十 《造営方式》及び清工部《工程作法》
李誡と《造営方式》
衣食住行は人類の生活の4つの重要な行動であり、誰でもいつでも服を着たり、食事をしたり、居住するなどの活動による問題を経験しており、しかもそれらの問題をしだいに改善させてきた。ところで古代中国においては、それを科学とはみなされなかった。学者がそれを勉強しないで、研究も論述もしなかった。建築学もそのとおりで、その技術は師徒の間に口と心で伝えてきたものであつたため、ほとんど我々に系統的な科学文字著作を残してくれなかった。一方わずかに残っている珍しい建築書籍の中で一部のレベルのきわめて高い建築術書があり、これが宋代の李誡の編著した《造営方式》である。
李誡は字を明仲といい河南省鄭州の出身で官宦の家族に生まれた。宋元佑7年(1092年)から入将作監して主薄の担任になり、建築営繕の仕事に接触しはじめ、その後監丞、少監、大監と何回も昇進し、皇室の営繕事務の責任を全面的におうことになった。大観4年(1110年)に干鯱州で死んだ。前後18年の間にあわせて彼が王邸、宮殿、壁雍、府廨、太廟など異なる種類の建築の数多くの設計と施工に責任を負い、豊富な建築技術知識と経験を積んだ。
彼のいた時期は王安石が変法を実行している時期であり、王安石は「整軍強兵」と「理財節用」という変法精神の指導のもとで、行政管理を強化するため政府の各部門に一系列の「令式」と「法式」を作らせた。宋代の建築工事においても厳重な浪費とむさぼり現象が存在しており、変法理財の重要な方面にもなっているから、作監にも工事に関する《営造方式》となづけられた工料定額を編制させた。変法が失敗するにつれて、この方式が宋哲宗趙照親政まで実行されなかった。宋哲宗趙照親政になってから新党が起用されて、再び李誡が《営造方式》を編集しなおすようになった。李誡は旧法の方式の欠陥に補充修正して3年の努力を重ねて1100年に完成し、1103年印刷刊行によって、この著作が今まで伝わってきた次第である。
《造営方式》は全書36巻で、釈名、各作制度、功限、料例および図様の5つの部門に分かれ、また看詳(すなわち全体の規定とデータ)目録が1巻ずつある。各作制度の各巻の中で、業種によって壕塞、石作、大本作、小本作、彫作、旋作、鋸作、竹作、瓦作、泥作、彩画作、磚作、窰作などの13の作について述べられている。また、建築物の等級および大小により、各作における材料選定が決められ、構件比例と加工方法の確定および構件の間の相互関係の安排などの一系列制度がはっきりと合理的に規定されている。功限と料例部分は各業種の労働定額と用料定額をさし、ならびに工時材料に関する予算方法および材料の品質規準など述べられている。そこでこの本は施工管理の技術書であるにもかかわらず、書中に建築設計、構造、用料制作および施工の各方面にわたり全面的に宋代建築工事の技術と芸術のレベルを反映していることから、我々は宋代の建築工事のまとめにあたる科学的著作とみなしている。
宋代建築科学的成就
《営造法式》の中で記録されている3555条の建築規定と制度は労働匠の智恵を表しているばかりでなく、12世紀前後における我国建築科学面で上げられた成就も反映している。たとえば建築と構造設計の中で模数という概念が制定された。具体的にいうと、宋代において材分制とよばれたものである。《営造法式》巻4大の木作制度の第1条で「屋根を建てる制といえばみな材を祖とし、材は八等からなり、部屋の大小寸法をはかってそれを用いる」「それぞれその材の広さで15分に分かれ、10分をもって厚さとする。部屋または殿堂の高さ深さ、物の長短をはかって、曲直の姿勢、規矩縄墨の宜、...」設計の仕事をするに際して断面積が3:2の材料を標準用材として、材高を15分にして厚さを10分にする。部屋の規模、各部分の比例、各構件の長短、断面積の大小、外観形象など各種類の寸法はみな分の倍数で表示され、いわゆる分が基本模数である。また材をさらに8等分に分けて8等級の具体的断面寸法にわけ建築の等第によってそれぞれふさわしい材料を選定することになった。部屋を建てるに際して規模の大小がわかれば何等の用材を確定でき、そして建築平面と立面形式と各種類構造構件による分数を用いて、その詳細な具体的寸法を誘導し設計工料選定などが行われる。複雑な建築工事が短期間で完成できるのは、大量の設計専門家に乏しい古代中国においては、これが仕事の能率を上げる良い方法であるにちがいなく、今日においても模数制と標準化を広めることがなお設計と施工を早める有効な方法である。
この外、施工生産上厳重な管理方法をおくこともあって、その労働定額はすべて客観の異なる状況におうじて制定される。1年の中の春秋の両季節において所定の工値は標準とされ、夏期は昼が長く冬期は昼が短いのにおうじて、それぞれ工値を10%増減された。また輸送距離の長短とか水流の順逆になったり、木材軟硬などの要因に応じて工値が調整された。
構造設計上でも一定のレベルの科学性にいたっている。歴史経験のまとめによれば、宋代において木構造構架の形式が殿堂型と庁堂型、およびその他の派生的形制にまとめられ、建築匠によって平面使用要求に応じて直接採用されることになっていた(図59)。構造上の規定では檐柱はみな内向きに少し傾き側脚とよばれ、同時に檐柱の高さが中間の柱から両端柱に向かうほど高さを増すことを昇起とよばれ、側脚と昇起によって構架が内に向かって傾く姿勢が生ずることによって、構架の安定性が増加する。《法式》の中で梁伏の断面寸法の高さと広さの比が3:2で、この比例が円形木材から切り出される曲げに抵抗する強度最大の長方形用材の最高比例である。現在は900年前の宋代においては材料力学の計算方法が掌握されたかどうか断定できないにもかかわらず、少なくとも労働匠が材料受力の性能に対する十分な認識を持っていたことは明かである。
《法式》条文の中にも古代建築美学の特徴が現れる。すなわち建築に対する芸術加工と使用功能、構造処理など有機的に統一されている。たとえば礎石、欄の板の上に作られた石刻図案はその形体の特徴にしたがって設計されたものであり、木材表面の腐壊の防止のための油塗り付け工事をした上でさらに芸術的な彩画作品に発展された。構造構件力学性能を下げないことを前提として作られる「巻殺」「月梁」「浅脚」など芸術加工を加えられていた。屋根の防水性能を向上するため琉璃瓦が用いられ、そして色々はれやかな色彩琉璃に推演されることによって建築外観が美化される。屋根の上にある走獣、脊吻、門窓模様図案などそれぞれ実用効能があった。とにかく《法式》の中からわかるように、建築芸術と技術の間には密接な関係があり、相補相成の関係をなしていた。宋代の建築遺跡物が少ない現実の下で、《法式》の中に記載されている相当多い技術データは科学研究に価値のある素材を提供している。
承前啓後 継往開来
宋代建築成就は孤立的な存在でなく、建築発展史上の1つの歴史段階にあたるものであるから、必ず前の時代との継承関係があり、またその後の建築の進程に影響を及ぼす。すでに知られた唐代建築からわかるように多くの技術の特点が形成されあるいは形成されつつあった。たとえば唐代の著名な建築である五台山仏光寺東大殿の構架が即《法式》の中に記載されている「金箱斗底槽」殿堂構架形式である。また建築の側脚と昇起が仏光寺の中にすでに取り入れられていた。唐代建築遺跡の中からすでに緑色琉璃瓦が重要な殿堂に用いられたことが発見された。蓮花形柱礎、構片欄干、直霊格子窓など宋代までずっと用いられてきた。しかしある技術と構造形式は宋において新しい発展がおこった。たとえば唐代の屋根の上に作られる鴟尾が吻獣に代わり柱枋上の間人字拱が取り入れられなくなり、その代わりに斗拱鋪作形式にかわった。また宋代の間窓霊格、藻井などさらに豊富で多変になった。宋代以後の建築はさらに長足の進歩をとげた。
