自己責任と自己表現
2001.5.2
要約
日本社会全般にわたって、自分のしたこと、しなかったこ
とに対して自ら責任を負うという自覚が希薄になってきて
いる。
こういった社会全体の責任意識の曖昧化は、教育における
自己責任の希薄化にも結びついている。それに関連して、若
者たちに見られる「自己表現」の希薄さも問題だ。今の若者
たちは、自分の考えや感じ方について語れないもしくは表現
できないという人が多い。「本物の私」を見てほしい、知っ
てほしいという根源的欲求があるにもかかわらず、うまく自
分を表現できない。そのため、思いもよらぬ反社会的な形で
自己表現しようとする。
表現力教育の不徹底さは、文化的要因もあろう。日本人
は「不言実行」を好む。しかし、この「不言」の美化が「自
己表現」をマイナスのイメージに作り上げる結果になってい
るように思える。自己表現のこのような漠然とした消極視は、
そのための訓練や教育を脇へ追いやる原因となる。だが、自
己表現ができない人は、当然自己反省もできなくなるのでは
ないか。行動だけでは十分ではないのだ。
では、このような社会一般にみられる自己責任の希薄な風
潮にあたって、さらに自己表現を軽視してきた風潮にあたっ
て、大学はどうあるべきか。
自己責任の希薄さは、倫理観の低下と切っても切れない関
係にある。大学生になって初めて倫理意識の高揚の訓練を受
けても遅く、維持や助長しができない。しかしそのやれるこ
とを最大限に実行すべきだ。授業等だけでなく、換言すれば
大学のハードとソフト全てが倫理教育の手段になれるはず
である。そして、自己表現能力に関しては大学が自己表現で
きる「場」を学生に多く与えることが大事だ。
ところで、自己表現の場は学校生活の中に終始するもので
はない。それは教育を終えた後の社会においていっそう重要
となってくる。人生を自己表現の場として生きるところに人
間らしさの根拠がある。
「自己責任」と「自己表現」。高等教育において、今こそ重
視すべき事柄だと思う。
感想
私は、日本の若者のことしか分からないが、確かに今の
若者は自己責任や自己表現ができないと思う。苦手とか嫌い
というレベルではなく本当に“できない”のだ。
また、今の若者は何を考えているのか分からない人をクー
ルと感じてそれが良いことだという考えの人も多い。さらに
は、自己表現が強い人は反対に皆から嫌われたり厄介と思わ
れたりしてしまう。
そして、自己責任が希薄というのは、自己表現ができない
こととつながっていると私は思う。自己表現をしないから自
分自身について考える機会が必要ない。その為自分で自分が
わからない。だから自分に対する責任感も感じないのではな
いか。
技術の発展している現在では直接人と関わりを持たなく
ても生活を送ることができる。私もコピーしたりお金を下ろ
したりするときはできる限り自動でできるところを選ぶ。た
かがそれだけのことをと思われるかもしれないがたかがそ
れだけのことだからこそ人と関わりたくないのだ。
前までは人前で話すことにあまり抵抗を感じなかった私
だが、だんだんと人に注目されながら話すことが苦手になっ
てきた。そのことが自分でもとても悔しい。「自己責任」と「自
己表現」、どちらも自分で意識をしないとレベルを上げるこ
とはできない。私も自分の考えをしっかりと持ち、それを、
人にきちんと伝えられるように日々努力をしていこうと思
う。
自己表現ができない若者が多いという批評は、確かなことのように思う。
ただ、自己表現する必要性のない社会で育ってきたことの結果であるとは
いえないだろうか。
今日の日本人の多くは、レベルの差こそあるが、衣食住などに困っている
者はほとんどいない。当然のように与えられた環境の中で不自由なく
生きてきたわけである。強い欲望を持ち、それを手に入れるために努力し、
手に入れて、強い満足感を得るという経験は少ない。欲のない精神状態
は一見、高等そうに思えるが、それは空虚である以外の何者でもないと
思う。多くの発明や新学説は便利にしたい、快適にしたいなどの欲望が
原動力となり、今日まで発展してきた。そんな欲の少ない状態では自己を
表現すること自体、厳しい話ではないだろうか。
なぜ欲をもたなくてもいいような社会になったのか。それは、世の中が
豊かになった表れではないだろうか。これはもちろん物質的な面での
豊かさである。高度経済成長以後、物の豊かさと引き換えに、都市化、
核家族化、少子化など、人との関わりが減った。最近発展のめざましい
IT、情報技術がさらに直接的な人との関わりを減らしてもいる。
人と人とが交わる中で行われるのが自己を表現し伝えるということである。
情報技術といっても、両端にいるのはまぎれもなく人間なのである。
人との交わりを大切にしていかねばならない。交わりの中では、自然と
自己を表現する場面に直面するのだから。
この文は、どんな読み手に対して書かれたのかはわかりませんが、もし、
「自己責任」と「自己表現」の重要さを、私たち大学生に伝えるのであれば、
この二つのおもしろみの方からうったえて欲しかったと思いました。
なぜなら、自己責任を持って何かをすれば、それを成しとげた時とても
満足感があるし、自己表現がうまく出来れば、対人関係がとてもうまく
いくと思うし、それはとてもおもしろいことだと思うからです。
私は、教育というのは、あることに興味をもたせ、おもしろさを伝えるもの
だと考えています。しかし、これには、教育する側の人間が十分に
おもしろさを感じていて、それをうまく表現できる能力がなければなりません。
ここで、重要なのは、一人よがりな教え方にならないこと。教育とは、人と人
との間で成り立っているものなので、相手がどのように受け止めるかを
きちんと考えた上でやるべきだと思います。しかし、学校側に期待するのは
やめます。無理なんじゃないでしょうか。
ここで、私自身の話をしたいと思います。私は学芸会が大好きでした。
「赤ずきんちゃん」の森の動物、「金のオノ、銀のオノ」の妖精、
「アリババと40人の盗賊」の盗賊の頭、「はだしのゲン」のえい子姉ちゃん、
さまざまな役を演じました。私にとって、役をどのように演じるかが
自己表現のおもしろさを感じた始まりだったと思います。
私は何にだってなれました。
私は昔から学級委員をやるのが好きで、たくさんやりましたが、
最近では、大学の寮の行事を企画実行しました。責任が大きかったし、
大変だったけど、行事を無事に行えた達成感はなんとも言えず
気持ちのよいものでした。
「自己責任」と「自己表現」は、とても楽しいことです。
私たち大学生だって、みんな知っているんじゃないの?
知らないならかわいそうだな。