予備校の先生ではないが、趣味の中国の歴史について
参考書を見ながら、解説してみましょう、
それにしても、紛らわしい問題を出しますね。
正確に覚えていないと、間違いそう。
○清朝前半期の歴史について述べた文として誤っているものを 次の(1)〜(4)のうちから1つ選べ。 (1)清朝は,北京入城以前から,既に内モンゴルのチャハル部や李氏朝鮮を服 属させていた。 ホンタイジは内モンゴルのチャハル部や李朝朝鮮を征服していたから正しい。 (2)順治帝の清朝軍が北京に入城した時,明朝の将軍であった呉三桂などの漢 人も協力した。 ホンタイジの息子順治帝は父が死んだとき6歳の幼帝であったので、 叔父ドルゴンが摂政となり、清王朝の基礎を築いたから正しい。 1644年(崇禎17)には李自成反乱軍が北京城を占拠し、崇禎帝が自殺したものだから、 山海関を守っていた明将軍呉三桂が、反乱軍を討滅するため、満州族を万里の長城内に 入れたわけですね。 (3)清朝を建てた満州族は,かつて金朝を建てた女真族と同じ系統の民族であ る。 これはもちろん正しい。 (4)清朝は,康煕帝の時,満州族の伝統文化が失われるのを防ぐ目的で満州文 字を定めた。 満州族は、はじめはモンゴル文字で書いていたが、 清の太宗ホンタイジが1599年(万暦27)にモンゴル文字をもとに 満州文字を作らせたので、これが間違い。 康熙帝のときは、ネルチンスク条約を結び、ロシアとの国境を定めたり、 天山北路のジュンガル部の討伐をしたりした。 乾隆帝のとき、ジュンガル部を征服し、天山北路、天山南路、青海、チベットから 西方のトルキスタンまで清朝の勢力圏に入り、史上最大の中国王朝を作り上げた。 乾隆帝はこのほかビルマ、ネパール、ベトナムにも遠征軍を送り、 十回も討伐軍の戦いに勝ったといわれる。そのため、みずからを〈十全老人〉と 名づけて自慢していた。 答は(4) ○下線部に関連して述べた文として正しいものを,次の(1)〜(4)のうちから1 つ選べ。 (1)清朝の滅亡によって,四川や武昌で暴動や蜂起が頻発し、辛亥革命が起 こった。 1911年5月に誕生した内閣が皇族内閣にすぎなく、社会の問題が解決する どころか大きくなって、大量の流民・無産者を生み出していったので、 革命派の清朝打倒のよびかけが全国に広まっていった。 四川での鉄道国有反対暴動がひきがねとなり、武昌の新軍が蜂起し、 それが周辺にひろがって、1ヵ月たたぬうちに12の省都が清朝の支配を離脱した。 ということで、紛らわしい問題の文章であるが、清朝が滅亡したのは、辛亥革命の 後であるから、この文章は間違い。 (2)清朝最後の皇帝である光緒帝は,後に,日本軍の手によって再び皇帝と なった。 ラストエンペラーは溥儀でしょう。 (3)中華民国が建国された時,孫文は臨時大総統となり,南京に首都を置い た。 (4)袁世凱は,国民党の反対で,最後まで正式な大総統にはなれなかった。 1811年10月辛亥革命が勃発すると、アメリカから帰ってきた孫文は、臨時大総統 に選ばれ、中華民国が発足し、袁世凱が大総統に就任したわけです。 しかし、国会選挙が行われ、袁世凱の与党が敗北し、国民党が勝利すると、 袁世凱は独裁のじゃまな国民党の中心人物宋教仁を暗殺してしまった。 孫文はやむなく、日本に亡命してしまった。 中華民国ができると清王朝は終わったのだが、退位した皇帝の称号は残されていた。 袁世凱は自分が代わりに皇帝になりたかったのだが、 国内外の反対を受け、とうとう実現しなかった。 したがって(4)は間違い。 ゆえに正解は(3) ○図は中国で発刊された雑誌である。この雑誌にづいて述べた文として正しい ものを,次の(1)〜(4)のうちから1つ選べ。<この雑誌は新青年のこと> (1)魯迅が,「狂人日記」を発表した。 (2)陳独秀が,日露戦争中に創刊した。 陳独秀が上海で「新青年」を創刊したのは、袁世凱の恐怖政治のさなか1915年9月。 日露戦争は1904〜1905で、1905には孫文が東京で中国同盟会を結成し、辛亥革命の 準備がしだいに整えられていく。 (3)儒教を軸とする民族主義の高揚が図られた。 彼は民主と科学の旗を高く掲げ、封建儒教倫理に反対して、 自我・個性の確立、家族制度の打破、婦人の解放を訴えたから、これは違うでしょう。 (4)梁啓超が,白話(口語)文学を提唱した。 アメリカ留学から帰国した胡適が、伝統的な文語文よりも、口語による文章表現〈白話〉 を提唱したのだから、これは間違い。 正解は(1)