プロイセン


さて、プロイセンについての調べたメモを書いておきます。
まず結論として
バルト海の(ドイツ人ではない)プロイセン人の住む地域を
支配するようになったドイツ人が、
結局
ホーエンツォレルン家のプロイセン王国を作り
それがベルリンの発展のもとになった。
一般にドイツ史では、プロイセンといえば鉄血宰相ビスマルクのドイツ帝国を
さすでしょう。
(スバリさすでしょう 丸尾君調)

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プロイセン語はバルト語派に属する一言語。
この語派のグループではリトアニア語とラトビア語が現存する。
この言語が話されていた東部プロイセンで、
13世紀にドイツ騎士団がこの地を征服してゲルマン化が進んだ。
だから、プロイセンはもともとはプロイセン語を話すプロイセン
人(バルト人の一派)の地である。
それがしだいにドイツの地と考えられるようになった。

プロイセン人はキリスト教の布教を受け入れず、殉教者が出たので、ポーランド王
プロイセン人をキリスト教化させるためにドイツ騎士修道会を招致した。
占領地の支配権を約束された騎士修道会は、がんばって半世紀もの激しい戦闘を
行い、プロイセンを征服した。
そして、それには皇帝・教皇の支持があった。

こうして
ダンチヒ(映画 ブリキの太鼓)や
ケーニヒスベルク(現カリーニングラード カントの町)をはじめ
多くの都市には計画的にドイツ人農民の入植を行わせ、
ハンザ商業圏とは穀物輸出を通じて結びついて
経済的にも大いに繁栄した。

【いまポーランド領となっている地域には、バルト三国などの先祖の異教徒が
住んでいたので
ポーランド王はドイツ騎士団に頼んで植民地化して、結局ポーランドのものにした
(と当時苦労したドイツ騎士団は言うかもしれない)】

やがて
ドイツ騎士修道会による領邦経営の独占は
都市や地方貴族の不満を招き
彼らはポーランドに支持を求めるようになる。
そして、ポーランド王は戦闘でドイツ騎士団から土地支配権を奪う。

それからいろんなことがあって
結局ドイツ騎士修道会総長のホーエンツォレルン家のアルブレヒト
は組織を改め王の良い子となって
ポーランド王から封土として授与され、プロイセン公国を作る。

その子孫にあたるブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントが
プロイセン公国をも相続することになる。

その子孫のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(在位1688‐1713)は
スペイン継承戦争のとき
オーストリアを支持するという交換条件で
皇帝からプロイセン公国を王国に昇格させる認可を獲得した。
つまり、プロイセン王フリードリヒ1世となったわけだ。
そのとき王号がブランデンブルクではなくプロイセンにしたわけは
ブランデンブルク選帝侯だと形式的に神聖ローマ皇帝の家臣となるわけで
プロイセン公国なら帝国の外部にあり、この領域の選帝侯として完全な国家主権
をもつことになるからといわれる。

これ以後
ホーエンツォレルン家のブランデンブルク・プロイセン国家は
しだいにプロイセン王国と呼ばれるようになる。

そして有名な3代目のプロイセン王フリードリヒ2世大王(在位1740‐86)は
オーストリアからシュレジエンを奪い(オーストリア継承戦争)、
さらに七年戦争の危機をも乗り切って(大ピンチだったのに)、
プロイセンをヨーロッパ列強の地位に高めることに成功する。
1772年の第1次ポーランド分割を通じて、
西プロイセンも東プロイセンもみんな自分の領土にしてしまう。
あとは世界史のとおり。

このフリードリヒ大王はオーストリアの女帝マリアテレジアと戦争をするのだが、
どうも求婚して受け入れられなかった腹いせに
徹底的に彼女と戦争をしたと思うのは、私の思い過ごしだろうか。
彼女と結婚していれば、世界史は全然別のものとなった(?)

したがってベルリンの王家の宝物等は第2次大戦のとき、南ドイツの
ホーエンツォレルン城に一時疎開した。ベルリンが再び統一ドイツの首都となって
それらはベルリンに戻されたのだろうか。