台湾と朝鮮に土木工事を行い社会資本を残してきたのに
両国で評価が分かれるのはなぜか。

  ●台湾、朝鮮の歴史的・文化的背景とその違いについて
 
 朝鮮半島においては、朝鮮民族による国民国家として大韓民国(韓国)・朝鮮
民主主義人民共和国(北朝鮮)という二つの国家が存在する。しかしながら、
両国の国民はともに同一の民族としての意識を共通して有し、両国は元来ひとつに
統一されるべき国家が仮に分かれているだけという分断国家(分裂国家)として
認められている。 
 
 台湾における宗教は、特に仏教・道教・儒教の三大宗教が漢民族の間で盛んであり、
人々は今日でも宗教と深くむすびついている。
仏教は仏光山と慈済と法鼓山と中台禅寺の4宗派が優勢であり、道教系は疫病の神・
王爺や海の女神・媽祖に対する信仰が多い。また、儒教の創始者である孔子も
「学問の神」として崇められており、台湾各地に孔子を祭る孔子廟が設置されている。
宗教は、アニミズムを背景としたシャーマニズム的な信仰と儒教との混合形態による
先祖崇拝が根付いている。なお、先祖崇拝は東アジア地域共通の特徴であるため、
その起源がどこにあるのかを求めるのは難しい。これに加えて、仏教信仰がある。
仏教は高麗時代に国教とされるな>どかつては隆盛を誇っていたが、李氏朝鮮が儒教を
国教と定めて仏教を弾圧したため、現在では少数派に転じている。近代には西洋から
もたらされたキリスト教が急速に広まった。
  ・台湾について 
 1885年に清朝が新設した台湾省に属していた地域を指しており、具体的には台湾島と
澎湖島、蘭嶼島及びにその周辺諸島から範囲が構成されている。この範囲は、
1895年から1945年までの間は日本の台湾総督府の統治下にあったが、1945年の第二次
世界大戦終結後に中華民国が占領し、1947年に再設置された台湾省政府(「行政院
組織精簡條例」によって2002年に廃止)の実効統治下に置かれた。なお、今日の台湾
では、この地域を台湾地区(台灣地區)と呼称することもある。
  台湾地域の住民は、漢民族と原住民に大別される。台湾の漢民族は、戦前(主に明末
清初)から台湾に居住している本省人と、国共内戦で敗れた蒋介石率いる国民党軍と
共に台湾に移住した外省人に分かれる。本省人が台湾で85%を占めており、本省人は
福建系と客家系に分かれる。
 公用語は標準中国語(国語)であり、世間一般で広く使われている。他にも台湾語や
場所によっては客家語、原住民の諸言語が使用される。ビジネスや文化的な影響により
英語、日本語の普及率も低くなく、日本統治時代の日本語教育の結果日本語を話す
高齢者も多い。台湾で使われる標準中国語を特に「台湾華語」、「台湾国語」と呼ぶ
ことがあり、その発音は北京語をベースにしたもので、基本的には中国本土で使われる
標準中国語(普通話)と同じであるが、発音や語彙・言い回しなど細かい部分で相違が
あるほか、文字は簡体字ではなく伝統的な繁体字が使われる。
  主な宗教としては漢人移民の歴史がある台湾では、仏教や道教が主流をしめており、
それ以外に民間信仰や、キリスト教、イスラム教などの信者も存在している。
  ・朝鮮と台湾の差異の諸相
   @言語的差異
  朝鮮においては、北朝鮮では朝鮮語、韓国では韓国語が使われているように、
同一半島内で異なった言語が用いられているが、台湾においては、全国土内で中国語と
いう同一の言語を用いている。
  A独立国としての立場
  朝鮮はもともと朝鮮国という1つの国であったが、朝鮮戦争によって2つに分断
され、それぞれ韓国・北朝鮮という独立した2つの国が誕生した。しかし、台湾は台湾
国という独立した国として自国の立場を主張しているが、それは、元来「台湾半島を
自国の領土である」と主張する中国政府からは認められておらず、未だ1つの独立国と
しては正式に言えない状況にある。
  B民族観から見ると
   朝鮮は両国の国民がともに同一の民族としての意識を共通しているが、台湾は中国
大陸からの移住民族と本来住んでいた原住民とに分かれている。
  C宗教的側面からは
   宗教的視点から見ると、朝鮮ではアニミズムを背景としたシャーマニズム的な信仰
