三星堆

三星堆(さんせいたい)は中国四川省成都盆地にある。
三星堆の名前は、土盛りが3つ星のように並んでいたから付けられた。

一号坑は殷代中期に属し、二号坑は殷代後期に属する。

三星堆遺跡の中でひときわ目立つものは、円柱状に13.5センチも
突出した目をもつ青銅の巨大な仮面や、アーモンド形の目、太い眉、一文字に
固く結んだ口をした人頭像である。これらは他の所には全く見られないものである。
卑近なたとえで言うなら、ウルトラマンの類型を思わせる人頭像である。
あるいは、目が飛び出した顔というのは、昔のコミック「花の応援団」を
連想させる。

三星堆青銅器文明の発祥は古く、殷代初期ないし夏代までさかのぼられる。
(夏は伝説的な王朝である。三皇五帝の最後の帝である舜のときに、
大洪水を13年かけて治めることに成功し、舜から帝位を譲られた禹を初代とし、
以後その子孫が位を継いだ王朝。夏は殷に滅ぼされたとされる)

三星堆遺跡の青銅の仮面や人頭像は、これまで知られていた殷周青銅器とは
まったく異質のものである。しかし、三星堆文化が黄河中流域の中原文化や
長江流域の他の文化と孤立していたかというとそうではない。
三星堆遺跡から出土した青銅器や玉器、土器に非常に類似したものは、
中原や長江中・下流域に多くみつけることができる。
つまり、三星堆と周辺地域との交流も後にいくほど多く見られている。

その例として、三星堆の尊(口頸部がラッパ状に開いた器)に類似のものが
河南省安陽市出土の尊や、長江下流の安徽省阜南市出土の尊にある。
尊はもともと二里崗・殷墟期の中原に発達したものである。

今回展示された三星堆の龍虎尊は、安徽省阜南市の尊がいっそう変形した
ものと考えられ、したがって長江下流域から三星堆に伝わったものと考えられる。

器形では、阜南市の尊が二里崗期の特徴を示しているのに対して、
三星堆の尊では口頸部の開きぐあいがにぶくなり、圏足部が高く変化している。

どちらも虎が人の頭を食べている図が描かれているが、安徽省阜南市の尊では
人の頭の一部が食われているのに、三星堆のものでは頭が完全に飲み込まれている。
(三星堆の尊の模様はくずされていて解説文を読まないと、何を表現しているか
わからなかった。阜南市の方は写実的である)

従来の中国の正史では、四川省の蜀が中原とかかわった記載が出るのは
春秋から戦国時代にかけてである。つまり、夏・殷・西周時代の蜀の歴史資料は
何も知られていなかった。
夏・殷時代に相当する三星堆の青銅文明の発見は、古代蜀文明と四川省の歴史
の空白を埋めるものであった。

蜀王本紀(前漢時代)と華陽国志(東晋時代)という四川省の古代歴史の文献
によれば、蚕叢(さんそう)、柏灌(はっかん)、魚鳧(ぎょふ)、杜宇(とう)、
鼈霊(べつれい)が、秦による征服まで蜀国の王として交替していたとされる。

三星堆の遺物は「縦目」をもつとされる「蚕叢」にあたる青銅の「縦目仮面」、
河鵜を指すとみられる「柏灌」、「魚鳧」を表す青銅鳥頭などがある。
そして文献を分析した結果、魚鳧王と次の杜宇王の関係は、
魚鳧王が土着で、外来の杜宇王が魚鳧王を倒して政権についたことを示している。

すなわち三星堆蜀を侵略した杜宇一族が魚鳧王とその一族を処刑して
黄金の王杖などとともに「一号坑」に埋め、さらにその精神的よりどころであった
巨大神殿を破壊し、そこに飾られた青銅製の神樹や仮面や人物像などを潰し焼いて
「二号坑」に埋めたと考えられる。
それ以降、蜀の中心地は成都に移ったのであろう。

三星堆の遺物を見ると、大量の「目」の飾りや目をモチーフにした文様、図案が
認められ、「目」に対する特殊な崇拝が形成されていたと思われる。
それらが表すものは、「縦目」を特徴とする蜀人の始祖「蚕叢(さんそう)」である。

蜀王本紀に「蜀の先、王と称する者は蚕叢と曰う」と書かれてあるが、
彼は養蚕を発明した人物と伝えられ、かつて「民に蚕桑を教え」(馮堅『続事始』)
たことから「蚕の神」として尊ばれた。

彼は民を集めて市を作ったとされる。蚕叢はこうして人でもあり神でもある
宗教的なリーダーとなり、やがて彼の神廟が建設され、民族と国家の守護神として
祭られたのではないかと推察される。

今回の展示物の中に、高さ3.84メートルの青銅製巨大神樹があった。
幹は3段からなり、それぞれの段で3本の枝が伸びている。
枝には蕾(つぼみ)がつき、その上に鳥がとまっている。全部で9羽の鳥がいることに
なっているが、幹の先端も大きな蕾となっており、その先が欠落しているため
かつて鳥がいたかどうか不明である。

神樹には幹から頭を下方に向けて降りようとした龍の姿もある。

この「神樹」は『山海経(せんがいきょう)』という古典に書かれてある
「扶桑」ではないかと言われている。

「扶桑」とは10の太陽が宿るところであり、
太陽はそこから鳥に乗って順番に空へ巡回に出かけることになっている。
丸い太陽を青銅で表現するのが難しかったから、三星堆の職人たちは鳥でもって
太陽の存在を暗示したのではないか、と解説には書かれてある。
まことにそう思われる。


BC 4000
                     仰韶文化
                    
BC 3000
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BC 2000                             星
                   二里頭文化 夏           堆
                   二里崗文化  商           文
                   殷墟期  (殷)         化
BC 1000                          ↓
                   西       周

            春       秋

                        戦       国

               秦
BC/AD
                            漢

                          三  国
                              晋
              南北朝

                              隋
               唐

                            五代
AD 1000