ヨーロッパ旅行記(7)

41回目から46回目まで
 ロンドン、大英博物館、そして日本まで

ヨーロッパ旅行記 その43

ロンドン編4 少し歴史を勉強してみよう

トラファルガー広場のネルソン提督記念塔
これは1805年、フランスとのトラファルガー海戦で勝利をおさめながら
戦死をとげた英雄ネルソンを記念して建てられた。

イギリスの対フランス戦争のもう一人の英雄ウェリントンは
最後の決戦地ワーテルローで勝利をおさめた。

まずナポレオンの輝かしい経歴をみてみよう。

フランス革命の後、左右両派の多くの血が「革命広場」に流され、
のちにこの広場は「コンコルド(融和)広場」と改められたことは
パリでガイドのY氏から聞いた。

ロベスピエール処刑ののち、革命政府が民衆運動から遊離し、しかも内外の
敵に対して強力であろうとすれば、軍隊に頼るほかはない。

このときナポレオンの登場となる。26歳の砲兵将校が1795年10月、
王党派による「ヴァンデミエールの反乱」を鎮圧し、昇進を続け、
96年4月にはイタリア遠征に向かう。

イタリアではオーストリア軍を倒しイタリア解放に成功する。
「解放軍」は略奪者の顔ももっていて、たとえばルーヴル宮の庭に建つ
カルーゼル凱旋門が完成した1808年にその頂上を飾った4頭の金色に
輝く馬は、ヴェネツィアから略奪したものだったが、ナポレオン没落後、
サン・マルコ寺院に戻された。

(ベルリンのブランデンブルク門の上の戦場の女神像も1806年にナポレオン
に持ち去られたが、1814に取り戻された)

1804年5月18日にノートルダム寺院でナポレオン皇帝の戴冠式が
行われた。

皇帝となったナポレオンの「大陸軍」は、10月にウルムのオーストリア軍
5万を降伏させ、11月にヴィーンに入城。そして12月2日、フランス軍
はオーストリアとロシアの連合軍にアウステルリッツで大勝する。

1806年、プロイセンを破って10月25日にベルリン入城、年内に
ポーランドを開放。1807年6月14日、フリートラントでロシア軍に
大勝し、7月のティルジット条約で全ヨーロッパの平和を回復する。

ナポレオン帝国はオランダ、北海沿岸、北西イタリアを合併し、その
周囲に衛星国を配置し、オーストリア、プロイセン、スペインを同盟国
とする巨大なものとなった。

だがモスクワ遠征に失敗し、「大陸軍」壊滅の知らせで一斉に反旗を翻えした
諸国の攻撃により、パリも陥落し、将軍全員の反対にあって抵抗をあきらめた
皇帝は、フォンテーヌブロー宮で退位した。

1814年9月、ナポレオン帝国解体後のヨーロッパの秩序再建を目的として、
ヴィーン会議が開かれた。90の王国、53の公国から2人の皇帝、4人の国王、
1人の女王をはじめ各国の代表的名士が一同に会すという空前の国際会議だ。

シェーンブルン宮は華やかな宴会や舞踏会の舞台となった。

だがオーストリアの一将軍がいったように、「会議はおどる。しかし、
会議は進まず」。そこへエルバ島に追放されていたナポレオンがフランス復帰
に成功したというニュースが届く。

1815年3月、会議が躍るヴィーンでは、こうはしていられないと
イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンが同盟を確認し、フランス国境
へ7,80万の兵力を集結した。

これに対し、6月6日、ナポレオンは12万6千人の兵力で行動を起こし、
ついに運命の日6月18日を迎える。

決戦の地はワーテルロー。

モン・サン・ジャンの高地争奪戦で、「4時に退却し、5時に絶望した
ウェリントン」を救ったのは、プロイセン軍の到着だった。フランス軍の敗走。
そして「破れた夢の偉大な皇帝」ナポレオンは、21日やっとパリにたどり着き、
翌22日退位。「百日天下」の幕がおりる。

ワーテルローはブリュッセルから5号道路を南へ20キロ、電車も走り、
観光バスの便もある。

戦場から5キロ北のこの村には、英軍の本営が置かれた建物が博物館として
保存されており、その前の教会には戦死者を追悼する記念碑と勝利に輝く
ウェリントンの胸像が飾られている。

パリの凱旋門を見て、今でもフランスの英雄としてたたえられている
ナポレオンを思い、ベルギーでナポレオンに最後の勝利をおさめた
ウェリントンを思い、トラファルガー・スクエアで海戦で活躍した
ネルソンを思い、
世界史を考えながらロンドンを見物すると、立体的に楽しめる。

(参考文献 田村秀夫、ヨーロッパ歴史の旅、三修社)

   

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