中国古代建築史話
出版者の話
我国古代建築は世界建築文化宝庫の中でユニークなものである。我国の四つの近代化の建設の発展と党中央から提案された中国式社会主義路線の発展にともない、我国の古代建築の知識を理解することを希望する者がますます増えてきた。多くの読者の我国古代建築知識と科学文化レベルを向上するために、我社は古代建築専門家を招いてこのシリーズの普及的古代建築専門知識を主として編集したものであり、《中国古代建築知識シリーズ》合わせて18冊からなっている。あるものは古代建築物に関する概説、または総合的に記述する分冊 − 中国古代建築史話、中国古代都市建設、中国古代建築匠、あるものは古代建築類型を紹介する分冊 − 中国宮殿建築、仏教、道教、イスラム建築、古塔、陵墓建築、古苑園、民居である。またあるものは古代建築技術、室内外細部デザインに関する分冊である。中国古代木造建築営造技術、古代建築修復と保護、古代建築彩画、古代建築小品(ひとくだり)、古代建築装飾、古代建築室内陳列、古代家具などである。このシリーズは分冊の内容をできるだけわかりやすく工夫して、そしてとても美しいさし絵と写真を入れることによって学問性、知識性、趣味性を兼備することができる。図と文章を同じくらい豊富にし、読者の興味を深めるこのシリーズの紹介を通じて、多くの読者が我国古代建築の優秀伝統、独特な芸術風格、およびすばらしい技術に対して概括的に了解でき、専門計画デザイナーと中等以上の文化水準を持っている多くの市民の我国古代建築の優秀伝統の了解と発揚のために基礎をつけ、伝統の探索と革新に関する問題に深く入り、中国古代建築宝庫を整理する仕事の中で指導的な役割を果たすのが我々のこのシリーズの出版の宗旨と目的である。シリーズの各分冊の内容または品質上に不完備、不適当のところがあったら、読者に指摘していただくことを歓迎する。これがこれから我々のこの仕事を一段と向上させるものである。
1986年6月
前言(はじめに)
中国における比較的正規な建築史学についての研究は、1928年に国内で一番早い建築歴史研究団体「中国営造学社」が成立してから、今まで50年余りたった。この間、有志者のいろいろな努力をへて失敗を繰り返して今は立派な成果をあげている。中国科学技術史の諸分野の中で建築史研究は先進的なレベルに立っていることがいえるだろう。その社会的な効用は日増しに増大してくる。しかし建築史的な社会効用については人々にすみやかに認識されることができない。営造学社の創立のきっかけは、前に述べたように”中国の造営学は歴史的または美術上でみなすばらしい価値を持っている...もし科学的な目によらないと系統的な研究として世界的学術の有名な専門家と公にディスカッションすることが不可能...文物が滅び、論述が外国の専門家の手に渡ることをおそれている....同志を若干集めて 。”
その中心思想はすなわち国の文化精華を救い伝統を発揚することであるが、建築史の社会的な効用については論じていなかった。解放初期にソヴィエト文学芸術の理論の影響を受けて、社会主義時代の芸術が”民族的な形式、社会主義的な内容”を持つべきだと提唱された。したがって中国建築史の勉強は中国の建築的な民族形式を創造するための直接的な目的になった。その後の同志は建築史を勉強し、祖国建築成果を認識することによって、愛国熱情に啓発でき、民族の自信を強化でき、積極的な思想教育作用を持っていると提案した。60年代においても”建築史の研究は建築発展の歴史の流れから、建築発展の客観的規律を引き出すためであり、過去の建築の創作の技術と技能及び多種多様な形式処置経験をまとめて、正確な建築学術観点を養成し、建築理論修養と創作技能を高めるためである”と指摘された。すなわち、その前より深い意味で歴史の勉強の効用をはっきりさせていた。長年にわたってこれらの観点はある程度、建築史に関する研究に影響を与え、研究をおし進めていった。
もし比較的高い要求から建築史の研究を考察すれば、”勉強を通じて実際への応用”に達するまでにはまだ距離がある。その1つは客観的な困難によるものであり、たとえば建築史の基礎歴史資料がまだ不十分で、研究力量不足で建築史の学問が広い分野にわたっているなどの条件がある。ただしもう1つは史学効用について異なる認識が存在することも重要な原因の1つになっている。
”古代のものを今のために生かす”の道理は人々に賛成されているが、いかに今のために生かすという目的に達するには、色々な考え方がある。50年代の具体的な歴史形式を簡単で機械的に新しい建築の民族形式として引用することによって当時の建設仕事の妨害となってきた。実は社会条件が違った上、歴史形式が簡単に再現できなくなっため、過去の物事になった以上、経験をまとめることを手がかりとして、その成果を得てはじめて良い参考となる。すなわち現象から規律まで、具体から抽象まで、静止から変化まで、実から虚まで、歴史経験を本質的認識に上昇させ、知らず知らずに人々の思想活動に影響を与えて目前の仕事に促進する。このような理解は曲折の道になり、まさに史学の”今のために生かす”に必要な特色の道になりうる。この本の”史話”の中でこの方面の努力を工夫しているが、効果はいかになるか実際的な検証を待たなければならない。 歴史についての研究方式はただ1つではなく、それぞれの長所を持っているわけだ。社会歴史の通史著作を例として、ある物は人を筋として論述を展開している。たとえば”史記”を代表する24史の巨大な著作が紀伝体史書として考えられる。歴史上の各時代の帝、王、将に対する紀伝がある。その人が歴史に対する功罪についてはっきり記述されて一目瞭然である。帝相の政、賢哲の人になるために参考になり得た。ある史書は時間の順序を手がかりとして記述展開している。たとえば<資治通観>などは編年体史書と言われ、社会歴史的な盛衰交替について記述され条目がはっきりと、人物とできごとを交代交代に記述される。相互補充で時代脈絡は非常にはっきりとしている。そのうえ、この種類の史書の資料は探す際にも非常に便利になっている。またあるものは事件を筋として記述展開されている。たとえば<宋史紀事本末>などの史書は記述本末体史書と言われている。その記述の中で、その一時代を問わずに重要な歴史事件の発展の始末、縁故を述史の基本とされている。あらゆる史上の事実と人物を記述するのに代わって、一代王朝に起こったある重要な歴史価値を持っている事件の中の経験と教訓を抜粋して、読者に参考にさせる。
近年来建築史に関する著作には数多くの種類がある。地域の紀行文性と、あるいは辞書性のほかに通史的なものは、1980年中国建築科学研究院建築歴史研究所組織でU(劉)敦T教授が主編された<中国古代建築史>がある。この建築史書は時代区分による7つの歴史時代について紹介を行っている。各歴史時代における各種類の建築活動、および遺跡に関する実例についても記述と分析を行い、これによって読者たちに時代概念をうち立てさせている。この本は年代ごとの配列方式で編集されたものではないが、やはり編年体歴史の分野に帰するべきものである。1982年に教育の必要におうじて我国のいくつかの大学の建築系学部の共同で中国建築史という教科書が編集された。その中の古代建築史部分は概況の他に、各章節で都市、宮殿、寺院、陵墓、宗教建築、住宅、庭園などの種類の建築について記述されている。各種類の基本状況と歴史の移り変わりなどについてくわしい記述が展開され、読者がその各種類の建築に関する時代概念をうち立てることになる。1985年に出版された中国建築技術史の書き方は、作業種類別にしたがって分類編集されたものである。この本の書き方は人物を筋とされていないが、方式から言えば、紀伝体史書に帰すべきものである。
各種類の編集と書き方はそれぞれの長所と短所があり、新しい知識を覚える道を探すためには、記事本来の方法をもって歴史事件を手がかりとして、史話的な形式に建築歴史書を編集されたほうがよい。初学者に”史料学”の面で取り組みをさせる必要がないので、このようにして直接入門させることができ、作者の心得が読者の感受と直接つながることになるので、この書き方は比較的興味性が強くて読者の苦しみを減らせる。また歴史規律を探し歴史経験を参考にするという目的に達するのに有利である。この本はこの考え方で努力を試みている。しかし試験的出版物として、その中にきっとまちがったところがあるので、読者からの批評と訂正を心から歓迎する。
作者
1986年5月
一 中国古代建築における歴史の時代区分と移り変わり
