工学部創立と原敬 小川博三 原敬と北海道大学 北海道帝国大学工学部は大正十三年(一九二四)九月勅令第二二四号を以って 設置された。しかし実際はそれより六年乃至五年以前に設立が決定されていた のである。大正七年九月二十九日我が国最初の政党内閣を組織した原敬は中橋 徳五郎を文相にあげ早速日頃抱懐する文教政策を実施しはじめた。彼は十二月 二十五日召集した第四十一議会に高等教育機関拡張の案を提出した。この計画 について宮中は特に内帑金一千万円を下賜されたのであった。工学部講堂の建設 はこの議会における追加予算二、一二六、一九〇円に基づくものであって大正 八年から十三年までの間に建設すべきものと定められた。今見る白亜の校舎は 之によって十二年十二月に完成したものである。 原敬は北大工学部の設立に特別の関心を抱いて居たものであろうか。全国に 高等教育機関を設立或は拡張することは彼の基本的な政策であったし又一国の 宰相として特定の一大学一学部に偏愛を示すことは考えられない。又夫を証明 する様な正式の文書も今の処発見されてはいない。しかし北大工学部の場合彼 は日頃の意見からも又多少の個人的関係からも特別の感情を持ち又努力したもの と思われる理由がある。 第一に彼は北海道の開発に特別の関心を持って居た。青年時代北海道を周遊 し感銘を受けた彼はその政治生活を通じて北海道開発の為に政敵と闘うことを 辞さなかった。彼は北海道の開発の為に特に交通機関の設置に尽力し港湾修築 については自ら視察し又札幌農学校出身の工学者広井勇博士などより直接説明 を聴取して居る。彼はまた北海道人士の人心を洞察しその短所を指摘して居る がそれらの言葉は半世紀を経た今日でも我々を肯かせるものがある。第二に彼 は工学部創立当時の総長佐藤昌介と同郷同年同学の友であった。原はみだりに 感情に動かされない冷徹の人であったが友人や部下に対しては極めて暖かい親分 でもあった。彼は友人部下をかばう為に危険に跳び込む侠気の持ち主であった。 佐藤とは年少以来の友人であり且少年時代は多少佐藤の父の恩誼も受けて居る。 一方佐藤は明治十三年第一回生として札幌農学校を卒業以来その一生を北大発展 に捧げた人である。政治家であった父の血を受けて学者には珍しい政治的才腕 を有して居た彼は幾度か母校の危機を切り抜け又機会を見て発展の方向に導いて 来た。ウイルソン大統領と原首相とを誇るべき友人として居た彼はこの機会に 原に頼るところがあったと見るのも強ち無理ではあるまい。第三に原自身が 北海道大学に貢献した実績をもって居ることである。札幌農学校はその創立以来 大学程度のものと認められてその卒業生には学士号を授与して居た。従って 我が国の学制の変化に伴っていずれは大学に切り替うべきものではあったが校運 に盛衰あり必ずしも思う様には行かなかったのである。明治三十九年福岡に九州 大学、また札幌農学校と仙台に新設の学部を合わせて東北大学をつくる案が時 の文相牧野伸顕によって提出された。しかしその年の十一月三十日には此の 文部省案は大蔵省の大削減にあって陽の目を見ないことになった。一旦は東北 大学農科大学となりやがて築くべき北海道帝国大学への第一歩とした佐藤の計画 はもろくも崩れ去るかに見えた。原はこの時内務大臣であったが自ら後見人の役 を務めて居る古河虎之助に説いて巨額の寄付をさせた。その中札幌農学校の分は 一三五、〇〇〇円で予科教室、実科教室、農芸化学教室、林学教室、畜産教室など 八棟約一、四〇〇坪に充当すべきものであった。明治四十年六月二十二日を以って 東北帝国大学農科大学が発足することが出来たのは之に基づくものである。 