅バス田瀬大橋行旧小原家住宅下車10分

バス停から西南方ヘ800mほどで旧小原家(国重文)に着く。
母屋の棟に対して直角に馬屋が張り出し、平面形が鈎(かぎ)形となるのが
曲り家の特徴である。
この曲り家は寄棟造・茅葺で、桁行(けたゆき)16.3m・梁間(はりま)
10.5mの主屋部に加え、馬屋の突出し部分が小さく、18世紀中頃の
曲り屋の古い形式を伝えている。

また、旧小原家住宅前バス停から、さらにバスを乗り継ぎ、興禅院前で下車すると、
50mほど戻った山腹に薬師神社がある。5.4m四方の堂内に、1.8m四方の
小堂がつくられ、内壁に薬師三尊を中心に、十二神将の群像が描かれ、
金箔極彩色の本尊が美しい。天井にも十数種の薬草絵があり、室町時代の
薬師信仰を表現し、医学史の上でも貴重である。

   ☆       ☆       ☆

薬師如来は如来だから悟りをひらいた釈迦のこと、したがって仏教
なのに神社とは面白い。

菩薩は修業中の釈迦がモデルだから、まだ耳にイヤリング(ピアス)をしている
仏像もある。
最近の若者に男でも耳飾りをしている者もいるが、古代インドの習慣なら
あたりまえのこと。

岩手県の歴史散歩  その39
丹内山(たんないさん)神社と経塚

JR晴山駅バス田瀬大橋行雲南下車15分

バス停から800mほど直進すると丹内山神社参道入口に着く。
丹内山神社は、安俵郷(あひょうごう)の中心となり郷社として信仰された。
草創は平安時代と伝え、本殿は5.4m四方、向拝(こうはい)流れ造の
様式で、深山のなかに古色蒼然として、静寂のたたずまいを感じさせる。
外陣には土地の名工千葉八重郎による「竹林の七賢人」をはじめとする
彫刻が施されている。
もとは丹内権現堂と呼ばれ、不動尊と十一面観音像を安置していた。

神社南側にあるチョーガ森(経が森の訛)の山頂には、2つの経塚(県史跡)
がある。経塚は経典を埋納した塚であるが、2つとも縦穴式石室をもち、
経塚の形式としては珍しい。西経塚から高さ26cmの影青四耳壷(えいせいしじこ)
(白磁無文、北宋時代の花瓶)と15.7cm四方、青銅製の湖州鏡、中国古銭
「祥符元宝」(1008年)が出土した。
また、東経塚からは凝灰岩をくりぬいた経筒や「開元通宝」(713年)・
「淳化元宝」(990年)など18枚の中国古銭が発見される。
これらの遺物(県文化)から平安後期の経塚と考えられる。

   ☆       ☆       ☆

近くの谷内小学校は「たにうち」ではなく「たにない」小学校

日本語は難しい。

岩手県の歴史散歩  その40
なるしまとばつびしゃもんてん
   成島兜跋毘沙門天 像

JR土沢駅バス県交通花巻・下成島行毘沙門下車15分

バス停の参道入口から、急坂を700mほど上りつめた所に
毘沙門堂があり、平安時代、坂上田村麻呂が蝦夷征討に際して、北方守護神
としたと伝える兜跋毘沙門天像(国重文)がある。
眼光鋭く、輪宝火焔の光背を有し、押し上げる地天像の掌上に威厳をそなえて
直立した壮大な木像である。
丈六(4.82m)の巨像で、カンバ材の一木造、両腕が別材で、
彩色を施している。地天の上に立ち、2鬼を従えていることから、兜跋毘沙門天
と称される。
左右の2鬼像は、尼藍婆(にらんば)、毘藍婆(びらんば)といい、一木造である。

杉木立が古色蒼然とした、毘沙門堂の境内の静寂のたたずまいのなかに、
西側に熊野神社がある。毎年、9月19日、満1歳の長男を「にらめっこ」させ、
初めに泣いた方が負けという「泣き相撲」が行われ、南・北の成島地区が
豊作を祈願し占う行事でにぎわう。

境内から土管が発見され、水道遺跡として注目される。
土管の内面は布目で、中世の作と考えられている。

この地区は、藩政時代から「成島和紙」を生産し、現在は青木家一軒のみが
伝統を受け継いでいる。毘沙門山のふもとに工芸館があり、その工程を披露
している。

なお、土沢駅から国道283号線を横切って、毘沙門にむかう途中の丘陵上には
中世の安俵(あひょう)城跡がある。最後の領主は安俵玄蕃忠秀で、
1591(天正19)年の和賀一揆の首謀者である。