と儒教との混合形態による先祖崇拝と仏教信仰が信仰されている。また、台湾では漢人
移民の歴史がある台湾では仏教や道教が主流を占めている。

  ●台湾と朝鮮における日本の評価の違いについて
  前述した台湾、朝鮮両国の歴史的・文化的背景を踏まえ、両国における土木事業
(朝鮮:森田一雄、台湾:八田興一の行った土木事業を代表例として掲出する)に
関する評価の違いについて考えると、民族的側面を含めた歴史的背景がまず関わって
くるだろう。それは、朝鮮民族は、その土地に永らく住んでいた「原住民族」に
近い存在で構成される単民族国家であるのに対し、台湾は原住民族に(革命後の)中国
からの移民を加えた異民族国家であることが関係してくる。
  既述内容を再び提示するならば、朝鮮民族は「朝鮮半島においては、朝鮮民族による
国民国家として大韓民国(韓国)・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)というふたつの
国家が存在する。しかしながら、両国の国民はともに同一の民族としての意識を共通
して有し、両国は元来ひとつに統一されるべき国家が仮に分かれているだけという
分断国家(分裂国家)として認められている」のに対し、台湾は「台湾地域の住民は、
漢民族と原住民に大別される。台湾の漢民族は、戦前(主に明末清初)から台湾に居住
している本省人と、国共内戦で敗れた蒋介石率いる国民党軍と共に台湾に移住した
外省人に分かれる。本省人が台湾で85%を占めており、本省人は福建系と客家系に
分かれる」ことが一般論の段階では言える。
  その中で、国家のあり方という側面に目を向け、国家的側面から考えられうる諸相
を考えてみよう。まず、単民族国家は、一つの民族で団結して歴史を切り開いてきたと
いう面から見ると、自国に対する愛着心、換言するならば「プライド」が強いと考えら
れる。
それに比べ、多民族国家(アメリカが代表的な例だろう)は、同一民族とは違い、
プライドはあるにせよ、自己の属する血系(種)に対する思いも混在していると考え
られる。民族間同士の融合に当たり、両者が相互に適応するという結果が生まれるの
ではないだろうか。
   そういった特性を踏まえると、同じ土木事業(社会資本)への評価は、朝鮮に
ついては、プライドが働くがために評価が低く、台湾については、融合(適応)への
免疫ができているため、受け入れられやすく、評価は比較的高くなると考えられる。
   また、第二次世界大戦時に日本が朝鮮に残した歴史的遺恨(従軍慰安婦問題等)を
踏まえると、儒教を主とする朝鮮は、日本である限り評価はなされないと考えることも
できよう。古くから高度な文明を提供し、現代日本の基礎を築いたのは我々だ、という
儒教的  な考えをしているとしたら、いかに大きな社会資本をもたらす事業を行った
としても評価はなされない可能性は高い。
   このように、民族的側面、それに伴い露呈する歴史的背景、また宗教的側面を踏
まえた思想的背景から見ると、評価の差異は前述したように表出する。優れた技術、
優れた人材を異国の発達につなげた人々が、正当な評価のもとに語り継がれることを
祈るばかりである。
   
  ●呉善花論と台湾の基軸を創った後藤新平、新渡戸稲造、そして、野口遵の計画した水豊ダム
  最後に、この点に関連した提言をしている研究者・呉善花の論のまとめ。また、
台湾復興に大きく関わった人物として代表的な後藤新平、新渡戸稲造の仕事。
そして、朝鮮に多大なる功績を残した野口遵と彼の計画した水豊ダムについて紹介したい。
  以降、前記三点について詳しく記していく。
  @呉善花「韓国・北朝鮮・そして日本」、高津康佑編『防衛開眼第32集 
新たな国際社会―日本の役割』(隊友会、2006)〔以降、『呉A』と記す〕および、
渡部昇一・呉善花『韓国の激情 日本の無情』(徳間書店、1996)〔以降、『呉B』と
記す〕における呉論の概要
   我々日本人の持つ、朝鮮や台湾に対する負い目。それは、「朝鮮」という言葉自体
が一つの差別用語として、現在の日本社会の中で浸透しつつあることに、一例として
ではあるが見て取ることが出来よう。
  その基底について、日本人が戦中時の日韓併合に位置づけることは少なくない