以上三つの点から見て文教政策に熱心であった原が最も時代の要求して居る 工学部設立に関心があったと見るのはむしろ当然であろう。事実これより数年前 の医学部設立は寺内正毅内閣のもとにあって辛酸を嘗めて居る。これにくらべれ ば工学部の設立はむしろ一気呵成に成った趣がある。 それでは北大工学部創立に力あったと思われる原敬と佐藤昌介の夫までの履歴 について触れてみよう。 原と佐藤 原敬は安政三年(一八五六)二月九日盛岡に生まれた。幼名は健次郎といい家は 南部藩の高知格であった。祖父直紀は殖産や財政に詳しく、藩の家老役をつとめ 父直治も新番頭をつとめた程の人物であったが、敬が十歳の時に早逝した。丁度 その頃戊辰戦争に官軍に抗して敗れた南部藩は非常な窮地におちいり、藩士である 原の家はさなきだに当主を失って辛酸をなめた。然し彼は賢母リツの庇護により 明治三年正月、年十五歳で藩学作人館に入って勉学する事が出来た。明治四年 十二月彼は同志と共に上京し京橋区木挽町の共憤義塾に入学した。この塾は旧藩主 が開いた英語学校である。旧藩主南部利恭はもとの少参事佐藤昌蔵即ち昌介の父 に俊才を選んで遊学をすすめるよう依頼したが原はその時の選にあたった十三人 の中の一人であったといわれて居る。その後彼は天主教会神学校に転じて宣教師 からフランス語を学び、明治八年には東京三叉学舎に入り九年には司法省法学校 に入学した。しかし十二年退学処分を受け郵便報知新聞記者となった。時に二十四 歳であった。明治十四年東北、北海道を旅行、十五年郵便報知新聞社を退き大東 日報社に入ったが、その年の十月外務省に入った。ここに彼の官界生活がはじ まったのである。 明治十六年十一月清国天津領事、その後パリー公使館書記官を経て二十二年には 井上馨の下に農商務省に転じた。陸奥宗光が井上と代るや彼は怱ちに敏腕第一と いわれた陸奥と肝胆相照す仲となった。陸奥が外相に転ずると外務省通商局長と なり二十八年には次官となって陸奥を助けた。三十年大阪毎日新聞社社長、 三十三年立憲政友会創立に際しては井上馨の推薦で総務兼幹事長となり会計面を 一手に握った。三十三年十二月伊藤内閣の逓信大臣、三十四年北浜銀行頭取、 三十六年大阪新報社長、三十八年古河鉱業副社長、三十九年以降西園寺内閣第一次 第二次内相として副総理的手腕を振い、更に山本内閣の成立にあたっては自ら内相 となり閣僚の大半を引率して入閣した。大正二年六月西園寺公望の後を受け第三次 政友会総裁となり、政治的手腕を振って党内の結束を固めた。大正七年九月 二十七日大命を拝し同二十九日内閣を結成した。これが我国最初の政党内閣であり 且つ史上最強の原内閣である。 佐藤昌介は安政三年(一八五六)十一月十四日佐藤昌蔵の長男として岩手県花巻に 生まれた。即ち原敬より九ヵ月の弟である。幼名は謙太郎といった。父は南部藩 花巻城御取継役という重役の地位にあり多難な藩の行政に参画していた。この昌蔵 こそ後日日本最初の代議士になった人である。彼が十三歳の年即ち慶応四年(明治 元年)戊辰の役がおこり父は青年の一隊を引率て秋田口に出陣した。その時昌介は 留守隊に残り太鼓打方となったが、年齢不足の為出陣を許されず悲憤の涙にくれた という。明治三年父昌蔵は南部藩少参事に任ぜられ一家は盛岡に引き移った。 その年藩校作人館に入学したのである。明治三年の藩庁目録には謙太郎昌介は学術 すぐれ洋学考査の際成績抜群で銀一枚を藩庁から贈られたことが記されて居る。 明治四年一月上京、深川にある郷土の先輩小笠原賢蔵の塾に入り英語や数学を学ん だ。ついで五月大学南校に入り英語修業、翌五年横浜修文館に赴きドクトル・ ブラウンから英語を学んだ。一説には共憤義塾にも入学したという。