丹内山神社は安俵郷の中心であった。  ← No.39で既出

   ☆       ☆       ☆

この兜跋毘沙門天像の複製は岩手県立博物館の入ったところのホールに
展示されている。
オリジナルの方が古くて実感があり、昔からの建物に窮屈そうに入っているので
より大きく感じる。

次回からは民俗の里 遠野です。

岩手県の歴史散歩  その41
   とおの
   遠野市立博物館

JR遠野駅下車5分

遠野駅を下車すると、駅前広場に 遠野物語の碑 が民俗学のメッカを象徴する
ように立っている。
遠野物語は、遠野(土淵)出身の佐々木喜善(きよし)が土地の古老から
集めた民話や伝説を民俗学者の柳田国男が聞き書きしたもので
これが日本民俗学の最も記念すべき最初の文献(碑の裏側にある
建碑の由来の一節)となった。
碑は、遠野物語出版65周年を記念して、1971(昭和46)年に建てられた
ものである。

駅から直進する道を中小路といい、仲町・一日市(ひといち 旧国道283号線)
を横断し、来内(らいない)川にかかる大手橋を渡ると、右手に市民センター、
左前方にレンガ色の遠野市立博物館が見える。図書館が併設されており、
博物館で見たものをすぐ図書館で研究できるようになっている。

博物館は、3つの展示室により構成され、第1室は「遠野物語の世界」、
第2室は「遠野の自然とくらし」、第3室は「遠野の民俗学」をテーマとして
工夫をこらした展示がなされ、遠野物語の世界を堪能させてくれる。

博物館から大手橋に戻ると、来内川の河畔に、遠野物語誕生の経緯・昔話や
その背景を広く紹介する施設として、とおの昔話村がある。
柳田国男が1908(明治41)年に来遠した時宿泊した旧高善(たかぜん)
旅館を移築した柳翁宿(りゅうおうじゅく)、造り酒屋の蔵を活用して
昔話の世界を紹介している物語蔵などがある。

   ☆       ☆       ☆

柳田国男は伊良湖岬で、南方から海流によって運ばれてきた椰子の実を見て
日本民族の南方移住説を思いついた。
この話を柳田国男から聞いた島崎藤村は漂白の自分を椰子の実になぞらえ
名歌椰子の実を作った。
 名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ
  .........
 いずれの日にか国に帰えらん。 

椰子の実を見ても、民俗学者は日本人の祖先のことを考え、
詩人はさすらいの旅のはてに故郷に戻ることを夢見る。

遠野ヘ車で行くときには、上に書いた来内川のたもとの市民センターに
車を停めると無料です(日曜日)。
関係ないけど秋田県横手市の市役所駐車場も日曜日はただです。

岩手県の歴史散歩  その42
>遠野の博物館を見終えたら,背後の鍋倉城跡(だったと思う)にのぼって
>見ることをおすすめします.

小野寺先生に先に書かれてしまったので、すぐ書きましょう。
(これは予定どおりの書き込み)

 なべくら
  鍋倉城跡

JR遠野駅下車10分

市立博物館の後ろの小高い山が鍋倉山で、この山に典型的な中世末期の山城
そして遠野南部氏の居城であった鍋倉城跡がある。
来内川が内堀の役目を果たし、物見山が背後を守る天然の要害である。
鍋倉城が築城されたのは、天正年間(1573〜1592)で、時の領主
阿曽沼広郷(あそぬまひろさと 阿曽沼氏13代)が松崎町にあった横田城を
鍋倉山に移した時である。

1601(慶長6)年阿曽沼氏が滅亡した後、盛岡藩初代藩主南部利直(としなお)は、
阿曽沼氏の旧領である遠野12郷を東西に分け、東半分(沿岸地方)を大槌氏に、
西半分(内陸地方)は横田城に城代を置いてそれぞれ統治させた。
その後、遠野は仙台藩と境を接する重要な地で、また阿曽沼氏の旧臣で南部氏に
不服をもつ者などが多く、治安が乱れたため、利直は1627(寛永4)年に
一族で当時八戸にいた南部直義(なおよし)を遠野に移封した。
直義は1万2500石の領主となり、横田城を修築して居城とし、名も鍋倉城
と改めた。

     ☆      ☆      ☆

この城跡は散歩にもちょうどよく、私の行った時は ウスバシロチョウが
フワフワとたくさん飛んでいました。

盛岡ー八戸ー遠野 とみな南部藩のゆかりの町でした。
これに花巻や三戸を加えると昔の南部藩の主な城がそろってきますね。
(旧伊達藩の一関や水沢のみなさん ごめんなさい)

