カイザースラウテルン、人はその名を聞くと何を思い浮かべるだろうか。
サッカーチーム・1 FC カイザースラウテルン(カイザースラウテルンの第一番目の
サッカーチーム)、教区付き司祭、オペル、カイザープファルツ
(皇帝宮殿)、プフェルツヴァルト(プファルツの森)であろうか。
カイザースラウテルンはしかし、ユーロッパで最大の米軍の駐屯地である。
そして若い大学都市でもあり、ルートヴィッヒスハーフェンとザールブリュッケンの中間
に位置する重要な都市である。882年に初めて公文書に記録されたカイザースラウテルン
は若い躍進的な大都市であり、人々はエネルギーにあふれ、生きる喜びに満ちた、
余暇の楽しみが多い町である。つまり、この町のように仕事と余暇の楽しみが両立して、
陶然としたワインとドイツ文化が調和した町は他の大都会には決して見られないのである。
(p2-3  3)

若い大きな町
カイザースラウテルンは、ライヒスヴァルトやプファルツヴァルトといったドイツ国内でも
大きくまとまった森林地帯の一郭にあり森に囲まれている。
町の風景は古いものと新しいものが互いに調和してひとつにまとまっている。
それゆえこの町は我々およそ10万人の故郷のように思われるのである。
写真の左にはベツェンベルク山のフリッツ・ヴァルター・スタジアムが見える。
(p4-5  4)


ザンクト・マーチン・プラッツ(聖マーチン広場)はシュタイン通り、クロスター通り、
マルクト通りの歩行者地帯とつながっている。そこには昔の建物や美しい樹木、ノスタルジックな
街灯、すばらしい鋳物の噴水そしてシュポリーエンゾイレなどが600年の間
変わらず残っている。
それゆえその場所は若者から年輩者までの好ましいふれあいの場所となっている。
  (p6-7   10)


街路から車両をしめだすことに成功した所はどこでも、人々は以前には得られなかった
町の夢を獲得することに成功した。つまり買い物をしたり、ぶらぷら歩いたり、
ビールやコーヒーを飲みながら話すために集まるのである。それは再び楽しみとなった。
小売店とレストランはこのチャンスを利用して都心を活性化させている。
  (p8-9   11)

町の中心部の主な機能は、この町の訪問者がここで買い物をするのに便利なようにすること
である。そして、訪問者による地域商店りの売上げの一部が、都心の歩行者ゾーンの拡張工事
の財源となっている。
重要な通りは、ケルイトシュトラーセ、マルクトシュトラーセ、シュタインシュトラーセ、
ファッケルシュトラーセである。
  (p10-11   14)

歩行者ゾーンのデパートやブティックや最新の品物を並べた週末の色彩豊かな市場を
ぶらぷら歩くのは、地域住民にとっても観光客にとっても楽しみとなっている。
  (p12-13   17)

建築としての魅力的な背景や木々や美しい街灯やベンチは、居心地のよい雰囲気を創り出す。
そして、そこを訪れる人は得をした気持ちになり、心地よくカフェや居酒屋で過ごすのである。
歴史的旅館「ツーム・シュピンレトル」はおそらく1740年から営業を始めたであろう。
その建物は美しい中庭付きで1550年に建てられて、この町に残された唯一かつ最古の
木組の家である。   (p14-15   23)

町の顔は変化に富んでいた魅力的である。
左の写真はマルクト通りの住宅と商店が一緒になった建物である。
旧市街のマインツェル門には彫刻家ルンプによるカイザーブルンネン(皇帝の噴水)を備えた
記念碑として造られている。その中の彫刻はそれぞれ、町の歴史の意味を表している。
  (p16-17   39)

細部の発見
しばしば、この町を愛すべき見る価値のあるものとする細部が目につく。それはたとえば
マーチンプラッツのレッティングハウスの門の18世紀の後期クラッシック様式、あるいは
市庁舎のロココ様式の装飾、アードラーアポテーケの入口、カイザーブルンネンの青銅の彫刻、
新しい州立劇場の現代彫刻などである。(p18-19  42)

カイザースラウテルン、多くの歴史を持つ町
このような世紀末の家並みの続く通り「フィッレン通り」のような田園風景は
町のいたるところに見られるわけではない。
第2次大戦で60%が破壊され、今日この町の人口は約10万人である。
プファルツはかつてバイエルン州に属していた。この町の歴史の証拠を読み取る
ことのできる者は、数多くの白と青の布きれが潜んでいることに気づくであろう。
町の警察本部の建物もその当時のものであり、その礎石はプファルツの泡沫会社群生時代
(1871年後のバブル時代)の経済繁栄を目指して置かれた。
  (p20-21   46)