昌介はその後 家事の都合で休学して花巻に帰り二年間花巻、盛岡の間を往来した。これは盛岡県 権典事であった父昌蔵が免官となったことと或は関係があるかも知れない。明治 六年上京、七年春大学南校の一後身東京外国語学校に入学した。明治九年七月東京 英語学校(東京外国語学校の分身)卒業直前の彼は札幌農学校新設に伴う入学生の 募集を受けた。後ウイリヤム・クラーク(William S. Clark)を助けて札幌農学校の 基礎を築いたペンハロー(David P. Penhallow)とホイラー(William Wheeler)の二人 がその勧誘者であった。昌介は即座にこの勧誘を受け一生を北海道に捧げる決心を したという。時に二十一歳であった。 開拓長官黒田清隆、札幌農学校教頭ウイリヤム・クラーク等に引率られて東京 英語学校の同窓七人、開成学校の二人と共に渡道し八月十四日札幌農学校生と なった彼は学生中最年長であり終始長老のニックネームでよばれた。且又統領と してたてられて居た模様である。この事は同級生大島正健の回顧にもいわれて居る し、又札幌農学校時代の記録に徴しても明らかである。例えば十一年七月三日の 演芸式においては代表として祝詞を述べ且邦語公説「農業及びその発開」を行って 居るし、十一年十一月十六日行なわれた演武場(現時計台)開筵式にあっては「生徒 総代として祝文を読み次で邦語を以って演説」して居る。彼の友人原が司法省 法学校在学中常に統領を以って擬せられ政治家を以って目せられ、ついに賄征伐の 責を負わさせられたことと一脈通ずるものがある。明治十三年卒業と共に彼は母校 に残った。これが本学卒業生で母校に職を奉じたものの最初である。彼はブルックス 教師(William B. Brooks)を助けて本科一年級の為に農業実習を担当した。 明治十五年職を捨てて合衆国に自費留学、ニューヨーク附近のホートン大農場で無給 の実習生となった。彼は前年稲田ヤウと結婚して居たが全然収入が無かったので原 敬の大東日報にアメリカ通信を送り何程かの稿料を得て学費の一部に充てたという。 そして翌十六年には創立日浅いジョンス・ホプキンス大学に入学した。ここで彼は 後の大統領ウッドロウ・ウィルソンと同級になるのである。彼は在学中札遇研究生に 選ばれ又農商務御用係に任ぜられ六百円也を給せられたのでホートン農場時代とは 比較にならぬ楽な生活を営み得た。尚東京に残した妻子の生活費は明治日報に送った 稿料を以って充てたという。 明治十九年北海道庁が置かれ佐藤は道庁属に任ぜられて農業教育の研究調査を 命ぜられた。その年の八月帰朝した彼は宛も札幌農学校が縮少の危機に直面して 居るのを見た。彼は長官岩村通俊に札幌農学校の使命と成績を述べ単に維持する ばかりで無く米国農工科大学の例に従い工学部を併置すべきことを切論した。 翌年三月工学科が札幌農学校に置かれたのは之に基づくものといわれて居る。 彼は十九年の十二月教授に任ぜられた。之が本校出身で教授になった最初である。 明治二十四年八月以来彼はたえず札幌農学校の統領であった。即ち二十七年 四月まで校長心得、四十年八月まで校長、大正七年三月まで東北大学農科大学長、 昭和五年十二月十九日まで北海道帝国大学総長であった。 原と佐藤はそのコースを異にしながらふしぎに符号の合致するものがある。 明治三年共に作人館に学び四年共に上京した。不安定な青春の数年の後明治九年 それぞれの方針に従って法学校と農学校に入学した。そして十五年にはそれぞれ の道に於て人生のスプリング・ボードをけったのである。 佐藤が多年辛苦した目的を遂げて北海道帝国大学を築いたのは大正七年三月 三十日である。