西域の道と橋
   武部健一

1. 憧れのシルクロード
中国のあちこちを訪ねる以上,一度はシルク
ロードに足を踏み入れたいと思っていた。最初に
シルクロードに触れたのは,1988年,西安を訪
れた時だった。町の西側で西方に向かう国道につ
ながる街路の広い分離帯の中央に,大きなモニュ
メントがあって,西方への旅の出発点を意味して
いた。それから何年か経って,今度はシルクロー
ドの西の端のイスタンブールを訪れた。

1万キロにもなろうかというこの道の両端に触
れることができたのだから,いつかはその間に立
たなければと思っていたところ,1995年の夏に
カザフスタンを訪れる機会があった。シルクロー
ドの北道がかすめる地域ではある。そして翌年,
1996年になってようやく本拠地に足を踏み入れ
ることになった。世界銀行の仕事で新疆ウイグル
地区に行く機会ができたのである。ここは西域と
呼ばれていた地域に属する。

西域という言葉は古い。日本ではセイイキまた
はサイイキと読まれるが,この言葉は中国の『漢
書』に出てくる。漢書は中国の正史の一つで,紀
元前202年から紀元25年までの前漢王朝の歴史
が記されている。班固(はんこ)という後漢の歴史家が書い
た。その巻九十六西域伝に,
「西域は.....東西六千余里,南北千余里にわ
たっていた。東は漢に接しているが玉門関と陽関
とで塞がれ,西は葱嶺(そうれい)で限られていた」
とある。

玉門関と陽関は甘粛省の西端にあり,ここを過
ぎれば西域であった。

唐の詩人,王之渙(おうしかん)は「羌笛(きょうてき)
何ぞ須(もち)いん楊柳(ようりゅう)を
怨(うら)むを 春光度(わた)らず玉門関」と,出征兵士を語
り,同じく王維もまた,「君に勧む更に尽くせ一
杯の酒 西のかた陽関を出づれば 故人無から
ん」と別離の杯を交わした。

西の葱嶺とはパミール高原のことで,中国の西
端の山々である。この漢書で規定する範囲はほと
んど現在の中国新疆ウイグル自治区の範囲と重
なっている。したがって西域とはおおむねこの自
治区のことと考えてよい。しかし,そこまで厳密
に言わずとも,その時期から以降,中国の人びと
にとって,西域の入り口である玉門関や陽関から
西は広く西域と考えられていた。

この西域を通って往古から西方に通じていた道
が,今日でいうシルクロードである。よく知られ
ているように,この言葉は今から100年以上前,
19世紀後半にドイツの地理学者リヒトホーフェ
ンが,この地域を通る東西交易路をその著書の中
で「ザイデンシュトラッセン“Seidenstrassen”
一 絹の道」と書いたのが始まりで,これが英語の
Silk Roadになり,日本語のシルクロードに
なった。中国語の「絲綢之路(しちゅうのみち)」(略して「絲路」)
はどうやら一番後で使われ始めたようだ。

シルクロードは概念としては非常に広い範囲の
東西交易路の意味で使われ,大きくは3本,北の
ロシアを遁るステップ路といわれる道、南のイン
ド洋を回る南海路,それに真ん中の中国を通るオ
アシス路がある。このオアシス路が一般にいわれ
るシルクロードである。ただしこれも1本の道で
はなく複数のルートがあり,それらは中国内では
いずれも新疆ウイグル自治区を通っている。

細かくいえばキリがないであろうけれど,オア
シス路には3本のメインルートがある。現代中国
の説明に従おう。
  シルクロード中道一―仏教東伝の道
  シルクロード南道一―砂漠古城の道
  シルクロード北道一―茫々草原の道
が,それである。それらの説明は,現地に着いて
からにしよう。

2.ウルムチにて
新疆ウイグル地区の首都ウルムチまで,北京か
ら直線距離にしておよそ2,400 km, 東京〜北京
間よりはるかに遠い。飛行時間は3時間半ほど,
旧ソ連のお下がりか,イリューシンの中型機で
ある。サービスと心得てか,映画のサウンドがや
たらに大きい。イヤホンがないから,全体に聞か
せるとなれば必然的に大音響にならざるを得な
い。

降り立った飛行場には,さわやかな風が肌をぬ
ぐう。5月下句,中央アジアに共通した乾いた空
気である。 Volga Air と機体に書いた飛行機が
駐機している。ロシアからの連絡便であろう。税
関の出口には,ExITの他にもBЫXOДとロシ
ア語が併記されている。やはりこれまでの中国と
は違った雰囲気が漂う。町へ人れば,看板は中国
語にイスラム文字が併記されている。ウイグル語
である。

