水戸黄門が食べた中国の麺。これぞ日本人が初めて食べたラーメン。
そのレシピなどが展示されていた。
中国に憧れ儒学を学びたかった黄門様。
高名な儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい、1659に帰化)を苦労して交渉して1年かかって
長崎から江戸に迎えることができた。
(実は当時は中国が明から清に代わった時代で、異民族の王朝をきらった漢民族が
多数長崎に逃げてきた。彼らは商売など成功して長崎で恵まれた生活をしていた)
朱舜水記念碑は東大農学部構内にあったが少し場所を移動しました。
(もとの場所には、ハチ公と上野博士との再会の像ができたから?)
移された朱舜水記念碑
説明板
黄門様は東京小石川後楽園の造築にあたっても、明の遺臣
朱舜水の意見にしたがい中国趣味を付け加え、中央に池、四方に築山を配して
各地の名所にちなむ堂社や亭(ちん)を建てた。
ところが、将軍綱吉の生母桂昌院の来園で歩行障害となる奇岩大石を
取り除いたため、庭園の趣は著しく減じたという。
黄門様は手打ちうどんが上手だった。これは家臣の間でも有名な事実。
当時武家では「ハレの日」にうどんを食べていた。大人になった黄門様は
江戸の町を歩いて、うどん屋を見つけて喜ぶ。
「ハレの日」でなくても町に出たら大好きなうどんを食べることができる。
浅草のうどん屋に通ってとうとう、うどんの打ち方を教えてもらったらしい。
こうして得意の手打ちうどんを儒学者にご馳走したらしい。
黄門様から手打ちうどんをご馳走になった中国からきた儒学者朱舜水は喜んだ。
そして黄門様が麺好きなことも知った。
それならというわけで、おかえしに中国の麺を作ってご馳走したのだった。
スープは豚の腿肉(ももにく)を塩漬けにした中国式ハムの火腿でとった。
この火腿は現代中国にもあります。
麺は小麦粉につなぎとして藕粉(レンコンからとった料理用の澱粉)を使った。
さらに薬味は「川椒(チュアンヂャオ)」「青蒜絲(チンスァンスウ)」
「黄芽韮(ファンヤアヂウ)」「白芥子(バイヂェヅ)」「芫妥(妥は草冠)(イェンスイ)」
の5種類であった。
「川椒」は山椒のことだが、四川省の山椒という意味である。
「青蒜」は葉ニンニクのこと。「黄芽韮」は黄色いニラの若芽のこと。
「白芥子」は白カラシのこと。「芫妥(妥は草冠)」は香菜のことであった。
この黄門様の食べたというラーメンは新横浜のラーメン博物館に展示されている。
黄門様が朱舜水を江戸に招いたのは寛文5(1665)年7月のこと。
だから、黄門様がこのラーメンを食べたのはその頃だと、小菅桂子氏は推定する。
なお、某社製品の七味の成分は下記のとおり。
蕃椒(唐辛子)、白薑(生姜)、紫蘇、山椒、陳皮(チンピ)、胡麻、麻種(オタネ)