而もこの年九月二十九日原はまた宿願の日本最初の政党内閣を築い たのである。筆者は原敬に面晤する事は無かったが佐藤にはしばしばその直話を 聞く機会を得た。彼は「原君」を連発し「自分も政治家になって居れば原君位 には」というようなことを本気とも冗談ともつかず話した。彼らの友情は十五歳 の時の作人館を以ってはじまるのである。 それでは作人館とは一体何であろうか。 作人館 南部藩は明治維新以前藩の子弟の為に学校を開いて居た。はじめ明義堂、後に 作人館と改称したものがこれである。明治元年奥羽同盟に加担して敗北した南部藩 は領地の没収にあい当然のこととして藩校も閉鎖させざるを得なかった。しかし 明治二年には藩主の旧領地復帰が許され盛岡城に盛岡藩庁が開設された。その事務 機構は三職五局制であったが三職の中に藩学職を置き藩立学校を管理することに なった。こうして廃絶された作人館は旧藩時代の名称をそのままうけついでその年 の十一月一日を期して再開された。ここにいう作人館、所謂後期作人館が之である。 建物も旧館を利用して校費として年間米一万俵を予定して居た。 教授は大教授、少教授、大助教、少助教、長上生の五種に分けられこれを統轄 する為学令を置き、監督機関として学監を、又寄宿生を監督する舎監、寮長、他に 事務担当の書記を置いた。教科も修文所、昭武所、医学所、洋学所の四種に分けた。 各部門とも大教授一、少教授二、大助教二、少助教二の構成であったが実際には 大教授、少教授の任用は無かった模様である。それは前期作人館の教授那珂通高が 藩の責任をうけて獄中にあった為であろう。 那珂通高は、年少江幢五郎と称していた。東条一堂、森田節斎、坂井虎山に学び 頗る俊秀の誉が高かった。彼は或事件に基づいて獄死した兄の仇を狙い江戸仙台の 間で或は無頼の徒の中に潜伏し或は剣道の師範をして数年を過した時期がある。 親友吉田松陰、宮部鼎蔵がこれを助けようとして東北地方を周遊した。ついで ながら松陰が兵学者より勤王家に転ずる契機になったのはこの東北旅行であったと いわれて居る。 江幢は後に藩によび返され藩校の中心人物として活躍したが不幸奥羽同盟が成立 するや南部藩の参謀となり敗戦後はその責を追うて獄につながれた。後許されて 文部省に出仕し古事類苑の編集にあたった。微官ではあったが時の参議木戸孝允 など頗る尊敬して兄事したことが記録に見えて居る。 大助教には照井一宅、長嶺将在、少助教には伊藤長有、山崎吉謙、太田代常徳、 大島高任、八角高遠、青木宣之などがあった。 これら教師の二、三について一言しよう。照井一宅は経学、その著書に「論語 解」がある。清末の革命家であった大儒章炳麟は、「荀子以後孔子の伝を得るのは ひとりこの人だけで清の碩儒王夫之に過ぎて居る」と激賞して居る人物である。 山崎吉謙は詩学、鯢山と号して若くして梁川星巌に学んだ。門中小野湖山、大沼沈山 と共に三山と称せられて令名がある。大島高任は我が国最初の近代製鉄を行った 蘭学者で徳川斉昭に招かれ水戸の反射炉に着手したのは二十八歳の時であった。 明治維新後新政府の大学大助教となり明治四年洋行、後大蔵技監となった我国採鉱 冶金の大先達である。 この学校は廃藩置県の為明治三年十月五日盛岡県学校と名をあらためた。僅かに 十一ヵ月の生命である。従ってこの学校で学んだものの数も多くは無い。しかし ながらその数の少ないにもかかわらず後世名を挙げたものは比較的多い。我国黎明 期の近代法学者として名のある法学博士菊池武夫がその一人である。原、佐藤と同年 の田中館愛橘もまたこの学校の学生であった。田中館はその後輩長岡半太郎と共に 我国のアリストートル的存在であった。