劉 振操編:瀋陽伝説故事選 竹内公克訳
高校の恩師の訳された本(表と裏表紙)です。
竹内先生は2歳から12歳の時まで、奉天(現瀋陽)に住んでいたので
中国東北地方特に瀋陽に愛着をもっておられるようです。
訳者の竹内公克先生から、ここで紹介する許可をいただきました。
中国東北地方に関心のある方は、この本を読むことをお勧めします。
瀋陽の由来 瀋陽は瀋水という名の川の北にあるから瀋陽と呼ばれる。 ちょうど洛陽が洛水という川の北に作られた町であるから洛陽と呼ばれるように。 なお、瀋水は現代では渾河(こんが)と呼ばれている。 昔瀋水のほとりに老女と瀋という一人息子が住んでいた。 瀋は立派な見るからに頑丈な若者であった。 彼は川に氾濫を起こし人間に乱暴を働く蛟竜を倒そうとして苦心する。 瀋は竜王の娘羊姫の助けを借りて、激しい戦いの末 蛟竜を倒すことに成功する。 しかし、力つきて川におちてしまい、彼の後を追った羊姫も おぼれ死んでしまう。 村人は二人の思い出に、瀋水のほとりに石碑を建て 「瀋羊」の二字を刻む。 それから、この地は瀋羊と呼ばれ、いつしか瀋陽になったという。 シボ族の西遷節 毎年陰暦4月18日は瀋陽に住むシボ(錫伯)族の人々にとって 最大の祭日である。 近隣に住むシボの老人たちは子供や孫を連れて皇寺(実勝寺)の門前にある一族の廟 に集まって盛大な祭に加わる。 そこでは豚を生贄に供える。参加者の家族の家長は赤身の肉を分けて食べる。 自分が食べた後にお椀に赤身を入れて、それを家に持ち帰り家族に食べさせる。 その昔清朝が最盛期を迎えた乾隆帝の時代に、新疆の防備を強化するため 朝廷はミンルン(明瑞)をイリ将軍に任命しイリに駐在させた。 ミンルン将軍はイリに赴任してみると数カ所で兵力が不足していることに気がついた。 そこで乾隆帝に要望した結果、瀋陽(当時は盛京)守備のシボ族の兵士の中から 若くて弓馬の上手な者1000人を選び、家族ともども新疆に派遣させた。 結局、瀋陽の他に撫順や遼陽や鳳城など17カ所のシボ族の兵士の中から 優れた者を選び家族ともども3725名をイリの守備に移動させた。 一行は河北省張家口を経て蒙古路を通り新疆自治区塔城と進み 酷暑や厳寒に苦しみながら1年4ヶ月で目的地のイリに到着した。 それは清朝が最初に予定していた3年の半分の期間で移動したのだった。 それから2百数十年、瀋陽のシボ族の人々は旧暦4月18日を祭日して、 民族の歴史的壮挙を記念し辺境の同胞をしのぶ日としている。 新疆警備のため東北地方から移住させられたシボ族は今でも純正満州語を話す。 シボ族はなぜ西へ移動させられたか 乾隆帝の命令で、新疆の防備を強化するためシボ族はイリに駐在させられた。 それにはちゃんと理由がある。 もともとシボ族はハイラルの南東のフールンベイル草原に住んで、獣の狩りや魚を 捕って暮らしていた。 猟犬を使い馬を駆って原始林で狩りをして、狩りが終わると獲物を山分けしていた。 やがてヌルハチは東北の少数民族を満族に帰順させていって、シボ族も満州八旗や 蒙古八旗に組み込まれていった。 ヌルハチはシボ族が騎馬や射弓にたけていて勇猛であるから、いつか徒党を組んで 謀反を起こすのではないかと恐れていた。 天下を治めるにはシボ族の力は利用しないわけにはいかないが、シボ族の動きには 注意をはらっていた。したがって息子のホンタイジにもシボ族から目を離さないよう 遺言をした。 ホンタイジはやがて妙案を思いつく。それはシボ族を別々の土地に分けて住まわせる ことであった。そして、シボ族を家族ぐるみで強制的に辺境に移住させることにした。 嵩徳年間と順治年間に、モールゲン(黒竜江省嫩江どんこう県)、チチハル(黒竜江省)、 ボードウノー(吉林省扶余ふよ県)、ジーリンウラー(吉林省吉林市)に強制移住させた。 康煕年間には、シボ族とその家族を盛京(今の瀋陽)にいったん移して、そこから さらに辺地に移住させた。このときから瀋陽に住むシボ族が増えたのであった。