だろう。なぜならば、現在でも多く叫ばれる「従軍慰安婦問題」や「在日朝鮮人問題」
等は、そのほとんどが戦中時の遺恨として残っているからだ。 
 その中で、朝鮮における日本批判の根源を日韓併合と置く考えは、呉善花『私は
いかにして<日本信徒>となったか』によると、「自民族優位主義と日本蔑視の観点
は、韓国に古くからある中華主義と華夷秩序の世界観」(手元に文献がないため、
頁等の情報は不明)にあるされ、根源として議論されてきた植民地時代とは時代が
異なる、つまりは、よりその時代より古くからの目線でこの問題を見る必要があると
言及していることに呉論の注目すべき特徴があるだろう。
   『呉A』においては、日本と韓国における文化的差異(食文化、言語、習慣等)を
自身の体験を下に述べているが、その中に次のような説明がされている。
  「北朝鮮という国は社会主義国家、独裁国家なのですが、あの国もやはり韓国と
そっくり同じ儒教文化なのですね。」(『呉A』、51頁)

 朝鮮の儒教文化は、高麗時代までは仏教的価値体系のかげにあったが、李朝時代500年
にはヤンバン社会とそれを支える科挙および教育体系と結びついて支配的思想となり、
身分社会を律することとなった。(『百科事典マイペディア』参照)その身分社会を
律する儒教思想の延長線上に位置するものこそが、現代の朝鮮社会であり
、身内を敬う精神、年上(根源)を敬う精神が見られるのである。
  また、前述した日韓併合時代(呉の言葉を借りると日帝三十六年)の問題について、
  「あの問題をいくら解決したとしても、韓国人による反日感情は消えることはありま
せん。
  なぜかといいますと、これは価値観から来る問題が大きいからなのです。」
(『呉A』、87頁)
  と言及し、日韓人間にある「価値観」に焦点を当て説明をしている。これは、
文化的差異としても捉えることができるだろうが、民族間の抱える根本的差異とも
言え、両国の相互理解の困難な要因をそこに見出すこともできよう。
  一方、『呉B』では、韓国の一部学者(著名な大学教授ら)の唱える「大和国家=
百済の植民地」説、「古代日本人の90パーセント以上が韓半島人である」説を取り
上げ、自民族優位主義を特徴と置く韓国側の主張を以下のように説く。
  「日本が世界的な経済大国になることができたのは、彼らが優秀な韓民族の血を
もっていたからだと、韓民族の優秀さがそうさせたのであって、日本民族というものが
優秀ではない(後略)」(『呉B』)
   つまりは、日本民族の栄誉は全て韓民族の栄誉となり、そこでの功績も同様に
韓民族という枠組みに収まる。だから、ある意味で当たり前の行動のように解釈され
るのかもしれない。この点については、冒頭で述べた日本蔑視や自民族優位主義の
根本思想によって説明は尽きると考えられるため、詳しくは触れない。
  このように見てきた呉論をまとめると、朝鮮における日本蔑視や自民族優位主義の
根本的理由は、
  1、韓国に古くからある中華主義と華夷秩序の世界観
  2、儒教文化に特徴的に見られる思想的背景
  3、違った価値観に伴い発生する文化的差異
  4、韓国における極論の一般化 
  の全四点と置いていると考えられ、解釈が矮小化された現代的理由を否定するわけ
でもなく、また、肯定するわけでもない。古くからの歴史的、文化的な面を総括的に
検証し、結果、包括的に論じていると言えるだろう。
   
  A新渡戸稲造の台湾における仕事
  (花井等『国際人 新渡戸稲造―武士道とキリスト教』(広池出版、1994)を参照
し、それをもとに作成するもののとする。)
  新渡戸稲造は、明治34年(1901年)2月20日付で台湾総督府の技師となった。40歳の
働き盛りとなっていた。同年5月、稲造は総督府民政部殖産課長に任ぜられた。
6月には民政部物産陳列館長をも兼ねることになったが、彼に与えられた最大の任務
は、台湾糖業振興政策を樹立するにあった。
 始めに、交通網の発達していない台湾全島を約3週間調査したが、水害のために調査は
難渋を極め、結果、稲造はマラリヤに患ってしまい、調査中止を余儀なくされる。
その中で、児島源太郎総督は意外にも学者である稲造の理想論を聴かせよといい、