中国は広大で、人口が多く、歴史が長いので、高度な物質文明と豊富で鮮明な文化伝統が作り出された。数千年来の生活で、この豊かな土地に棲息してきた労働人民は、すばらしい各種の古代文化を作り出したと同時に、独特な風格の建築芸術を作り出してきた。従来の建築史の研究者は、中国古代建築を東方四大建築体系の一つと認めている。古代の亜述、バビロン建築が西アジア古代建築に属し、著名な空中庭園とサガン王宮などの優秀建築物が一代の奇跡と称すべきである。惜しむらくは、この体系がずっと前に滅びてしまったことだ。南アジア建築のインド系建築も長い歴史を持ち、バラモン教、仏教の伝達の影響を受け、数多くの雄大な宗教建築、たとえば桑契大塔、アジャンタ石窟等がある。その影響はスリランカ、ビルマ(ミャンマー)、南洋諸島などに及んでいた。しかしその後、この建築体系が西アジアのイスラム教建築に隔断され、発展が中断された。西アジア後期にできたイスラム教建築体系が、ヨーロッパ、アジア、アフリカ三州に及び、中世建築史上重要な役割をはたしてきた。しかし歴史上で最も長く、風格が最も統一され、最も特徴が顕著なのは、東アジアの中国建築体系である。日本、朝鮮、インドシナ半島の建築が長期にわたって、この体系の中に安定的にとけ込んで、今でも生き生きと目だたないが残っていて、我国の未来の建築形式の創造のための有益な栄養を提供している。
中国の文字で記載された歴史は、約4000年あり、中国建築の歴史は史書に記述された時代よりもっと古くからあり、それは曲折した道を歩んでいると同時に、革新発展を繰り返して来た。それ自身の特点(特色)と法則に従いながら、その発展過程は五つの歴史段階に分けられる。
原始社会時期
約60万年以前から紀元前21世紀にかけて長い間にわたってきた原始社会の中での人類は、原始人群、母系氏族社会、父兄氏族社会の3つの段階をへて発展してきた。解放以来、大量の考古発掘の仕事により、この3つの社会発展の段階の基本的な様子が明らかになった。当時の人類は共同労働、共同分配と消費という原始共産的社会生活をいとなんできた。初期の社会生産は野生植物採集であり、それから漁業および原始農業に及んできた。使われていた生産道具は石器であり、旧石器(打製石器)、新石器(磨製石器)といった2つの段階を経過した。石斧、石たがね、石ふん、石刀、石やじり、などの種類の道具もあり、小量の骨器もあった。生活用具は主として焼き物であった。
原始群居時期においては、人類がまだ大規模に自然を改造できず、自然条件を利用して居住問題を解決する以外になかった。水に近く狩場に近い山洞居住がよく選択された。たとえば40ないし50万年前の北京周口店一帯に住んだ北京猿人が、天然の山洞の中に集団居住をしていた。文献の記載によれば南方の湿気の多い猛獣の多い地区には原始人が木の上に居住していた可能性があるとのことである。
約4万年前、中国原始社会はしだいに母系氏族社会時期に入っていった。6ないし7千年前、中国母系氏族社会は興盛段階に入り、農業生産によって人々が永住できた。土層が豊富で深い黄土地区が選択され、そして横穴または縦穴が掘り出され、木材で簡単な屋根が築かれ、住居の場所にされた。その上に村落が形成された。ここから人類の目的のある営造活動が始められた。それによって天然の洞窟の制限がとりはずされた。黄河流域に位置する有利な自然条件から、原始氏族村落が大量にその地方にどんどん現れた。たとえば陜西省西安市付近半坡遺跡(図1)、陜西省臨潼県姜寨遺跡は原始氏族村落の典型的な例である。
約5000年前、中国の黄河、長江流域一帯の母系氏族社会はしだいに父系氏族社会に入った。居住建築は完全に地面の上に建てられ、円形、方形以外に呂字形平面及び三ないし五間の部屋がつながって建てられる形式もあった。中国の他の地区にも地理と気候条件が異なるため、数多くの構造の違った部屋が現れた。たとえば南方湖浜地区には密集した木杭の上に建てられた部屋があり、湖西一帯には背が長い檐が短い台形をひっくり返した屋根の部屋があり、内蒙古地区には石のかたまりの円形の小屋などがあった。
中国北部地区の部屋の構造は、基本的には木構部品でつなぎあって、縄または藤づるで固定されている。屋根は草泥で壁は木を骨にした、つまり木筋泥壁であり、同時に南方地区にも原始的な樵卯技術(木と木をつなぐ技術)が現れた。
奴隷社会時期
紀元前21世紀から紀元前467年にかけて、前後約1600年がある。中国古代の伝説によると、夏代から中国が私有財産と王位世襲になり、奴隷労働が大量に使われた階級社会に入った。夏代の創始者、禹は巨大な労力をあげて河道整理、洪水防治、溝を掘り、潅漑を行い城郭、陂池、宮室を修建した。目下、考古に従事する人たちが、夏代に属する可能性のあるいくつかの建築の遺跡の発掘を行って、さらに夏代の文化を探索している。
紀元前17世紀の商代は奴隷社会の成熟的段階に入り、奴隷が大量に統治者に使われて、すばらしい青銅文化が作り出された。石器の具備した道具の種類がすべて青銅器にかえられた。ある建築現象によればこの時期に、鋸が現れただろうと推測される。商代首都には、ほとんど広大な城壁が築かれ、城内に大規模な宮室建築群および庭園、台池(人工の池)が修復された。河南省二里頭早商宮殿遺跡、湖北黄陂盤竜城の商代中期宮殿遺跡などの実例から、大いに進歩した建築技術水準が表現され、規整構造系統を有する大建築物が設計された。奴隷主階級が「尊神事鬼」の迷信思想に従って死後の広大な墓葬工程が建造されることになった。河南省安陽小屯村における商代晩期の都城遺跡の中で大規模な宮殿、宗廟建築が発見され、また陵墓区内に十数の大墓が発見され、墓内には百人単位で数える人数の人が陪臣させられた。墓穴が地下は13mに及んだ(図2)。はん土(たたいて硬くする)と版築技術が当時の一つの創造であり、城壁、高台および建築物の土台の建築に広く使われた。土と木、両種の材料は中国古代建築工程の主要材料になり”土木の功”が巨大な建築工程の代名詞となった。
紀元前11世紀に建てられた周朝は分封制度が行われ、全国各地に数多くの王族と貴族をリーダとする諸侯国がうちたてられた。それによって建築活動が前よりさらに多くなった。陜西省岐山西周早期遺跡の発掘中から、当時の宮殿建築が「前朝後寝」および門廊制度が形成されていたと見いだされた。個体建築平面中柱列が整えられ、開間はバランスがとられている。西周時代に屋根瓦が作り始められ、屋根の構造が改善された。
さらに紀元前770年、春秋時代に社会の富は都市に集中され、建築に対してもっと高い使用要求がされていた。文献の中に「山藻税」「丹榴」「采櫞」「刻桷」などの建築に対する外観的な描写がのっている。これは当時建築物の中に彩絵および彫刻などの手段で装飾文化の新たな動きが現れていると説明される。
封建社会早期
早期封建社会は、およそ戦国時代から南北朝時代まで、つまり紀元前475年から紀元581年まで約千年余りの歴史であった。この時期は、中国封建社会がしだいに新たな生産関係を確立された時期であり、中国封建社会の政治局面で始めての大統一から大分裂までの時期でもあった。生産道具が鉄器時代に入り、漢代にいたり鉄器が青銅器にとってかわるという改革が完成された。木構架建築体系も基本的に形成された。
戦国時代における各国の都および商業都市は空前に繁栄し、斉の国臨溜、趙の邯鄲、周の成周、魏の大梁、楚の郢、韓の宣陽はみな当時、人口が多く工商が集中した大都市であった。城市内には宮殿、役所、手工業作業場および市場などが分布していた。戦国時代から高台建築がはやり、各国の統治者がみな高台謝、美宮屋をもって自分の富や権勢をほこって、政治上で自分をえらくみせていた。
紀元前221年秦始皇帝が六国を滅ぼし、中国歴史上始めて中央集権的な封建帝国をうちたてた。一連の政治政策を実施したと同時に、もっと大きな規模の建築活動が始められた。馳通を修復し、鴻溝を開き、水路を掘り、長城を築いた。極端に贅沢な生活需要を満足するため、70万余りの懲役者をあげて膨大な阿房
宮と驪山陵を修建された。全国の腕の良い匠が集められ、六国の宮殿の形式を模倣して、集中的に咸陽北面の高地の上に建てられた。首都付近の二百里以内270箇所の離宮別館が修建された。骨の折れる労役と残酷な搾取が農民の抵抗と反乱を引き起こし、それによって15年間の秦の王朝の統治が終った。
秦につづいて中国を統一した西漢(紀元前206−紀元前8)と東漢(紀元25−紀元220)において、封建経済と都城の規模がさらに発展し、さらに雄大となった。漢長安城(今の西安)内の未央宮と長楽宮はみな周囲10kmほどのびている大建築群であり、城内の南北に貫通した大通りは長さ5km半、幅50mに及んでいる。漢代の陵墓に関する規制にも変化があった。東漢以後地下墓室が大量のレンガ石構造が採用され、木椁墓室に代わり、耐久性が求められた。今も残っている漢墓石闕および墓中の陪葬の陶制明器と墓壁装飾用の画像レンガ、画像石と壁画などみな直接または間接的に漢代の建築の豊富な形象を物語る。
両漢時代は中国封建社会経済発展の始めてのピークであり、建築の技術と芸術も劇的に変化を呈していた。木構技術がさらに高まって単層部屋に応用されるばかりでなく楼閣建築も建て始められた。建築屋根の形式が様々であり、廡殿、悳山、屯頂、攅尖および折綫式のかつ山頂といった五種類の基本的な形式が現れた。レンガ石および石灰の用量が前より増やされた。墓室中に使われた空心のレンガが1m半におよび、拱券用に築かれたレンガの型には小磚、楔型磚、母子磚など多種類にわたった。