その特に力を入れたのは地球物理学、航空 物理学であり、一方熱心なメートル法、ローマ字論者でもあった。「地球をまわる 遊星は月と田中館である」と欧米の物理学者にいわれた程国際的活動の盛んな学者 で、わが国今日の物理学の基礎を築いた人である。年齢の点から疑問が残るが 新渡戸稲造もまたここで学んだといわれている。いうまでもなく新渡戸は札幌 農学校の第二期生であり学界教育界に大いなる貢献をした人である。「願くはわれ 太平洋の橋とならん」という少年の日の希望のごとく国際連盟事務次長として活躍 した。しかも第五回太平洋会議に出席、カナダ・ビクトリヤで客死したのである。 彼のこの言は石碑に刻まれ盛岡の岩手公園に建てられている。 これらの少年達より梢年たけて寧ろ助手的位置にあったものに那珂通世がある。 旧姓藤村、秀才の故を以って那珂通高の養子となった。東洋史学開創の第一人者特 に蒙古史の専門家として多くの名著があるが中で「成吉思汗実録」は画期的な事業 である。我国紀元が実際には六百年程度短いことをはじめて学会に発表したのも彼 である。既に明治年間の事である。決して終戦後の学者の発見でも研究でも無い。 ついでながら云えば厳頭の感を書いた藤村操は彼の甥であり、阿倍能成は彼の義甥 である。 作人館で撃剣の小教示試補であった杉村濬は後に外交官となり初代公使として ブラジルに客死した。リオ・デ・ジャネイロの墓には今も邦人の参詣が絶えない。 又その長男として盛岡に生まれた陽太郎は国際連盟事務局次長として活躍した 外交官であり法学博士であった。 賊軍の汚名をきせられ、敗戦の重苦に喘ぐ盛岡にあって原、佐藤の二少年は この様な師友の中ではぐくまれていたのである。 原と北海道 原はその生涯に於て三回北海道を旅行して居る。第一回は明治十四年、二十六歳 の時郵便報知新聞記者としてである。この旅行は官僚渡辺洪基と行を共にした為に 藩閥に媚を売るものとして同僚に憎まれ遂に郵便報知社を去る原因になったといわれ て居る。彼が同社を去った理由はそのように単純なものでは無くむしろ新任の矢野 文雄らとの意見の対立などが大きいと思われるが、孰れにしても彼生涯の転機と なったのはこの旅行であった。 第二回は明治四十年八月内務大臣時代である。そして第三回目は大正十年八月 つまり彼の最晩年の年、総理大臣の資格においてであった。 これら旅行の中明治四十年の日誌は最も詳細であり且彼の北海道観、彼と北大及び 佐藤昌介との関係がよく描かれて居る。次にこれを掲げてみよう。 明治四十年八月七日 北海道巡視並に盛岡に帰省の為め午前十一時四十分上野発汽車にて出発せり、 秘書官高橋光威、属吉村信二随行し、樺太に出張すべき参事官水野錬太郎と帰任 すべき北海道庁長官河島醇事務官高岡直吉同行し、警視総監安楽兼道も北海道に 休暇旅行すと云うに付同行せり、北海道は去十四年に渡辺洪基氏等と倶に巡回し 己後久振にて今回巡回する次第なり。 八日 早朝青森着、少時休憩して直に函館行の汽船に乗り込み、午後五時頃函館上陸、 丸茂に休憩し小汽船にて港内に出て停車場に往き七時の汽車にて小樽に向け出発 せり 九日 早朝小樽に着、越中屋に投宿し、朝食後築港主任広井博士の案内にて港内並 防波堤を巡視せり、防波堤はもはや数間を余すのみにて竣功に近づけり、二十五 噸の人造石を投入するものにて、海底の捨石は潜水夫にて作業せり、小樽港を 完全にせんには此防波堤の外に更に反対の方面より防波堤を出すの必要あり。 椿区長等の案内にて開陽亭に午食し、夫より市中を観察し、晩に官民有志の 案内にて開陽亭に於ける歓迎会に赴き一場の演説をなせり、要は二十六年前巡回 の時に比すれば非常の進歩なれども、是れ独り北海道のみにあらず、故に今後 政府も其施設を怠らざれども、北海道人民も亦自ら奮って計画する所なかる べからずと云ふに在り。 