建設環境工学通論 平成15年度 応用化学科&材料物性工学科3年生
大久保と西郷
大久保 利通 について
鹿児島の城下高麗町に生まれる。薩摩藩士・幕末明治期の政治家。
父は小姓組(下級藩士)の薩摩藩士大久保次右衛門利世、母はふく子(皆吉氏)、長男。
字:利済、のち利通。通称:正袈裟、正助、一蔵。雅号:甲東。
生後間もなく下加治屋町に移った。西郷隆盛らと同じ郷中で幼少より特に親交が
あった。 アヘン戦争が始まったのは利通が11歳のときであり、西洋列強の東アジア
進出という状況のなかで、利通は成人した。西洋の脅威に対抗できる日本を建設する
というのが、利通の終生の課題となった。
17歳のとき藩の記録所書役助として出仕。
嘉永3(1850)年、嘉永朋党事件(高崎崩れ)に連座して免職。
同4(1851)年島津斉彬が藩主となった(襲封)ことで許され、同6(1853)年復職した。
その後西郷らと結び改革派の中心となった。
斉彬没後安政6(1859)年同志40余人と脱藩を企てたが、藩主忠義自筆の諭書により
取止め、これより同志は誠忠組と称せられ、以後藩主忠義の実父島津久光を擁して藩
を挙げての幕府と朝廷の協力体制(公武合体)による国力の結集を推進した。
文久元(1861)年小納戸に抜擢され藩政に参与し、次いで小納戸頭取・側役に進ん
だ。
寺田屋事変、生麦事件、薩英戦争、禁門の変から第一次長州征伐へと進むなかで幕
府の実体を知り、西郷と共に長州と和解して提携し、反幕派の形成を進めた。
慶応2(1866)年長州の木戸孝允らと薩長連合を結んだ。土佐藩との間で「薩土盟
約」を結ぶが、木戸孝允がそれを筆録した「議定盟約」が本館の維新資料に含まれて
いる。
翌3(1867)年王政復古、薩長両藩への討幕の密勅降下、王政復古の大号令などの過
程で岩倉具視と結んで討幕への動きに指導的な役割を果した。本館所蔵の利通自筆の
「薩長藝三藩盟約」は武力倒幕への盟約であり生きた維新資料である。
明治政府が成立(1868年1月)した慶応3年12月(1868年1月)に参与、明治2(1869)年7
月参議となった。新政府は、出身、利害、考えを異にする雑多な集団の脆弱な連合に
過ぎなかった。薩摩藩の指導者として新政府の中枢に入った利通は、列強に対抗でき
る強力な集権体制の樹立に全力を傾注した。東京奠都(てんと)、版籍奉還、廃藩置県
等の改革を成功させ、同4(1871)年6月大蔵卿となり内政確立をめざすが、11月には岩
倉遣欧使節団の副使として欧米各国を巡遊し、政治や経済の実情を学んだ。特にドイ
ツの宰相ビスマルクからは強い影響を受けたといわれる。
同6(1873)年帰国すると、内治優先を唱え、征韓反対を強く主張して年来の友西郷
と決裂した。征韓派参議辞職後、内務卿を兼ね政府の中心となり、産業化を推進する
こと(殖産興業)の決定的重要性を深く自覚し、その条件整備に専念した。産業化(特
に後進国における)の初期段階では、政府の指導が不可欠であることを確信した利通
は、殖産興業政策の推進をはかり、そのためにも効率的集権体制の整備に努め、また
政府の財政基盤を固めるため地租改正や秩禄処分を断行した。同時に利通は、民衆の
自発的努力なしには産業化の成功がありえないことを理解しており、教育の普及と地
方制度の整備に努めた。民主制を長期的目標とし、しかし当分は「君民共治」が現実
的だというのが利通の判断であった。対外的には無用な摩擦をさけるため征韓論に反
対すると同時に、主権確保のためには台湾出兵(1874)をためらわなかった。殖産興業
をすすめるとともに、自由民権運動、士族の叛乱、百姓一揆の続くなかで専制的な支
配を強めながら、同7(1874)年の佐賀の乱から同10(1877)年の西南戦争に至る事件処
置に挺身した。
同11(1878)年石川県士族島田一郎らによって紀尾井坂で暗殺された。年49。
西郷隆盛について
文政10(1827)年12月7日、鹿児島城下加治屋町の下級士族の家に生れる。家が貧しく
18歳の時に郡方書役助をつとめて家計を助け、また幕末期の農民の窮状にじかに接し
た。大久保一蔵・有村俊斎(海江田信義)らと「近思録」を読み、陽明学を学び、また
無参禅師について禅を学ぶ。安政元(1854)年に中御小姓となり、藩主・島津斉彬に従