この町は、町の南のレムヒェスベルクの丘の上の1970年から活動している大学
によっても新しい推進力を受けている。その大学には現在、数学、物理学、化学、生物学、
情報処理、機械工学、電子工学、建築学の11分野の学科がある。
カイザースラウテルンの都心部には700年の歴史の反映されている。皇帝フリードリヒ1世
バルバロッサの居城跡の遺跡の脇にこの町で一番高い建物として1968年に建設された
市庁舎がそびえ立っている。その屋上からこの町と周辺の地域のすばらしい眺望を楽しむ
ことができる。  (p22-23   47)


約1150年頃にフリードリッヒ一世皇帝バルバロッサによって建設され、約1220年頃に
彼の孫フリードリッヒ二世によって再建増築された城は今もなお残っている。地下には
まだ発掘されないものが少なからず眠っているので、市庁舎の足下のこの場所が小さな
博物館地帯として保存されている。
城博物館にはプファルツ伯ヨハン・カシミール「プファルツ選帝侯国の狩人」の
16世紀の建設された城の遺物が収蔵されている。しかし、博物館としての使用は
一般的な文化利用にとって代わられている。つまりカシミール広間は市の迎賓館のような
客間として使われる。(p24-25   49)

芸術の場所、出会いの場所
市庁舎の近くに印象的な砂岩でできた建物である新しいプファルツ州の劇場がある。
現代では演劇や音楽劇場に必要な程度の高い演出からコンサートや野外のイベントまで
行われている。この建物の基礎建設工事中に町の保塁の一部と新石器時代の居住地跡が
発見された。
テオドール・チンク博物館と共にワドガッサーホーフは、古い町の魅力的な端の景観を
形成している。ワドガッセンにあるプレモンシュテンザー修道院の農場はかつて
プファルツ伯ルートヴィッヒ・フィリップの所有であったが、後に彼の妻だったマリア・
エレオノーレ未亡人の所有することとなった。
  (p26-27   I)

18世紀の家具や備品設備を整えた壮大な漆喰仕上げの部屋は、その過去を思い起こさせる。
交差したアーチ天井をもつかつての修道院の小さな礼拝堂もまた訪れる価値がある。
  (p28-29   54)

テオドール・ツィンク博物館は数年前まではツーム・ラインクライスという名の宿屋であっ
ものに設置された。このようにして1817年から増築部分をそなえた立派な建物が、利用的な
使われ方をしている。
博物館は故郷の民俗学や町の歴史や博物学の資料の収集と研究に一生を捧げた教育者
の名前をとっている。
今日の博物館の収蔵物には、ラインラント・プファルツ全州からのものと同じくらい
この町の新石器時代から現代にいたる文化財が含まれる。
  (p30-31   55)

旧カイザースラウテルンの町はずれに前世紀末に建てられたプファルツ・ギャラリーを
付置されたプファルツ商工業研究所がある。そこには絵画、文字装飾、彫刻などの
プファルツにおいてよく知られた保管所となっている。
カイザースラウテルンの町や州はこのミンナ・ベックマンの絵(1930)のような
価値あるコレクションを増やすための絶え間ない努力を続けている。
この建物で開催される特別なイベントのリストは広範囲にわたっている。
  (p32-33   61)

フルフトハレは訪問者の多いよく使われる町のホールである。
1843〜46年にマーケットとして建てられた建物は、19世紀の終わりに町のホールとして
改築された。ここで交響楽や室内楽やジャズコンサートが行われるが、また会議も開催
される。社会的な催し物(イベント)がこの建物で開催される時、広く割り当てられた
回廊は通路としてだけはなく、多方面の展示場ともなる。
かつての紡績工場はの文化の中心カムガルンになった。サルサナイト、ジャズ、ロック、
ポップスのコンサートから演劇の上演やコメディ劇にいたる人気イベントは、ユニーク
な体験ができるゆえ、まるでマジックのようにファンを引き寄せた。
    (p34-35   OT)

カイザースラウテルンの教会
ユニオンスプラッツの小さな教会は1711年から1717年にかけてルターの信者によって
建てられた。それはプファルツのプロテスタント教会の歴史を示す証拠である。今日も
その教会は結婚式によく使われる。
「美しい泉」は修道院付属教会堂の前に立っている。それは1571年にはじめて名前が出てくる。
帝国自由都市のシンボルとしての鷲、および主権の表れとしての獅子で表される町の紋章を
18世紀のはじめから、泉の頂部に載せている。 (p36-37   71)