それによって奮起した稲造は、明治34年(1901年)9月、台湾糖業振興について
自ら信ずるところを大胆に書き上げた。それこそが、有名な「糖業改良意見書」である。
  糖業改良意見書は、次のような項目から構成される。
 「本島糖業の現状 本島の糖業に適する理由 (1)気象 (2)地形及土性 
(3)植物的比較 (4)労力の窮乏 (5)資本 (6)機械 (7)燃料の供給 
(8)市場の遠近 (9)輸出税 (10)政府の補助 本島改良糖業方法 
第一 種類の改良 第二 培養法の改良 第三 灌漑を利用し産額を増す事 
第四 既成田園を蔗園に替ふること 第五 蔗園に適する土地の新婚を奨励する事 
第六 製造法の改善 第七 圧搾法の改良 本島糖政上施設の急務」
(『国際人 新渡戸稲造―武士道とキリスト教』、197―198頁)
   稲造はまず、何故台湾糖業の産額が減少していったのか理由をあげ、次に政府の
保護と学理の応用をもってすれば充分改良発達の可能性があるとして、糖業改良の
具体的方法を七点挙げたのである。稲造は、この方法をうまく実行に移せば、
十年目には砂糖の生産額を現在の五倍にまで引き上げることができると断言した。
   それが児島総督に認められ、明治35年(1902年)6月14日、帝国議会に稲造の
意見書に基づく「糖業奨励規則」が提案され、採択されたのである。さらに、実行機関
として向こう十年間の予定で臨時台湾糖務局が設置され、稲造が局長に就任するので
あった。
 以降、糖業奨励政策は、稲造の意見書の通りに実行され、台湾の糖業は大発展を
遂げていくのであった。わずか数年の間に砂糖の生産量は三倍に伸び、日本国内の需要
を完全に満たせるようになった。また、樟脳、塩、ウーロン茶の生産にも最新の技術を
導入したこともあり、経済政策は大きな成果を上げるにいたり、当初の予定より五年も
早く台湾は自立できるようになったのである。
  B後藤新平の台湾における仕事
  (※伊藤金次郎『新領土開拓と後藤新平』(昭和書房、1942)を参照し、それをもと
に作成するもののとする。)
   後藤新平の植民地政策は、彼が台湾総督府民政部長官の時、大いに奮われることに
なる。台湾総督府民政部長官とは、台湾における殖産の仕事の総責任者であることを指す。
   そこでの仕事を概略的に記すと以下のように纏められよう。((T)(U)に
ついては後藤三大事業の中の重点事業と判断し、詳しく記すこととする)
  (T)社会公共的施設の整備による防貧、救貧への対策。
   ペスト巣窟と呼ばれるほどの不衛生地帯に清浄な小家屋を建て、それを提供した。
そのことによって、ペスト等の悪疫防止に、大いに役に立ったことは勿論だった。
  (U)アヘン撲滅政策
  アヘンの専売制度確立は、後藤の提唱に基くものだったが、島民によるアヘン吸引
は放任されているのが現状であった。そのため、対策を練った後藤は『台湾阿片制度に
関する意見書』を明治18年11月13日、芳川顕正内相に提出。同年12月14日には、
伊藤博文首相(台湾事務局総裁)へも提議した。それらが、台湾と後藤とを結ぶ奇縁と
なり、明治29年4月24日、衛星局長のまま、台湾総督府衛生顧問を仰せ付けられた。
  後藤案の骨子をなす「アヘン吸引者の鑑札制度」は、今日の切符制度と共通した
施策だった。明治30年ごろに行った調査では、中毒患者の調査が行き届かず、明治
33年、さらに精密調査をし、16万5752人(本島人口1000人あたり61人)を特許し、
その後も更なる精密調査をするとともに、これまでの鑑札下附制度のほか、通帳制
を施行した。この厳重な制限は以下のように記される。
 「(一)烟管吸引特許の鑑札所持者に限る。 (二)必ず購買者の携帯せる通帳に、
烟管の敷量買渡年月日、売渡人の住所氏名を記入する。 (三)購買者の携帯する特許
鑑札と通帳に付き、一日分の吸引量が記入してあるが、その一日分の吸引量の三倍即ち
三日分を越ゆる量の販売及所持を禁ず。」(『新領土開拓と後藤新平』、151―152頁)
   これは、昭和4年の阿片令改正により確立された施行細則で、こうした終始一貫
