三蔵法師の仏教を求めてのシルクロードの旅は、日本人にもロマンをかきたてる話です。
私の高校時代の友人に袴谷憲昭という駒沢大学の先生がいます。
彼は高校生の時から、本をいっぱい読んでいました。私などとうてい足下におよばない。
お寺の息子でしたが、彼は東大インド哲学大学院に進んだので、彼の弟が実家の
寺を継いでいるそうです。
袴谷先生は専門分野ではかなり有名なようです。私に時々著書を送ってきます。
そこで、彼から送られた「桑山正進・袴谷憲昭:玄奘、大蔵出版」を
紹介したいと思います。
この本では、三蔵法師の旅の実地検証ならぬ、その旅行記の虚構性とか、三蔵法師が
上手にたちまわって時の政治権力の庇護を巧みに受けたことなどが書かれています。
また、苦労してインドから持ち帰った経典を、三蔵法師が文献に忠実に翻訳したが、
それは中国仏教界にどんな影響を与えたかということを解説してあります。
専門外のことなので、とても私の力に余ることです。
私の理解力の限界とこのホームページの容量から、きわめて簡単な紹介になります。
詳しいことが知りたい方は、上記の本を読むことをお勧めします。
京都大学の桑山先生(上記本の共著者)によると、三蔵法師の旅の正確な情報は
誰も知らないという。これについては学会でも論争があるという。
いつどこを通ったという地図や年表を作っても、作者によって変わるから
それなりの意味しかないという。玄奘三蔵が残した旅行記などの資料が不完全なため、
後の学者たちは、三蔵法師の旅の記録を整理するのに悩むという。
そもそも、三蔵法師の亡くなった時期はわかっているが、生まれた年は諸説があって、
いまだに論争が絶えないとか。
その理由は、三蔵法師自身が自分の旅行記録をぼかして書いているし、彼の弟子が
書いたという「大唐大慈恩寺三蔵法師伝(以下慈恩寺伝とする)」も調べてみると
矛盾が見つかるという。
たとえば、慈恩寺伝巻1では出発が秋8月なのに、巻5では4月となっている。
なぜそんなことをしたかというと、政治権力者に配慮したからだという。
当時の中国の仏教界では、中央アジアやガンダーラなどから来た僧が持ち込んだ
経典の翻訳が進み、翻訳された仏典で仏教を学ぶことができるようになった。
しかし、漢訳仏典だけで解釈するといろんな矛盾がでてきたり、どうしても理解できない
ことにぶつかり、やはりインドの原典を直接読む必要性を、真面目な三蔵法師は
人一倍感じたのであろう。真の仏教を研究するために、自分がインドに行って
経典を持ち帰り、それを正確に中国語に訳そうと思ったのが玄奘であった。
それで、出国禁止の国の掟をやぶってまでも、インドへの決死的な旅に出たのである。
当時のシルクロードは危険なので、唐王朝は中国人が旅行することを許可しなかった。
三蔵法師は出国禁止の掟をやぶって、密かに玉門関を出た。
砂漠を進みながら、あちこちのオアシスに寄った。
伊吾国(ハミ地方)にたどりついて王のもてなしを受けていたとき、
高昌国(トルファン地方)の使者がそこに滞在していた。
この使者の報告を受けて、高昌国王麹(きく)文泰は三蔵法師を招待した。
法師の学識に感激した高昌国王は、法師がその地に留まるよう乞うたが、
法師のインド行きの意志は固く、高昌国王は結局法師に旅費や通訳を用意して、
西突厥の統葉護可汗をはじめ西域諸国への紹介状も書いてくれた。
実は、統葉護可汗の長男(アフガニスタンのクンドゥズにいた)に高昌国王の妹が
妃となっていて、この2人の王は親戚だったのである。
慈恩寺伝では、仏教に帰依する西突厥の統葉護可汗は三蔵法師の説教を
大変感激して(額をたたいて歓喜して)聞いたという。
しかし、桑山先生によれば、高昌国王が法師に持たせた黄金や絹織物などに
喜んで、統葉護可汗は法師を歓待したのだという。それらは貴重品だったから。
決して熱心な仏教徒ではなかったという。それももっともなことだと思う。
西突厥の統葉護可汗は、法師のために中国語の堪能な青年を通訳として付けてくれた。
この2人の王の支援があったから、その後の玄奘のタシュケント、サマルカンド、
クンドゥズ、バーミヤンを経由しての北インドまでの旅は容易なものとなった。
この玄奘にとっては恩人とも言える2人の王のことを、慈恩寺伝ではあっさりと
記述している。
しかし、慈恩寺伝によると長安出発は貞観3年となっているが、
詳しい考証をすると、どうも貞観元年らしいと桑山先生は推察する。
貞観元年ごろには、高昌国王も西突厥も唐と友好関係にあった。
しかし、玄奘が世話になった高昌国王を旅立ってから、高昌国王は唐にしたがわない
と
みなされ、貞観14年唐に滅ぼされてしまった。また、西突厥も王族の内乱があり、
唐とは友好関係でなくなった。
玄奘が、貞観元年から2年までの事情を公的な文書に書かなかったのは、
その後の唐の事情で太宗が西突厥を敵国としてねらうことを知ったから、わざと
ぼかしたのだという。
袴谷教授によると、玄奘がインドから持ち帰った経典を、太宗の支援のもとに、
多数の協力者弟子の力を結集して、文献に忠実に翻訳した。
しかし、経典の翻訳はすでに羅什を中心に大半が訳されていて、玄奘の訳はほとんど
世に受け入れられなかった。わずかに、般若心経のみ(羅什訳があるにもかかわらず)
玄奘訳が流行したという。
アビダルマ系の教義上の述語について、玄奘訳が圧倒的な勢いで浸透していったが、
現代から見て玄奘の功績は文献学的に残るにとどまった。
玄奘の仕事が法相宗(唯識宗)教義として組織化されてくると、
それに反発するように新しい華厳宗が起こり、また一方では禅宗を中心とする
実践仏教の力強い動きがあった。このように、中国仏教は玄奘の手を離れて、
別のものに開花していったというのが私の理解である。
玄奘の翻訳の正確さをもってしても、中国の仏教の新しい動きを止めることは
できなかったのである。
玄奘三蔵の行程(中国の歴史4、講談社を参考 インドの分は省略)
A:長安 B:蘭州 C:涼州 D:甘州
E:瓜州 F:沙州(敦煌) G:玉門関
H:伊吾(ハミ) I:高昌 J:アグニ K:クチャ L:スイアブ
M:タラス N:シャーシュ(タシケント) O:サマルカンド
P:活国 Q:バクトラ(バルク) R:タクシラ
S:カシュガル T:ニヤ U:チャルマダナ V:ナヴァバ(楼蘭)