三国、両晋、南北朝時代は、我国社会歴史上の動乱時期であり、長い戦争で人民の生活は極端に苦しくなったので、人民が宗教信仰の中で精神的な解脱を試みた。したがって東漢以来中国に伝わった仏教がしだいに盛んとなり、寺と塔を建てるのが当時の建築活動の重要な内容となった。北魏統治区域内三万箇所以上の仏寺が建てられた。《洛陽伽蘭記》の中に記載されている永宇寺が即ち洛陽城内の大規模な寺院の一つであり、寺内に木塔高さ9層であったので”首都百里ほど離れてもはるかに見える”と言われていた。この高大な木構建築がまったく当時の建築水準を代表できるものであった。このほかなお石窟寺が大量に建造された。現在残る山西省大同雲崗、河南省洛陽竜門、甘粛省敦煌莫高窟、甘粛省天水麦積山、山西省太原天竜山、河北省邯鄲響堂山などみな当時の著名な大窟であった。石工たちはきわめて正しく緻密な手法で巨大な仏像を掘ったばかりでなく、また檐廊、窟壁上に数多くの建築に関する形象を残したので、我々がこの時期の建築状況を了解するのに参考になる。
封建社会中期
隋の時代から始まり、唐、宋、遼、金を経て、元時代まで、即ち紀元前587年から紀元1368年まで、700〜800年間の時間であった。この時期は我国の封建社会の第2回目の大統一の時期であり、後ほど分裂した局面に陥った時期でもあった。この時期の封建生産関係がさらに調整され、建築技術もさらに成熟し、木構造の部屋には科学的設計方法および施工組織と管理方面がさらに厳密になった。幸いなことには今までなお大量の古代建築が残り、当時の建築発展状況に対する分析研究の例証になる。
隋代において南の杭州から北の北京までの南北に走る1794kmの大運河がきりひらかれ、長安、洛陽、江都(今の揚州)など、大量のぜいたくな宮殿庭園が建造された。しかし短い時期の後、隋は滅びて中国史上新たな輝いた王朝時代、つまり唐王朝に代わった。
唐代における手工業と商業の発達、内陸と沿海都市は空前の繁栄をした。政治経済文化の水準のシンボルとしての唐代建築も新たなめざましい成功があらわれた。唐のはじめ、つまり隋代の大興城の基礎の上に、当時世界で最大で企画がくわだてられ、最も厳密な都、長安城(今の西安)が築かれた。8000ヘクタール余りの土地の上に計画的で統一的に宮殿、役所、坊里、市場、寺、緑化、水道、水路などの建築や施設が配置され、道路システムが方直厳整で、主要道路とそうでない道路をはっきりわけ、建築の形が雄大で豪華華麗であった。文献記載によれば洛陽に建造された明堂(つまり万象神宮)と天堂も規模雄大な大建築物であった。現存する山西五台南禅寺大殿と仏光寺大殿がみな優秀な唐代建築である。仏光寺大殿は七開間の大殿堂であり、斗供と梁架が緊密結合し1000年にわたってもちゃんと保存されていて、唐代木構造技術の高いレベルが表現されている(図5)。その他仏塔、陵墓、橋梁方面においてもすぐれた創造があった。唐代建築成就が中原地区の建築の繁栄をうながすだけでなく、その風格がはやって新彊、チベット、黒竜江地区までおよんだ。
北宋時代における手工業が十分発達し、磁器の製造、紙造、紡績、印刷、造船などの方面で新たな進歩が上げられ、商業活動もいちじるしく発展された。首都べん梁(今の開封)は政治の中心だけでなく商業都市でもあった。1000年あまり以来都市の中に高い壁で囲まれた居住里坊および貿易が必ず市場で行われる制度が破れて、坊壁がとりこわされ、夜間外出の禁止がとり消されて、町に店が開かれて接客サービス業、大量の茶楼、酒屋、旅館、及びそまつなほったて小屋の舞台など公共建築がつぎつぎとあらわれるにつれて、新たな都市生活が都市に新しい風貌をもたらした。この時期の建築芸術形象がガラス、彩画と「小木作」装飾技術の進歩につれて、豊富かつ多彩になってきた。ある重要な建築物には、それぞれ色とりどりのガラスと面に貼る煉瓦が使われた。室内外の木構造上彩色ペイントが普通に塗られ、官式彩画だけが北宋時代に五種標準格式におよんだ。中国古代のござに座る生活習慣が唐代の改革をへて、宋代には完全に椅子に座ることにかわった。室内家具は文机が高い椅子机にかわった。門と窓が普通に開閉のできる格扇門そうにかわり多種多様の毬文、ひし形花紋の窓の輪郭に配った宋代建築風格は華麗繊細な風貌が呈現された。それに対して北方の遼王朝が比較的唐の伝統を受け継ぎ、著名な応県木塔と薊県独楽寺、観音閣などの大建築が構造が厳密で、勢いの豪放な風格を保っていた(図6)。北宋時代の建築方面でなお後世のために一部の工程技術専門著作が残り、これが1103年に出版された《営造法式》である。それは李戒が主持編集した国家建築規範書籍であり、書中に十三の業種の設計原則と図案デザインがくわしく述べられている。この書は封建社会中期の建築技術に関するまとめであるというべきだ。
元代蒙古族統治者が中国統一以後、充分に宗教を利用して統治道具としていた。なかでもラマ教が特殊な地位を占めていた。中原地区に普遍的に建造されたラマ寺およびチベット式瓶式塔、それに建築装飾芸術中外来要素が取り入れられた。しかし全体で見れば、元代の建築が依然として漢代1000年にわたる伝統にそって発展してきたといえる。
封建社会晩期
この時期は明清両時代に相当する、紀元1368年から1840年のアヘン戦争までで、500年近くの農業、手工業の発展が封建社会の最高水準に達した。政治面においても封建社会最後の大統一の局面が呈され、我国多民族国家がさらに発展、融合、強化された新段階でもあった。建築技術と芸術の普遍的発展の基礎の上に、造園芸術と装飾芸術のさらにすぐれた成果が得られた。
明代北京城は元代の大都城の基礎の上に手を加えられ、改築、拡張建造され築かれた。城市中心は輝かしい華麗な紫禁城(宮城)であった。古代文献の中に現れている宮室を中心とする都城企画思想がここで最も完全なものとして表された。そして全城を貫通する8kmにもおよぶ中軸線が形成され、線上に城門、広場、楼閣、宮殿、山峰、亭閣が設置され、高低抑揚のバランスがとられ、厳密、整然、勢い雄大、建築群体の企画芸術がテクニックのピークに達したというべきである(図7)。明代帝王陵墓が北京の昌平県内に選ばれた。そこは山々に囲まれ、2つの谷が向かい合って、谷内の山の地形にしたがって十三の陵墓が設置された。7kmに及ぶ神道が墓群の筋とされ、建築群と地形環境と結び付けられて、墓陵園の雰囲気を作り出す上での、高い成熟建築、芸術技巧に達した。明代のレンガで築かれた磚拱券構造で数多くの無梁殿の大殿屋が建造された。この時期には沿海衛所都市が建造され、世界的に有名な万里の長城がさらに修復された。
1644年に建てられた清、明は基本的に明代の政治体制と文化生活を受け継いでいた。建築発展上においてもまったく変わりはないといえる。清代建築芸術発展面の画期的な成就は、造園芸術面で表現された。200年余りの間、皇帝たちが北京西郊外風景区で、円明園、清猗園、静明園、静宣園など数多くの庭園を建造すると同時に、城内のもとの明代の西苑の基礎の上に三海を修整した(北海、中海、南海)。康煕、乾隆時代に政治の原因で長城以外の承徳地区に巨大な規模の避暑山荘が建設された。明代から富商巨宦が江南の魚米に恵まれた蘇州、杭州、無錫、揚州あたりで自家庭園を造営した。この時期は造園の盛んで、歴史上前例がない。これらの庭園の創造の中で表された多種の芸術的アイデアと風格が十分に中国の山水園の芸術の特長を反映し、世界造園芸術の中でユニークなものとなっている。
清代において宗教が統治の補助手段として利用し続けられ、全国各地にラマ寺院が広く建築され、チベットの哲豊寺、青海塔児寺、甘粛ラポルン寺など、みなその著名な大寺院である。ラサのブダラ宮が十七世紀の始めに建てられた山の頂上にそびえ立ち、周辺の山峰と一体となって雄大独特な建築造形を呈している(図8)。康煕、乾隆時代において承徳に外八廟、建築群が建造され、広範的にチベット、モンゴル、漢民族の建築風格を取り入れられて、さらにそれらをとけこませて一体のものとして新たな形象が作り出された。
清代木構建築の中で包譲併合木材料が大量に使用され、小さい材料を組み立てて大きな材料にするという、体積が巨大な建築物の建設の新たな技術が開発された。瑠璃、ガラスを焼いて作る技術の新しい発展が上げられた。この時期の各種類の精巧な工芸美術が建築装飾に特別に深い影響を与えていた。留金、貼金、譲嵌、シルク織、彫刻、磨漆など特殊技術の上に、伝統的彩画、瑠璃、粉刷、装表等各手法が加えられることによって、古代建築をより五彩はなやかにされ、姿いろいろにされていった。1840年に中英アヘン戦争がおこって、中国封建制度の末日が宣告された、その後から半封建、半植民地社会に転入すると同時に中国建築の発展も新しい頁に入った。
二 半坡及姜寨
二種類の原始的居住形式