岩手県の歴史散歩  その43
 ちおんじ
  智恩寺

JR遠野駅下車10分

市立博物館から市民センターを左に見て来内川に沿って進み、
旧国道に合流した所で左折すると、ほどなく智恩寺(日蓮宗)に着く。
1889(明治22)年開山の新しい寺院だが、日蓮宗東北総本山になっている。
遠野南部氏の始祖波木井六郎実長(はきいろくろうさねなが)は、日蓮に帰依して
身延山(みのぶさん)を寄進し久遠寺(くおんじ)を創建、
日蓮宗に大きな功績を残した。
1946(昭和21)年、実長650年遠忌にあたって「北身延」の公称を許され、
山門はその報恩事業として造営されたものである。
旧国道をさらに進むと、遠野地方では最も古い神社と伝えられている多賀神社
(祭神 伊弉諾いざなぎ尊)がある。

     ☆      ☆      ☆

イザナギ イザナミは
鯨(イサ)に関連がある
日本のクジラ文化は伝統のもの
とは岩手大学から天理大学に転出された
日置孝次郎先生の研究

イサナ捕り を書いたのは長野在住の外国人ながら
日本の鯨食文化の理解者

古代の国引き伝説も、鯨を島に見立てて、捕った鯨を引き寄せることの描写とか。

岩手県の歴史散歩  その44
 ずいおういん
  瑞応院

JR遠野駅下車10分

一日市(ひといち)の商店街を西に大工町方面へ歩くと寺院地区がある。
これは、城下町の形成にあたり、西側から外敵が攻めてきた時の防御線の役割を
果たさせようとした意図から生まれたものである。
大工町につきあたり左に折れると、右側に瑞応院山門へ通ずる路地がある。
瑞応院(臨済宗)は、1653(承応2)年初代遠野南部氏直義により
建立されたもので、盛岡市北山の聖寿寺(しょうじゅじ)の末寺にあたる。
1651(慶安4)年盛岡の松井家に嫁いでいた直義の娘、万(まん)が27歳で
亡くなり、盛岡の聖寿寺に葬られて瑞応院と称したが、直義の娘に対する情は
絶ちがたく、遠野に改装されることになり、聖寿寺の沢室(たくしつ)和尚を
招いて開山とした。

瑞応院へは殿様がしばしばお成りになるため、本堂には本格的な書院造様式が
採用されている。廊下内陣の鴬張りや、書院造の「お成りの間」と近侍の間
などがそれである。
また本堂欄間の双竜と天女の彫刻は開創当時のもので、桃山文化の様式を伝えて
いる貴重なものである。

     ☆      ☆      ☆

殿様の訪問する寺院や建物は
警備の都合を考えて
わざわざ忍びのものが侵入したら音がする
鴬張りにするらしい。
大工の未熟ではない。

岩手県の歴史散歩  その45
 にいさと
  新里の五百羅漢

JR遠野駅バスセンター行終点下車15分

バス停から進行方向に徒歩3分で、愛宕(あたご)神社参道口に着く。
この神社は、鍋倉城の鎮守社で搦手(からめて)の守りを果たした。
ここからは遠野市街と猿ケ石川が一望できる。

愛宕神社左手の小道を350mほど進むと五百羅漢の入口に着く。
さらに50m急坂を上ると、羅漢像が苔むした花崗岩に線刻されているのが目に
入る。
これは大慈寺19世義山和尚が、天明年間(1781〜89)遠野地方の
たび重なる凶作で餓死した人たちを供養するために大小500の自然石に
羅漢像を読経しつつ刻んだものである。
南部藩4大飢饉の一つに数えられる宝暦の飢饉は、遠野の人口を4分の1ほど
減少させた大規模なものであった。現存する約380体の羅漢像は、
農民の苦闘を今日に伝える貴重な遺構である。

     ☆      ☆      ☆

ATM 総合情報処理センター などの計画で忙しいですが
暇を見つけて このシリーズを続けます。

教祖とは リーダーとはが問われている この頃です。

岩手県の歴史散歩  その46
 あそぬまし
  阿曽沼氏の旧跡

JR遠野駅バスバスセンター行終点下車35分

五百羅漢から猿ケ石川にかかる愛宕橋を渡り、右手に進み釜石線の踏切を渡ると
遠野バイパスに出る。
このバイパスを遠野市内方面に進むと光興寺橋が猿ケ石川にかかっている。
この橋の手前で左に折れ直進すると左側の山手に、中世遠野を治めた阿曽沼氏の
初代親綱(ちかつな)の勧請になる諏訪神社と清心(せいしん)尼の墓がある。