この町も,中国の他の都市と同じように日々新
しいビルができ,様子が変わりつつある。ウルムチ
市の近代的なピルの陰から,天山山脈の雪を頂い
たまばゆいような姿が見える。この自治区の交通
庁がみずから経営するホテルは,その名もシルク
ロード・ホテルである。観光か大事な産業で,そ
の目玉がシルクロードであることがよく分る。
中国はアメリカと同じくらい横幅があるのに,
公式には時差はない。そこでウルムチ時間という
のがあって,北京と2時間の時差を設けている。
一部のテレビの時刻表示はウルムチ時間である。
お役所の執務時間もだいたい2時間遅れで始ま
る。着いた日の晩飯のパーティーが午後9時に始
まったのには驚いた。しかし時計そのものは直さ
れていないから,どちらの時間が本当なのやら,
慣れずに寝不足のまま旅が終わってしまったよう
な案配であった。

町の中央にウルムチ川というかなりの幅を持つ
川が流れている。ちょうど,その川を干しあげ
て,町の南北を結ぶ高速道路にする工事をしてい
た。上流にダムを造ったこともあって,すっかり
水流が少なくなった。別に水流を付け替える工事
をして,もとの川を道路にするのである。

その川を見下ろす紅山という名の公園がある。
名の通り紅褐色の岩山が露出している。その頂上
の一角に林則徐(りんそくじょ)の白亜像がある。林則徐は1840
年6月,イギリスの商人から没収したアヘンを広
東郊外の虎門で焼き捨て,一躍救国の英雄となっ
た。しかし間もなく,イギリスとの妥協を図ろう
とする皇帝の命によって罷免され,新疆に左遷さ
れた。林は伊犁(いり)というロシアと国境を接した地方
にいたのだが,ここウルムチに像が置かれてい
る。傍らにある詩碑によると,1845年12月4
日,林則徐はここ紅山に遊び,一詩を詠んだとあ
る。詩文には彼のかなり鬱屈した気持ちが読み取
れる。

3. 多民族自治区
町を車で通っていると,大きく「漢民族と少数
民族は仲良くしよう」と赤地に白抜きで大書した
スローガンが見えた。民族問題は,中国政府に
とってこの地域統治の大きな問題点である。

新疆ウイグル自治区は面積166万平方km,中
国全体のおよそ6分の1を占め,日本のほぼ4倍
である。総人口1,600万人,47の民族が住んでい
るといわれる。そのうち,ウイグル民族が47.5%
でほぼ半分を占める。あとは漢民族など12の主
要民族と34のその他の少数民族が住んでいる。
朝鮮民族もその一つである。
ここは中国の中でチベットに続き,民族問題が
絶えない。古くからウイグル族を中心に民族運
動,つまり独立運動の盛んな地域である。中央ア
ジアの領域には,トルキスタンという地理的区分
がある。東西に分かれ,東トルキスタンがこの新
疆ウイグル自治区で,西トルキスタン地方は,旧
ソ連であった中央アジア5カ国すなわちカザフス
タン,キルギス,タジキスタン,ウズベキスタ
ン,トルクメニスタンの各国の範囲にほぼ等し
く,遊牧トルコ系民族が多く住む中央アジアの草
原地帯をいう。

今年(1998年)7月にカザフスタンとの国境
確定の儀式の後,中国の江沢民主席が1週間以
上,新疆ウイグル自治区に滞在したのも,この地
域の統治に並々ならぬ配慮をしているために他な
らない。私が訪れた翌年の1997年にも,カザフ
スタンとの国境に近いイリ地方でイスラム系のウ
イグル族のデモ隊が警官隊と衝突,双方に少なか
らぬ死傷者が出たと伝えられている。東トルキス
タンの独立を旗印に掲げたとのことである。中国
内では現在,東トルキスタンという表現そのもの
が禁止されている。

もともと西域は古来多くの民族が興亡した土地
である。『漢書』に出てくる紀元前後から漢民族
が進出し,匈奴と争ってきた。匈奴は遊牧騎馬
民族で,白人種族であったという説もある。その
後,トルコ系のウイグル族が勢力を強めるもの
の,18世紀に入って清朝の勢力に押さえられ,
1884年に新疆省となった。中華民国時代も絶え
間なく独立運動があり,1944年にはソ連政府の
支援のもとで,最近に騒乱のあったイリ地方に東
トルキスタン共和国か一時的に成立した過去があ
る。