夜十時汽船釧路丸に乗込みたり、四時頃増毛に向け出発せり、郵船会社の船に て特に増毛並に留萌に便乗する事となせしなり。 十日 午前九時増毛に着、直に上陸して市内を巡視し、午餐を有志者の歓迎会に於て 済せ、再び上船して留萌に赴けり。 一時間余にて留萌に着し、直に端舟に移り、小汽船に引かせて川を一里余遡り、 一覧の後川を下りて園田商会に投宿せり、此川は水深もあり屈曲甚だしく流緩に して又土砂を流すと少く頗る利用多き川なり、北海道にても此くの如き川は他に 之なしと云う、留萌までは妹背牛より汽車敷設着手中なり。 増毛、留萌は貴族院に於て問題となり、遂に留萌築港豫算は否決となりしも、是れ 固晒派が一種の感情によりて余に當らんとせし小策に外ならず、優劣の論は甚だ 明瞭なるものにて、増毛は湾不可なきも陸と連絡を保つ事難く、鉄道の如き急勾配 にて且つ迂回し到底敷設する事を得ざるものなれば留萌は大體に於て増毛に優る事 遠し。 十一日 留萌を出発し、陸路十三里余にて妹背牛に到り、夫より汽車にて旭川に至り 三浦屋に投宿せり、留萌より一里餘は川を遡り夫より炭山用の馬車軌道にて往き 得るだけは進行し、後ガタ馬車にて妹背牛に赴きたりしが、途中山を越すこと 一回、此処は鉄道のトンネルを設くる処にて他は大体平坦なり、途中の山にて 午食せしが、本願寺農場等にて休憩せしも早朝六時頃出発せし故、随分悪路なり しも妹背牛には三時頃着し、汽車の出発まで長時間待合せり、此処一体に開墾 成りて美事なり、旭川にて遊郭の位置に付争あり、余の巡回を利用して一覧を求む るも余は断じて之を退けたり、国務大臣遊郭の位置を巡視するの必要なく、且つ 道庁に於て是なりとし内務省之を認可したるものなるが故に、世間には騒々しく 論ずれども之を巡視するの必要も之あるべき理由なし、土地の人民各自其の便利の 地に置きて土地の繁昌を計ると私利を営むとの外に理由なし、而して賛成論者、 反対論者共に一名づつ今回道会議員に當選したるも奇なり、要するに地方の愚論 顧るに足らざれば一切彼等の請求を謝絶せり 十二日 旭川支所に赴き、夫より市中を一覧して後ち汽車にて出発札幌に赴く、途中大 に開け先年来遊のとき困難せし地方など今は殆ど其何づれの地なるやを辨じがたし、 午後札幌に着し山形屋に投宿せしが、地方官民の招待あり、幾代庵と云う料理屋 に赴き晩餐の饗応を受けたり、席上北海道大体の方針に付演説したり(大要は 新聞紙切抜あり、但し多少の誤謬あり)。 十三日 北海道庁に赴き河島長官より親しく地方行政の具申を聞き、又各課長より其担当 事務の大体を聞き取り、尚ほ余より一場の訓示的演説をなせり、要は北海道の経営 は特別会計となし居たらんには其発達今日の比にあらざりしならんと思はるれども 今は之を云ふも詮なし、今回河島長官が鋭意刷振を計り余も大に賛成する所なれ ば、一切の情弊を除き人民の信用を得て以て着々事務の挙る事を期せよと云ふに ありき。 道庁より札幌農科大学に赴き一覧せり、校長佐藤昌介は余の友人にして、而して 農科大学となす事に関しては、余の尽力にて古河家より其建物を寄附し、多年の 希望を達せしめたるものなり(今年秋より開校の筈なり) 農科大学の帰路製麻所を一覧し又物産陳列所を一覧したり。 夕六時の汽車にて函館に向け出発せり、水野神社局長は樺太に赴く筈に付札幌 にて分袖せり、又河島長官とは此地に分かれ道庁より技師と事務官と随伴せり 十四日 早朝函館に着、谷地頭なる勝田屋に投宿し、支庁及び渡辺孝平の寄附せし病院 並に倉庫、造船所等を一覧し、正午区長等の発起せし官民の招待会に臨み一場の 演説をなせり(大要は新聞切抜あり)尤も其前病院楼上にて有志家の懇談を開き 余も政府意志の存する所を告げたり。 