シユレーヤ先生の思い出、ドイツ語会話の先生

ドイツ留学にそなえて、ドイツ語会話の勉強をしました。
最初は岩手大学のドイツ語の先生であるスイス人の神父さんに
ドイツ語会話を教えてほしいと頼んだのだが、
1人では教えない、学生を数名連れてきなさいと言われ実現できなかった。

義父が師範学校時代に英語の先生だった、シュレーヤ先生のことを
話してくれた。義父は英語力をつけるため、善隣館のクリスチャン・スクール
に通って英会話の勉強をしたという。

シュレーヤ夫妻はアメリカ人だが先祖はドイツ人だから
家庭でもドイツ語を話すことを教えてくれた。
(クリスチャン・スクールの受講生に英語で話をするのだが、
夫妻のないしょ話はドイツ語だったとか)

そして義父の紹介で、当時生活学園短大の寮に隣接していた
シュレーヤ夫妻の住居に毎週夜に通って会話の勉強をした。 シュレーヤ先生宅
善隣館時代のシュレーヤ先生の家

シュレーヤ夫妻はギルバート氏とコーネリア夫人で、米国オハイオ州
ニューナックスビル出身。1930年に盛岡に宣教師として赴任して以来
50年以上も盛岡市民のために布教活動をするかたわら、幼稚園教育や
婦女子教育も行ってきた。

シュレーヤ夫妻はキリスト教センター善隣館の創始者で、彼らの住んでいた
建物が、今も盛岡の歴史的建築物として保存されている。

二人とも博士で、生活学園は後に盛岡大学になったが、それらの大学の教授
だった。

夫妻には娘が2人いて、どちらも日本国内のアメリカ人宣教師に嫁いでいる。
長女エブリン・クレーラさんが、新聞に出ていたので紹介します。

会津高田にいるエブリンさんが最近、善隣館創設時に開館した泉幼稚園で
撮影した、およそ67年前の記念写真を見つけて、写真に写っている同園生
で盛岡に今も元気に暮らしている人がいたら、連絡を取り、旧交を温めたいと
話しているとのこと。
(盛岡タイムス 1998年2月16日)

この新聞には、コーネリア夫人を囲んで22人の園児と4人の着物姿の
先生の記念写真が載っている。この写真の中にもちろん、エブリンさんも
写っている。
シュレーヤ先生宅

シュレーヤ夫妻は数年前に死亡したが、私はドイツ留学を終えてから
報告とお礼を言ったことがある。

アメリカ人といってもドイツ系であることを誇っているようで、
シュレーヤ先生はドイツのカメラ「ライカ」の自慢をしていた。

また、イギリスの歴史を話してくれて、イギリス人の先祖はローマの兵士
としてブリテン島に乗り込んだゲルマン人であって、
いわば、イギリスはドイツ人の先祖が作った国である
ことも教えてくれた。

だから、英語とドイツ語は兄弟関係にある。
ドイツ語を話していたイギリス人の先祖は、フランスのノルマン王朝に
200年もの間支配され、貴族や官僚はフランス語を話し、庶民はドイツ語を
話すという二重言語体験を通じて、やがて現在の英語ができたという
英語研究者にはおなじみの話である。

シュレーヤ夫人は日本語も上手だったが、シュレーヤ先生の方は
50年以上も盛岡に住んでいても日本語は下手だった。
長く住んでいても、その国の言葉を使わなければ上達しないものである。
言葉は得手不得手があるのかもしれない。

太平洋戦争の時、アメリカ人で宣教師という身分は、当時の警察にマークされ
シュレーヤ先生はスパイの容疑で調べられた。
長年にわたって盛岡市民のために尽くしてきたのに、夫妻の残念な気持ちは
おさえることができず、夫人は後に自伝書を書いているが、
その中で遠慮なく当時のことを述べている。

私が生前、シュレーヤ先生から聞いた話であるが
ここに書いておきたいことがある。

アメリカ人が盛岡で生活することは困難になってきた。
結局、夫妻は戦争中はアメリカに帰国して、敗戦後に再び善隣館に戻ってきた
のであったが、留守中にシュレーヤ先生の出生証明書が紛失したことが
生涯の心残りであるという話を聞いたとき、何と言ってよいかわからなかった。
日本人であることが恥ずかしかった。
羊の皮に書かれた大事な出生証明書、それはどこにいったのだろう。
夫人の出生証明書は残っていたそうだ。
  シュレーヤ先生宅(4月なので樹木の葉がない)       こちらも       説明板       こちら5月