我国の古い《易経》の「系辞」の中の記載によれば、「上古穴居而野外」また《礼記》でも「昔者先王未有宮室、冬則居営窟、夏則居槽巣」という記載があった。この記載は原始人類が生産力がきわめて低かった状況のもとで虫洞、鳥巣のまねをし、二種類の最も簡単な構造方式で住まいを建造していた。しかしその後の豊富で神奇な建築術こそ、この簡単な構造形式から発展してきたのだ。巣居は一本あるいは数本の樹木を柱として、その上に木をつなぎ架けて棚屋となし、猛獣の侵入を防ぐために人類が上に居住し、木梯子で上下した。今でもなお田んぼとか果樹園の番人小屋は、この巣居に似た構造を採用している。漁業と狩猟および農牧生産の需要に適応するため、人類の居住点が樹木にたよるだけでなく、広く自由に居住点を選択する必要があった。したがって巣居に似た干蘭式建築が作り出された。干蘭はある木の柱で架ける木構造の部屋である。居住生活は上層、下層はただ家畜を飼う所として使われた。我国の西南各省の農村には、なお普遍的に干蘭式建築が今でも使われる。近年浙江省、余姚県の河姆渡村で発見された新石器時代の居住遺跡では、陶器、骨器、石器の大量出土以外なおまた木と木と結びつける技術で結ばれた木構造および地下に打ち込まれた杭が大量に発見された(図9)。遺跡地形と低湿によって、居住範囲内には堅硬な居住地面が発見されずにゴムの木から、菱から、魚骨、獣骨などの食べ残した物が大量散布していること及び杭付近になお残っている梁柱構造などの状況から分析すれば、この遺跡の近くが干関式建築であろうと推定される。すなわち、この種の建築は6000年前の我国の長江流域に出現したことが明らかになった。
穴居は我国北方乾燥寒冷地区ではやっていた古い住居方式である。はじめて出現したのは、けわしい崖、土壁に掘り出された横向きの水平穴つまり横穴であった。今でも河南、山西、陜西省などではやっている窰洞建築が横穴の後継であり発展したものである。原始人類が横穴を必ず険しくなければならず掘ることのできない極限の場所から脱出するために、平地で竪穴経営が始められた。竪穴は、地下へ深さ数尺の、口が小さく底が大きい、袋状の形をしているので、袋穴と呼ばれている。袋穴の上口は枝で編んだ蓋で風雨を防いでいる(図10)。出入りが不便で、しかも地面が比較的湿気が多いという理由から、竪穴はだんだん浅くなってきて、はっきりした屋根のある半穴居となり、最後は完全に地面上に建てられた台基、壁、屋根という形式の部屋に移り変わった。
具体的な地理環境にふさわしい穴居、巣居といった2種類の原始居住形式は、我国北方、南方の地区の形式であり、それぞれの構成要素、構造方式になっている。穴居から移り変わった屋架構造は、部材を縄のようなものでつなげる方法で使われる。それによって今北方ではやっている台梁式構造形式に発展している。それに対して巣居から移り変わって形成された建築は、竹の部屋の中で縄のようなものでつなげる方法以外は、ほとんど木構造の部屋が木と柱をつなぐ技術を取り入れられ、さらに南方各地にはやっている穿斗式構造形式になった。
半坡遺跡
原始社会の穴居遺跡が黄河流域の山東、河南、山西、陜西省などで発見され、ほとんどは竪穴で深さ約2〜3m、底が大きい口が小さい、袋状である。今まで横穴形式の住居はまだ発見されていないのは、この種類の穴居が黄土の崩壊などで穴の形が破壊されて区別できないからである。これらの竪穴遺跡が1個または数個の洞窟の群れとなり、よく見られる。遺跡内容構成からみればまだ居住点の規模を具備していない。すなわち原始社会の初期にはまだ長期定住地がなかった。
はじめて発見された完全な原始社会居住点は陜西省西安半坡村遺跡である。これは半穴居と地面部屋で組成された新石器時代の仰韶文化の居住遺跡である。東西一番広い幅約200m、南北一番長い長さ約300m、総面積50000m2におよんでいる。これは産河東岸の段丘の上に選択され、水汲みにも便利で、洪水氾濫の災害からも防がれていた。居住地点は明確な区分がついていた。居住、陶窯製作と墓葬といった3つの地区にわかれていた。居住区は約30000m2であり、発掘が行われた居住区内に40余りの方形または円形の建築が見つかり、辺長あるいは直径4kmくらいで秩序正しく配置されていた。この居住区の中心部分にあたる所に規模相当大きな方形の部屋があり、平面寸法は12.5mx14m、内部に4本の柱が立てられ屋根が支えられ、そして何箇所かの個室が仕切られていた(図11)、(図12)。民族学的材料から推測すれば、個室は母系社会の成年婦人が対偶生活をおくる住居であり、大きな部屋は氏族首領および氏族内部の老、幼児、病、残りのメンバーの住居であり、ならびに全氏族の会議、祝祭活動の場所にも兼用されていた。個室の門がみな大室に向けられ、その間の行動や連絡の緊密さがあったことがわかる。居住区周囲には幅、深さがそれぞれ5〜6mの壕に囲まれているのは、住民に対する猛獣の侵入を防ぐためである。住居区内と壕の外にはいくつかの地下倉庫が分布され、氏族公共倉庫となっていた。居住区の壕の外の北側は公共墓地であり、東側は陶窯制作区であった。
半坡遺跡の建築企画が原始氏族社会の構造を十分に物語っている。すなわち共同生産労働、共同生活、個人としての地下倉庫と貯蔵物がなかった。氏族首領の組織の下でみな一緒に生活し、死後公共墓地に埋められていた。これは当時ある程度の宗教と信仰が存在し、魂が不滅で死後も長く一緒にいると信じていたことをあらわしている。
半坡遺跡の建築跡は、原始社会建築技術が達した水準を反映している。石斧、石たがね等の道具を利用することにより、人々は直径45cmの巨大な木材を伐採し加工することができた。ただし大量に使われたのは、やはり直径20cmの材料であった。建ててつなぐ方法と、縄でつなぐ方法を使って、両面坡または円錐式、角錐式、円形または方形の屋根が作り出されることになった。ある地面の部屋の壁は、小さい木の棒で編む方法で木骨を作成し、両面に泥を塗り、木骨の泥壁が形成されることになった。屋根の平面は平らにされ、叩いて硬くする方法により、泥を混ぜた草で防水層とされた。個別の部屋が屋根の上に採光と煙の出る天窓が開かれていた。地面は草泥で平らにされ、叩いて硬くされた。部屋の中には囲炉裏があって、食物加工をしたり暖をとるのに使われた。
姜寨遺跡
近年陜西省臨潼県付近の姜寨村に、総面積25000m2におよぶ仰韶文化の居住遺跡が発見された。発掘された17000m2のうち、すでに部屋の基礎の遺跡が100余りあり、そして数多くの地下倉庫の穴、墓葬などが現れた。それに反映されている原始村落の様子が半坡遺跡よりも更に典型的であった。居住区の北、東、南三面は一本の壕で囲まれ、西南には一本の河が流れていた。壕の東側および南側は集中した墓葬区であった。居住区内の四面に数多くの大中小の部屋が分布していた。興味深いのは居住区内、東、西、南、北の4つの方向の部屋の正面玄関がみな居住区中心に向かっていた。中心部は1400m2の広場が保存され、また家畜が夜寝る場所の見える2カ所があった。あらゆる部屋は住まいとされ、室内にみな竈(かまど)があった。大部分の部屋は半地下穴式であり、少数は平地で建てられ、両者は建築技術質量の面では似ていた。小型の部屋の面積は約15m2くらいで、方形と円形の2種類あり、3〜4人が住めるようであった。中型の部屋は6〜8人住める。大型の部屋は全村で5カ所あり、1カ所の面積が約80〜120m2であり、20〜30人が住むことができた。部屋の分布状況を分析すれば、5つの組群に分けられるのがはっきり明らとなり、各群は1つの大型部屋を中心に、周囲に若干中小型の部屋が配置された。
民族学材料の分析によれば、姜寨村落の中の大中小型の部屋は、それぞれ使用の異なる住宅建築であった。小型部屋は母系社会の中の1家族、成年女子対偶生活する部屋であり、このような家庭が独立な生産単位でなく、ただ1つの生活単位として、配給された食物が少量であるため、単独使用の地下倉庫が設置されなかった。中型部屋は1家族に使われ女性が族長となり、老人未成年の幼児を連れて一緒に居住し、室内には竈以外に会議や儀式が行われる一定面積があった。寝るベットはよく左右半分に分けられ、入り口の両側に分布しており、それは男女分居の要求から設置されたものであろう。家族の中に対偶家庭に使われる小部屋がみんな家族の部屋を囲んで分布された。大型部屋は氏族に使われるもので、ベット面積は広いばかりでなく、ベットのうしろには集会、会議、祝祭活動に使われる広い空き地が設置された。今述べた分析によれば、姜寨原始社会遺跡は5つの氏族が集中した村落であった。陶窯、家畜を飼う所、地下倉庫、墓地の分布状況を結びつけて原始社会土地耕作、家畜使用、陶器制作などの生産活動が氏族に掌握され、農産品の最初の分配が氏族によって決められた。食料の貯蔵がそれぞれ家族の責任となっていた。メンバー死後、氏族の集中墓地に合葬し、ひきつづき別の世界で集団生活をすることになった。
社会生活特徴を物語る建築配置形式
半坡と姜寨遺跡の反映されている建築配置の状態は、文明社会に入っている今日の人間たちにとって、よくわからないものと感じられ理解できないこともあるだろう。今日の社会生活が新しい居住建築形式をもたらしたからであるが、しかし社会発展のアンバランスにより世界のうち氏族制度の地区または民族がなお残っていて、血縁の結びつきを強化するため、集団的な防御手段の強化のため、そこにある住宅居住は、原始社会建築配置の特徴が依然として遺存されている。たとえば北米の大草原におけるインディアンのテント、オーストラリアの土人の村落、アフリカのフルパ族住居点などが、みんな姜寨遺跡とおなじように、円形または半円形、方形などで囲まれ、周囲には土壁または柵などあり、所によっては公共的な建築物があった。我国福建省南部の永定、龍岩一帯には客家族住民が住んで、ずっと前に原始社会生産方式から抜け出たにもかかわらず、よその土地から福建省に移住して、僑居の客家族(所帯)となっているので、長期間集まって生活してきた。その人たちの住宅は円形の、または方形の大堡塁であり、全氏族民がみんなその中に住んでいる(図14)。大きなものは直径70mに及び、環状の部屋が3層に重なって300余りにもなっている。外層の部屋が4階建ての建物であり、1階は厨房と雑用、2階は食物貯蔵、3階以上は人の住む所となっている。中央には祠堂が建てられ、族人のための議事、結婚と葬式の所として使われる。この例から説明されるように、家族血縁の連帯維持と共同で外部の人間の社会生活へ侵入するのを防御するため、このような閉鎖的な円形建築配置形式が作り出されたわけである。