しかしある手法はいぜんとして宋代の原形を守っていた。たとえば側脚法はずっと清代にいたるまで保持された。琉璃瓦の制作技術が宋代とあまり変わりなく、彩色配置が多くなっただけである。須弥座の形式、格子門の形式、烏頭門(霊星門)の形式では宋代の造形がうけつがれていた。特別として注意すべきものは清代においても一部の技術書籍が編集されたことがあることで、建築造営に関する質量と工料の根拠とされるのが清工部の《工程作法》である。
《工程作法》
《工程作法》は清雍正12年(1734年)に編集され、清代の初期にあたり建築工事量がますます増加されたので統一的な整頓を行う必要があるときだった。全書あわせて74巻、前27巻は27種類の典型的な工事実例の大木設計および各部分の詳細寸法と、後47巻は大木作、装修作、石作、瓦作、土作、銅作、鉄作、塔材作、油作、画作、表作など11の業種の用工用料定額規定がのっている。宋代《営造法式》とくらべて明かなように、宋代において重点とされたのは設計方式に関する原則の規定であり、清代において重点とされたのは設計寸法に関する具体的な作り方であり、古代の専門の言葉でいえば「程式」と「事例」となる。技術レベルからいえば宋代がすぐれている。しかし建築管理の混乱で明確な規範がない現況で、この事例規定がやはり重要な監督と制御の働きをしていた。
《作法》の応用範囲は主として宮廷営建の壇廟、宮殿、陵寝、倉庫、城垣、寺廟、王府などの官工範囲とされる。民間の部屋は含まれていないが、この本からも清代建築技術発展のレベルがのぞき見いだされる。たとえば建築装飾面において宋代の規定により著しく増加された。宋代においては油と画が分かれていないのに対して、清代においては油作と彩画作に分かれていた。また他の各作の中に詳細に彫金匠、菱花匠、錠交匠、錐鑿匠、鏃花匠などの専門工芸匠作が分かれたので、清代建築装飾工芸の発展と詳細の程度が明らかにされている。また大木制作方面においても宋代によりさらに発展がとげた、斗拱の構造作用が低下されて外檐に限られるようになり、内檐各構件が多塔交または準接直接荷重が伝えられた。構件制作は分賛、幇併によって小材を使って大材に組み立てた。構件交接点は拉止など鉄活を用いることによって堅牢性が増された。同時に唐宋以来はやってきた側脚昇起などの方法が基本的に用いられなくなった。清代屋根勾配の曲線に挙架法が使われ、宋代の挙折法より応用上さらに便利になり、全体比例上ぴったりコントロールするのがむずかしいことであった。建築設計寸法標準については宋代においては「材」を根本としていたのに対して、清代においては斗拱作用が日増しに衰えて、いぜんとして斗口で計量規準とされているにもかかわらず、中小形の部屋および楼房転角房などに直接部屋の間の棚および構件寸法が開列されるようになったから設計寸法上変化中にあると説明されている。この他工料定額制定、材料供給方式、彩画題材図案が宋代にくらべて異なっている(図60)。 文字で考察できる3000年余りの間には歴史が残してきたたくさんの文献典籍の中で数えられるほどわずかの建築技術関係の記載がある。今まで知られていたのは《考工記》、宋代の《営造方式》《木経》、元代の《大元倉庫記》、明代の《園治》《長物志》《魯班経》《梓人遺稿制》《工部場庫須知》、清代の《工程作法》《内庭作法則例》《円明園工程作法則例》などまで、ある典籍は疎漏のある典籍がありまた残段しか残してくれないものもあり、建築の一方面しか記載のないものもあり、しかしそれをまとめて必ず我々に発展の図象を示す、その中の《営造方式》という本は内容の正確さ記述の全面さによって中国古代建築技術発展史の研究のために溝通と伝播の役割をはたしており、ありがたい貴重な資料である。
十一 腕の良い匠が民間から出る
アイデアを実際に応用する
土木構造を主体とする中国古代建築は形象上ヨーロッパのレンガ石建築とくらべれば、後者の方はもっと勢いがよく気勢堂々としているが、前者の方は独特な東方の気勢があり、工芸巧妙、構造合理的で技芸の美が現されている。これらの技芸のある方面は当時の世界のリーダの地位にあったと考えられる。しかしこれらのすばらしい成就は世に知られないまま名前さえ残らない民間の匠たちによって創造されたものである。
構造上から考察すると、6000年前まだ石器を使って部屋を建てる時代に、木と木をつなぐ構造、塔接構架が発明された。戦国時代(前5〜3世紀)における細木工芸はもっと優れた水準にあって、大量の出土物品は当時の土工で釦Aつなぎ、透Aつなぎ、割肩透Aつなぎ、燕尾Aつなぎ、企口Aつなぎ、圧口縫及び燕尾銷などの一系列木構結合形式を用いて、木器の製造および建築の装飾に活用されていた(図61)。明代にいたって、そんなに軽巧繊細、曲線柔和、精緻光潔、塑性美をそなえる明代硬木家具が作り出された。我国の木構架体系は早くも梁柱式と穿逗式2種類の基本的な構造形式が形成されており、そして多種変体に移り変わっている。同時に橋梁木構架に懸壁橋(図62)および畳梁橋(片持ち梁橋)が作り出され、短い木材を用いて広い空間をまたぐ構造問題を解決した。この畳梁橋は宋人張択端により書かれた《清明上河図》にその形象が現されている。
地盤基礎方面において、大建築物または仏像の基盤に杭基礎が使われていた。宋の《営造方式》の中にも基礎工事中の杭打ちについて規定されている。特別重視すべきものは、泉州宋代洛陽橋の基礎工事であり、それは匠たちのすばらしい知恵を反映している。匠たちは前もって水底に橋基礎に沿っていっぱい石灰を敷き、牡蛎を養殖し3年後に石灰の間に牡蛎の殻により接着され河床をまたいだ筏基礎が形成された。その上に橋脚と橋面が建てられ、大橋が形成された。このアイデアは一般的な工程学の概念を越え、さらに生物学を工事に取り入れているもので、もし近代の名をつけることにすれば、「工程生物学」といえるであろう。
給排水の設計にも久遠の歴史を持ち、殷墟の遺跡の中で数多くの下水管道が発掘されたことによって紀元前11世紀の居住区内に排水施設ができたことが明かである。戦国の時代にいたって当時はやっていた台謝建築にも良好な排水施設を有している。秦代感陽宮遺跡に当時浴室として使われた部屋が発見され、そこに漏斗形の集水器および曲折した配水管道があった。
紀元前3000年に建築上ですでに石灰使用が開始された。紀元前9世紀に陶瓦が出現した。少なくとも周代にすでに青銅、玉、石、彩絵、絹織物などの材料を建築装飾装修に使われはじめた。琉璃技術が建築に応用された時間は長いとはいえないが、北魏(6世紀)の時代に琉璃瓦の応用が始められてから、継続不断、一脈相承的に清代まで沿用され、色晴れやかな東方の格調の琉璃技術が形成されていた(図63)。隋代(7世紀頃)には、すでに重要な皇家建築工事において、あらかじめ設計図を書いたり模型を制作したりして、方案の選定に使われていた。この外、建築測量方面に土方工程計算上で価値の少なくない事例がある。中でも建築施工方面でもっと人に考えさせ発人深省させるたくさんの事例があり、今でもなお参考価値を持っている。
