ダルムシュタットの歴史
− まずちょっとヘッセン州の歴史のおさらい −
現代ドイツのヘッセン州は、昔の領邦国家ヘッセン・カッセルとヘッセン・ダルムシュタットを
母体としている。
州都はウィースバーデンだが、経済的にも文化的にもフランクフルトが州の中心となっている。
ヘッセン州の面積2万1112平方km、人口598万(1995)である。
ハインリヒ1世(1244‐1308)がヘッセン方伯となり、彼は1277年以降カッセルに居城を構えた。
その子孫フィリップ寛仁伯(1504‐67)の時代に最盛期を迎えた。
ちょうど宗教改革の時だったので、彼は1526年自国にプロテスタンティズムを導入し、
1527年ドイツ最初のプロテスタントの大学としてマールブルク大学を創立。
彼の死後、領土は4子に分割相続され、のちヘッセン・カッセルとヘッセン・ダルムシュタットの
2領邦に整理されたが、
この2つのヘッセンはライバルとして対立し、まとまらなかったのが残念。
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ダルムシュタットの名が初めて知られたのは11世紀のことで,1479年に
ヘツセン州に属することになった。
この時から、ダルムシュタットはヘッセン方伯の支配下になった。
カッセルとダルムシュタット
同じ先祖から出た領主さまが納めていた。
だから文化のルーツをたどれば共通点が多い。
ヘッセン・カッセルの君主は18世紀に自国の軍隊を他国に貸し出す「兵士貿易」を行い、
その金でカッセルに豪華な宮殿を造営したことで悪名が高い。
アメリカ独立戦争におけるイギリス軍の主力は1万7000のヘッセン兵である。
1830年の革命ののち、反動的な君主のため、政府と国民の間の紛争を続いて、
1866年にプロイセンに併合された。
ヘッセン・ダルムシュタットは、18世紀末の方伯妃ヘンリエッテ・カロリーネ(1721‐74)の
文芸サロンが有名。若きゲーテもこの町に来ていた。
ナポレオン時代の1806年に大公国となり、「ライン同盟」の一つとして領土を大幅に拡大、
また1820年に憲法も発布して国の地位を高めた。
このときの領主夫人の活躍が町の歴史に出ている。
1866年普墺戦争に際してはオーストリア側についたが、取りつぶしは免れ、
北ドイツ連邦を経てドイツ帝国の構成国になった。
イギリスやロシアの王族と縁組みをして、時代の波のもまれながらも
生き続けてきた大公一族も、後継ぎがなく家系は絶えると言われている。
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