い江戸に出て庭方役として仕える。その間水戸の藤田東湖、越前の橋本左内らの名士
と国事を談ずるほどに成長した。このころペリーの渡来により国情騒然たる時期で
あったが、斉彬の命により京都・江戸の間を往復し、将軍継嗣に一橋慶喜擁立の運動
に奔走したが、井伊直弼が大老に就任し、安政条約調印、紀州の慶福を将軍継嗣に決
定して反対派弾圧のために安政の大獄を起すに至った。
安政5(1858)年、斉彬病死にあたり殉死を考えつつ、僧月照を護衛して帰藩した
が、藩当局は月照の保護を認めなかったため同年11月、共に錦江湾に身を投じた。し
かし隆盛だけ蘇生し菊池源吾と変名をつけられけ奄美大島に流された。当地で謫居の
あいだは地元の過酷な砂糖取り立ての惨状に抗議すべく代官相良角兵衛に行政改善を
訴え、認めさせている。
3年後の文久2年召還されて帰藩し、大島三右衛門を名乗り徒目付・庭方兼務とな
る。このとき藩主忠義の実父久光が藩内の尊攘派を押さる傍ら朝廷と幕府に薩摩の国
威誇示を画策せんとしたがこれを無視して上洛に及んだため、その逆鱗にふれて6月
に徳之島、次いで南の沖永良部島に流された。2年後の元治元(1864)年2月に赦さ
れ、3月上京して軍賦役,小納戸頭取となり、7月の蛤御門の変(禁門の変),第一
次長州征伐に至っては薩摩藩代表として陣頭指揮をとった。またこの功により藩から
西郷復姓を許される。第二次長州征伐の起る頃、土佐の坂本龍馬の斡旋により長州藩
の木戸孝允らと薩長連合の盟約を結んだ。慶応3(1867)年、武力討幕の方向をとり、
12月9日の王政復古の大号令、明治元(1868)年正月の鳥羽伏見の戦いと幕府を追い込
んだ。やがて大総督府参謀となって東下し、旧幕府方の勝海舟と折衝して江戸城の無
血入城を実現した。戊辰の内乱終息後、明治2年に王政復古の功臣として賞典禄永世
二千石を賜り、正三位にも叙せられたが帰藩し鹿児島藩大参事となって藩政改革に
当った。
明治4(1871)年に上京して参議となり廃藩置県の断行に当り、のち政府の首脳とし
て岩倉使節団の留守を預かるとともに陸軍元帥兼近衛都督・陸軍大将となり、陸軍の
中心人物となった。同6年、征韓論が起ると自ら遣韓大使たらんことを主張したが、
米欧巡回から帰朝した岩倉・大久保らの反対によって敗れ、同志の参議板垣退助・江
藤新平らと下野し、ただちに鹿児島に帰った。
明治7(1874)年6月、士族子弟の教育のための賞典学校,吉野開墾社などの教育機
関「私学校」を創設。しかし私学校内には他に篠原国幹の監督する銃隊学校,村田新
八の砲隊学校が組織され、その経費自体も鹿児島県庁から公然と支出されていたた
め、これらを危険視した政府は密偵を放ったが結局発覚するところとなり、同10年の
西南戦争勃発に至った。薩軍は桐野利秋,篠原国幹らの主導により戦闘が行われ、隆
盛自身は一度も指揮をとることなく、黙って彼らに従ったという。9月24日、城山で
自刃。享年51歳。この役に関わったため官位を褫奪されたが、のち22年、正三位に復
し、35年嗣子が侯爵となった。墓は鹿児島市上竜尾町浄光明寺にある。
T 山 公将
--------------
O 槻佳太郎
2人の性格と行動パターンの違い
西郷はその人生の中で、しばしば、上役や身分の高い人に対して、自分が正しいと思
うことは思い切って死を恐れず発言する、という大胆な行動に出ています。これは西
郷の人生の一つの行動パターンとなっています。後に主君の斉彬に対しても、斉彬の
世継ぎの事や「お由羅騒動」に関連した者達の信賞必罰の事に対して、思い切った発
言をしています。西郷にとって神とも言えるような斉彬に対してですら、このような
行動に出たのですから、これは一種の西郷の行動パターンといって良いでしょう。
一方、大久保ですが、彼が「お由羅騒動」で感じ得たことは、西郷とは大きく違った
と思われます。大久保はこの騒動で、権力というものはいかに強大で、恐ろしいもの
か、というような権力の凄さというものを、まず感じたと思われます。また、それと
同時に権力への憧れというものも感じたと思われるのです。例え正義がこちら側に
あったとしても、少数の徒党では組織の権力には絶対かなわない。事を成し遂げるに
は、必ず強大な権力を背景としたものが必要となってくる。大久保は父の遠島や自分
の免職謹慎で、そのように感じたであろうと思われます