起重の法
我国には早くも桔楾を使って簡単な起重工具とする発明ができ、明清時代にまで大木施工上で重物を起吊する方法として応用されており打秤杆と呼ばれた。すなわち小力で大力を生ずる、てこの原理を利用して重物を吊り起こすものである。中国古代にも滑車と交盤を主とする起吊工具が発明された。しかし巨大な構件または特殊な施工の場合はその場で匠達のアイデアに頼って適宜的な処置方法を考え出さなければならなかったのである。福建省の章州虎渡橋は宋代(1237−1240)に建てられた多径間石橋であり、橋脚の間に橋面とする3本の石梁がかけられていて、最大の石梁長23.7m、高さ1.35m、幅1.32m、自重120tにもおよんでいる(図64)。一方この巨型の構件がいかに橋脚の上に載せられたのかずっととけない謎となっている。地元の古老の伝説によれば、この石梁の架設は水に浮かせる方法、つまり石梁を船に載せ橋脚の間に運搬しておいて、水面の満潮の時、船体が浮き上がり石梁を橋脚の上に載せたのであるが、施工細節が今でも知られていない。《宋史・方技伝》の中にそれと類似する宋代僧人懐丙が船で起重する事例の記載がある。記載によれば河中府に浮橋があり両端に8個の鉄牛でケーブルを結びつけ、鉄牛1つで万斤(5t)に達しており、ある年に河の水が洪水で急上昇し浮き船が中断されそして鉄牛が河の中に落ちてしまって、
つり上げる方法はなかった。ところで懐丙が人に2つの大船に土をつかませて鉄牛の沈んだ場所に両船の間に木梁をたて、梁上からケーブルを鉄牛に結びつけて、船内の土を少しずつ出すことによって船体が浮き上がって鉄牛をつり上げたのである。上に述べたことは水力利用の例であり、また外の力学原理利用の例がある。唐代の《国史補》の記載によると、蘇州市重元寺にある楼閣の1部分が突然ゆがんで傾斜し、もしそれをもとにもどすには複雑な起重装置が必要となり、またかなりの費用がかかる。旅をする僧人がそれに対して、たいしたことではないから彼1人でも直すことができると言った。そこで彼はたくさんの木楔をもって楼閣の異なる部位にある梁柱間にさしこむと、傾斜になった部分は1カ月足らずでもどり楼閣はもとにもどった。彼の方法は実際に圧力をかけて押しつけるという原理を利用して、小を積み大となすことにより部屋を正すことである。今日一般の木製門窓枠扇が下に下がれば、Aつなぎに楔をさしこんだだけで調整がとれる。その原理は同じことである。小力で大力に変換する例としてなお土功の法がある。たとえば北京大鐘寺の大鐘はいかに鐘架にかけられたのかについて、まず基礎の上に土を積んで丘にし、その丘の上に銅鐘を立て、その銅鐘を囲んで鐘架を建てる。そして鐘のきずなをたなの架の上にかけてから土を取り除いて、銅鐘が鐘架の上にかけられることになったのである、という説がある。以上の数例で古代匠が非常によく功の原理を知っており、時間と距離を増やすことによって短時間で短い距離の条件の下で大きい起重の力をおこすことが説明される。
運輸の法
封建社会の土木建築工事における運輸は労力がたくさんかかり手でもったり肩にかついだりして、労働は非常に骨の折れるものであった。しかし水郷地区河湖沿岸域では水運の利用が得られる。明清時代に北京を修建するのに使われた城磚、金磚はほとんど江蘇、蘇州または山東臨清で採石され、大運河の便によって船で北京まで運んできたのである。明初期、都は南京城に定められ、南京城壁の修築に使われた城磚は各府州県から調達されてきたもので、現存の城磚に模印され、これらの州県は多くの場合は江蘇省、安徽省、江西省、湖北省など長江またはその支流の沿岸部にある府州県であることがわかった。そこで城磚の運輸を水運にたよって運ばれてきたことが明かである。ときには官工が大量に車両を使って運んだこともあった。漢昭帝が陵寝を営造したとき、1回で民間の牛車3万台も調達した。以上は一般の運輸であり、重型構件または材料を運ぶ場合は、またその方法を考えなければならなかった。たとえば明代嘉靖年間に修建された宮城の三大殿に使う長さ3m、幅1m、厚さ0.5m、重さ約110tの階段大石は、陸地船を使って人力で産地から宮城までひっぱってきたものであるが、ここで陸地船はおそらく船架であり、その上に巨石を載せ、下に回転するころを敷いて、回転によって地面の摩擦力を減少させたものであろう。万歴時にいたって三大殿を建造するときの巨石運搬は車両が用いられ、そのため特製の16輪大車が作り出され、人の代わりにロバを使って引っぱり、さらに人力負担を軽減した。金代の張中彦が新しく作り出された大船を水中に流すとき引っぱって水に入れる運輸工事の良いアイデアとなった。船体が巨大で引っぱり動かしにくいから、張中彦は匠に船体のある場所から河までを平整させ、その平整された地面は一定の勾配をもっていて、そして切ったばかりの麦わらを地面に敷いて、船体滑走方向変化を制限するため、その両側に巨大な木材が置かれた。翌朝わらの上に薄い霜がついて、その時人々に船体を引かせ容易に船を河の中に入れたのである。ここでまた清代の川陜一帯の木商人が山々の中から木材を伐採して運んでいたのも、この原理を利用していることを連想する。まず山から河岸まで長さ数十里におよぶ「溜子」を建造し、それは一種の木製長橋の構架に類似しており冬には溜子の上に水をかけて氷らせ、重さ500kg以上の木材をその上に載せ1人でも山から運び出すことができた。
全体を見渡して統一的に案配する方法
「左伝」の記載によれば、春秋時代の楚国の令伊為艾昔という人が沂城を建造しようとしとて、建城担当者である「封人」にそうするように命令した。封人は城を築くために事前と事後に資金を調達し土をたたく器具である板干を用意し、土掘りの道具を準備し土方量および土方運搬距離を計算し、基礎を平らにし食料を用意し、また管理部門に色々計算をしてもらい、工事を始めてからわずか30日で工事任務を完成した。この記載でわかるように早くも紀元前5世紀の建築施工に完全な管理方法を具備して各施工段階において全局面を見渡して統一的に案配した。速やかに低いコストで施工任務を完成するよう求められていた。古代施工管理工作の典型的な例としては各時代みなあり《夢渓筆談》の中で紹介されている「一挙三役」という作法はオペレーションリサーチを工事に用いる優秀な実例というべきであろう。宋の大中祥符年間にべん梁城宮殿の失火で、丁謂が修復工事に責任を持つことになり、しかしはるかに遠い所しか土を取れないことで、取土に悩んで丁謂が城内の大街を掘り開いて近い所で取土し土建工事に用いることを決めた。大街が濠になり、べん河が直通し河川の水を入れて河道が形成され、いろいろな所からきた竹木排筏および雑用建築材料を運搬する船は直接にその濠に沿って宮門まで届くことができ運搬費用が節約できた。新宮殿が完成した後で、残りの大量瓦礫、かす土を濠のなかに充填し、もとの大街の姿が回復した。丁謂がこの方法で取土、運搬、廃棄かす、3つの項を同時に解決でき、非常に経済効果が上げられた。明代嘉靖36年に北京宮殿が失火し、鄭暁時が宮殿修復工事に協力したときも、このアイデアが用いられた。彼は燃え残った材料に対して、磚、瓦、木、石の種類別および完全、半残、欠損などにわけ、新しく六科廊、東西朝房を建設するとき、および午門以内の残壁の補修で乾清宮前壁の新建などの項目は全部旧材料が用いられ節約がたくさんできた。