現在の民族宥和政策の一つであろう。この自治
区の高速道路建設指揮部の責任者アマン・ハジ氏
はウイグル族である。便々たる太鼓腹,見るから
に異境の人,西域の人の感じだ。多くの道路技術
者を輩出している映西省の西安公路学院の出身で
ある。

アマンとハジとどっちを呼んだらよいかと部下
の人たちに聞くと,アマンだという。しかし,そ
れは名前だというので,それではハジは姓かと尋
ねると,いやそうではなくてそれは父親の名だと
いう。自分の名を先に,親の名を後につけて呼
ぶ。親の名をA,自分の名をBとすれば,BAと
名乗るわけである。したがって彼の息子がCと
いう名ならば,息子はCBと名乗る。もし彼にD
なる弟がいれば,その弟はDBと名乗ることに
なる。つまりこの場合,父親の名Bは姓の働き
をすることとなる。

いつぞやオリンピックの女子マラソンで,ロバ
というアフリカの選手が優勝した。ロバという名
も,本人の名ではなくては父親の名であるという
話があったが,似たような名づけ方は何かつなが
りがあるのかもしれない。ハジという名は,イス
ラム系に見られる名である。姓として使われてい
る場合もある。

アマンさんの部下の多くは漢民族である。大学
の後輩もいる。しかし,ある部下は何かというと
「我々漢民族は」と言っていた。もちろんアマン
さんのいないときのことであるが,漢民族の抜き
難い優越意識が覗いている。この地域の民族紛争
もそれほど簡単には解消しないだろう。

4. 西域の地形とシルクロード
このあたりで,中国西域とそこを走る往年のシ
ルクロードの概要を説明しておきたい。
新疆ウイグル自治区の地形は「三山,両盆を挾
む」と形容される。3本の山脈が2つの盆地を挟
んでいる,の意である。これは新疆の疆の字の右
側の旁の形にも例えられる。つまり,一番上と真
ん中と一番下に横線がある。これが3本の山脈,
その間に田の字が二つ,これが二つの盆地であ
る。

一番上,すなわち北側の山脈はアルタイ山脈と
いい,モンゴルとの国境を形成している。その下
がジュンガル盆地,その下,いわばこの地域の真
ん中に天山山脈が東西に伸びている。その下が広
大なタリム盆地,その大部分はタクラマカン砂漠
で,その東はゴビ砂漠が続いている。そして南の
崑崙(こんろん)山脈がチベットとの問に横たわっている。

東西の境は,『漢書』のいうように,東は玉門
関,陽関のある北山山脈で区切られ,西は天山山
脈につながるパミール高原(葱嶺)が屹立してい
る。

シルクロードの3本のうちの中心である中道
は,甘粛省の敦煌から玉門関を通って西域に入
り,ハミからトルファンに至る。そこから天山山
脈の南麓に沿ってクチャ,カシュガルを通り,西
方に達した。天山南路という呼び方もある。

カシュガルから先の道は,どこを通っても標高
4,500 m のむかし葱嶺と呼ばれたパミール高原を
越えなければならないので,幾つかの道を選ん
だ。現在の地名でいうと,キルギス,タジキスタ
ン,アフガニスン,パキスタンの諸国に通じる道
である。

いずれにしても,葱嶺を越えるのは古来きわめ
て難事であった。その名は野生の葱(ねぎ)が生えている
ことによるものである。

中国での最初の西方への旅人,漢代の張騫(ちょうけん),
それに唐代の玄奘(げんじょう)三蔵が,いずれも往路にこの
中道を通っている。張騫は帰路はインド洋を海路
により,玄奘は南路によって長安に戻っている。

南道は敦煌から陽関を抜け,そこから今日のロ
プノールの北側を楼蘭(ろうらん)に達し,タリム盆地の南縁
を西進して,ホータンから北西方向にカシュガル
に達する。2千年前,漠代に金髪碧眼の西方の人
が猫目石,龍涎香(りゅうえんこう、高級香料),象牙などを携え
て到来し,漠からは使節や隊商が絹,磁器,鉄
器,外交文書などを運んで西へ旅した。カシュガ
ルからの道は中道の場合に等しい。

このルートを古代に通った人物として,東晋(とうしん)時
代(317〜420)の僧法顕(ほっけん)がいる。 399年,5人の同
学の友とともに長安からインドに旅立った。その
とき彼はすでに齢64に達していた。敦煌から楼
蘭までの砂漠の旅について,法顕は有名な記述を
残している。