帰路盛岡出身の者にて代議士柳田藤吉の宅に休憩し、夫より勝田屋に開らきたる 有志の小宴に臨み夜十一時乗船せり 十五日 早朝函館を解繿して青森に赴き、九時過ぎ青森着、十一時発汽車にて出発し午後 五時過ぎ盛岡に着、例の通高与旅店に投宿せり、浅始め子供等先着し居たり。 北海道は二十六年前巡回せし事あり、當時に比すれば今日は實に非常の進歩 なり、去りながら之にて安んずべきにあらざること勿論なれば交通の便を図るの 必要あり、港湾の如き尤も修築の必要あれども茲に弊害として見るべき北海道人は あまりに政府にのみ依頼し居る事なり、此弊害を矯めんと欲して機会ある毎に其 自奮を促し置きたり、但地方費を増加するの必要あるにより河島にも内話し帰京の 後本省にても調査する事となせり。 夕に一行小野慶蔵宅の晩食に招かれたり、夜仁王に往く。 工学部誕生 大正十年八月十一日原敬は総長佐藤昌介の案内によって工学部予定地付近を視察 した。東京駅頭で暗殺される八十五日前の事である。既に明年四月入学すべき工学 部進学志望学生の為に予科は着々と準備されつつあった。前年四月予科主事になっ た青葉万六は原首相来訪の当時を次のように述懐して居る。 その時にわれわれは中央講堂の二階において首相を迎えたがその時首相は 「工学部は政府がその必要を認めて設立したものである。佐藤君と私は同郷 竹馬の友であってその友の経営している大学を視察云々」と挨拶されたが、 それを聞く佐藤先生の眼がうるんでいました。あの時の思い出も今なお はっきりと頭に浮かびます。 原を迎えこの言葉を聞いた佐藤の心中は果してどのようなものであったろうか。 佐藤は札幌農学校教授に任ぜられる以前より工学部の設置に極めて熱心であった。 前述するように明治十九年八月帰朝して母校縮少の危機を眼のあたりに見た佐藤は 時の長官岩村通俊に説いて単に札幌農学校の存続ばかりでなく新たに工学部の設置 を具申した。明治二十年三月二十三日北海道庁令第八号を以って工学科が置かれた のは之に基づくものとされて居る。入学資格は予科終了者、年齢満十七歳以上の者 であった。不幸にして明治二十九年六月二十三日文部省に依って校則は改正され 九月一日から工学科は廃止された。しかし佐藤は工学の必要性を痛感し翌三十年 五月土木工学科を設置することに成功した。修学年限は三ヵ年とし入学資格は高等 小学校四学年卒業或は尋常中学校二年修学程度であった。三十二年五月又々校則を 改正し土木工学科の入学程度を中学校三学年終了者の学力あるものとした。 室蘭工大土木科の前身旧土木専門部はこの日を以ってその創立としたのである。 更に三十四年八月中学卒業程度を以って入学資格と定めた。 札幌農学校は創立以来土木工学に限られては居たが工学をその教育の過程にくり 入れていた。ホイラーまた後にはピーボデー(Cecil H. Peabody)等がその講義の 担当者であった。第二回卒業生広井勇の如きははじめより土木工学を志し後に港湾 工学橋梁工学の権威として東京大学で幾多の俊才を育てたのである。こうした伝統 を受けつぎ工学部設立を生涯の念願とした佐藤は少年の日の友の援助を得て今殆ん どその初志を達せんとするのである。感慨如何ばかりであったろう。 この年北海道帝国大学工学部創立委員が文部省によって指命された。東京帝国 大学教授寺野精一、井上匡四郎、舟橋了助、柴田畦作、鳳秀太郎、加茂正雄及び 九州帝国大学教授吉町太郎一の七名であった。 北工会誌28号(昭和40年2月5日発行)