同時に宮殿修築には大量の黄土が必要となり、もし城外から運搬してくるとすると車両5000台が必要であり、鄭暁時は午門の東西闕門外の空き地から取土し、工事完成後に、焦土、土かすを回填したその上に黄土3尺をかぶせ、本来の旧観とすることをすすめた。南宋紹興年間王喚が平江府(今の蘇州市)の知府に委任される頃は、金の兵隊に破壊され至る所で瓦礫が見られて学校や役所が修復を待ち望まれる時であった。王喚がすべての入城して商売をする小舟が出城する時、一船の瓦礫を城郊外にある塘岸や水田のあぜ道にまで積み出さなければならないと決め、城と郊区の人民が非常に満足していた。同時に彼は城内の砕石を積み上げて焼いてできた石灰は役所と官舎の泥壁に用いた。以上みなオペレーションリサーチの思想を現したものである。明朝末代抜群の建築経済家が誕生し、彼が万暦年間工部郎中であった賀盛瑞である。全般にわたって総合的に案配して施工問題を解決し、悪いところを防止するため多くの改革を行った。彼が皇家工程管理につとめた前後6年の間、泰陵、献陵、公主府第、城壁、西華門などを修復したことがある。彼の経済管理面の才能は集中的に乾清、申寧の両宮の修復工事に反映され、コネを反対し、チャンスをうかがい事務機構を厳格にする外、主要なのは各施工管理制度を完全にし経済効果を重視する点にあった。たとえば工事用の車はそれまで官府によって使われた後、民戸(工事に雇われた人)に使わせて、5年間にわたって運輸料の中からその値段が差し引かれるので、この車の価格は民戸毎年運輸料の5%にすぎないため完全に負担でき、官私両利になっていた。また両宮工事の巨大なこともあった。彼は工事全体を若干工区に分け、それぞれ司官および内官2人の責任者をおき明確な賞罰制度を規定しているので、各工区官吏の間でみんな競争しあい、責任のなすりあいをしないで、見ているだけで協力しないで足を引っぱりあうという弊害をさけることができた。彼はまた工事予算の評価制度を制定し、つまり工事スタートの前、工部堂の上官員(施工一方の代表)科道官(財務監督一方の代表)および内監官(宮廷即業主一方の代表)の三方によって近例を参照して、その工事に必要な物料、費用を共同議定し一旦きまったらその後随意に添加してはいけなく、よって随意に工事費用の追加を自分の懐に入れるむさぼり現象を防止していた。工事支払方法において彼は「労力の数と時間よりも効率で支払う」という原則を提案したことによって、人数ごとに労賃を支払う慣例が変えられた。匠の人数によらずその代わりに完成した実際の効果によって労賃を支払う方法は能率を高めるばかりでなく有名無人(なまえだけ出て実際出ていない)、有人無功(出ているが仕事をしない)といったことをして人夫頭が自分の懐をこやす弊害をさけることができた。したがって彼が管理した乾清、坤寧両宮工事において白銀92万両節約され全体工事費の57.5%に相当する。この成績は封建社会では極端に珍しいことであった。
歴代のすぐれた腕の良い匠および知恵のある人を全体的に分析すれば、彼らは建築工事においてすばらしく貢献できたのは、主な特点として実際に深くとけこみ社会に向けて口先だけで何もしない矛盾を回避せず実際問題を解決することと、もう一つは彼らは多方面の科学知識や社会経験をもって困難な条件の下で合理的な方案と措置を見つけることができることにあった。
十二 上林苑 花石綱 園冶
庭園は都市生活の一部分で芸術と工事に結び付けられたものである。造園活動は建築師たちに一番興味が持たれる。しかし成果をあげるのが一番難しい内容である。世界各国人民が作り出してタイプの異なる独特な風格を持つ園林の中で中国の物はそのユニークさで自然山水の美が庭園の中に融合されて東方的庭園芸術が形成された。数千年来数え切れないほどの造園活動がわずかな頁でまとめることがむずかしくてその中の一園、一事、一書をあげてその発展のすじを描述する。
上林苑
原始社会は低い生産力を有し、狩猟と採集をもって生活が維持され人々の生産と生活が直接大自然と結び付けられ、芸術創造上で原始絵画と原始音楽など芸術種類を創立して労働の楽しみを表現していった。しかしその生活は基本的に大自然の中でいとなまれていたため、造園に対する要求がなかったわけである。奴隷社会における生産道具と生産技術面の進歩が奴隷主階級が実際の生産労働から脱出することができ、奴隷に対する剥削によってくらせるため狩猟活動および農耕活動がすでに歴史的なものになり、その過去の歴史を味わうため、初級の庭園形式一苑囿が出現した。そこで行われた狩猟と農耕活動がみな遊楽を目的とする一種の享楽であった。殷墟甲骨文字の中ですでに園囿圃などの象形文字が出ており周代において「霊囿」の描写からその囿は一定の境界で取り囲まれ、ましては壁と柵を築いた所もあり、その中には豊富な天然の植生があり熊、虎、孔雀、鹿、雉と兎、檎鳥などたくさんの檎獣が飼われていた。その中台謝、池沼および補助風景があった。秦始皇帝が6国を力でまとめた後、渭水の南に著名な上林苑を建造した。この苑は苑囿式の園林であった。漢武帝の時に秦の旧苑に拡大建造の手を加え、占地範囲は「南の宜春、鼎湖、御宿、昆吾、旁南山、長楊、五柞、黄山を越えて北へ渭水にそって東へ」すなわち今日の西安市の西南、藍田、長安、戸県、周至などいくつかの県を越え、歴史上では「周柔3百里、内には離宮70カ所、千乗万騎も入れるほどであった」「苑中に百獣が飼われ、秋冬のシーズンに苑中で狩をする」規模の大きさで世間にまたとないものであった。漢代初年の上林苑は、基本的に自然風貌を基調とされ、毎年数多くの山林から収穫物が採られた。武帝による拡建をへてたくさんの宮、苑、観、館などの建造物が増加し、たとえば著名な建章宮がその上林苑の中に立っている。建築内容が多くなった離宮の雰囲気を深めたにもかかわらず、その建築内容からみて依然として山林遊狩と植物鑑賞を目的とする苑囿式園林には変わりがない。その中で動物をもって名付られた宮観がたくさんある。たとえば射熊館、犬台館、衆鹿館、虎圏、走馬館、鑑賞館、魚鳥観、白鹿観等からわかるように上林苑内に飼われていた檎獣の品種は非常に多かった。漢武帝時代に上林苑に責任をもって管理する役職は「水衡都尉」とよばれ、古代において山林を責任をもって管理する役職は衡、水利を責任をもって管理する役職は都水とよばれたことから、水衡都尉のその名前から説明されるように上林苑の経営性質が明きらかとなった。上林苑の中にはまたたくさんの奇花、異樹及び経済価値の高い植物があり、これらの植物を培植するために建造した宮観もあった。択観、樛木観、葡萄宮、青梧観、細柳観、白楊観等である。その中で最も著名なものは扶茘宮であった。漢武帝元鼎6年に南越を破り、この宮殿が建てられ、南方の木草異木の培植が用いられ、菖蒲、山姜、香蕉、留求子、桂花、龍眼、茘枝、梹椰、橄檻、柑橘などが植えられていた。気候の差が原因で、大部分の植物は生きられなかったにもかかわらず、毎年鑑賞のため継続的に大量に移植されていた。この他、上林苑中になお品種の優秀な植物がたくさんあり、梨、棗、栗、桃、李、捺、梅、杏、桐、林檎、枇杷、橙、石榴などの果樹及び楡、槐、桂、漆、楠、樅などの経済的木材も含まれていた。以上上林苑の設置からわかるように園林内において宴楽(建章宮)、住宿(御宿苑)を行い賓客の招待(思賢苑)、祭祀、狩猟、遊賞、収穫などの多方面の活動が行われており、その中心テーマは囿と圃であるから、上林苑は同時に古代の巨大な動植物園と呼ぶべきであろう。この時期における園林活動が経済生活特征の影響を受けていることが明確であろう。
