基礎ドイツ語

第25巻第1号−第12号(昭和49年5月−昭和50年4月)

プロイセンの騎士団国家
              成瀬 治

18世紀いらい Habsburg[ハープスブルク]
家のオーストリアと競合しつつ絶対主義的
官僚国家をうち立て、やがてビスマルクの
新しいドイツ帝国の中核となった Hohen-
zollern[ホーエンツォラーン]家のプロイセン
王国が発足したのは、1701年のことでし
た。この年の1月、バルト海に臨むプロイ
セン公国(Herzogtum Preussen[ヘルツォ
ークトゥーム プロイセン])の都市 Koenigs-
berg[ケーニヒスベルク]で、ブランデンブ
ルク選帝侯 Friedrich[フリードリヒ]III.
が自らの手で王冠を戴き、プロイセン王
(Koenig in Preussen) Friedich I. の称号
をおびたのです。この事件の背後には、い
まやスペイン継承戦争がはじまろうという
緊迫した国際情勢のもとに、 Habsburg 家
の神聖ローマ皇帝が、Hohenzollern 家の
ブランデンブルク選帝侯をフランス王ルイ
14世から引き離して自分の陣営に加わらせ
ようという、政治的な思惑が強くはたらい
ていました。それにしても、なぜこのとき
フリードリヒが「ブランデンブルク王」を
名乗らず、プロイセンといういまひとつの
領域を王号の基礎として選んだのか。この
点を掘り下げてゆくと、われわれは中世か
ら近世にかけてのドイツ史における、ひと
つの興味深い問題につきあたります。

もともと Preussen(古くは Prussen)と
は、Weichsel[グァイクセル]河の下流右岸、
Memel[メ―メル]河にわたるバルト海沿岸
地域に住んでいた一部族の名で、これはイ
ンド=∃−ロッパ語族のバルチック支族
(リトアニア人などと同系)に属しますが、
かれらはポーランド人その他の西スラヴ諸
族がカトリシズムに帰依したのちも、頑強
にキリスト教の受容を拒んできました。と
ころが1226年、ポーランドのMasovien 侯
Konrad が、当時ヴェネチアに本部を置い
ていたドイツ騎士団を招き、プロイセン人
の征討とキリスト教化を委任するにおよん
で、ついにこの異教徒も軍門に降り、ここ
に騎士団国家プロイセンというユニークな
支配領域がうち立てられたのです。「ドイ
ツ騎士団」(Deutscher Orden [ドイチャー
オルデン])とは、十字軍時代に結成された
いくつかの宗教騎士団のひとつで、僧侶と
騎士の両者から構成されていましたが、騎
士メンバーも「清貧、貞潔、服従」という
修遠士的戒律にしたがう点では僧侶と変り
ありませんでした。このためドイツ騎士団
国家は、封建制の時代には珍らしく、統治
方式の上ですこぶる官僚制的な性格を示
し、全国を Komturei[コムトゥーライ]と
いう管区にわけて行政を合理化しつつ、無
私な勤務の精神にもとづく精力的な活動に
より、急速にその勢力を拡大してゆきま
す。とりわけ貿易のさかんなハンザ都市
Danzig  を含む Weichsel 左岸の重要な地
域 Pommerellen を獲得したことから、プ
ロイセン人という概念は以前よりずっと広
い意味をもつようになりました。

これは、たんにこの新領域に西スラヴ人
やドイツ人入植者が住んでいたからにとど
まらず、騎士団自身が国土開発のため、12
世紀いらいさかんに進められていたドイツ
人の東方植民の波に乗って、多くのドイツ
人を招致し、新しい都市や農村の建設にの
り出したためでもあります。そのさい騎士
団当局は、貴族・市民・農民の別なく入植
ドイツ人に世襲的な土地保有権を与え(こ
れに反し原住プロイセン人は1260年の大反
乱を契機に、殆どが劣悪な地位におし下げ
られてしまいました)、村落から徴収される
定額の地代や、余剰穀物の西ヨーロッパへ
の輸出などで国家財政をまかない、1309年
に騎士団長 Hochmeister[ホーホマイスター]
がヴェネチアからプロイセンの Marien-
burg[マリーエンブルク]に本拠を移して以
来、14世紀に全盛期を迎えますが、この時代
にはまた行政上の権力が著しく騎士団長に
集中し、貴族や有力市民との間に政治的な
対立が生じてきました。かかる状況のもと
で15世紀初頭、ポーランドとの間に戦争が
おこり、1410年の Tannenberg[タンネンベ
ルク]の戦で騎士団が大敗北を喫すると、
地方貴族や市民はこの政治的危機を自己の
特権拡大に利用し、1466年のThorn [トー
ルン]平和条約でWeichsel 左岸の西部プ
ロイセンなど豊かな領域がポーランドに併
合されるのに自ら力を貸す一方、社会的に
はこの頃から地方貴族による封建的な農民
支配が強まり、いわゆる Gutsherrschaft
[グーツヘルシャフト](農場領主制)が形成
されてゆきます。

ドイツ騎士団の手にのこった東部プロイ
センも、この条約でポーランド王の宗主権
の下に置かれてしまいますが、16世紀はじ
めに騎士団長に選ばれた Hohenzollern 家
の Albrecht[アルプレヒト]は、1525年に
ルター主義の宗教改革をおこない、ここに
騎士団国家から世俗領たる「プロイセン公
国」への転換がなしとげられたのです。も
ともと南ドイツの Franken 地方に本領を
もち、1415年に皇帝からブランデンブルク
選帝候に封ぜられた Hohenzollern 家と新
しいプロイセン公家とは、したがって親戚
関係にあったわけで、その結果、1618年に
プロイセン公家が断絶するとともにこの国
はブランデンブルクに統合された。しかも
17世紀後半、「大選帝侯」の名で知られる
Friedrich Wilhelm が、スウェーデンとポ
ーランドの争いにうまく便乗して、プロイ
セン公国に対するポーランド王の宗主権を
とり除くことに成功(1660)したため、こ
の領域は、ブランデンブルクのように神聖
ローマ皇帝との間の知行関係をもたない、
完全な主権国家になったのです。 1701年の
プロイセン王戴冠の歴史的意味は、まさし
くこの事実からこそ正しく理解されるであ
りましょう。こんなわけでまた、18世紀に
発足したプロイセン王国は、最初から
Habsburg 家の皇帝オーストリアに対する
自主性の意識をになっていたといわねばな
りません。
(9月号)

             

 

 

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