札幌農学校とクラーク

ケプロンから、農業を専攻する日本人留学生の受け入れ先として
マサチューセッツ農科大学を紹介された駐米少弁務使の森有礼は
大学を訪れ、クラークの案内で農場や学内施設を見学したことがきっかけで
札幌農学校の創設とクラーク学長の招聘構想が浮上した。

クラークはマサチューセッツ農科大学の卒業生であるホイラー(土木工学、数学担当)
とペンハロー(植物学、化学担当)を伴って札幌に来た。
米国の学長の時の年俸4250ドルに対して、札幌農学校の年俸は7200ドル
であった。彼は日本から約5000ドルの金を米国の家族に送金したという。
クラークは1876年7月31日に札幌に到着し、8月に札幌農学校の開校があり、
わずか8ヶ月半後の翌年4月16日には札幌を去っている。
しかし、彼の日本に残した影響は、はかりしれないものがあった。
彼が直接教えたことのない第二期生の内村鑑三や新渡戸稲造にしても
クラークの影響が大きく残っていると言えよう。

クラークは米国に帰ったが、それからが大変だった。
マサチューセッツ農科大学の運営に関する地元の無理解と
メディアによるクラーク学長の放漫財政批判であった。
大学の経営に疲れたクラークは帰国して2年後の1879年に大学を辞職した。
2年かけて世界一周して見聞を広めながら教育する「洋上大学」を企画したが、
それも参加者が期待通りには集まらず中止となった。
鉱山関係の投機的事業に手を出して、7つの鉱山を買い取り、多額の出資金を
集めたが、共同経営者の杜撰で不透明な経営により倒産してしまう。
かくて、クラークの輝かしい過去は忘れ去られ、病気になって
(彼の人生はまさしくアンビシャスであった)

クラークが初代学長として心血を注いだマサチューセッツ農科大学は
現在マサチューセッツ州立大学アマースト校となっている。
米国ではほとんど無名の存在にすぎないクラークの痕跡を示すものはほとんどない。
わずかに、図書館にクラーク関連の文書が保存されているだけで、
構内に「クラーク記念公園」があって、北海道大学との共同で造られた
モニュメントが立てられている。