花石綱
三国、両晋時代に戦争が頻繁にあり、人民生活の安定が得られず普遍的に遁世思想が生まれ俗世から脱出する希望、大自然への遁入などがはやり、精神上の解脱が求められていた。芸術創作の中で田園詩、山水画などの種類が突出して発展してきた。同時に地主階級がさらに生産から逸脱し動態の田狩生活に興味を失って、その代わりに静観的な自然山水風景に興味を持つようになり、造園史上で山水野趣を主題とする山水園が生まれたわけである。このタイプの園林が真の山水を手本とし良いものを結集して概括をへて人工建造された園林の中で自然景観が再現できた。山水を主題とする園林は両漢時代から誕生し梁孝王劉武の兎園、茂陵富人の園広漢の花園及び東漢大将軍梁異(河北)の洛陽の花園みな園中に人工的に池を掘り山を築き高山峻令のまねをして、深林絶間の風貌をシュミレートし珍檎馴獣、奇花異草がたくさん置かれ数里にわたる範囲で自然山水の妙境を結集していた。西晋時代の石崇の金谷園も山水園であり、ただしその主題は池沼花木が重点とされ、風格がさらに静雅になる。この風格の園林は南朝においてさらに発展をとげ、たとえば劉宋の玄武湖、華林園などがそれである。水の風景が園林の中に突出した地位をもっているため、秦、漢以来方士が東海に蓬莱、方丈、瀛州といった3つの神山があると提唱してから、さらにその名前と思想が園林の中に取り入れられ、しばしば池沼の中に3つの島が飾り築かれてそのアイデアを象徴していた。隋煬帝が洛陽に営造した西苑は水景園林を発揮した唯一の巨作であり、周囲10里余りに及ぶ内湖に三神山を建造し、湖の北岸に龍鱗渠が流れ回り、それぞれ独立した十六院が渠のそばに建てられていた。この水を主とする園林は北方には珍しいものである。
唐、宋時代の文人写意画の発展が山水園に対する設計にアイデアが与えられ、画意構思を園林空間形式をもって表現した。この時の園林建造活動の規模がしだいに拡大され、造園技芸もさらに精進し、北宋末期によく知られた花石綱事件が1つの広大な造園活動であった北宋徽宗趙佶が風流皇帝であり書画によくし色と酒を愛し晩年に朱面などか惑わされ奇花異石に夢中になり玉清と陽宮、上清宝篆宮等いくつかの大型宮観園林または寿山岳を築いた。紀元1117年から建造が始まり1123年に完成し歴時6年になって周囲10里余り、四方から奇花異石を取り集めてその空間に充実させ、数え切れないほどの楼台殿閣や土石を積んだ千岩万叡が築かれ、その構造の精妙は一時絶勝とされた。朱面はもともと蘇州の人で蔡京童貫の門下になって身を頼り、補官をえることができた。この期間に彼がいつもよく貢物を朝廷に奉じたため、彼が蘇州で応奉局を作って専門に各種の金銀珠宝器物を製造するように任命された。恨岳建造開始の時、彼が蘇州江州一帯に奇花異石を探してべん梁へ運輸し、恨岳の用に使うよう命令されていた。彼の捜査活動は「行かないところがない」というほどで、すべての民家に一花一木の良い物があれば強行に運んだ。高大巨石の場合は巨艦装載し、千人の男を使って引っ張り、河を築いたり橋を壊したり堰を壊したり閘を折ったりして京師(べん梁)に運んだ。この長年不断に行われた花石運輸工事の当時において花石綱と呼ばれていた。この1箇所の規模巨大な皇帝苑囿がおしいことに4年間しか存在しなかった。1127年に金の兵隊がべん梁をおそったとき完全にこわしてしまったのである。
恨岳の造園思想は山水を主幹とし、山を重ねてかざる構図の中心とし、恨岳山を囲んで景色のポイントを配置するものである。山東省には梅林、山西省には薬寮及び農業作物の種植の西庄があり、山上山下にあずま屋、滝、水池、桟道、樹木、岩洞、沙州等がかざられ変化に富むたくさんの山水景色が形成される。白竜溝、濯竜峡、跨雲亭、羅漢岩、万松峰、倚翠楼、芦渚、雁池等がそれである。
宋代の人工畳山活動が増え、技法をさらに熟練した。《画論》中に求められている「先立賓主の位、決定遠近の形(主客をはっきりわけて立て遠近を決める)」、「山の走る方向をとり石脈に分ける」山形、山勢、走向、脈絡などの山の特徴を人工的に建てた山石の中に概括的に表現する。宋代において山を重ねる独特なことは高くなるばかりでなくその中に必ず石洞を配置することにある。恨岳山の中には大洞が数十個もあり、こうして山岩空間にもっと変化をつけ工事もさらに経済合理になるのは当然のことで、その代わりにもっとすぐれた畳山技術が必要になるといわれている。その他に宋代の人が独石と孤峰を鑑賞するのが好まれる。それを園林中の彫刻作品とみなすことができ、自然のものとはいえ、色々な思いをはせることができる。恨岳の中に「排衙、巧怪嶄岩」となづけられ高さ3丈におよぶ巨石がある。恨岳の両面の入口の華陽門の中に「神雲昭功石」という石が立っており、その両側に桧樹があり、1つは朝日に向かって竜が昇るの桧、もう1つは雲の上に横になって伏せる竜の桧であり、園林の入口に入ってからの序幕となっている。恨岳の園林構図から見れば自然山水的な苑囿式の園林がここまで完全に人工化された。このようにさらに精錬され、さらに概括的にアイデアを表現する条件が備わりいいかえれば園林芸術における創作性がさらに突出した(図66)。
園冶
明清時代において園林芸術中の宅園タイプが大きな発展をとげ、その数量と質量が空前の段階にたっしており、その分布は全国南北におよんでいた。蘇州の拙政園、留園(図67)、揚州の寄嘯山荘、小盤谷、北京の恭王府花園、嘉定秋霞圃、南京瞻園、常熱燕園、杭州水竹居、番萬の余陰山房、広州九曜園等各地にすでにこわされた歴史名園についてはその数が数えられないほどである。明清宅園興盛の原因が封建社会経済文化発展の結果で一般の中産階級にも国家園林に必要な財力がついて、宅居生活を豊富にするため、同時に封建末期統治階級の享楽追求、山水に情をたくし怡情養生の消極的な遁性思想を主張していた(図68、69)。この間に文人雅士が詩詞絵画を通じて園林建築芸術に影響を及ぼすばかりでなく直接に造園活動に参入する人もいた。宅園は都市用地の制限を受け必ず狭い空間に山水意境を配置しなければならないため、園林構図をさらに写意化、抽象化、微型化せざるをえなく宅園もいわば遊覧可能な箱庭となった。この特定条件の影響を受け造園芸術技術がさらに新たな発展がとげられろ、ふあさわしい場所を見つけること立基がその土地の具体的な状況において適切な処置をこうじることアイデアを立てる山林の趣を持たなければならないほかに特別セットになる造景、攝景、借景的手法が必要となり、見渡して内外景色鑑賞景物の拡大と豊富にして宅園の建造に応用した。明朝末年計成が著した《園冶》は宅園建造についての経験をまとめてある専門園林芸術著作である。
