国境断想 その3
平尾浩三
8月号で紹介したトーマス・マン(Thomas Mann)の言葉は,ドイツからスイスに
はいったときのマンの印象を語ります。今回は逆に,スイスからドイツヘ旅した
ある若者のことを書きましょう。スイスの生んだ大作家ゴットフリート・ケラー
(Gottfried Keller)の代表作「緑のハインリヒ」(Der gruene Heinrich)の中で、
主人公は画家としての修業をつめために、故郷を去ります。
「...それからおよそ五時間ばかりのちには,私の乗った馬車は長い木の橋を
渡っていた。戸口からのり出してみると,大きな河が下を滔々と流れている。
緑に澄んだ水は,岸の崖をおおうぶなの若葉や紺碧の五月の空を映して,
すばらしい青緑の光を放っている。
私は魔法のような光景に心を奪われてしまって,その眺めがまたたくまに過ぎ去り
「いまのがラインですよ」という声が聞えたときになってようやく,胸にはげしい
動悸をおぽえたのである。
いまこそ私は,ドイツの大地にいるのだ。いまこそ,私の青春を養ったあの書物たち
の言葉を,私のもっともなつかしい夢を育てたあの書物たちの言葉を、話す権利と
義務が,私には与えられたのだ。
この越境ももとを正せば,古いアレマニエンの一地域から他の地域への、
古いシュヴァーベンから古いシュヴァーベンヘの移動であるにすぎないということが,
そのときの私に思い浮かばなかったとしても,それは歴史の流れのいたすところであろう。
だから私にはラインの水の,青緑色の焔のような見事なきらめきが,いま足を
踏み入れた神秘な魔法の国の霊たちが送ってくれる挨拶のように思われたのである。....」
人生のさまざまな危機に、はめけくも心の糧を送ってくれた、その世界を、
ようやく現実に訪ねるときの興奮は、なんといってもすばらしいものです。まして
いま目に映るのは、ラインの流れ、岸辺の若葉、紺碧の空...まさに躍るような
若者の感激が伝わってきますね。
しかし、ドイツは「神秘な魔法の国」ではないし、ケラーはいつまでも夢にふける
作家ではありません。
ハインリヒの荷物はほどなく、税関吏によって全部地面にまきちらされ、
軍神(マルス)のような国境監視員の冷たい微笑の中で、彼は意気消沈して
しまうのですが,それから先は、この心ゆたかな小説を,どうかご自分で
お読みください。翻訳は岩波文庫にもおさめられています。
(基礎ドイツ語 第27巻第8号:12月号)