清心尼の墓は、基壇の上に半円形の自然石を置いた素朴なものである。
清心尼とは、八戸南部氏20代直政の夫人で、29歳で実子がないまま未亡人と
なった。そこで直義を養子とするまで政務をとるとともに、直義が遠野に移封
された後は直義が盛岡にいたため、実際の領国経営にあたった。
封建時代には異例の「女殿様」であった。清心尼は1644(正保元)年に没し、
霊は菩提寺の大慈寺に葬られたが、墓だけが現在の地に移されている。

道をさらに進むと、左側の高台に阿曽沼氏の墓と伝えられる2基の五輪塔が、
阿曽沼公歴代の碑とともにある。
この五輪塔は、ここから出土したもので、そのまま復元したといわれているが、
銘文がなくいつのものかは不明である。
阿曽沼氏は平安時代の末期、平氏全盛の頃、足利有綱(ありつな)の子
広綱(ひろつな)が下野(しもつけ)国阿蘇郡の浅沼村に城を築いて
阿曽沼と称し、ついで源頼朝氏の奥州征伐に従軍した功績で遠野十二郷の地頭
となった。広綱の2男親綱が遠野の領主となって、阿曽沼氏の時代が始まった。

この道をさらに進んだ左側の護摩堂山(ごまどうやま)には、
阿曽沼氏の居城横田城跡がある。
西背に高清水山を負い、正面に平地と猿ケ石川を置き、周りに堀を掘り、
中世の山城として最高の形状であったが、城下町は洪水に侵されやすく、
そのため最後の城主広郷(ひろさと)は鍋倉山に城を移した。
彼は豊臣秀吉の小田原参陣命令を無視したため、領地を没収され、
三戸にいた南部氏の輩下に格を下げられ、1600(慶長5)年徳川家康の命で
会津城へ出陣した留守を家臣にそむかれ、鎌倉時代以来約400年の
阿曽沼時代は終わった。

     ☆      ☆      ☆

遠野には色々見るところがあるが、あとは伝承園とカッパ淵だけにします。

さて話題は変わって
本題には全然関係ないのですが、
本日は塩辛いものを食べたせいか お茶か水が飲みたい。

その昔 大浜海岸で水泳を教えてくれた体育の先生が
初心者はつい海水を飲んでしまうから、中和するために
というわけで、我々に飴ダマをくださった。

体育の先生のお言葉「中和」の意味は本来の化学の意味ではないが、
日本語としては、わかるわかる というわけで あの飴ダマは美味しかった。
そういうわけで私は、これから甘いコーヒーを飲むことにする。

高校生の時に理科で化学を取らなかったので、無機も有機もわかりません。
生物、物理、地学を選択したのです。

建設環境工学科において
構造力学では
 状態1+ 状態2 = 求める構造の状態
コーヒー  ミルク   カフェオレ
ウィスキー 炭酸水   ハイボール
という物理学の世界 「重ね合わせの原理」を勉強しますが

化学では
 酸 + アルカリ = 塩
という超変化の世界です
(私にはついていけない)

岩手県の歴史散歩  その47
   伝承園

JR遠野駅バス桑原行伝承園下車1分

伝承園は、遠野の民俗・歴史研究に欠かせない施設・体験学習の場として
建てられたものである。

この地(土淵)出身で「遠野物語」の話者・民俗研究家でもあった
佐々木喜善の資料と彼をとりまく人々との交流の資料が展示されている
佐々木喜善記念館、1974(昭和49)年岩手県が実施した民家緊急調査で
見いだされ移築をみた、築造年代が18世紀中頃を下らないと推定される
曲り家旧菊地家住宅(国重文)、
娘と馬の恋物語で知られる おしらさま500対を展示した
御蚕神堂(おしらどう)、民芸品や機織りの製作実演が行われる工芸館
などがある。

     ☆      ☆      ☆

この伝承園は 留学生の研修旅行に参加して行ったことがある。
日本語教師の岡崎先生、現在学生部に戻ってきた佐々木さん等
当時の旅行を思い出すと楽しい。

御蚕神堂は一種、独特の雰囲気のする建物だ。
ここで蚕の生きている姿を見た。
動かないので最初は標本かと思ったのだが、
ゆっくりと動くので、ああ生きているのだと思った。
蚕も人間に飼われてすっかりマイペースになってしまったのだろうか。