計成は字无否(音匹)、蘇州府呉江県人、明万暦七年(1579年)に生まれ、文筆と絵画がよくでき、画意をもって園林修造を指導し、自らいくつかの宅園を建造したことがある。自分の心得えと検討により1631年に<園冶>という本を書き上げた。全書3巻計10篇それぞれ相地、立基、屋宇、装折、門窓、壁垣、敷地、綴山、先石、借景冒頭にまた「興造論」と「園説」2編の文字をもって概論に用いられた。書中園林創作における基本原則に対して「巧寧因借り、精在体宜」即ち具体的な環境条件に応じて最適な方案を追求し、発展とともに周囲の地形をのばしてやる、このようにして周囲の景色を借景する。このようにして時間とコストが節約できるばかりでなく、最も地方の特色に富んだ景色が作り出される。いわゆる得宜が何であるかについては、作者の心いっぱいの園地の基礎の高低環境端屈、樹木植被、水泉流向等の条件を観察してみな人工整理によって景致(景色の個々の要素)になれる、お互いに資借にもなる。借景方法は内外にこだわらず、遠借、近借、仰借、俯借、四季に応じて借景し、「俗ならそれをさけ、良いものなら収める」ことで一切の景致が我に利用の対象となる。また<園冶>の中で「強由人作、宛似天開」という芸術アイデアが提案された。つまり自然にシュミレートして自然を再現することによって自然追求を造園の根本目標とされていた。山は高さによらずその峰蛮走向を方効し山石紋理の法を方効することにある。水は広さによらずその磯石分布、激湍緩流にある。もし意と形とそろえて存在するとすれば一勺の水でも大洋深海とみなされ、一つの石でも千岩万谷とみなされる。宅園建造の中にその写意成分は皇家苑囿においてはさらに突出、概括されたため必ず抽象的な概念、文学的な意境で鑑賞してこそそのよさが理解される。これらの造園芸術特点は明清宅園の用地が狭小で静観が好まれ<園冶>の中に大量に園林建築物の建造芸術たとえば立基、屋寧、装折、門窓、壁垣敷地などを論じており技術作法を述べるばかりでなく大量の図様が作られ、これにも園林規模が小さくなるにつれて建築が園林の中で比重が相対的に増加することになり建築芸術の表現力がさらに豊富多彩に要求されたからである(図70,71,72)。
<園冶>という本が世に出て、伝統造園事業において継往開来(過去を受け継ぎ未来を開く)という働きをもっていた。清代の自家園林の建造がその影響を強く受けていた。畳山技芸についてはさらに新たな発展があり、次々と張連、張然、石涛、李漁、裕良などの造園芸術にも畳山技芸にも腕の良い名人が生まれた。<園冶>の出版からその側面で明清園林事業の中でも特に自家宅園の繁盛局面を理解できる。
中国古典園林の発展
縦の方向から見れば(歴史の流れの方向から見れば)中国園林は主題意匠で苑囿式、人工山水式、及び微型写意式等3種類の園林形式に概括される。このような時代的な発展の特徴も人類審美観念の発展の過程に符合したものである。人類美感の源は生産労働と生活需要から生まれ、原始社会の狩猟採集活動が初期生産の主要形式であり、生産中と生活中たとえば緊張した捜捕、豊富な収穫などで満足な享受などが原始人類に美感をもたらす根源であった。奴隷主階級がしだいに労働から脱出するにもかかわらず彼等の生活がこれらの活動から離れられないため、苑囿を建てるのが初期園林の主題意匠となった。封建農業経済の発展が人々に狩猟または採集活動に対する印象が日増しにうすくさせる一方、封建都市の拡張が地主官僚階級を生産からも自然からも離脱させてきた。「返回自然」自然に接近する需要から山水式園林の建立をひきおこし各種の自然山水をタイトルにした園林は中世紀園林の特徴になり、いわゆる「都市山林」がそれである。封建末期の統治階級が高度文化素養を積累しており、さらに生産労働から離脱して彼等の自然山水に対する鑑賞は感情を発散する詩情画意の中に探し求めるようになり、財力物力の制限もあって大量の地主官僚自家園林が微型化、写意化方向に進行し、鑑賞活動がしだいに動観(園林山水の中に走入する)、静観(山水以外で鑑賞する)にかわった。
上記の主題が歴史上造園アイデアに影響を与えた主要方向であり、実際に園林発展に影響を及ぼしたのは、なお多方面の要因があり、いわば各種類の社会意識がみな園林の中に反映されている。たとえば宗教思想の影響が周代方士の東海三仙山、即ち長期にわたって園林の重要題材になってきた説から生まれたものである。漢武帝が建章宮内に神明台承露盤を建造して雲表仙露を受けて長寿不老を求めたため後期園林の中に承露盤を建造するのも重要な題材内容の一つになった(図73)。封建後期において大量仏道寺観が園林の中にいっぱい出現してから宗教活動も園林題材となった。また経済思想も園林の中に反映されており<紅楼夢>が大観園の中にある稲香村に対する描写が「農家楽」の宣伝をもって主題とするものであり、各時代の苑囿の中の商店街が商品経済の反映である。なお「武陵春色」が世外桃源の思想を追求したものである。釣魚台が高雅の意を表し、これらが園林の中に反映されている社会意識に属するものである。たくさんのアイデアの中で中心となるのが自然再現という大主題である。
横の方向から見れば各歴史時代における3つの自然テーマは兼収併蓄で相互包容であり、ただしそれぞれその発達繁盛時代をもつにすぎない。時代の避暑山荘を例とすればその中で万樹園、松林峡駲鹿坂等景観と活動が古代苑囿式園林の一脈延続したものである。その中に天寧感陽、月色江声など景観が人工山水園タイプの景致に属する。また文園獅子林、小滄浪など微型写意式園林であり、歴史上形成された各種類の園林形式がみな不断の発展、変化、運用の中にある。
十三 死を生とみなす芸術 − 陵墓の地上地下生命の謎
古代社会においてたくさんの自然現象に解釈がつかなくて中でも人々を小首を傾げさせるのは生と死である。人間はいかに生まれてきたのか死んだらまたどこに行くのか? ずっと神奇の謎となってきた。世界各地人民が生命起源及び死亡帰宿に対してそれぞれの解釈をしているのでその陵墓建築のアイデアも異なっている。古代エジプト人は魂が不死と信じある日また肉体の中にもどって再生するので、心をこめて遺体を保護し上等の香料を使ってミイラにして墓中に放置し、住宅または宮殿の型制をまねて陵墓の地上部を建造した。古王国時代に至ってから住宅と宮殿の影響から脱出し、巨石を用いて、永遠不滅の思想を反映している雄大なピラミッドが作り出された。天主教国家の人々が人間が天帝の武士と信じ人間が死んだ後天帝のもとにもどって聖潔な天国生活をおくっており、したがって人間社会において墓室の建造を重視せず、ただ記念のシンボルを残すだけであった。我国古代チベット地区の人民が死後天に昇ると信じており、その上猛禽の食にする方法で肉体昇天の願望を実現するいわゆる天葬、そこで土地には遺体の保存墓室を建造する必要がないわけである。
長期以来中国の広い区域の人民が死後に対してずーとほかの世界へ生活しに行って霊魂が不死だけでなく肉体形象まで依然存在していくという信念を持っていた。他の世界で人々が世間と同様な生活ができ、そこにも市墨閭里、宮殿楼閣、帝王將相があり依然人間と同様な社会関係が存在するということである。古代人が死者に対して葬式処理、生前の生活と同じようにとりあつかっていた。この信念が中国陵墓建築の構思意匠に影響を与え独特な陵墓建築芸術、即ち”視死如生”の建築芸術が生まれた。これは朦朧な天崇拝の遠古時代の墓葬における墓葬形成の中にも反映されている。
殉葬と陪葬