また半坡と姜寨遺跡の中のように、大きな部屋に囲まれて周囲に成年女子の対偶生活のために使われる小部屋が配置される企画方式は、また民族学材料からも例証が得られた。解放直前まで母系氏族制度の残っていた雲南省寧浪建永寧区の住宅がその1例である(図15)。そこに1つの母系家族が1カ所独立の院落に住んで、その中の大部屋(主室)が一間、小部屋(客室)が若干間となっていた。主室に女の家長、老人と未婚の青少年が住み、中央は竈で境とされ、左右に2本の柱が立ってあり、男は左、女は右の秩序で男女青年が成年期に入るための儀式が行われ、また全家族の会議および宗教儀式も主室で行われていた。客室は結婚生活の婦人にあてられ、夜に男の恋人の接待用の住室とされ、室内に竈が1つだけあり、暖をとるのに使われていた。このような奇妙な住宅こそ原始社会家族状態の反映である。
ずっと前に滅びた原始社会状況を研究している歴史学者が、考古学の発展の中で、実証材料を得たばかりでなく、同時に民族学研究の中から数多くの膨大な傍証材料が発見された。考古学と民族学が原始社会の謎を解く2つのキーとなり、建築の歴史の発展についても例外ではない。
四 考工記
最初の工芸の書
世界文化史の中でも重要な地位を占めている、いろとりどりの中国古代工芸美術品は、中国の文化のすばらしさと長さを物語っている。しかし匠がその方面に持っていた高いレベルの技能が、旧社会の貴族達に認められていなかったので、工芸学方面を記述する書籍がきわめて少なく、匠達がその内容を口伝で伝えざるをえなかった。したがって数多くのすばらしい腕を持つ匠は、世に希な技能芸術を不安な社会の中で失い、その秘密は知られなくなった。しかしながら珍しいことであるが、なお古代の工芸製造を記述する書籍が伝わっており、それがこの《考工記》である。
《考工記》は周の時代における官僚制度を記述する書籍、つまり《周礼(しゅうらい)》の一部である。《周礼》の中の《冬官》の部分は主として、工芸制と作官制の設置に関する内容が記述されているが、だいぶ前に失われてしまった。西漢人が失われた《冬官》にあたる《考工記》を《周礼》に編入した。専門家の分析によれば、《考工記》は春秋戦国時代の頃に書かれ、役所の手工業における生産法規に関する書籍である。その中で、木、金属、革、石、土の5種類の材料、および染色材料を使った30種類におよぶ手工業の生産技術と管理方面の制度規定があげられている。手工業の種類は、兵器、運輸工具、炊事用具、食器、はかり、楽器、装飾品、および建築などにわたっている。用具の視点から見れば、比較的全面的に周の時代の社会における生活の各方面と、それが達した工芸水準が反映されている。たとえば本の中で提出された”金有六斉”すなわち銅合金の中で、銅と錫の6種類の混合比があり、異なる合金が硬度の違う用具に使われていた。炊事用具、鐘、鼎類の鋳造には6:1の銅錫合金比をとり、殷墟の中で発掘された青銅の鼎の合金成分がこの比率に近いことからも、《考工記》に記述されたことがほとんど実践経験のまとめであったことがわかった。
《考工記》の中に書かれている匠というひとくだりは、建築の匠の土木営造技術について記録されたのです。非常に珍しい古代建築文献の中で、これは非常に貴重な記述となり、先秦時代建築企画方面の資料が保存されて、今日の研究仕事に非常に価値があり参考になる。
王城企画制度
《考工記、匠》の中に、”匠人管国、方九里、旁三門、国中九経九書、経徐九軌、左祖右社、面朝后市、市朝一夫”という記述があり、これは周の王城の企画についての記述であり、その意味は匠は国の首都を営建する場合は都市格局、一辺の長さが九里の四角となり、一辺に3つの城門を開くということである。都市の中には南北と東西を走る大通りがそれぞれ9本あり、東西1つの大通りの広さは9台の馬車が平行できる、すなわち72尺の広さがある。都市は宮城を中心とされている。その左の方は祖先を祭る寺、右の方は社会壇があり、その前には役所(外朝)があり日常の事務をとりあつかう所、後ろは市場交易の場所という都市計画が要求されている。外朝と市場の面積はみな一夫の土、すなわち百歩四方という面積にあたる(図22)。
周代の洛陽王城がまだ詳しく発掘されていないので、このような企画(都市計画)が実行されているかどうかは確かめられないことになる。しかし一般の学者たちがそれは確実に種族奴隷制のある企画思想を反映していると考えている。完全に臆測したものではない。原始人は自然への崇拝および祖先への敬仰から、すなわち”敬天法祖”の観念の影響から非常に祖先を祭る寺建築および祭祀を重視していた。祖廟及び社会壇が王城の中心に企画されることこそ、その地位の重要性をあらわしている。古代帝王は政務の主管であり、后妃は内廷家務の主管であり、これは原始社会の男性が生産活動に従事し女性が分配交易に従事する習慣が続いたからである。王城計画の中で外朝を前に置き、市場を後ろに置くのが古代の種族の経済管理の方式をあらわしている。社会的な進歩につれて完全に古代都市の計画方案を引用するのが現実的ではなく、各時代の都城計画においてある程度《考工記》の中に提出された方案が取り入れられていた。たとえば漢代長安城の町の広さは、発掘された東門つまり宣平門内の大通りの広さが12軌(図23)となったことから、その時代の町の広さはなお軌道の広さを計量単位とされたことがわかった。この軌道の広さで町の広さを決める方法は都市交通が乗馬と駕篭に代わるまで続いた。隋唐の都の企画は非常に《考工記》に記載された王城企画の方整の町造りの思想に影響を受けて、8000ヘクタール余りに及ぶ長安城内に縦横大通りをもって108坊里で区分され、この方整式の企画思想が日本まで影響が及ぼされていた(図25)。元代の首都、大都城(今の北京)の企画において、もっと広い範囲で《考工記》の都城計画思想が取り入れられ、全城がほぼ長方形を呈し、北城壁の他、各城壁に3つの城門が開かれていた。宮城がまん中の前にあり、まん中の後ろには鼓楼、鐘楼があり、そして什刹海には一帯の自由市場があり、太廟は東西斎化門内(今の朝陽門内)に設置されていた。宮城の左には、社会壇が西面側の平則門内(今の阜城門内)に設置され、宮城の右には、城内街道が縦横に交差しており、真四角になっていた。今述べたのは全部、周代の都城計画の方式によって建設された。明代の北京城は大都城のもとに手を加えられ、太廟、社会壇が宮城の前方の天安門の両側に移されることによって、さらに全城の軸対称の偉容な姿が強化されることになった。奴隷制時代の都城計画は過ぎ去ったにもかかわらず、その計画の厳密なこと、軸対称性、及び明瞭な企画という都市計画の持つ雄大な勢いなどが、ずっと歴代の帝王の注意力を引きつけていった。そしてその都城計画の中で模倣をしながら受け継いでいった。
世室と明堂
《考工記》の中に、夏、商、周三代で王宮殿などの重要な建築物の設計の方案も記述されていた。しかしその文章が難しく、確実な解釈が難しいため、歴代の経学家、考証家がその注釈をめぐって二千年以上も論争を続けてきた。しかしそれが提出されたのは、三代建築の模式なので、その後の帝王の夢中になっていった「法古(古代にまねること)」の一番良い材料になり、長期にわたって封建社会の建築創作に深く長い影響を及ぼしている。たとえば夏代の宗廟建築は「世室」と名づけられた。その平面の広さは、横の長さ14歩x奥行き17歩となっていた。土台の上に中心四角方式によって五間の部屋が、各部屋のサイズは4歩x4.4歩と3歩x3.3歩で設置されていた。四面には4つの門と8つの窓がある。9つの階段によって土台に登ぼるようになっていた。《考工記》の中に商代王宮正堂が「重屋」とよばれ、三尺高さの土台の上に建てられ、清代の廡殿頂形式に相当する重檐四阿頂が建てられた。それに対し、周代宮殿の主要な殿堂が「明堂」とよばれ、9尺高さと平面サイズ8丈1尺x6丈3尺の土台の上に建てられた。その上に五間の部屋が建てられ、各部屋のサイズは1丈8尺四方の正方形となっていた。以上の解釈はみな漢代の儒家によるが、実際にそうであったかどうかは考証できない。その中のいくつかの設計思想、重檐廡殿頂、高土台、中心四角方式による部屋の設置などは、歴代の重要な建築物の中に繰り返して取り入れられた。建築考古学に従事する人たちは、《考工記》のえがいた四阿重家の記載に従って、商代の二里頭、盤龍城宮殿及び陜西省岐山の周代宗廟の外観の姿を見て、重檐廡殿頂だろうと推定した。封建社会晩期にいたって、統治階級建築物の中では、重檐廡殿頂が最高級の屋根となっていった。宮殿正殿、宗廟、孔子廟大成殿など、きわめて重要な建物に限ってとり入れられた。解放後、漢長安の南郊外十数の礼制建築の遺跡が発見され、西漢末の王莽が建てた9つの宗廟明堂と壁擁建築と考えられている(図26)。その基本計画は輪の形の水溝中に四角の庭園があり、その中に四方形の台V建築があり、方形土台の上に中心、四角、四面の方位に従って部屋が設置されることによってできた、姿形、雄大さ、対称の厳密さ等が、伝統的軸対称の企画とまったく違っていた。この種類の設計が《考工記》の中の三代建築模式の影響を受けていたのは明らかである。隋煬帝の時代に洛陽で明堂を建てる計画がされたが、有名な建築家宇文鎧が各時代の明堂の設計について研究した後、1つの模型を提案した。その設計は1つの方堂であり、堂内には五間の部屋が分かれて、上層平面は円形を呈し、四面に4つの門があり、基本的には《考工記》の技術によって作られていた。唐代武則天時代の建築の明堂も、このような高土台、四方形、四面に門を開く建築であった。「明堂」模式は明清時代における壇廟建築にも影響を及ぼしていた。歴史上完全に美しい建築構造形式が新たな要求条件のもとで、数時代にわたって続けて用いられることになった。
