スタインは、ハンガリーの首都ブタペストのユダヤ人の家庭に生まれた。
しかし、両親は彼の将来を思って、ユダヤ教ではなくキリスト教の洗礼を受けさせた。
彼は叔父イグナツと兄エルントス(スタインと19歳違う)のすすめで
10歳の時ドイツのドレスデンのクロイツシューレに留学した。
これはルター派のギムナジウムであった。ここで5年間学んだが、
将来の進路を決定するのに大きな影響を受けたハウスマン博士に出会った。
博士はスタインに「アレクサンドロス大王遠征史」を貸し与えた。
スタインの叔父と兄は、故郷を離れて留学した彼のさびしさを思い、
ブタペストの両親のもとに呼び戻し、大学進学校であるルター派のギムナジウム
に入れた。ここを卒業したスタインは、ウィーン大学からライプツィッヒ大学と
進んで、古代インド言語学の大家ゲオルク・ビューラー教授の講義を受けた。
ビューラー教授はインドの教授からヨーロッパの大学教授になった学者である。
ビューラー教授がウィーン大学に移ると、スタインはチュービンゲン大学に行き
ロス教授の講義を聞いた。ロス教授はビューラー教授の友人で、
インド最古の聖典「ヴェーダ」の専門家であった。
1883年スタインは21歳で、ロス教授とビューラー教授から博士号を受けた。
1884年叔父のおかげて、スタインはハンガリー科学アカデミーから
イギリスでの研究のため奨学金を受けた。
スタインはロンドンでヘンリー・ローリンソン卿とヘンリー・ユール卿と
知り合ったことが、大変重要なことである。
ローリンソン卿はペルシアのダリウス大王のベヒストゥン碑文の解読で有名である。
ユール卿はマルコ・ポーロの「東方見聞録」を徹底的に研究した人で、
この本は、スタインが後に中央アジアを探検するときの案内書となるのである。
ローリンソン卿の推薦で、インドのパンジャブ大学の記録事務官と、新設の
ラホール東洋学校長のポストを得た。
出発数週間前に母との死別があったが、息子を誇りに思う父親が開いてくれた家族の
送別会に送られて、1887年ブタペストからインドへと旅立った。
1889年父死亡の電報を受けたスタインに、叔父からのインドに留まって研究
することが父の供養になるという手紙を読んで、故郷の葬式には戻らなかった。
1888年、かつて恩師ビューラーが夢みた念願の「カシミール王統史」の写本
を借りることに成功し、1892年その校訂本を出版した。
この出版によってスタインはサンスクリット学者として世に認められた。
その際、玄奘の「大唐西域記」のフランス語訳を熟読し、その後の中央アジア
探検における座右の書とした。
スタインのたくさんの探検報告書の中でも、最も重要なものが3度にわたる
新疆ウイグル自治区の調査発掘の報告書である。
第1次の調査は1900年5月にカシミールのスリナガルを出発して、
ギルギット、フンザ、ミンタカ峠、タシュクルガン、カシュガルを経て、
ホータン、ケリヤ、ニヤなどを経て、カシュガルに戻ってから、ロシア領
中央アジアに出て、汽車に乗って大陸を走り、1901年7月ロンドンに着いた。
この調査において、ホータン近くのダンダン・ウィリクの遺跡から
寺院に奉納された板絵を発見した。そこには中央の髪飾りをつけた貴婦人と
左側の侍女が左手をあげて貴婦人の頭部を指さしている姿が描かれていた。
スタインはこれこそ、玄奘の「大唐西域記」に記述された、国外持出し禁止の蚕の
卵をホータン王に嫁した王女が頭飾りの中に隠して持出した逸話だと解釈した。
第2次の調査は1906年から1908年まで行われた。
ペシャワールからチトラル、ダルコット峠を経てアムダリア上流に出て、
タシュクルガン、カシュガルを経て、ニヤ遺跡を再度訪れ、楼蘭にも調査した。
ミーランでは、ギリシア文化とのつながりをしめす有翼の天使を見つけた。
敦煌の千仏堂で写本の管理をしていた王道士と仲良くなり、写本を大量に
手に入れロンドンに送った。
第3次の調査は1913年から1916年まで行われた。
まずカシミールのモハンド・マルグ山荘を出て、チラス、ダレル、ヤシン、
ダルコット峠、フンザを経てカシュガルに着き、ミーランを再度訪れ、
ロブノールや敦煌に行った。その後内モンゴルのカラホト遺跡を調査し、
トルファンではアスターナ遺跡を調査した。その後クチャ、マラルバシ、
カシュガルと回った。
その後パミール高原、イシカシムを経てサマルカンドに出て、ブハラ、
アシュハバードを経てイランのメシェドに着いた。
これらの調査で得た収集品はロンドンに送ったのである。
カーブルで風邪がもとでスタインは亡くなる。享年81歳であった。
スタインが英国の国家的支援を受けた探検家なら
ロシアのそれに相当する探検家はニコライ・ミハイロヴィッチ・
ブルジェワリスキー(1839−1888)であろう。
スウェーデンの探検家スウェン・ヘディンもブルジェワリスキーの影響を受けた。
ヘディンはイシククル湖のほとりにあるブルジェワリスキーの墓を詣でてから
彼の旅行記の翻訳出版をしたという。この翻訳書の印税は、ヘディンの
最初の中央アジア探検の費用の一部となったという。
イシククル湖は現在のキルギス共和国にあり、玄奘三蔵が冬でも凍らない
不思議な湖と記録した湖である。