聖マーチンとマリアの2つの修道院付教会は今日ではプロテスタント教会であるが、
皇帝フリードリッヒ1世バルバロッサによってプレモンストラート寄付として建てられた
ものである。基礎工は最近の発掘によって人目にふれるようになってきた。
今日の構造物は本来は1250−60年(内陣)に始められ14世紀前半で完成された
ものである。
塔と増築部分は本体とは異なる様式で作られた。巨大な交差するフィールングの塔を
そなえた美しい赤い砂岩の構造物は、中部ラインの教会建設の伝統に完全にもとづいている。
入口ホールには2つのプロテスタント宗派の1818年の連合を記念してルターと
カルバンの像が両脇に並んだ連合記念碑が立っている。  (p38-39   72)

旧フランシスコ教会(現カトリック教区聖マーチン教会)は
町の2つの古い教会のうちの1つである。その建設は托鉢修道会の伝統にしたがって
塔を建てずに1284年以後にはじまった。宗教改革の時に修道院は解散され、
袖廊(翼廊)のみ有する尊者の部屋は、武器庫としてばかりか乗馬ホールとしても
1893年になってはじめてこの建物は再び教会として使用されるようになった。
そして、その質素で厳粛な部屋では中央に置かれた礼拝堂でかつて波の怒濤のように
行われた命のすり減るような信仰は捨て去られた。
聖マリエン広場のマリエン教会はケーニッヒ通りの端にある。
  (p40-41   SB)

聖ネポムクの像は、当初は聖マーチン教会の玄関に立っていたが、
ラウター川に架かる近くの歩道橋シェール橋の上の橋聖人となったのだ。
州のガーデンショー ガーデンショー・カイザースラウテルン
ラインランナト・プファルツ州の最初のガーデンショーでは、開園の2000年には
100万人を超える訪問客が見られた。カイザースベルク近郊、カムガルン近郊、
そして元は塗擦場だった土地が、創意に富み色とりどりの花々が咲く公園となり、
散歩をしたりくつろいだりする人々が見られた。遊んだり、楽しんだり、スポーツ
をするため、あるいは展示や催し物のためにカムガルン一帯や以前からの
ノイミュール公園が整備された。   (p42-43   A)

     ☆   ☆

古戦場には多種の娯楽施設が作られた。そうして州庭園展はこの町をふくむ地方で
あとあとまで推進力をもった。左の写真はシュテリング作のオフェリアである。
上の写真はカイペレーケによるカイザーと恋人のラウテルである。州庭園展の端に
この偉大な町の田園的やすらぎの場所である日本庭園がある。
  (p46-47   13037)

余暇と週末
ドイツにはカイザースラウテルンほど森の多い町は他にない。
人々は森の中の小川や渓流をゆっくり進みながら町へたどり着くことができる。その際
レクリエーションとして散歩やサイクリングなどを選択することができる。
せわしない日常を好む者でさえも、そのうち5月市場とかラウテレル・ケルヴェと
いったこの町の古い祭を待ちわびるようになるだろう。
カイザースラウテルンの数キロメートル北にあるオッターベルクの小さな町を訪れる
ことは特別の魅力がある。その町の中心にあるチスターチェーン修道院は重要な修道院
教会とともに13世紀のはじめに建てられた。その後修道院は1561年に廃止された
が、プファルツ伯のジョセフ・カシミアは宗教的亡命者をここに住みつかせた。
その人々はこの町を大きくした。この地方の郷土博物館はこの町の役所にある。
   (p48-49   30)

旧市内の中心部にあるオッターベルク修道院教会は1168−1254年に建てられた。
それは古い山の上に修道院として1143年に創設されたものである。
その教会はカトリックにも宗教改革派にもそれぞれ平行して使用された。そしてそれは
対立を引き起こし、1708年に身廊と袖廊(翼廊)は壁で仕切られてしまった。
1979年に大規模な改装により壁は撤去され、教会は再び美しさに満ちたものとなり、
今後も2つの会派によって使われるであろう。  (p50-51   48)

それはとの南に位置するフムベルクの長い散歩にすぎない。塔の上から
眺めると、その町と隣接しているプファルツの森の国立公園の景色はすばらしい。
牧歌的なハンマー池のあるブレッヒハンマーまでのハイキングはポピュラーである。
  (p52-53   CH)

この地域の山頂に城や廃墟がどのくらいあるか誰も数えられない。
たとえばホーエンシュタウフェン家によって設立された上の写真や左の写真のホーエ
ネッケン城や1689年のプファルツ戦争の犠牲となった多くの城がある。
  (p54-55   SK)

添削していただいた Sebastian Bartholome氏(岩手県地域振興部文化国際課)に感謝します。