かつて荒川と利根川は合流として江戸に洪水を引き起こしていた。
そのため江戸時代からずっと、この二つの川は他の川とつないだり
新たに流路を掘削したりして、多くの治水事業の末に
現在のように別の水系に整理された。
約2万年前氷期のもっとも寒い時期には、氷河の拡大にともなって 海面が低下し、現在の東京湾は干上がり、そこには古東京川と呼ばれる 大きな川がながれていた。 当時の利根川は妻沼から熊谷にかけての低地を通って荒川に合流し、 古東京川となって流れていた。約3000年前利根川は沈降運動のため 大宮台地の北部を横切って当時の渡良瀬川に流入するようになった。 その後も大宮台地の北部では沈降運動が続いたため、利根川の流路変更が おこなわれ、利根川と渡良瀬川は独立した川となり、近>世の瀬替え前の流路 をとるようになった。 江戸時代初期、すなわち政治の中心が江戸に移された頃に、 約60年をかけて利根川の大規模な瀬替えがされた。 それ以前利根川は「暴れ川」と呼ばれ、幾度と氾濫を繰り返していた。 瀬替えの主な理由としては、古利根川沿岸部の開拓のため、 江戸を洪水から守る放水路とするため、東北地方との交流を深めるためなどがある。 その瀬替えは当時江戸湾に河口があった利根川を東部の銚子に向けられたため 「利根川東遷事業」と呼ばれた。その結果、渡良瀬川と鬼怒川を利根川に合流させた。 当時、渡良瀬川の下流部には太日川と呼ばれる小さな川があった。 この川は利根川東遷事業の一環として、利根川の放水路とする工事が施された。 1610年代には関宿から金杉までの18kmが開削された。その後も工事が進められ、 1640年代には江戸湾まで注ぐようになり人工的な川が誕生した。 この川は現在の江戸川である。 1629年利根川東遷の一環として荒川の付け替え工事がされた。 江戸時代以前の荒川は越谷付近で古利根川に合流し江戸湾に流れていた。 現在の熊谷市において元荒川の河道を締め切り、堤防を築くとともに新川を開削し、 荒川の本流を当時の入間川の支流であった和田吉野川の流路と合わせ、 隅田川を経て江戸湾に注ぐ流路に変わった。以来、荒川の河川は現在のものと 同様の形となった。 後世、この事業は「利根川東遷」に対し、「荒川西遷」と呼ばれるようになった。 その後、江戸への物資輸送は円滑化し、それが原因となって江戸が関東平野を 支配する拠点として、政治経済的にいっそうその価値を高めている。 また、流域面積は約9000kuから約16000kuとなり日本一の流域面積となった。 それとは逆に霞ヶ浦のあたりでは水運により河岸がにぎわうなどの恩恵がある一方、 洪水の常襲地帯となるなど不利益ももたらされた。そもそも利根川の東遷のために 霞ヶ浦の南西部は干拓や埋立をしている。そのためそのあたりは土地が低くなったり、 土壌が軟弱になるなど洪水に弱い土地となった。本格的に霞ヶ浦のあたりに 治水工事がなされたのは明治になってからである。 現在でも治水対策として、利根川の沿岸には輪中集落が点在している。 ちなみにこのような大規模な瀬替えができたのは地形の制約の少ない利根川と 北上川ぐらいであった。 北上川は元来別々の川であった北上川、迫川、江合川を平野の中心部でまとめ、 この結果、迫川と江合川は北上川の支流になるという大きな統合であった。 明治時代、新政府は舟運、農業用水のための利水を目的とした"低水工事"を 主体とした治水事業を全国でおこなうことにした。その指導は低水工事を得意と するお雇い外国人のオランダ人技術者が担った。 しかし、1880年から1890年にかけて全国的に大水害が頻発したため、 洪水対策を目的とした"高水工事"の治水工事が主体となった。 それ以降は、オランダ人技術者の手を離れ、フランスで近代技術を習得した 日本人の技術者が中心となって工事を進めた。利根川では1900年から30年をかけて 工事が進められた。その具体的内容は、堤防建設と河床の大規模掘削であった。 掘削の一番の理由は1783年の浅間山大爆発である。浅間山の噴出物は 火山灰や礫岩などの比重の小さく流れやすいものが多かったため、大量の噴出物が 利根川に流れ込み川床を全面的に上げることになった。そのため利根川の堤防は 相対的に低くなり氾濫しやすくなった。1783年以降、洪水氾濫が頻出することに なった。一方、川床が高くなったため、周辺農地から川への排水が困難となり、 川の周辺低地は常時水がつかりやすくなり農業生産が不振となった。 この事業で扱った土量は2億2000万立米、その大半の1億4000立米は水中からの 土の掘削であった。そのためこの事業の労力の大半は川床の土砂をさらって 川床を下げることに費やされた。 戦後もさらに治水工事が進められた。1947年9月、カスリン台風による大洪水に より、利根川は未曾有の大洪水に見舞われた。その氾濫流は昔の流路のように 東京湾に向かって流れ、埼玉県東部平野と東京都東部を水没させた。 このため本格的な治水工事が必要となった。その具体的内容は、上流山地に本川、 支川にそれぞれ洪水調節を可能とするダムを造り、中流・下流には支川との 合流点周辺に遊水地を造った。なお、氾濫流はかつての流路を流れる傾向がある ので、昔の利根川河道の近くに放水路を造り、効果的な治水対策をおこなった。 また、高度経済成長期に入ると、都市への人口集中、工業立地の飛躍的増大を受けて、 工業用水や都市上水のための水資源開発が活発となった。 特に東京での水需要増加は激しく、1964年、すなわち東京オリンピックの年には 深刻な水不足にわれた。当時東京では水源の多くは多摩川であったが、 急ピッチで利根川の水資源開発が進み多くのダムが造られた。 その結果、東京の水源のための利根川水系のダムとして、矢木沢ダム(群馬県)、 奈良俣ダム(群馬県)、藤原ダム(群馬県)、相俣ダム(群馬県)、 薗原ダム(群馬県)、草木ダム(群馬県)、下久保ダム(群馬県)などが造られた。 また、1980年以降東京都の上水の60%以上が利根川に依存するようになった。 このように、治水工事はその時代の状況により行われるのである。 参考文献 阪口 豊・高橋 裕・大森 博雄:<日本の自然3>日本の川(岩波書店)、1986
荒川と利根川を代表とするいくつかの河川が関東平野をつくった。
そこに徳川家康は乗り込んできた。
江戸の町を洪水から守るため、平野をつくった荒川を西に利根川を東に
流路を変え、後世にも治水事業が続き、現在のような水系に整理されたと言える。