死者が他の世界(陰曹地府にしろ上天極楽にしろ2種の世界)へ生活しに行って、上で生前の所有品と財物を持って行く必要があった。原始社会においても本当の個人財物は極端に少なかった場合に個人のただ1つの持ち物として炊具、陶罐と簡単な石制骨制道具しばしば彼等の陪葬品となっていた。奴隷社会に入ってから奴隷そのものも主人の財産となり死後生きている人を殉葬して主人が陰間に使うのがこの時代の墓葬の主な特徴となっている。安陽殷虚遺跡で発掘された大型殷墓中殉葬された奴隷碑妾200人にもおよんでいた。また大量の車馬畜生などがあった。陪葬された生活用具及び陳設装飾品が色々の種類で数量も多かった。商王武丁の配偶であった婦好の墓中に随葬された青銅器440件余り、玉石器600点、骨角器560点に及んでいる。こんなたくさかの殉葬品と陪葬品を収納するには広い地下墓室が必要となった。殷虚侯家荘にある大墓で竪穴墓室のみの面積が330m2にたっし、周辺の墓道の総面積1800m2深さ15mにも及んで墓室の中に遺体の保存した木棺の他、棺外には亜字形または長方形の木椁があり、その内外に各種類の陪葬品、殉葬品、車馬奴隷などが埋められている。商周時代の墓葬の地上部分は顕著なしるしがなくて、古人からいわれている「不封不樹」の意味である。近年一部の学者が研究して墓室の上に享堂建築があるのではないかという意見を持っているがなおまだ結論が出ていない。とにかく墓葬の重点は地下にあり、地上の建築が簡略されている。
戦国時代から秦漢まで社会生産力の進歩につれて殉殺のやり方はしだいに減ってきて、その代わり俑人と明器即ち用木、陶製の仮人と模型象徴の馬車、用具、奴僕、房舎など陪葬品とされるようになった。この陪葬方式は前とくらべてかなりの財力が節約できると同時に、陪葬品の種類ももっと拡大してましては好きなだけおくことができるようになった。実物殉葬、陪葬の場合最大でも馬車にすぎず、殉人200人にすぎなかったのに対して、秦始皇帝陵の3箇所の坑の中に陪葬された陶製等身大馬俑の数は7000と見積もられ、一車四馬戦車が100輛余りもあり気勢堂々威武勇壮の軍陣の縮影であった。一般の貴族の金持ちの墓に装飾品、用具の外、車船奴僕など大型明器内容が増加されておりこれらの内容は過去の実物陪葬の方式で実現できるものではなかった。漢代墓葬の陶製明器、特に陶製部屋の模型が重要な意味を有している。漢代地面部屋今すでにその姿が消えてなくなり漢代明器が貴重な建築形象及び構造作法の間接資料となり、漢代建築上における数多くの解かれていない謎が、これらの材料を通じて解答を求めなければならない。漢代以後の墓葬の陪葬品の中で金銀用具珠宝装飾物著しく増加し、更に葬品の価値が重視されるようになり、生活内容が墓室の設計によって反映されている。
象徴的な地下墓室
原始社会は土坑式墓室であった。奴隷社会は現木制棺椁を始めたにもかかわらず、墓室は依然として土坑式である。凝っている墓室は土坑墓室の上部に密排された棚の上に薄土が覆われ、巨大な土の圧力に抵抗する構造がないため墓室空間を拡大することができなかった。秦漢以来2つの技術項目が地下墓室建造に用いられてきた。1つは空心磚で構成されたアーチ、1つは石窟の開拓である。これらの技術によって地下墓室が空間が広くなるだけでなく変化にもとみ、生前の生活環境の再現する条件を創造した。規模最大の実例として秦始皇帝的驪山陵をあげるべきだ。秦始皇帝即位の始めから陵墓の造営を始められ、死んだ時まで工事がすでに30年余りすすめられてきた。六国を滅ぼして天下を統一してから、工事がさらに拡大され、いたるところから70万人余り刑徒が驪山陵の建造に集められていた。陵園の地上建築部分がすでに破壊されたが今でも陜西省臨潼の東になお辺長500m高さ70m余りの巨大な墓丘が人々に慰霊されている。歴代の記載によると驪山陵地下部分は非常に華麗であり”明月珠を月日、人魚膏は灯、水銀は大海、金銀は鳧雁、刻玉石は松柏””遠方から奇宝を墓中にとりよせられ、江海河湖及び山岳の形の陳列、沙棠沈雲(船楫)船 ....火珠を星としさらにまた膏融の代わりに海中に作られた玉象と鯨の口にくわえられた火の玉が星になっている。近年発掘された兵馬俑の軍陣の陪葬坑及び宮人、車馬の殉葬坑などは天地、山川、戦争、游宴などの自然景観と生活場景がいきいきと秦始皇帝の独夫統治生活を再現している。
漢代の磚室墓の応用が比較的普通になり大型墓葬中、木椁の中に若干箱室に分けられて陪葬品を貯蔵する作法をやめて、住宅の布局のまねをして墓室に若干の部屋を分けて建てられた。たとえば河北満城で発見した西漢中期の中山靖王劉勝の墓がその例である。それは山に従って開拓された洞窟式墓室であり、前室、後室及び南耳室、北耳室に分けられている。各墓室内に発見された陪葬器物から南耳室は車馬部屋、北耳室は倉庫であり、たくさんの陶器が貯蔵されており、前室は庁堂で、帷帳がかかって賓客の接待のように陳列されており、後室は内室であり墓の主人の寝る所であり、まるで大型住宅の再現のようである。東漢以来また当時はやった壁画芸術が墓葬に用いられ、図画形式で墓主人の生活経験が描かれている。70年代に内モンゴルのハリンガルで発見された著名な漢墓壁画が非常に典型的なものである。これは前、中、後、三室それに3つの耳室をもっている多室墓であり墓壁に壁画がいっぱいかかれている(図75)。死者は東漢の護烏桓校尉であり孝廉、郎、長史、都尉、令、校尉等の各級の行政官吏の昇晋が経暦されていた。壁画は漫画の形式でその生平昇晋の際遇が描き出されており、生活雰囲気が十分こく、画面中には漢代の府舎、食料、厩舎、厨房等具体的形象も現れていれば、宴会、出行、農耕等の生活場景も現れている。
漢代の多宝墓が人間住宅の風貌を象徴したにもかかわらず、その規模はなお墓室面積の制限を受けており、南北朝から墓室に入った長いトンネル(すなわち墓道)に対する処置が工夫され、墓道に沿って地面に通じる天井3つ4つが切り開かれ両側に耳室が配置して大宅院の一進々の天井及び配房が象徴され、最後に墓室に至る。陜西省乾県の唐代乾陵陪葬墓 − 恣徳太子墓を例とすれば墓道中に6つの過洞、7つの天井、8つの小龕の後やっと前後の墓室が現れた。第一の過洞の前にある墓道両壁に城壁、闕楼、宮城門楼及び車騎儀杖がえがかれて、帝王の都城、宮城景象を象徴することになった(図76)。第1の天井及び第2の天井の両壁に廊屋楹柱及び列戟が描かれており、列戟の数は両側それぞれ12本で史書中宮門殿門制度と一致し、過洞頂部に天花彩画、墓室及び
後桶道の壁に侍女図がそれぞれ描かれており、その次女の手に持っている器物の分析からされも唐代宮廷随侍制度と符合する。墓道墓室全体が唐代宮廷建築のモデルである。それをもって推論すれば唐代の帝陵墓室、おそらくその設計構思もこれと相似しているであろう。
宋金時代の墓室の中に磚刻で建築形象を表現するものはたくさんあり、その中心墓室の4つの壁に刻まれたのは四合院落、四周の正房、相房、倒座房の様式、柱、額、縁、瓦がそろっている。最も面白いのは山西省一帯にある金元墓葬中に尚墓室がありその中に舞台があり、その上に芝居人形が置かれて、墓主に陰間で亨用されることを考えたのであろう(図77)。
明清以来磚石アーチ技術が広く応用されるようになりたくさんの大型墓葬及び帝王陵墓がみな磚石アーチ構造であり、その布局も完全に四合院の形式をまねている。たとえば明十三陵の定陵地宮がすなわち前殿、中殿、後殿及び左右配殿に分かれている。各殿座の屋根が地面建築形式に従って作り出されて、土を覆って宝頂が形成されものである。アーチの特点にあわせて前殿、中殿を垂直配置になおしたにすぎない。清代の陵墓地宮が十分石材の特徴を生かして壁面、石門の上にみな仏像、経文、神將などをいっぱい彫刻している。地下墓室の発展プロセスから見れば晩期にむかうほど象徴性の成分が少なくなり真実をまねる程度が著しくなった。
記念性の地上陵墓建築