早期建築の施工技術と制度
《考工記》の中の記述から、匠は次の仕事に責任を持っていたことがわかった。(1)水準測量によって都市用地の水平高さを測量すること。
(2)日影(ひかげ)と北極星で都市建築物の方向を測定すること(図27)。
(3)都市の企画と建設。
(4)宮室建築の建設。
(5)郊外の田畑を畝(約1.82アール)で分割し、周囲に潅漑用の溝を作る。
(6)倉庫など貯蔵建築の建設。
その内容から見てわかるように、当時の建築の仕事の中の企画設計から施工までが統一して管理されていたので、まだ厳密な分業がされていなかった。匠は攻木の七工の一つで、木工業種(大工業種)に属していた。伝統的な建築構造方式の中で大工という業種は、一番技術的に難しくて、施工の鍵になっているので、長い間ずっと我国建築工事の中で、みな大工業種を指導者として全面的に仕事に責任を持たせてきた。唐宋時代において、この職業を指導大工または都料匠と呼ばれた。たとえば宋の時代の著名な喩浩は都料匠であった。明清時代、腕の良い大工は工部の責任官吏に登用されたこともあった。木匠がずっと前から建築業のリーダ業種であったことは、《考工記》によって明かである。
匠が責任を持った建築仕事は、官営建築範囲に属していた。匠は王室と政府に奉仕する専門建築匠であった。周代官制によれば冬官司空によって直接管轄されていた。秦代以降、政府が特別に将作少府(ある時代には将作監ともよばれた)または工部を設置し、宮殿と宮府営造の事務を専門にさせた。この工官制度は数千年にわたって、清代大量に現れた私営請負の営造工場によって代わるまで続いてきた。政府に支配された封建建築業は、数多くの建築労働者の知恵が十分に発揮できないため、その時代の建築発展に不利な影響を与えた一方、歴史上いくつかの、巨大な規模の、煩雑な業種の、複雑な技術の大型建築工事が、短期間に完成できたのは、政府が直接工事への介入の結果と認められ、工官制度の積極的な一面だと思われる。
《考工記、匠》の記述から、建築制度が、階級社会の始めから、階級が烙印され、つまり等級制度がつけられたことがわかる。周王の王宮の宮門の高さ、宮城の角の高さ、王城の城角の高さは、みな等級差別があり、五雉、七雉、九雉(一雉は高さ一丈に相当する)となっていた。そして王城、諸侯城、卿大夫采邑の城制にも等級差別があり、一般的に一級下であった。王城内外の道路の広さにも等級があり、城内の大路は九軌の幅があり、環城道路は七軌の幅、城外道路は五軌の幅と、それぞれなっていた。そして王城、諸侯城、卿大夫采邑の城の内外の相応した道路にも等級差別があり、一般的にも一級下であった。封建社会では始めから終わりまで、建築業の等級制度が存在し、社会の発展につれてますます煩雑になり、住宅、墓、装飾、用具にまで及んできた。それは建築の創作の自由発展にとって阻害となった。上記の内容の他、本の中にいくつかの技術作法の論述があり、たとえば瓦屋根の面、草葺き屋根の面などの屋根の勾配と壁の厚さ、及び収分などに関する規定、土堤の高さや広さの規定などである。とりあえず《考工記、匠》は、先秦建築の様子を反映する貴重な文献である。
五 高台謝 美宮室
台謝建築
先秦の文献に何度も台謝建築が述べられており、それに対する描写が華麗、豪華、贅沢の外、どれほど高いかどれほど大きいかがよく形容され、帝王統治者らがいわゆる「高台謝、美宮室で誇っていた」。晋霊公が9層の台を建てようとしたが3年たっても未完成であった。楚国が「章華台」を築き三休台とよび、台に登るには3回の休憩をしてから頂上まで登ったという。秦国も三休台を築いた。魏襄王が「中天台」を築こうとして、台の高さが天の高さの半分になるまで築こうという妄想をしていた。呉王夫差が「姑蘇台」を造り「三百丈」に及び、上には館圭宮、春宵宮、海霊館があり廊下がめぐらされて五里におよんだ。これは簡単な高台でないことが明らかで、台の上には莫大な建築群体があった。ただし具体的な建築形象がずっと謎のままで解かれていなかった(図28)。
春秋戦国時代古城遺跡の中に、まとまらず、ずらして配置されている高大な土丘がよく見られる。たとえば河北省易県燕国の下都城遺跡の城内外に、大小の異なる叩いて堅くされた土台の建てられた位置が50余りあり、その中の著名なものは武陽台、老姆台、路家台などである(図29)。斉国の都城臨溜遺跡の西南部になお立っている、叩いて堅くされた土の高台は、高さ14mで地元の人に桓公台とよばれている。趙の国の都邯鄲遺跡の宮城内にも高台が10余り保存されている。かってはこれらの高台が古代陵墓の墓丘であるとされて重視されなかった。考古学発掘をしてその下に墓葬がないことが発見されて、そしてその上、土台の土および付近に数多くの瓦、石礎、灰皮および木炭灰などが出土されているので建築遺跡であることが明らかだ。多くの考証を経て、今これらの台祉が古代台謝建築であると確認され、つまり古代帝王宮室建築の中の重要な建築の種類である。この建築の企画、建築配置および構造方式が秦の都咸陽城遺跡の第一号宮殿遺跡の発掘を経て、さらに明らかになった。
咸陽宮遺跡
秦始皇帝が六国を統一した後、大規模な建設を行い、馳道を修復し、長城を築き、咸陽城を建設し、渭水の両岸に数多くの離宮別館を建てた。《三輔黄図》の本にはこれらの離宮別館に対する描写があり、”弥山跨谷、輦道相属、木衣弟綉、土被朱紫”というように豪華きわまりなかった。秦始皇帝はまた、関東六国宮室の形式のまねをして咸陽北面の高地に多くの宮殿を建てた。これらの建築活動を通じて全国各地の建築に関する経験が交流溶会されたが、惜しいことには、その建築がなくなってしまった。70年代咸陽市で台謝建築遺跡が発掘され、それは秦の時代咸陽城内の一つの宮殿であったが、その発掘は、古代宮殿の様子を世人の前に再現した(図30)。
60x45mもの長方形の堅い土台で、残っている高さは6mである。突きかためて堅くされた土台を中心とした周囲に、空間の小さい単層木構造が、土台の周辺に囲まれて建てられ、層ごとに縮小され、上下の層が重なって、2、3層の金字塔の形の建築群組を形成されて、外観壮麗、勢いが堂々としていた。部屋の内容には殿堂、過庁、居室、浴室、回廊、倉庫、地下倉庫等あった。殿堂は堅くされた土台のまん中の2層の建築であり、その地面に紅の顔料が塗られていた。部分の部屋の中にベットの下にオンドルがあり、暖炉、地下倉庫等が設置されていた。台謝建築の各層の地面に配水管が設置されてあり、雨水は付近の溝渠に流されていた。時にはこの台謝は一つだけではなく、2つまたはいくつかの間にかかった閣道でつながっており、統治者が閣道を経由して他の所へ行けるので、台を下りるにはおよばなかった。その外観形象がもっと雄大であった。木構造技術が始められたばかりの段階においては、なおまだ大体量建築物が建てられないころは、匠たちはえらく巧妙に土木混合の構造方式を取り入れて、多層建築の問題を解決していた。
台謝建築は先秦時代から栄えて以来、両漢時代まで続いてきた。西漢末に王莽が長安南郊外に建てたいくつかの礼制建築に、台謝建築方式がなお採用されていた。三国時代の曹操によって業城の西北に建てられた、著名な銅雀台も、その形制がまだ台謝建築の影響を受けていた。唐宋以後木構造技術がすでに成熟されたにもかかわらず、人々はこのように重なりに重なった方錐形の建築外観をなつかしく偲んでいたため、景色遊覧区にはなお台謝風格のまねをして、木制の楼閣が建てられ続けていた。たとえば黄鶴楼、勝王閣などのような建築が、詩人の吟詠、画家の描絵、あるいは人口に膾炙された対象となっていた。明代の北京紫禁城角楼建築は、その”九梁十八柱”といった構造体系で、層と層の間に変化があらわれる屋根の形式が、歴史上の台謝建築の筋をとって移り変わってきたものである。
楼閣構造形式のさらなる発展
台謝建築は土木混合構造方式で、一代楼閣の雄大形象を創造したにもかかわらず、構造上での極限のため社会の多種多用な需要に適応できなかった。木構造技術がしだいに成熟するにつれて、歴史上の楼閣が純木構造形式を採用するにつれて、さらに多用な外貌が現れた。
