昔ほどではないが、いまでも正義や良心を恥ずかしげもなく強調して「商売」している輩がいる。
たとえば神戸の児童連続殺傷事件の少年を「彼は真犯人ではない。警察のでっちあげだ」
と主張する人たちがいたりする。彼らの仲間にはサリン事件を「外部勢力のしわざ」といった人間もいた。
テレビ番組「大草原に生きる豹の母子」 豹の一家はライオンと違って父親はいない。狩りは母豹が一人で行う。 母豹は、お腹をすかしている子豹たち(4頭)のために鹿の群れに近づいていく。 藪陰から母豹が鹿の群れの前に不意に躍り出る。 突然姿を現した豹に驚いた鹿の群れは、散り散りばらばらに逃げ出す。 その中の、逃げ遅れた一頭の子鹿に母豹は狙いを定める。 追う、逃げる。追うほうが必死なら、逃げるほうも必死だ。 この子鹿は、お腹をすかした子どもたちのゴハンなのだ。 ゴハンが逃げる。ゴハンを追う。 豹は時速80キロで走ることができるという。 ついに母豹が子鹿に追いつく。 飛びかかる。倒れる子鹿。 いちはやく子鹿ののど笛に食らいつく母豹。 血まみれの子鹿を血まみれの口でくわえた母豹が引きずっていく。 母豹が引きずってきた子鹿に、子豹たちがいっせいに飛びつく。 血まみれの子鹿はまだ生きており、激しい息づかいでお腹が波打っている。 そのまだ生きている子鹿の腿(もも)のところに、4頭の子豹がむしゃぶりついて肉を骨から引きはがしている。 子鹿はどんなに痛かろう。 つらかろう。悲しかろう。母親に会いたかろう。 豹一家の一回の食事は、一頭の鹿の死によってまかなわれる。一回の食事は一つの悲劇によってもたらされるのだ。 悲劇を伴わない食事は一度もないのだ。 こういうことでいいのだろうか。 そう思いながら画面を見つめていると、豹一家の食事(団欒でいいのだろうか)の 上空を、いつのまにか数十羽の禿鷹が群れをなしてグルグル回っている。 禿鷹は自分ではめったに狩りをしない。 こうして、誰かが獲った獲物をもっぱら横取りして生計を立てているのだ。 豹一家の食事の周辺に、一羽、二羽と舞い降りてくる。いつのまにか、一家の食事の 周辺を数十羽の禿鷹がびっしりと遠巻きにして取り囲んでいる。 その輪が、じわじわと小さくなっていく。 ついに勇敢な一羽が、豹のすきをみて子鹿の肉を突く。 母豹がガルルーッと唸って追い払う。 また近づいてくる。 今度は三羽いっしょだ。 それも追い払う。 おちおち食事もできないのだ。 食事のときの動作はゆったり、上品に、背筋を伸ばして、などと言っていられないのだ。 追い払っては大急ぎで食べ、また追い払っては大急ぎで食べているうちに、禿鷹の輪は どんどん縮まり、ある一瞬を機にワッと子鹿に飛びかかり、多勢に無勢、豹一家は 獲物を残して退散する。 まだ子鹿の半分も食べていないのである。 ここには正義はないのだろうか。 マナーのほうはもうどうでもいい(この文章の前にマナー無視のライオンやハイエナの食事が紹介されている)。 せめてかすかな良心がほしい。 禿鷹君、君には良心はないのか。 君たちのやっていることは強盗、恐喝、強奪という犯罪だよ。 禿鷹にとっては犯罪が生きる術(すべ)なのだ。何という悲しい生き方であろうか。 もっと悲しいことは、彼らの目を見ればわかるが、彼らは少しも反省していないことだ。 そこには少しでも自省の色が見えれば、ぼくらはどんなにか救われることか。 仕方のないことだろうが、彼らには守るべき法律がない。ルールがない。 あえてルールがあるとすれば、それは弱肉強食というルールである。 彼らのゴハンとなる獲物は、常に自分より弱いものである。 闘えば必ず勝つ相手である。 必ず勝つ相手と闘って必ず勝ち、それをゴハンとする。 これは明らかに卑怯である。 してはいけないことである。 たまには自分と対等のもの、あるいは自分より強いものと戦ってそれをゴハンにしなさい。 自分より強いものに戦いを挑む、それが騎士道であり武士道というものなのだ。 禿鷹に武士道を説いてもしょうがないか。 卑怯がまかりとおり、してはいけないことがまかりとおる世界、それはまちがった世界ではないか。 つまり、こうした地球上のできごと、すなわち動物たちの弱肉強食という仕組み、この仕組みはまちがっているのではないか。