札幌ラーメンのルーツは大正11年にさかのぼる。
そのとき北大正門前に竹屋食堂ができた。
創業者は大久昌治(おおひさしょうじ)氏。仙台出身の元警察官であった。
ある日、室蘭の船員の大道俊二さんが、中国人の調理人を竹屋食堂に連れてきた。
彼は王文彩といった。大正9年尼港事件で、ニコライエフスク港から樺太経由で
知り合いの大道さんを頼ってきたらしい。札幌に王さんの働く店はないかと連れてきたのだった。
王文彩さんの作る料理は評判が良く、多くの中国人留学生は食事におしかけた。
当時の中国人留学生たちは裕福な家庭の子弟だったので、またたくまに
竹屋食堂は発展した。
そのとき、台湾の大学から北大に移ってきた医学部教授のちの北大総長の
今裕(こんゆたか)医学博士も、本格的中華料理の竹屋食堂のファンになり、
博士の提案により、支那料理竹屋に店の名も変えた。
大学病院の医師らも常連であったという。
中国人留学生に人気のあったのは「肉絲麺(ロウスーミェン)」であった。
これは油通しした細切りの肉や筍や葱をのせた麺であった。
竹屋食堂の麺は手で引っ張る手打ちラーメンであったが、客が増えたため製麺機にかえた。
王文彩さんは2年後小樽で自営するため竹屋食堂をやめ、
王さんと同じ山東省出身の、李宏業さん、つづいて
李宏業さんと義兄弟の縁を結んだ李絵堂さんが神戸からやってきた。
実質的に竹屋食堂のラーメンの基礎を築いたのが、この二人の料理人であった。
しかし、当時の竹屋のメニューの中で、ラーメンは主力メニューではなかった。
肉絲麺は中国人留学生には人気があったが、当時の日本人の口には
油が強すぎてあわなかった。
そこで、なんとか日本人の口に合わないかと、おかみさん(タツさん)は李宏業さんと李絵堂さんに相談して、
焼き豚、シナチク、葱を入れた今日のラーメンができたのは大正15年の夏。
しかし、この料理の呼び名はまだなくて、日本人客の多くは「チャンそば」、「チャンコロそば」
と注文していた。おかみさんは大切な留学生の気分をこわしてはいけないと思い、
何かよい呼び名を付けようとみんなで相談した。
糸切りで柳のイメージだから「柳麺(リュウメン)」がよいということになったが、
日本人には発音が難しい。
おかみさんはかつて王文彩さんが料理ができあがったとき調理場から「好了(ハオラー)」
と言っていたことを思いだし、好了の了(ラー)をとって、ラーメンに
したらどうかと提案した。
その瞬間にラーメンの名が生まれたというのが定説だ。
竹屋のおかみさんは孫たちに自慢したらしく、1人の孫が北海道新聞に
祖母がラーメンを命名したいきさつを投稿している。
しかし、当時の本州の事情を考えると、横浜南京街では焼き豚、シナチク、葱を入れた
今日のラーメンの原型ができていたし、浅草来々軒でも同様のメニューがあった
という。
したがって、小菅桂子氏は全国各地でラーメンは生まれるべくして生まれたもので、
竹屋のラーメンは命名のいきさつがたまたま記録に残っていたものであったろうと
推察している。
おそらく歴史によく見られるように、何かの発明はそれを生み出す時代背景があり、
特定の少数の人間のみが考案することができたというのよりは、多くの人のアイデア
があちこちで小さな花を開いて、口コミで良いアイデアは他の人のヒントになり、
ほとんど同時にあちこちで似たようなものが作られてきたのだろう。
庶民に親しまれる食べ物ほど、そういったものであろうと思う。
参考文献 小菅桂子:にっぽんラーメン物語、講談社 奥山忠政:文化麺類学・ラーメン篇、明石書店