最初に出現したのは重楼式といえるであろう。この形式は戦国時代に始まり、漢の時代に普遍的に発展した。すなわち単層構架で重ねて楼をなす方法は、その本体の自重を利用して圧実でバランスを保った。平面は方形や矩形を採用され、各層の柱がつながらなくて独立柱となっていた。楼面構造は井干原理を採用され、方形柱網の柱頭の上に、枋木をもって互いに咬接し方圏が形成され、角材に敷かれ、そして角材に楼板が敷かれる。楼板の上に地伏木が設置され、交差して圏がなる。地伏の上にさらに柱を立てて、二層目になる。このようにだんだんと何層か建てられるわけである。上下層間の柱軸が不対位でもできる。したがってこの楼閣の表現した外観形式が変化に富み、漢代の絵を描いたレンガの絵の中に表現された楼閣、および墓の中に陪葬された明器楼閣が、上記の構造特徴を反映している(図31)。両漢時期に楼閣の重さを受ける壁の例として、なお突きかためて堅くされた壁を利用していた。ただし高さには制限があるため、普遍的に適用できなかった。漢武帝の時、長安西郊外に建てられた建章宮内に、”高さ五十丈、車道相属”の井干楼は別の構造形式の楼閣であった。その構造は井上の木檻のように方木または円木重複し交差して建て、木を積んで高くするので井干と名づけられたのだ。構造上からいえば、これは一種の可能な方式であるが、木材の使用量が多いので広く広めることはできない。
両漢の重楼建築の各層柱は互いにつながらないもので、安定性に弱くて、南北朝時代に仏教が栄えて高層の楼閣式木塔が要求されることによって、この問題はさらに突出した。木塔の建造にともなう新しい刹柱式構造が現れ、即ち楼閣中心に頂上までのびる大柱が樹立して、柱の根が地盤の中に埋め込まれ、各楼層構造はみなそれぞれ刹柱と結びつけて固定されることによって、安定性を保証されることになった。日本現存の奈良法隆寺五重塔は飛鳥時代の建築であり、我国の隋唐時代に相当するが、その建造技術が中国伝統建築の影響を受けていた。五重塔の構架は例の刹柱式であり、同時期の日本仏塔の常用の構架方式である(図32)。紀元643年(唐貞観17年)に建てられた朝鮮慶州皇竜寺塔は、その遺跡で平面七開間方形の大塔および柱網中心に中心刹柱があったことがわかった。我国現有刹柱式の木塔遺跡はなくなったにもかかわらず、文献の上にその脈絡をたどることができる。《広弘明集》記載によれば、南朝の斉、梁の時代には塔を建てる前に必ず刹柱を立てるが、刹柱は巨大な柏木柱であり、刹柱の下は石が基礎になっている。唐代まで刹柱の制度が続いて、武則天の時代に建てられた明堂は巨大な建築で、その中心に巨木十本、上下貫通、それで本体となっている。唐の玄宗の時代に明堂を建て直され、その上層を取る際にまずその柱心木を取り去らなければならないということで、さらに、その木は全楼上下を貫通している大柱であることが説明されている。
宋代仏教寺院で供養された仏像がしだいに増加されることによって、刹柱式木塔の室内の高さだけでなく、その中心柱および数多く立てられている柱列などが、内部空間の使用の妨げになった、そのために中空式の構架形式が作り出され、中心式と密集柱網の束縛から抜き出されることになった。遼代清寧二年(1056年)に建てられた応県木塔と、統和二年(984年)に建てられた薊県独楽寺観音閣が、この種類の形式のすぐれた実例というべきだ。この構架形式は具体的なものごとでたとえると、一つの篭引き出しで、各引き出し圏は完全な構架となり、それは内外両圏の柱列に構成され、柱間に梁と拱がかけられ独立な存在にできる。これらの引き出し層は一つ一つ重ねると一つの高層建築になる。各引き出し層の上に板を敷いて楼層になるのに対して、敷かないと一つの中空の大室内空間ができる。平面形状は方形、矩形、八角形であり、それぞれの層の形は一律でもよいし、変化してもよい。当然ながら八角形の形が最も合理的であり、各層柱軸が上下層に対応できる。この構造形式は刹柱式にくらべて材木が節約できるばかりでなく、使用空間が広くなり、かつ短い材料で大きな建物を組み立てることができ、これが構造発展中の大進歩である(図33)。
圏式が重なり、楼閣は技術上で依然として問題が生じていた。構造の複雑さ以外になお2つの欠点があった。それはつまり柱の不安定性(全楼閣がいくつかの柱でつながっていて整体構架の可変性が大きいこと)と、もう1つは構造伝力が斗拱システムを通じる必要があり、斗拱部位が圧力を受ける能力が弱まるという欠点であった。明清時代に框架式の楼閣構造形式が作り出された。この方式の構架では完全に内部斗拱システムが否定され、柱、梁、枋直接、木と木の接合方式が取り入れられると同時に、建築全部は地上から屋根まで一貫して柱を通す工法が使われているので、伝力と整体安定性がさらに向上して、木構造楼閣建築が新しい段階に入ったわけだ。こういった構架形式を取り入れて建造された建築は、承徳普寧寺大乗閣、安遠廟普渡殿、須弥福寿廟妙高荘厳殿、北京雍和宮万福閣、頤和園仏香閣などのような数多くの殿閣である(図34)。
歴史上の台謝建築から4種類の木構楼閣構造形式までの発展は、社会需要が技術発展の原動力であることを証明している。発展中に新しい問題が生み出されて、次々と問題を克服する過程こそ技術発展の過程であり、楼閣建築構造形式は、高さと空間などの要求と材料の経済性、構架安定性の技術水準との間に相互矛盾しながら、相互適応する過程で発展してきたのである。
六 万里の長城
歴史における悠久的工事
我国の万里の長城が世界建築歴史の中の7大奇跡の1つであり、もし工事の巨大さでいえば7大奇跡のトップである。万里の長城は”万里”に及ぶ長さといわれているが、もし歴代の長城を加えると全長十万里を超えている。我国の新彊、甘粛、寧夏、内蒙古、陜西、山西、河北など16の省、市、自治区にわたって分布している。万里の長城は1城の城壁ではなく、1片の城壁である。この規模が広大で勢いが雄大な軍事防御工事は、我国古代建築技術の偉大な成就、労働人民のはてしのない知恵と高超的技芸を反映しているばかりでなく、我国の建築工事の源遠流長の歴史も反映している。
孟姜女が長城を哭くという民間の故事が広く伝わっているので、一般の人の印象として長城の修建が秦始皇帝から始まったものであるとされている。しかし実は秦王朝以前、何百年前からも長城が修建はじめられた。紀元前7世紀の楚の国が、北方諸侯を防ぐために、今の河南省一帯に数百里の長城を築いた。それは”方城”とよばれ今でも南陽地区になお方城県という名称が残っている。戦国時代の7雄および中山国などがそれぞれの境に長城を築くことによって自国を守り、北にある秦、趙、燕三国が匈奴の侵入を防ぐために、またその北側に長城を築いた。紀元前221年秦始皇帝が6国を統一し、同年大将の蒙恬が30万の軍をひきいて北へ出て匈奴と戦った。秦、趙、燕三国の北長城の基礎の上に、西の臨桃(今の甘粛岷県)から東の遼東までの万里の長城が新たに加えられた。今でも甘粛臨桃県窰店鎮の長城坡、渭源県の秋家堡に秦の長城の遺跡が残っている。西漢の時代に秦の長城の東西両端にのばされ、西側は甘粛の敦煌まで、東側は内蒙古の狼山、赤峰を経由して吉林地区までのびた(図35)。東漢時代には長城以内に多くの亭侯、障塞など補助軍事工事が設立された。
南北朝時代の北朝統治者が北方民族であったにもかかわらず、柔然、突厥など王城以北の民族に対して完全に支配できないため、長城を築いて屏障の役割を果たさせた。北魏王朝は赤城(今の河北赤城)から五原(今の内蒙古鳥拉特旗)まで2000里余りの長城を修復し増築した。北斉王朝も何回も修復し天保元年(555年)居庸関から大同までの長城を修築した。それに調達された人夫は180万人にも及んだ。そのほか長城内にまた一道の城を築いて重城となずけていた。西は山西の偏関から雁門関、平型関、居庸関をへて懐柔地区に至った。隋代に長城が7回も修築された。隋煬帝が大業3年に長城を修復するため、男丁百万余りを調達した。唐王朝の国勢は強盛で、経済、軍事力が空前に発展して、その行政管轄された地区は陰山以北に及んだ。したがって唐の時代中は長城を修復しなかった。金代に蒙古族の侵入を防ぐために、東北、内蒙古一帯に2つの長城が修築された。
明代に蒙古族の残余勢力の南下侵入を防ぐため、及び東北女真族の勢力の拡張を防ぐため、長城の修築は非常に重視され、200年間の間工事が続けられた。工事技術も改進があり、今も残っている比較的完全な長城は、ほとんど明代のものである。明太祖朱元璋は建国1年(1368年)に大将徐達を北京近郊居庸関一帯の長城の修建に派遣した。16世紀中葉まで、西の嘉峪関から、東の鴨緑江まで6000kmに及ぶ連綿と続く長城がすべて完成された。軍事重点地区には2道か3道の城壁が修築された。
清代には北方民族に対して、懐柔政策が採用され、宗教の力をもって思想統治をし、補助として軍事征服が行われるという政策がとられ、顕著な効果が上げられた。相当長い期間、北方民族が清朝政府を脅かす力量が形成されなかったので、2300年もの間続けられた長城工事が終わりと宣告された。
構造雄大な工事
