DAAD東京事務所


DAAD東京事務所の所長さんに会いました。
昔むかし、この所長さんのお世話になったのです。また日本に戻って来られた。
懐かしい
そしてドイツ語を忘れてしまった今どことなく恥ずかしい
お世話になったDAAD東京事務所

Das Sprachenproblem in der Wissenschaft

2000.6.16   DAAD75周年を祝い
東京DAADでは記念講演とパネルディスカッションをしました。
その資料をもらってきたので、ぼつぼつ紹介してみたいと思います。
内容はけっこう重たいので、私の理解を越えるところもありそう。

要するにドイツ語は世界的に学問研究に必要な言語のトップの地位から落ちた現在
ドイツ語(学習)の意味があるだろうかということです。
もちろん必要性は依然としてあるのですが。
それを感覚的でなく理論的にまとめているのが、いかにもドイツ的であり、
私には重い印象なのです。 (その重いのがドイツの価値) 

デュイスブルク大学のウルリッヒ・アモン教授の講演
      (専門は社会言語学、ドイツ語学)
「学術言語としてのドイツ語 −20世紀における展開」

明治の時、のちに明治天皇となる親王の特命を受け、桂太郎はパリに向かった。
普仏戦争でロンドンに留まっていたとき、プロシアが勝ったことを知った彼はパリではなくベルリンに行った。
そして彼は、日本はフランスやイギリスではなく、ドイツを手本にすべきだと実感した。
帰国した彼は獨協学園(後の獨協大学)を設立した。彼は総理大臣にもなった。
日本とドイツの結びつきは明治から始まった。

アモン教授の提示した資料によると、自然科学出版物の使用言語は
1920年までドイツ語がトップだった。
が、それ以降は減少の一途をたどり、かわって英語の割合が増加した。

第一次大戦の後、戦勝国は国際学会においてドイツ語の使用を禁止した。
ドイツの発表機関誌も資金不足で停滞した。その間に英米で新しい
英語の機関誌が新しく発刊された。
ナチス台頭時代に、多数の学者がドイツ出国を余儀なくされた。

アモン教授は述べる。
調べた資料そのものが英語のデータベースなので、英語に有利に作られているが
自然科学の言語として英語の有利は疑うところがない。
社会科学の場合は、ドイツ語やフランス語が一定の意味を持っていて、
英語はまだそれほど優位ではない。 

引用言語について つまりどれだけ源論文が読まれたか。
たとえば
化学論文では 英米でさえ、1940年頃まではドイツ語の論文の方が
英語の論文より沢山読まれた。
しかし、それ以後は英語の論文の読まれる数はドイツ語の論文数を
どんどん追い越していった。
歴史学では、英語の論文の引用数は多いが、ドイツ語もフランス語も
なお読まれ続けている。決して減っている傾向はない。

自然科学においては英語は支配的になった。
社会科学においては諸言語の差はそれほど大きくはない。
人文科学ではその差は最も少ない。

自然科学の場合ただ一つの言語が支配的になる理由は次のように考えられる。
・専門化が進んだから。世界中と対話するのには、その時点で最も一般化した言語
 を選ぶのが能率的。
・自然科学のテキストは定式化され、国際的に理解可能な専門用語を使うから、
 かつて頻度の高かかった言語(ドイツ語)から現在頻度の高い言語(英語)へ
 変えることは比較的容易。
(社会科学などではテキストを変えるには、生きた日常言語の細かい知識が必要なので、
 使用言語を変えるのはずっと困難)
(またその言語集団の問題に関わるため、内容についても自然科学ほど国際的でない。
 どうしてもその研究内容を説明したり考えたりするには、その使用言語は母語となる)

この説明がいかにも分析的でドイツ的 よいと思う。
そうだ、学生に なぜ英語が使われるか課題を出してみよう。
彼らにも考えさせて。  

ドイツ人の学術言語としての英語
もはやドイツ人も ドイツ語でなく英語で本を書いたりしている。
その傾向は、理論的自然科学では目立っている。
応用的自然科学では、研究結果を自国で活用するため、理解されるドイツ語を選んだから、その傾向は強くない。
外国人研究者がドイツの大学に来ても英語でコミュニケーションをとっている。

社会科学や人文科学では、自然科学よりも多くドイツ語で出版している。
こちらも外国人研究者がドイツ語圏の大学に入ってきて、試験的に
英語で対話していることがあるが、ドイツの学者は(十分な)英語ができない者が多いから、
ドイツ語ができないと国際交流ができず、ドイツ語を使わないといけないのが
実状である。

ドイツ語教育は東欧中欧以外は減少し、国際的には英語圏の大学に
優秀に学生が集まるから
ドイツの大学でも英語で教育するコースも用意されている。
しかし、この英語によるコースでも、ドイツ語研修を受けさせている。
ドイツで生活するにはドイツ語が必要だからである。
こうしてドイツでドイツ語も学んだ者が、将来は故国に帰っても、ドイツとの信頼できるパートナーになる。