した厳重な取締りの結果、それほど重くない中毒者は、強制的に吸引を阻止され、
徐々に改善されていくこととなる。
  (V)舊慣調査
   後藤が、新領土施策として、第一に舊慣調査会を設定し、これを施政の根基的参考
とした。徹底的な新統治策を新領土に行おうとするならば、当然徹底的なる舊慣調査に
待たねばならぬと決意し、多数の専門学者を招致し、系統的、組織的なる調査研究機関
を設定した。
  (W)国勢調査(地籍調査)
   (V)にも繋がる内容であるが、台湾における地籍調査は至難なものであり、
これを成し遂げて日本最初の国勢調査を台湾において成功したことは、後藤の有名なる
功績の一つとして位置づけられよう。
  C朝鮮における水力発電プロジェクト〜水豊ダムを巡って〜
  <参考文献・URL>
  黄文雄『韓国は日本人が作った―朝鮮総督府の隠された真実』(徳間書店、2002)
  黄文雄『捏造された近現代史―日本を陥れる中国・韓国の罠』(徳間書店、2002)
  黄文雄『歪められた朝鮮総督府 だれが“近代化”を教えたか』(光文社)
  http://blogs.yahoo.co.jp/uturigi222/30867041.html
  http://japanese.joins.com/forum/board/delete.php?no=39897&depth=0&page=1

  朝鮮における水力開発について考えると、野口遵(のぐち したがう)は主要人物と
して位置づけることができよう。野口の功績は、彼に「朝鮮産業革命の祖」や
「朝鮮人の恩人」といった異称がついていることからもわかる通り、朝鮮の産業に
大きく貢献したことであると言えよう。以降、その軌跡を詳しく見ていきたい。
  彼は、まず咸興の北にある鴨緑江上流を堰き止めて、日本国内になかった17万キロ
ワットの巨大発電所を作る。それは、大正14年(1925年)に着工、昭和3年(1928年)
に完成した。さらに2年後、20万キロワットの発電所を作っている。計37万キロワット
という大発電所である。
   そこで咸興に続く町の興南に、1キロワット3厘5毛という安い電気料金を利用
して、朝鮮窒素株式会社を設立し、電力で空中窒素から硫安を作り、当時日本で消費
する硫安の3分の1を提供した。それに続いて白頭山、豆満江、虚川江などに続々と15万
キロワット級水力発電所を建設した。
   また、鴨緑江には、義州(イジュ)、雲峰(ウンポン)、水豊(スプン)など
7箇所にダムを建設し、巨大な湖を作ることで、180万から200万キロワットの出力が
可能な大発電所を計画していた。
  このように、朝鮮のエネルギー確保に貢献した野口は、引退する際に、その資産の
大部分である3000万円を寄付している。内訳は、文部省に科学振興のために2500万円、
朝鮮総督府に朝鮮人子弟の教育振興のために500万円だ。その功績は高く評価され、
昭和17年(1942年)5月には、勲一等瑞宝章を授与された。
   特に、先述した功績の一つにも挙げた「水豊ダム」は野口の数ある功績の中でも、
突出したものの一つとして位置づけられ、その概要は以下のように整理できよう。 
 鴨緑江水力発電株式会社の水豊ダムは、日本統治下の朝鮮総督府と満州国政府が
それぞれ工事費用(資本金)5000万円を出資し、昭和12年(1937年)に建設着手した。
このダムは、高さ102メートル、貯水容量116億立方メートル、出力70万キロワット、
総工費1億4000万円で、着工3年で完成し、昭和16年(1941年)から発電を始めた。
  貯水量は、琵琶湖の約半分に相当し、当時としては世界最大級だった。昭和20年
(1945年)の終戦時に、進駐してきたソ連軍が発電施設の一部を持ち去った。朝鮮戦争
中にも米軍の空爆に遭ったが、壊滅的被害は免れた。中朝両国は昭和30年(1955年)、
ダムの共同利用協定を結び、年間36億8千万キロワット時の発電を半分ずつ分け合って
いる。
  安定した発電を続ける水豊ダムは、エネルギー不足に悩む北朝鮮にとって今でも貴重
な存在だ。韓国統計庁の推計では、平成15年(2003年)の北朝鮮の発電量は196億キロ
ワット時で、その9%強が、水豊ダムから供給されている計算になる。