「沙河(砂漠のこと)中二多クノ悪鬼・熱風ア
リ。遇(ア)ヘバ即チ皆(ミナ)死シテ,一トシテ全キ者無シ。上
二飛鳥ナク,下二走獣無シ。遍望極目,度(ワタ)ル処ヲ
求メント欲スレバ,即チ擬スル(推測する)所ヲ
知ラズ。唯死人ノ枯骨ヲ以テ,標識ト為スノミ」

このルートはこのように砂漠が厳しく,後に廃
棄された。その後,元代になってマルコポーロが
この道を西から東に進んでいる。 20世紀になっ
て,探検が盛んになり,ヘディンが楼蘭の女王の
ミイラを発見したことで有名だ。ヘディンがここ
に到達したのが1901年の3月,それから8年
たった1909年の同じ3月に,日本の大谷光瑞(こうずい)探
検隊の一人,橘瑞超(たちばなずいちょう)がここに入り,貴重な古文
書や仏教経典を発見している。瑞超は当時,まだ
若干19歳であった。

この地は,今は中国が原爆実験場にしていて,
やたらには入れない。

北道はハミから西にムルイ,現在の阜康(フーカン)からウ
ルムチ,さらに西進して現在の伊寧(イーニン)からイリ川沿
いに西進して,中央アジアの草原の道につなが
る。現在の国名で言えばカザフスタンである。天
山北路とも呼ばれる。

このルートは中国の中でも多く草原地帯を通
り,遊牧民族のカザフ系の人たちが,パオの集落
に住んでいる。この北道はウルムチの近くではボ
グダ山の北側を通るが,そこからちょっと南に山
を上がると,天池というボグダ山頂を望む美しい
観光地がある。かつて作家の井上靖氏も訪れたこ
とかあるという。

これらメインの3本の道も,お互いに連絡し合
い,また幾つかに枝分かれしていた。しかし総体
的にいえば、シルクロードは漢代や唐代の首都長
安を起点として,西域に人ってから幾つかのルー
トを通って,西側で葱嶺にぶつかると,それを越
えたり,迂回したりで,現今のパキスタン,キル
ギス,カザフスタンなどの各地に入り,さらに東に
進み,最後はローマにまで到達したのであった。

5. 西域の高速道路
中国は全国土に3万5,000 km の高速道路網を
張り巡らす計画を立て,着々と実施している。こ
の計画は全国30のすべての省・自治区に及び,
その省都に達している。ここ新疆ウイグル自治区
でもその例に漏れない。その計画路線は東海岸の
連雲港を起点として,西安,蘭州からウルムチを
通り,カザフスタン国境のフォルゴスに至る。高
速道路は各省・自治区がそれぞれの担当区間を建
設する。

新疆ウイグル自治区では,まずウルムチと東の
トルファンの間約150 km で工事が開始された。
それだけでなく,ウルムチから西に行く本来の計
画路線より先に,ウルムチから北に向かうルート
も同時に着工している。これはその方面のジュン
ガル盆地に石油が産出するからであって,この自
治区の重要な産業資源である。

ウルムチ〜トルファン間の高速道路建設ルート
は,ほぼ国道312号に沿っている。この国道は上
海を起点とし,中国で2番目に長い国道である。
この国道でウルムチから東に行った時,4千いく
つと記された里程標があった。上海からの距離で
ある。はるばると来たとの感を深くする。

ウルムチの郊外へ出れば,雪を頂いた高山の連
なりがよく見えてくる。初めはちらほら見えてい
た周辺の緑がだんだん少なくなり,次第にざらざ
らとした砂礫の原となっていく。これが砂漠であ
る。よく映画やテレビなどで見かけるラクダが歩
くさらさらとした茶色い砂ではない。もっと黒々
とした荒々しいものだ。

東北方に白い頂が連なる。天山山脈の東端のボ
グダ山である。最高峰は海抜5,445 m である。
風も強くなった。ところどころに白い風力発電の
塔が一団となって風に向かっている。ラクダ草と
いう,ラクダしか食べそうもないような,枯れた
つつじに似た低木か風に吹かれている。

今でこそ,この街道にはバスが走り,日本人の
観光客は引きも切らないが,ここを初めて訪れた
日本人は多分,明治の後半期からシルクロードの
探検に出かけた大谷光瑞探検隊のメンバーであ
る。         