岩手県の歴史散歩  その48
  じょうけんじ
    常堅寺とカッパ淵

JR遠野駅バス大出・桑原行伝承園下車5分

伝承園のすぐ北、早池峰(はやちね)古参道の入口に朽ち果てた鳥居と
「早池峰大明神」「金比羅大権現」の碑がある。

ここから右折し直進すると、1490(延徳2)年開山の常堅寺(曹洞宗)
がある。山門の仁王像は、早池峰妙泉寺の山門にあったものを
1878(明治11)年神仏分離のため移したもので、
嘉承年間(848〜851)慈覚大師の作と言われている。
境内左手の十王堂の前に一対の狛犬(こまいぬ)があるが、
これがカッパ狛犬で頭部がくぼみ水が貯えられるようになっており、
非常に珍しいものである。
本堂には、疫病をなおすオビンズルさま、道元禅師の木像がある。

常堅寺の左手を流れる小川を足洗(あしあらい)川といい、ここを渡った所を
八幡沢の館という。今なお堀や的場の跡がある。
近くにカッパ神を祀っているカッパ淵がある。

     ☆      ☆      ☆

留学生の研修旅行で伝承園に行ったとき
どうして近くのカッパ淵に寄らなかったのだろう
その疑問は今年になって自分で始めて行って納得した。

とてもカッパが生息するような場所ではない。
あまりにも開放されすぎていて
しかも小さな小川になっている。
むしろ盛岡市内でも周辺の沢などでは薮がうっそうと茂り
今にもカッパの出そうな場所がある。

あの時の佐々木さんのガイドは妥当だった。

常堅寺の仁王像が守る山門をくぐると一対の狛犬がにらんでいる。

通常日本では狛犬は神社
もともとの中国ではライオンから発生した唐獅子は佛教寺院のガードマン
(立派なホテルの前にも置かれているが)
(たしか東京の中国大使館の前にも一対の見事な獅子がいた)
中国から朝鮮半島を伝わって、どこでどうなったのか 
日本では現在神社に狛犬がいる。

奈良東大寺、京都清水寺は仏教寺院だが唐獅子が守っている。
遠野には福泉寺という寺があるが山門も中国風だけあって唐獅子もあった。

岩手県の歴史散歩  その49
朝一番の講義の前なので
簡単に

稲荷穴洞窟遺跡

JR岩根橋駅バス白石行終点下車60分

釜石線岩根橋駅から達曽部(たつそべ)川に沿って県道達曽部ー岩根橋線を
4km程行くと、国道396号線と交差する。
ここからさらに県道土淵ー達曽部線を11kmほど進むと
大麻部山南麓に稲荷穴鍾乳洞がある。
ここから縄文時代前期の土器群が出土し、稲荷穴洞窟遺跡と呼ばれている。
この鍾乳洞は1万年以上前に形成されたものといわれるから、
縄文時代の生活を推定することができる。

     ☆      ☆      ☆

洞窟から流れ出る水はつめたい
この近くの手打蕎麦は隠れた名物

薮先生のコメントはいかに

岩手県の歴史散歩  その50
 あらや  おともきんざん  
  新谷番所跡と小友金山

 ますざわ  にざわ
JR鱒沢駅バス荷沢峠行荷沢下車2分

遠野は仙台藩との境にあるため、盛岡藩では境界警衛のため番所を置いていた。
猿ケ石川沿いの道には遊井名田(ゆいなた)番所(宮守村鱒沢)、
江刺郡との境には五輪峠に対して鮎貝(あゆかい)番所(小友町)、
気仙郡との境には、荷沢峠に対して新谷番所、赤羽根峠に対して赤羽根番所
(上郷町)が、それぞれ設けられていた。
この4カ所のうち、新谷番所だけが現在まで遺構を残している。
 新谷番所は、元和年間(1615〜24)から明治維新まで、
代々世襲をもって管理・維持されてきたものである。

小友が盛岡・仙台両藩の境界として重視された理由の一つに、
ここから大量の砂金が産出したことがあげられる。
小友金山と総称され、慶長年間(1596〜1615)に大産出があってから
世間の注目をひいた。
1628(寛永5)年、仙台藩気仙郡有住(ありす)の小股内膳が掘子をひきつれ、
大挙藩境を越え、仙台藩の鉄砲隊に守られながら赤坂山金山を盗掘したため、
盛岡藩でも、新谷番所を預かる新谷帯刀(あらやたてわき)に守らせ、
鉄砲隊を繰り出して対抗した。結局この事件は双方から役人が出張して
折衝した結果、盛岡藩の言い分が通ったが、その後もしばしば双方から
盗掘の訴えがあった。
このため遠野と気仙の境を改めて設定することになったが、藩境塚が築かれたのは、
この事件から14年後の1642(寛永19)年のことであった。

   ☆      ☆      ☆

気仙は もちろん
キセンではなく ケセンですね。

次回から北上市です。

   つぎへ    はじめにもどる