ドイツ語はドイツ文化を知る上で役立つ。ドイツの音楽はなお世界的である。
ドイツ語圏は世界で第2位あるいは第3位の経済ブロックを形成している。
輸出入も世界第2位。
ドイツ語はEUでは最大の使用言語である。
EUの発展とともにドイツ語の重要性は高まる。  

うちの大学のドイツ語の先生方でさえ、
もはやドイツ語に将来性はあるのか、そんなことを言う人もいます。

が、ヨーロッパではドイツ語は重要なのです。
ドイツ、スイス、オーストリアだけでなく
東欧でも北欧でも、ベルギーでもオランダでも
場所によっては、フランスでもイタリアでもドイツ語は通じます。
英語とドイツ語を場面に応じて使えたら便利。

そして、技術的にパテントをもっているドイツには、私の卒業生が
技術研修に行くし、県や市町村で、若い職員に研修させる制度があり、
何人もドイツに行きたいからと、私に行くべき町や現地の案内人を
教えてほしいと頼まれます。

最近ではドイツを話す機会もなく、せいぜい専門のドイツ語の文献を読むだけ。
先日のドイツ留学生の集まりでも、なかなかドイツ語がでてきません。
英語が混じったり、ともかくコミュニケーションをとってきました。

でも、ドイツは好きで、これからもドイツの応援をしていくつもりです。
ドイツ留学する人を応援し、ドイツ研修の可能性と夢を現在の学生にもPRしています。

敗戦で復興した日本とドイツ でも、ドイツは留学生を受け入れ続け、
将来の戦略を着々と。
それにひきかえ、日本では、せっかく来日した留学生が日本嫌いになって
故国に帰るケースが多いとか。
自分も日本で研究したから、自分の弟子は日本に送りたいと、
そう頼まれたら何と嬉しいことか。
そういうことも目指して努力したいと思います。
 