大正2年(1913)2月9日,隊員の一人,吉川
小一郎は日記に,
「東烈風雲 早朝行季を騾(ラバ)に積み,前
七時十分廸化府(できかふ)(ウルムチ)を発す。達坂に至れ
ば東の強風積雪を捲(ま)きて殺到し,面(おもて)を挙ぐるを
得ず,馬上殆ど耐えざらんとす。晩七時,柴日堡
に着す。我驢子(ろし)(ロバ)に附せる東干(トンガン)人は途中病
を発し,風雪中に凍死す」

翌日も,「東風強烈,馬を吹倒さんとす。達坂
村に達する途中,鮑死する駱駝に餓鴉の集るあり
……」と記している。

現今ではウルムチ〜トルファン間は自動車で数
時間のところ,100年足らず前は馬に乗り,途中
2泊の行程であった。

それ程深くない渓谷沿いに高速道路の工事が続
いている。水は清らかでとうとうと流れている。
雨はほとんど降らず,この水は高山に降った雪が
春になって融けて下ってきたものである。これが
何処に行くかというと,ここから先のトルファン
は盆地で,海抜以下の土地であるから,流水は湖
に入り,結局は消えてしまう。そうした湖には,
塩のたまるものもある。塩湖と呼ばれている。韓
国系の企業が塩の精製工場を営んでいた。

しかし,このような川の流れのあるところは珍
しい。一般には山に降った雪はふもとの砂漠で大
地に吸われて消えてしまう。たまにそれがうまく
地上に顔を出せば,そこがオアシスになった。

天然のオアシスだけには頼れないので,古くか
ら人工的に水を引くことが考えられてきた。それ
がカレーズである。山のふもとにまず井戸を掘
り,水源を確保する。そこから平地に向けて地下
導水トンネルを掘り進むのである。そのために数
十m置きに竪井戸を掘り,そこから上流に向
かってトンネルを掘り進む。それをつなげて水路
トンネルとする。トルファン盆地に出ると,この竪
井戸の穴かあちこちに見える。ちょうど蟻の巣穴
のように,掘りあげた土砂が穴の周りをこんもり
と囲んでいる。このカレーズ,中国語では炊児井,
西方に行くとアラビア語でカナートともいう。
トルファン盆地はカレーズの盛んな土地であっ
た。その中心にトルファンの町がある。町の中
に,観光用にカレーズで引いた水の出口がある。
冷たい水がトンネルからあふれていた。

6. 火炎山とシルクロード
トルアァン近在の観光名所といえば,交河(こうが)故城
と火炎山である。まず交河故城は町の西郊にあ
る。粘土でできた丘といったらよいか,南北約
1,000 m,束西約300 m, 高さ約30mの台地であ
る。粘土を刻んで城壁,通路,階段,井戸跡など
がある。紀元前1世紀,漠代に匈奴への防塁とし
て造られた,古代西域三十六国の一つである。

このあたり,葡萄の名産地でもある。交河故城
からも葡萄畑が遠望される。唐代の詩人,王翰(おうかん)の
涼州詞を思いだす。
  葡萄の美酒 夜光の杯
  飲まんとすれば 琵琶 馬上に催す
  酔うて沙場に臥(ふ)す 君笑う莫(なか)れ
  古来 征戦 幾人か回(かえ)る

まさに遠く塞外に送り出された兵士たちの悲哀
と,現地の情景を活写した絶唱である。葡萄はハ
ミ瓜とともに西域を象徴する果物といえる。

トルファンから30 km ほど東へ行き,北を眺
めると,それほど高くはないが,ひだが多く,赤
褐色の草木一本もない山脈が見えてくる。火炎山
である。今はトルファンヘ来れば欠かせない観光
名所である。というのは,孫悟空の活躍する「西
遊記」に出てくる数少ない実在の地名だからであ
る。海抜500 m ほど,名前の由来は,山が紅砂
岩でできていて,それが真夏の炎熱で山が紅色で
燃えるように見えることによる。

山へ向かって谷沿いに少し分け入って行くと,
突然真っ赤というよりは褐色の砂山が現れる。こ
こが観光の目玉になっているところで,広々とし
た山裾に,小手をかざした孫悟空を先頭として,
三蔵法師の一行の大きな彫像が鉄柵に囲まれて
立っている。駱駝のそばに立っている三蔵法師
は,どうやら日本で映画化された時に法師に扮し
た,亡くなった女優の夏目雅子をモデルにしてい
るらしい。日本の映画は中国でも人気がある。

