フランケンシュタイン伝説
イギリス人作家メアリ・シェリーによって書かれた
人造人間フランケンシュタインの物語
なんと彼女は19歳の時に、この奇怪な物語を執筆したのである。
彼女は1797年8月30日、ロンドンに生まれた。
彼女が16歳の時、社会主義の先駆者として知られる父
ウィリアム・ゴドウィンの思想に共鳴し、
同家に出入りするようになった、青年詩人パーシー・ビッシュ・
シェリーと恋に落ちた。
しかし、シェリーにはすでに妊娠していた妻ハリエットがいた。
メアリは義妹ジェーン(後にクレアと改名)を伴い、
シェリーと駆け落ち同然で大陸へと旅立つ。
以後、彼ら3人は大陸諸国やイギリス各地を転々とする放浪の日々をおくり、
その間にメアリは、長女(生後すぐ死亡)と長男ウィリアムの2子を出産
している。
1816年5月にスイスのジュネーヴに赴いた3人は、友人の
バイロン卿と侍医ポリドリが滞在するレマン湖畔のディオダティ荘で、
ひと夏を過ごすことになった。
天才詩人バイロン卿は、当時クレアと愛人関係にあり、彼女はその子を身ごもっていた。
別荘ではやがて彼らは、当時はやっていたオカルト科学をめぐる議論や、
ドイツの怪談本を楽しむようになった。
ある日、バイロン卿が「めいめいが怪談話を書いてみよう」と提案した。
だが、文才ゆたかな二大詩人であるバイロンとシェリーは途中で投げだしたのに
対し、素人のメアリとポリドリが、怪奇小説史上に残る名作を書き上げたのである。
ポリドリは、バイロンが残した謎めいた断片をもとに「吸血鬼」を書いた。
この短編は後に舞台化され、「ドラキュラ」などの吸血鬼文学流行のはしりとなった。
1816年10月 メアリの母方異父姉ファニーが、服毒自殺をとげる。
同年12月 妊娠中の妻ハリエットが池に身を投げ、メアリとシェリーは正式に結婚。
1817年5月 メアリはフランケンシュタインの物語を書き上げた。
1818年3月 「フランケンシュタイン」出版された。
同年9月 娘クララがヴェネツィアで病死、
翌年6月 長男ウィリアムも、熱射病のためローマで死亡。
1822年7月 滞在先のスペチア湾で、ヨットが転覆して夫シェリー死亡。
1821年12月 ポリドリが服毒自殺。
1822年4月 妹クレアとバイロンの娘アレグラ病死。
1824年4月 バイロン卿、ギリシアで病死。
メアリー・シェリーが「フランケンシュタイン」の執筆にとりかかってから、
わずか8年余で関係者全員が、不可解な死をとげた。
フランケンシュタインの日記
(ヒューバート・ヴェナブルス著、大瀧啓裕訳、学習研究社)
18世紀後半にフランケンシュタインの亡命家族がジュネーブに実在した。
フランケンシュタイン家は15世紀まで、バイエルンの北部
(フランケン地方)に、かなりの領地を所有していたらしい。
しかしルター派に属していた一族は、反宗教改革の勢力によって
同地を追われ、ジュネーヴを拠点に新たな生活を始めることになった。
フランケンシュタイン家の子孫は、特にジュネーヴの法曹界で頭角を現し、
法学者、弁護士、判事を輩出した。
この日記を書いたヴィクトール・フランケンシュタインは
並外れた神童だった。
すでに3歳で家庭教師から、書き方、初等教育、読み方の手ほどきを受けていた
という記録が残されている。
有能な家庭教師のもとで植物学、化学、数学の才能を開花させていった。
彼は17歳でインゴルシュタット大学に入学し、解剖学と生理学を専攻した。
彼の才能に注目した著名な化学者ヴァルドマン教授の理解ある指導のもとに
ヴィクトールは長足の進歩をとげ、入学後2年間で、もはや大学から学ぶ
べきことは何もないまでになった。
このフランケンシュタインの、異常なまでの電気刺激による生命蘇生の実験
とその失敗を記録した日記の翻訳が上記の書である。
人間の蘇生実験を行ったことが彼女の小説のヒントになったのであろうか。
参考文献(ムー 3月号、 NO.172)
さて、このフランケンシュタインという言葉について
語源の説明ですが
Frankenstein:
Franken(フランケン族 ドイツ民族の一派)の石で造った城(Stein)
フランケン族の領主は石の城に住んでいたので、Frankenstein と名乗ったのかも
しれない。
なお、
たとえばドイツ民族の中のアングロ族とザクセン族が
ローマの兵隊になって、イギリスの島に渡り、
それが今日のイギリス人の先祖になったので
イギリス人のことをアングロ・サクソンと呼ぶと
説明されています。
Frankfurt:
Frank (フランケン族)が歩いて渡ったという
furt(浅瀬)
ドイツには Ochsenfurt という地名もあります。
これは雄牛が歩いて渡るほどの浅瀬という意味です。
イギリスの 0xford も同じ意味といいます。
最初に紹介した
今度発売されるという
フランケンシュタイン日記の中で
フランケンシュタイン家の先祖が
ドイツのフランケン地方から16世紀末に
宗教戦争を避けて
スイスに亡命してきた
というのは
史実とあっています。
ロマンチック街道で有名な
ドイツのヴュルツブルクはフランケン地方の中心地ですが
もともと、ここはカトリックの強いところ
山の上にマリエンベルク要塞があって
大司教の別荘だったのですが、
ドイツ農民戦争が1525年に始まって
ヴュルツブルクの町でも、民主的農民軍が
このマリエンベルクの砦を囲んだのですが
砦は堅固で、なかなか攻め落ちない
そのうちに司教の援軍が来て
農民軍はみな捕まり厳しく弾圧されます。
マリエンベルク要塞は観光名所になっていますが、
城の中に深い井戸があったりして
長期間、たてこもられるよう設備があったようです。
このヴュルツブルクの生んだ
ドイツの芸術家リーメンシュナイダーという彫刻家がいますが
彼は町の市長もした人格者だったのですが、
このドイツ農民戦争で
農民の側についたので
司教から、後にひどい扱いをうけ
何でも塔の中に閉じこめられ
芸術家生命を抹殺されるような拷問を受け
手を使えなくされた(肉体的に傷つけられた)
そうです。
しかも、町の歴史から記録を抹殺され
ドイツの歴史からも消されたそうです。
最近になって研究者が
リーメンシュナイダーの資料をぼつぼつ発見して
この芸術家の再評価がなされたようです。
だから
フランケンシュタイン家の先祖がフランケンの地を
離れてスイスへ逃げのびたのは
理解できます。