−−−−−−−−−−−−− パネルディスカッション ○民法学におけるドイツ語の役割 100年前の日本では、ドイツ語法は圧倒的な影響力があった。 大正初期には、日本の民法学とドイツ民法学との間には、ほとんど本質的な差はなかった。 第2次大戦後に、アメリカ法が圧倒的に優位になった。日本の研究者も 米国留学するようになった。 ドイツでの国際会議でも、英語が使われ、ドイツの法律事務所では 日本人のクライエントとドイツ人弁護士が、英語で話す。 では、民法学でドイツ語の意義はなくなったか。答えは否である。 1992年にドイツでは世話法(Betreuungsrecht)が施行された。 これは高齢社会における痴呆性高齢者、精神障害者、知的障害者の権利擁護のため 制定された。 行為能力を剥奪する制度(Entmuendigung)を否定し、意思能力が低下・喪失した者でも 可能な限り本人の意向に添いながら本人を援助。支援する制度(Betreuung)を 導入したのである。 すなわち、世話法は旧来の制度を一新し、できるだけ本人の自己決定を尊重する スキームを構築したのだが、そのことを端的に示しているのが、 EntmuendigungからBetreuungへの変化である。 旧法から世話法への基本的な考え方の変化が、これらのドイツ語によって 的確に示されている。 Entmuendigungという語感には、この制度の否定的ニュアンスが残存しているが、 Betreuungは新時代に相応しい肯定的な価値をうまく表現している。 この分野でドイツ以外の法制を比較調査しても、ドイツの世話法ほど言葉の含意力・ 表現力が法律の中に活かされている国は存在しないと思われる。 2000年4月に施行された日本の成人後見法(ドイツの世話法に相当)も、 ドイツ法の構造・理念を多数参考にしている。 多様な概念を的確に表現するドイツ語は日本の民法学にとって不可欠と言えよう。 (千葉大の法律の先生) ドイツ語のハイムという家庭的な語感を英語では表せない。 ドイツ語のガイストは英語のゴーストとは違う。ドイツ語のガイストは精神も意味して、 悪霊とか精霊をも意味する。ゴーストはまぬけな幽霊。だから、英語でも ポルターガイストという。 前の首相の好きな、運命共同体。この言葉もドイツ的だ。 Gemeinschaft ○こちらはドイツの機械会社の子会社社長さん(日本人です) 経営の世界では英語が共通語である。 日本におけるドイツ系の会社400数十社でも、大部分は英語が使われる。 出張してくるドイツからのビジネスマンも英語で仕事をする。 では、ドイツ語はいらないかというと、さにあらず。 ドイツでも、営業やマーケティングで外国人と接する機会の多い人は英語が上手である。 しかし、製造や技術分野の人たちと話すと、英語力はぐっと落ちる。 ドイツの会社と日本の会社の関係が深まり、いろんな分野の人たちのコミュニケーション が必要になってくると、ドイツ語の重要性が高まる。 自分がかつてスイスの会社の日本法人の代表だったとき、直接の上司はアメリカ人で アジア総括をしていた。 彼は役員会に出ていて、役員会の公用語は英語だったから問題はないはずだった。 しかし、議論が佳境にはいるとドイツ語になり、上司のアメリカ人はつんぼ桟敷 (差別用語?)に置かれることが多かった。 このため、日本戦略に関して、アメリカ人の上司は誤解して、日本への指示が 役員会の意思と正反対になった。 そして、アメリカ人の上司は解雇。この(講演者)日本法人の代表も同じ運命。 ドイツ語ができても、よほどのレベルでないと、円滑なコミニュケーションは難しい。 中途半端なレベルで自信だけある人が一番リスクが多い。 米国とドイツとで、それぞれコンサルタント会社に勤めた経験では ドイツの方がデータを積み上げて説得するのに対し、 アメリカの方がより直感的な提案が多い。 コンサルタントのレポートも、ドイツではデータや文章がぎっしり並び、 アメリカでは図やグラフィックが多用される。おそらくドイツの方が科学的方法論の 比重が高いと思う。 それぞれの国の文化や習慣が違うから、グローバルスタンダードと称してアメリカ化を 図るだけではうまくいかない。 ドイツもアメリカ化は進んでいるが、明らかに独自の方向性を残しているから、国際化 を目指す日本企業はいろんな国の経営の現実を知ることは大切である。 その意味で、ドイツ語を学ぶ意味は重要であろう。 英語の他にドイツ語も知っていた方がよろしい。 ドイツで仕事をする場合もあろうし、ヨーロッパで仕事をすることもあろうから。 サッカーの日本チームの監督は、フランス人だけあって、なかなか英語を話さない。 ましてや日本語は彼の口から出てこない。 あの場合、選手はフランス語のニュアンスを感じ取らないといけないだろう。 環境問題でも、米国のわがままをEUは許さない。 米国一辺倒はやはり危険であり、日本独自の行き方を求めるためにも 英語以外の言葉は必要。 というのは私の感想 ○いかにも自然科学者という研究者(基礎医科学) 自然科学の分野では英語が定着している。 英語は、文法が比較的簡単で、自然科学における発見や考え方を記述するには便利である。 英語は26文字のアルファベットから成り立っているが、 地球上の生命の言語ともいえる遺伝子DNAはA、T、C、Gの4つの文字から 成り立っている。さらにコンピュータ言語となれば0と1の2つの文字である。 文字の種類が少なくなればなるほど、論理構築がシンプルとなり誤りの頻度が減少する 傾向にある。 しかし、生物にとって、文字誤りは必ずしも悪ではない。ある場合には進化の駆動力 や多様性の原因になる。人間の思考過程においても、複数の言語を獲得していたほうが 内面の幅がでてくる。それは異なる文化に対する寛容性を生み、進化の自由度を 増大させる。 21世紀において、英語は必要最低限の条件をみたす万国共通の機械語として役割 を果たす一方、それ以外の言語は各々(おのおの)の民族のアイデンティティを示す 文化的指標となるだろう。 ○次はドイツ文学の先生 学術言語を3つの次元に分ける。 