ハノーファー
ハノーファー Hannover
ニーダーザクセン州の州都。
歴史的にはライネ川にのぞむ市場町として12世紀末ころから発展した。
1241年にブラウンシュヴァイク公の下で都市権を認められた。
14世紀には自治都市としてハンザ同盟にも加わり、経済的にも繁栄したが、
三十年戦争で打撃を受け、政治的自立性も失った。
1636年ブラウンシュヴァイク公が王宮をここに移しも以後ブラウンシュヴァイク公
(一般にはハノーファー公と呼ばれる。1692年選帝侯の資格を得る)の宮廷都市
として発展する。
1714年ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス国王ジョージ1世となり、
以後1837年までハノーファー選帝侯国(1814年王国)とイギリスとの間に
同君連合の関係が続いた。
1866年ハノーファー王国はプロイセンに併合され、1945年までプロイセンの地方行政都市の
地位に甘んじたが、ハノーファーの工業化はこのプロイセン時代に行われた。
北ドイツを東西に貫くミッテルラント運河が市の北部近郊を通って建設され、
1916年ハノーファーが内陸港によってそれと結ばれたことは、この町にとって
重要なことであった。
この地の言葉が標準ドイツ語ということになっている。
したがって、町で聞くドイツ語のひびきはよい。とても美しく聞こえる。
今年2000年にはハノーファーで万博がある。日本館は紙製。
ハノーファー朝
イギリスの王家の家系が途絶えたから、新教徒であるハノーファー選帝侯の長子
ゲオルク(ジョージ1世)が招かれて、イギリス王位を継承した。
この王朝の流れをくむのが、現ウィンザー家のエリザベス2世(在位1952‐)となる。
あの音楽家ヘンデルは1710年25歳のとき、ハノーファーの宮廷楽長に招かれるが、
その地位のままロンドンへ出かけ、イギリスでも活躍。
ところが、1714年ドイツにいた主君のハノーファー選帝侯がジョージ1世として
イギリス国王となって彼の目の前に現れたから大変。
おっかけ王様ではないのだが。
ジョージ1世はイギリス王(在位1714‐27年)。
ドイツのハノーファー選帝侯とイギリス王ジェームズ1世の孫娘ソフィアとの間に生まれ、
1698年、父の死にともない選帝侯を継承。
1701年、イギリスの王位継承法*によって母のソフィアがウィリアム3世とアンのあとの
イギリス王位継承者に指定され、ソフィアが1714年6月に没したため、
同年8月のアン女王の死後に、ジョージ1世がハノーバー朝初代王として即位した。
(*1701年にジェームズ2世やその子孫の復位を阻止する目的でつくられた
王位継承法の規定)
彼は即位前、ハノーファー選帝侯としてスペイン継承戦争にも従軍し、
また北方戦争の進展にともなう北ヨーロッパの動向にも大きな関心を寄せていた。
ホイッグ党が議会と行政府の実権を掌握しているイギリスの政治に、
54歳で招かれて即位した王はあまり関心を抱かず、
国政をみずから任命した大臣たちに一任するようになった。
イギリスの責任内閣制度の発展に影響を与えた。
ハノーファー王朝家系図
名誉革命