これは最近できたものだが,近くには6世紀か
ら14世紀まで開かれていたという千仏洞があ
り,石窟も見られる。何人かの観光客に日本人も
混じっている。

火炎山は実在のものとしても,三蔵法師すなわ
ち本物の玄奘三蔵がここを通ったかどうかは疑
わしい。火炎山はボグダ山系の束端近くに東西に
伸びた形に位置しており,別にわざわざここを横
断しなければ西に進めないという地形には思えな
い。しかし,玄奘がここを右手に眺めながら通っ
たことは大いにありそうだ。

7. 西域の道と橋の特質
「西域の道と橋」と名づけなから,さっぱり具
体的な話が出てこないじゃないか,といわれるか
もしれない。たしかに,シルクロードといっても
ルートの話しかしてこなかった。しかし,これが
西域の道なのである。砂や細かい礫の砂漠や草原
では,どこも歩ける。ラクダは進める。古来の人
跡のあるところは,オアシスのような必ず旅人か
立ち寄る処であった。だから楼蘭では高貴な少女
のミイラをはじめ,多くの古代遺物が発掘され
た。そのようなことで,道路の痕跡の話は,残念
ながらまだ聞いていない。

それでは橋はどうか。西域は雨が降らないから
ほとんど川がない。川がなければ,橋もない。た
だ例外はある。それは険しい峡谷に吊り橋を架け
る場合である。

中国の吊り橋の歴史は古い。峡谷の多い四川
省,雲南省,チベットあたりが中心であるが,こ
こ西域の葱嶺に接するところも,また古くから吊
り橋が見られた。先の法顕(ほっけん)も書いている。葱嶺
(パミール高原)に至る峡谷の道の描写である。

「嶺二従ヒ西南二行クコト十五日,ソノ道艱岨(カンソ)
二シテ崖岸嶮絶(ケンセツ)ス。ソノ山,唯(タダ)石二シテ壁千仞(センジン)二
立ツ。之(コレ)二望ミテ目眩(クセ)ム。進マント欲シテ足ヲ投
ゲル所ナシ。下二水アリ,新頭河ト名ヅク。昔
人,石ヲ鑿(ウガ)チテ道ヲ通ジ,傍梯(ホウテイ)ヲ施ス者アリ。凡
ソ七百ヲ度ル。懸(ケン)カンヲ躇(フミ)テ河ヲ過(スギ)ル。河ハ両岸
相去ルコトハ十歩減(タ)ラズ」

ここにいう新頭河とはインダス川のこと,傍梯
とは桟道のことで,断崖に穴を穿ち,そこに横木
を差し込み,段崖に沿って渡れるようにする。そ
れをつなげて板を渡す場合もあるが,ここで700
回渡ったとは,桟木(サンギ)と桟木のあいだには何も渡し
てなかったのであろう。また懸カンとは吊り索の意
味で,吊り橋が架かっていたことが知られる。法
顕がここを渡ったのは,既に齢六十半ばを過ぎて
いた。

法顕の文章は有名で,『橋と人(Bridges and
Men)』を書いたアメリカのジョセフ・ギース
(Joseph Gies)も,このくだりを引用している。

法顕の文中にインダス川とあるように,これは
カシュガルから南ヘタシュクルガンを経てパキス
タンに向かう道の渓谷のことであろう。

こうして見てきたように書くからには,一度は
実地に踏査してみたいと思っているが,まだ残念
ながらその機会はない。

参考文献
1)上原芳次郎編「新西域記下巻』(大谷家蔵版)有光社,
昭和12年
2)足立喜六『法顕伝中亜・印度・南海紀行の研究』法蔵
館,昭和15年
3)深田久弥「中央アジア探検史』白水社,昭和46年
4)深田久弥『シルク・ロード』角川選書,昭和47年
5)長渾和俊訳注「法顕伝・宋雲行記』平凡社東洋文庫,昭
和46年
6)良渾和俊『シルクロード歴史と文化』角川選書,昭和58年
7)『新疆遊』新疆人民出版社,1995年
8)王柯『東トルキスタン共和国研究』東京大学出版会,
1995年
9)Joseph Gies“Bridges and Men”Doubleday&
Company

今回をもって「中国の道と橋」シリーズを終わ
ります。長い間,ご愛読ありがとうございまし
た。
(道路文化研究所理事長)

懸カンのカンの漢字は桓の木偏の代わりに糸偏の字なのだがJISになかった。

一関でお目にかかった千葉忠悦氏の好意による シルクロード写真集 です。すばらしいですよ。