1)研究対象となるテクストの言語    文学、哲学、歴史学などはこれからもドイツ語は必要 2)方法論、理論的な枠組みの言語    構造主義の隆盛などにみられるように、フランスやアメリカから発信される文献を    読む必要がある。それは、日本のドイツ研究者にとって負担増となるがしかたがない。   過去を振り返っても、異文化圏の思考との接触はよい刺激を与える。   例としてフーコーはニーチェから滋養を得たし、そのことがドイツのニーチェ再読   のきっかけを作った。 3)発表に使用する言語   日本では、発表言語はほとんど日本語である。それは自己閉塞的であると言える。   この壁を破るために、ドイツ語でなくても、英語でもいいから、日本語以外の言語   で議論することが必要。 上のような観察をふまえて3つのテーゼを提示する。 1)学術言語をドイツ語1つにしぼることは無理であるし、今後もドイツ語を必要とする 研究分野は存在するだろう。ドイツ語を必要とする分野では、より高度なドイツ語能力の 習得が可能な言語教育を行う必要がある。また、ドイツ語を唯一の学術言語とはしない 姿勢も必要である。 2)いわゆる「英語帝国主義」に対して文化の多様性を主張するために、ドイツ語を 通じて「ドイツ文化」を理解することが重要であると言われる。 しかし、ドイツ語とドイツ文化とを一体化してとらえることは不可能であり、危険でもある。 ドイツ語で書かれた文学もマルチカルチュラルになってきている。たとえば、多和田葉子 やトルコ系移民二世や三世や東欧圏出身のドイツ語で創作活動する作家たちの例がある。 言語と文化とは一対一の対応ではなく、むしろドイツ語は、文化的多様性に視野を開く べきである。 3)学術言語としてのドイツ語は、ドイツ以外の地域で逆に重要になってきている。 ドイツ本国を離れたところで、新たな科学的コミュニティが開かれつつある。 たとえば、日本と韓国と中国、台湾のゲルマニスト会議が、各国回り持ちで開催されている。 近くにありながらあまりにも遠い隣国の研究者と議論することが、ドイツ語という共通語 を使って可能となっている。 ○政治学におけるドイツ語の問題 この先生はT大の先生です。 政治学の対象として、ドイツ政治が重要であるか。これをまず問題にとりあげよう。 ナチズムが崩壊し、連合国による占領を経てドイツには2つの分断国家が成立した。 その一方の連邦共和国は、西側諸国の中でもひときわ高い政治的安定を達成した。 占領下に生まれた民主制が、どのようにして安定に至ったか、また、安定した民主制が、 戦後経済や戦後社会の変化がもたらすさまざまな問題に対してどのような解答を試みて きたのか、それらは政治学が扱うべき根本的なテーマといえる。 ドイツは、欧州統合を推進する上でますます重要な役割を果たしてきている。 旧社会主義を取り込んだ民主制の問題、あるいは一刻の枠を越えた超国家的次元に おける民主制という現象は、21世紀の政治学の中心的テーマとなるだろう。 戦後ドイツの政治学は、アメリカ政治学の強い影響のもとに発展してきた。 当初は、米英の民主制を規範として研究する傾向が強かったが、連邦共和国が安定する につれ、連邦制、共同決定、団体交渉制度、社会保険制度などドイツ政治の特徴となる 要素を研究対象として実践研究が進められてきた。戦後ドイツ政治学の成果と方法を 知らないでドイツ政治を研究することは困難である。 ドイツ政治学における比較の対象としては、ドイツ語圏のオーストリアやスイス、 あるいは福祉国家や雇用政策のモデルとされる北欧諸国やオランダに重点がおかれて いる。これについては、日本やアメリカ、他の先進国を含めた幅広い比較を行って いるアメリカ比較政治学に優位があると言わざるをえない。 研究方法や学会報告や他の研究者とのコミュニケーションのノウハウの習得を考えると、 アメリカ政治学の優位性は歴然としている。ゆえに、英語を媒体とするドイツ研究の 比重は高まるであろう。もちろん、アメリカ政治学にもバイアスがかかっているから、 そのバイアスに注意しながらその長所をドイツ政治学に生かす工夫が必要であろう。 結局のところ、現段階では、ドイツ語を媒体とする政治学を軸としながら、アメリカ 政治学の成果をも批判的に接種して研究するのが標準的アプローチである。 日本人にとっては、明治以降は近代化のモデルをドイツに求めた。戦後になって、 モデルの対象は、アングロサクソン諸国に移されていったが、日独両国が置かれた 国際環境や課題には似通った点が多い。したがって、日本の研究者は、英語とドイツ語を 媒体として、関係分野を積極的に研究するのがよい。 討論 各パネリストの補足 ・法学のグローバル・スタンダードとなるのは、現代ではニューヨーク州法だが、  これを作ったのはナチ時代にドイツからアメリカに亡命した法律家たちである。  したがって、アメリカ法学の背後にはドイツ的な思考方法がある。  日本の法律家としては、グローバル・スタンダードをふまえて、ドイツ的な思考方法を  尊重しつつ、いかも日本的な法律学をこれから構築すべきである。 ・アメリカのコミュニティは異文化と異文化からの研究者に対しても開かれた態度を  もっているという気がする。アメリカが人に接するスタンスには開放感があり、  それが英語を用いてなされる学問の態度にも反映されていると思う。  日本の大学社会も、日本語という言語以前に、閉鎖的なところを直していくように  したら、もっと留学生も増えるし研究交流も盛んになる。 ・ドイツ方と米英法の違いは、端的に言えば、体系論と決議論の対立である。  ドイツでは、いろんな現象が起こると、それを統一的に考え、説明し、法典を作ろう  とする。しかし、アメリカでは各州に別の法律があり、違いを尊重する。  その対立をまとめようとすれば、ドイツ法のように少しは体系性を尊重すべきであろう。  その点では、ドイツ法のほうがグローバル・スタンダードといえるのではないか。  ドイツでも連邦法と州法が同時に存在するから、そういうところに米国法の解決法を  求めるのもよいかもしれない。 ・英語はミニマル・ランゲージであり、比較の対象ではない。まず英語を知った上で、  ブラスαとし、ドイツ語やフランス語やロシア語やスペイン語や中国語学べば、  異文化比較が可能となる。

 

ドイツに関するページに戻る