地面上の陵墓建築が死者への追崇の意を表すのに用いられ、各地においても古代においてもそれであり、ただしその方式がそれぞれ異なっている。古代エジプトのピラミッド及びインドのサンチャー仏塔はその抽象の雄偉体量で記念性を表しているのに対して、インドのタージマハール陵墓、中央アジアのサマルカンドのサハ、つまり辛徳陵墓などのイスラム古代陵墓がその精巧の建築芸術造形で死者の崇拝に用いられる。中国古代陵墓はその輝宏の建築布局で死者の精神永存をあらわしているものである。河北平山県で発見された戦国中山王陵の兆城(即墓)
の図版から明らかになったようにその遺跡は中山王及びその卷族四人の墓葬群である。周囲に2つの陵壁があり中間はそびえ立つ横長高台で台上には順に5つの墓が配置されている(ある学者が墓の上に5つの亨堂建築を復元している)。これが設計図にもかかわらず、早くも紀元前3世紀に中国陵墓設計において群体のいきおいが十分に重視されていた。前2世紀の秦始皇帝帝陵、中心が1つの大きな陵丘であり、周辺二重城壁となり、外城壁の長さが6300mにも及び内城の北部は寝殿区となり、内城南部の城壁外は食堂居処及び廊房建築となり、陵区の東門外で北部は三組の軍陣をテーマとする兵馬俑坑になり、南部は17の殉葬墓と90の馬と俑人の陪葬坑になり、陵区西門の外は刑徒の墓地になり、これらのすでに発見された陵墓布局だけで十分その気勢の龍大雄偉なことを物語っている。西漢王朝の11の帝王陵墓は長安渭水の南岸にある覇陵、杜陵の外、あと9つが全部渭北感陽の原上に、東から西へ一律に排開する陽陵、長陵、安陵、義陵、渭陵、康陵、延陵、平陵、茂陵であり、復斗式の封土丘が起伏しており、その周囲の陪葬及び護陵の為に特別にもうけられた陵色城池が加えられて、帯のように横列する陵区が形成され、その形は豪壮でとても普通の単一な陵墓とは比べものにならない。
この種の陵区に集中的に選択される方式はその後の唐、宋、金、元、明、清歴代まで続いており、特に明の十三陵の群体布局がもっとも輝かしい成就であった。唐陵の布局は歴代の陵制に沿襲して四辺周辺に陵壁、陵門、石獅子をたてる外、特別陵前の神道の引導作用を重んじていた。神道両側に一系列石象生闕門など配置されており、石象生の配置については秦漢の時すでに始まり、帝陵の前に石のキリン、石の壁邪、石象、石馬之属、人臣墓前に石羊、石虎、石人、石柱などがあった。漢代雀去病墓前に一定抽象風格をもつ石魚、石虎、石野人など石刻が最も世界に知られているすばらしい創作である。南朝陵墓前の石刻すでに定制があり、普通石壁邪一対、石碑一対、また二対神道石柱一対となっている。唐陵においては石刻さらに増加され、唐高宗以後から定制が繰り返され、即ち一対華表、一対飛馬、一対朱雀、五対石馬、十対石人及びその他の記功碑などがある。唐乾陵の末尾になお各地の使者石像60体が立って、それで万国来朝の意を表され、神道の前に土の闕二対がある。こうした布局が秦漢以後の垣で四辺を囲んだ門をひらく墓形式をかえて、縦方向からしだいに展開していく軸線形式に変わった。宋代の陵墓は基本的に唐制に因襲していた。明代になってからまた新たな発展があり、神道石刻の外、さらに各種類の建築配置が強化され、入口に漢白玉、石坊、大紅門、磚亭などがあり、石象生の後に龍鳳門、陵門、稜恩殿、二柱門、方城明楼などが設置されることによって軸線布局がさらに豊富で深いものとなり、表現力を富ませていた(図80)。古代陵墓設計の発展を総観すれば、次のような傾向が明きらかになった。つまり封土がしだいに縮小し地宮の深さがしだいに浅くなり群体布局の軸線形式への進行、建築内容の増加、即ち永遠権力を表現する巨大な工事大量がしだい統制思想を表現する建築環境に変わりつつあった。
十四 軸線芸術
建築芸術は各芸術種類の中で空間芸術に属するものであり、色彩、質感などの芸術表現要素をもつばかりでなく、形体及びその形体と他の空間要素にむすびついて形成される建築群体である。建築群体がその独特の芸術感染力で他の芸術種類が表現不可能の程度を表現できるものである。建築群体空間布局は形式上から分析すれば2つの種類すなわち軸線対称式布局と体量均衡式布局に分けられる。また他の2種類の特点をもつ混合式布局もある。軸線対称式布局は中軸線を主体として軸線に沿って建築物をおく室内序列であり、これが中国宮殿廟宇によく用いられる方式でもある。体量均衡式布局は各室間はんいで建築群体を自由に配置して各建築の大小、軽重、虚実の対比関係を通じて視覚上の協調均衡に達することが求められる。ヨーロッパ古典建築におけるギリシャ雅典衛城の空間設計のようなイタリーベニスのサンマルコ広場建築群体設計はみなこの種類に属する。我国も古典園林設計も体量均衡方式を用いて空間構成が組織され、すぐれた成就が遂げられている。しかし中国古代ほとんどからいえば軸線方式を用いて空間組織するのが悠久な歴史及び純熟した技巧である。中国古代都市の中を漫歩すると住宅、店舗、会館、役所、宮殿、壇廟、陵墓まして都市全体においてみな軸線配置関係、幾何学性、方向性の感覚が西方建築よりはるかに突出していることがわかる。この特徴は中国における単体建築が早めに標準化と配置上の厳重な方向性と関係があると考えられるが、最も重要なのは中国人の思想意識における中心、中央、中庸の道などの対称平衡概念が早くも根強い信仰となっており、建築も含めて中心軸線方式でものごとを対処する根性があったためである。数え切れないほどたくさんの軸線に従って配置する建築群体の中でさらに雷同の感じがまったくない千変万化の芸術特色が生み出されており、古代の匠師のこの方面での腕のうまさを認めざるを得ない。軸線配置の具体形式は4種類のケースがあげられる。即ち直軸、曲軸、竪軸、虚軸である。
直軸
直線に沿って配置される建築は伝統的建築群の慣用手法である。たとえば寺廟建築が明清時代に発展してきてから一正両相形式が用いられ前は山門、中は天王殿、東西両側は鐘鼓楼、後は大雄宝殿、その両側は東西配殿となるような三層建築が中軸に沿って配置される。この標準形式は各地の寺廟に適応しており、大型の寺廟は供養内容及び相応する建築が増加できるにもかかわらず中軸線にいぜんとして沿って展開して布局範囲が増加される。各地の民居の布局にも直軸布局が取り入れられているものは多数であり、特に典型的な大型住宅の場合がそうである。北京四合院蘇州住宅、徽州民居、雲南の一顆印式住宅、福建省客家住宅などである(図81)、これらの建築はそれぞれの階数には高低、院落には大小、間数には多少の差があるにもかかわらず、その布局は中心主軸の概念の強い布局形式のものである。ある大型住宅は部屋が多すぎるため1つの軸線では足りず、並列形式となる数本の軸線が取り入れられることになる。たとえば浙江省東陽戸姓大型住宅が縦軸は本もありながら、明確な軸線形式が保たれている。役所の建築も同様に軸線配置の典型になっている。宋の平江府(今の蘇州市)の図群に表現されている平江府役所配置は前は城門楼のような子城(府城)正面があり、後は大堂、さらに次は設庁があり、その後は小堂及び宅堂(小堂と宅堂が工字庁の形式になっている)、堂の後は池、花園、北面子城の城壁の上にある斉雲楼に直達しており南北縦列が直線となり方正厳整、荘厳であった。明清以来の役所建築は依然と前堂後宅弁公と居住同一になる縦軸線配置方式が続いている。壇廟、陵墓など記念性の建築の縦方向軸線がもっと厳格に要求されている。ある大型建築群は地形にあわせて前低後高に配置され、その縦方向の直軸はいぜん変わらないで、只軸線の後の部分をしだいにあげている。頤和園の前山排雲殿の軸線、承徳の普寧寺の中央組群などその実例である。