石川啄木は
新聞社の白石社長と一緒に、小樽から札幌に向かい、社長は札幌で降り
啄木一人で岩見沢の義兄(姉の夫は岩見沢駅長になった)のところに泊まり
それから旭川、富良野、新得、帯広、釧路と行ったわけです。

つまり
  小樽ー札幌ー岩見沢ー滝川ー旭川ー富良野ー新得ー帯広ー釧路
でした。
今も細々とある根室本線の滝川ー芦別ー富良野ー新得ー帯広ー釧路
というコースは啄木の当時はなかったようです。

このルートが開通したのは大正2(1913)年でした。
田辺朔郎
1891(明治24)年 東京帝国大学教授となる。
1896(明治29)年 北海道庁鉄道部長として北海道官設鉄道の計画・建設にあたる。
1910(明治43)年 京都帝国大学教授

さて
啄木が空知川の歌を詠んでいるのは
やはり
富良野から山部、金山、狩勝峠までの間のあたりでしょう。
  空知川雪に埋もれて 鳥も見えず 岸辺の林に人ひとりゐき
決して滝川付近ではないと思います。


徳富蘆花の「不如帰」
伊香保の場面で主人公たちのドラマが幕を開けるが
伊香保までどうやって来たのだろう。
(蘆花たちは群馬県馬車鉄道で明治31年にはじめて伊香保に来る)
小説「不如帰」では、武男と浪子は明治26年4月に挙式し、伊香保には桜の咲く5月に来たらしい。明治26年9月にこの馬車鉄道が開通したのだから、ヒロインたちはこの馬車鉄道には乗れないはず。

明治23年に開業した上毛馬車鉄道(のちに前橋電車となる)が前橋渋川間に走っていたので、これに乗って渋川まで行く、そこから人力車に乗ったであろう

「不如帰」を読めば、あの山科駅の上りと下りの列車のすれ違い場面が印象的。
当時は単線運転なのでどこかの駅ですれちがう。

東海道線旧山科駅の開業は明治12年(鉄道史に残る逢坂山のトンネル建設の苦労)
ところが新しい逢坂山トンネルが開通して大津京都間のルートが変更するとともに
大正10年に山科駅は廃駅となる。
現在のわれわれの見る山科駅は不如帰とは別の場所。

さて、ドラマの最後の見せ場の昼下がりの山科駅の別れ、それはどんな電車。
新橋発の神戸行き列車は三本だけ。
午前6時20分、午前11時45分、そして午後9時55分
京都まで14時間半から16時間かかる。
とすると午前の列車が山科を通るのは、夜中か早朝と言うことになる。
ドラマでは午後の昼下がりということだから、それなら夜行列車しかない。
午後9時55分発の汽車。これだと山科駅に午後2時30分に着く。
この武男の乗った下り列車とすれ違う上り列車ははたしてあるのか
調べた結果は残念ながらなかった。
近いのは山科駅15時10分発の新橋行きだった。
これでは、二人は山科駅ではすれ違わない。
武男の神戸行き列車は京都駅に14時50分に着く。
浪子と父の乗った汽車も京都を14時50分に出る。(行き違い駅は京都だった)
京都駅だったら時刻表どおりにすれ違うが、山科駅ではだめだった。

列車の遅れはよくあること。
新橋からの長距離列車のため途中で遅れてきて、京都駅ですれ違うのを待っていたら
浪子の上り列車はさらに遅れてしまうから、下りと山科駅で擦れ違うよう
京都から動いて、山科駅で行き交うようにしたのだろう。



佐藤喜一:されど汽笛よ高らかに  −文人たちの汽車旅ー 2002