長城工事が一体どれほどの工事量がかかるのか目前にまだ正確に計算できていない。歴代の修建した場所は不明確であり、工事規制は不明で、重修復修の回数も明かでないから、正確に計算することは難しい。明代に修築された約6000kmの城壁を例にとって計算が行われ、もしその磚石、土方で厚さ1m高さ5mの長城を修築すれば、地球一周余りほどの工事量となる。
残っている長城の構造から見れば、早期の長城は土築が多くて、石垣、快石壁、磚壁などがあった。遼東地区には木板壁と柳条壁(柳条辺ともいう)が建造されていた。個別地段では山形水勢に従って築かれ、山塹、渓谷などけわしい所が占拠され、平整を加えて防とすることができた。甘粛地区の砂蹟地帯の長城が、地元では取土が困難で、現地にあるものを材料とする原則で、砂礫土に芦の茎層または柳条層を加える方法で叩いて堅くして壁を作った。25cmごとに1層の芦層が加えられ、城壁の基礎になお地元産の胡楊木の地粧が埋設されていた。この種類の秦と漢の時代の長城が今でも完全に保存されていることから、その十分堅固なことはわかる。
明代の製磚量が急速に増加され、北京、山西一帯の重要地段の城壁はほとんど磚石構造である。居庸関、八達嶺一段は工事の典型的な実例であり、一般に城壁の高さ8.5m、底幅6.5m、頂部幅5.7m、顕著な勾配がある。城壁の下の部分は条石が敷かれ、山地勾配が25゜より小さい所では、城磚が、条石と地面に平行な形で(傾斜して)敷かれていたのに対し、勾配が25゜以上の場合、磚石が水平層々重なって(水平に)敷かれていた。城壁頂漫は城磚が敷かれて広い馬道が形成され、五馬が並んで乗り、十行並進という広い馬道が形成され、険しい所は踏歩でもされていた。両側は高さ1mの女壁と2mの口になっていた。一定の距離ごとに敵台があり、敵台は実心と空心の2種類があり、実心敵台は城壁台とも呼ばれていた。頂部瞭望、射撃にしか使われず兵士は常駐できなかった。明中葉抗倭名将戚継光が薊鎮を守ったとき、空中台と名ずけられた敵台を修復することを建議し、”城壁を越え台をなす、睥睨四達(四方を見渡せるように)台の高さ5丈、虚中は3層となり、台宿百人、武器兵糧を具備する”となっていた。この空心敵台は長城の防御能力をさらに向上させることになった(図36)。
長城の建設場所の選定は高い科学性を持っていた。一般に城壁ののびる方向は稜線に沿って企画されていた。稜線に沿う企画は、高地の制御ができるばかりでなく、排水に便利で両面に洪水を流しやすくするため、城壁が地面渓流と雨水からおびやかしを受けなくなる。長城の選ばれた稜線の両面は、多くの場合は外側が険しく内側がゆるやかな地形であり、それは外側が敵が攻めにくく内側は連絡供給に便利であった。山頂の間に巨石があれば城壁に包み込んで、絶対に城壁に出して敵に利用されることのないようにした。谷を越える所で必ず水関が建てられ、水関の両側に高さを利用して保護と策応ができるようになっていた。そこで古代の軍工匠師が色々な検討を行い、城址の場所選定に工夫したことがわかった(図37)。
歴史上、長城の経験した激しかった戦争時代はすぎ去ってしまったが、長城の雄大な姿がいつまでも中華民族の知恵とねばり強さのシンボルとなっている。こういう点については、我国人民ばかりでなく、あらゆる長城を見た世界の人々の共通の印象である。200年前にもイギリス特使マカルニが北京から承徳へ乾隆皇帝の墓参りに行く途中長城に登ったとき、率直に感動の言葉をあらわした。彼は「全部の長城が見渡す限り続くほど、こんな巨大な工事が本当に人をおどろかせた。」「どうやって建設資材がこのほとんど登れないほど高い山や深い谷にまで運ばれてきて、そして建設されたかと考えると、不思議で見当がつかない。これこそ人が驚き感服すべき所だ。」と語った。その上彼は、古代ローマ人、古代エジプト、シリア、及びアレキサンダーの後輩がかっての防御性のある城壁、防戦を作り出した、「それらの建築が人類の重大な事業として記念されているが、工事の規模であろうと、工事の量であろうと、人工の消耗の程度と建築場所の困難さであろうとも、以上すべての城壁防戦を加えても1つの中国の長城には及ばない。」「その堅固さはほとんどダッタン区と中国の間にある岩石山脈とくらべられるほどだ。」万里の長城が「世界の一番」と記入されるのは、まったくその名誉とあっている。
総合防衛の工事
長城ははじめから単純な城壁ではなく、一組の相互配置された軍事建築物の群である。漢代に長城を建造されたとき、城壁に沿って多くの烽火台と戦う所が設置され、軍事建制上、烽燧制度という制度が形成されていた。甘粛居延地区に発見された漢代の木簡の記載によれば、制度規定は「五里一燧、十里一燉、三十里一堡、百里一城」となっていた。燧と燉は敵が侵入したとき、狼煙をあげる場所であった。城堡は兵士の駐屯する所で、敵が攻めてきたときには城で守ることと他の長城沿線地方へ支援策応することもできた。烟燉はたびたび城壁の外側にある高山の頂上または平地のまわりもどる所に設置され、燉上にいくつかの人の住む小屋があり、警報が出されるとき昼は狼煙、夜は火があげられることになっていた。この方法はずっと明の時代まで続いたが、明の長城の兵士は狼煙をあげるとき薪ばかりでなく、狼の糞、さらに硫黄と硝石を使うことによって煙をさらに激しくしていた。狼煙が上げられると同時に空砲を鳴らして、敵が100人である場合は1烟1砲、500人来た場合は2烟2砲、1000人以上では3烟3砲、1万人以上では5烟5砲となっていた。古代社会においては、この方法は快速な通信手段である。山西一帯にある長城の若干烽燉の間に総台が1カ所設置され、台周辺は城壁に囲まれ若干の兵士が駐屯し、長城の前哨拠点となった。この他もう一種類の燉台があり、それは通信用ではなく、防守燉台で、長城付近に建てられ長城と相互策応姿勢がとられていた。燉台、城障には他の防御装置が配備され、漢代城台射撃孔に転射が設計された。それは木製の一種の立ておきの回転軸で、軸に射孔があり、回転することによって自分を露出しないで各方向から来敵を射撃することができていた。城台脚に竹木柵または木砦(図38)を作り、敵の突撃を防ぐことになり、明代には多数の土柵の代わりに低い土垣が採用されていた。長城はこれらの燉台施設を配置協力して使うことにより、その防御作用をさらに高めることができた。
軍事防御の要求から長城の全体企画には主と従があり、重要な地帯には2度3度ないし何道もの城壁が設置されている。明代大同鎮にある長城ではその外にもう一道の城壁がある。北京付近の居庸関長城の内外にそれぞれ一道の城壁が増設され、25kmの全体の関溝は長城の中に入っている。山西偏頭関一帯の長城が4道長城にも及んでいる。山西雁門関は大同から山西腹地の重要交通孔道であるため、関城の他に大石城壁が三道小石城壁25道も増築されている。関北約10kmの山口に広武営城堡が前哨として建てられている。防御措置が相当厳密になっている。長城ののびる険しい山口に必ず関隘が設置され、営堡に兵士が駐屯され、その付近に燉台が多く建設され、重要な関口はまた縦に沿う何カ所の営堡が配置されていた。著名な関口は北京付近の居庸関、始終点の山海関、嘉峪関の外、なお偏頭関、寧武関、雁門関、紫荊関、倒馬関、殺虎口、古北口、喜峰口など多くの所がある。山海関城は山より海にのぞむ地形が険しく、東北から北へ進出する喉の要地である。長城は北面からゆるやかに流れて下り、関城と接して引き続き南の渤海に直入するが、地元の人々がその海に入った燉台を老竜頭と呼んでいる。関城四方形で四面に門および城楼あり、東西内外にそれぞれ羅城一道が建てられ、東羅城外になお遼東に向けて前哨地とする烟燉、土堡および威遠城がある。城関南北の長城に沿う所に2カ所の翼の形の城がある。関城の前後左右四面にみな城堡があり、地元の人たちがまた山海関城を五花城と呼んでいた(図39)。嘉峪関城は約160mの四方形であり、南北面に敵楼、東西門に城楼がそれぞれ設置されている。東西内外にみな翁城が1カ所設置され、城壁四角に2層の磚角楼、関城の外に羅城一道が設置されている。羅城は西面が長城の先端で、新彊に入る要道に向かっているので、この部分の城壁がさらに厚くされ、城楼および角楼が増築されている。長城の軍事的意味は今日進歩した科学技術面の前では昔の作用を失ってしまったが、山々の間に延々とのびている雄大な関城壁、険しい山峰にそびえ立つ烽候燉台が起伏して、遥かに相互呼応する姿が、建築芸術形象で依然として人々に深い印象を与えている。
七 里坊と(巷)街巷
里坊制
わが国の伝統都市企画配置方策の中で、方直平整的な街道方格網目系統が、最も強い東方の特色を持っている。当然ながら南方水郷においても湾曲幽隠的な街の横町には乏しくない:西南山区においても山の地形に従って遠回りしながら山中の町のような都が少なくない。しかし我国の大部分の中でも、黄河流域一帯においても、方格網形の街道が企画されている都市の数は最も多い。
方格網街道の形成が、主に伝統的都市企画の形成、里坊制、及びそれに対応する都市管理制度、閭里制度の影響を受けている。戦国時代に本になった<管子>と<墨子>の二書の中に、この閭里で名付けられた居住区について述べられている。閭里の意味については<周礼>の本から、それは国家行政管理組織の一級組織名称だとわかった。周代王子王城付近区域が郊区と呼ばれ、少しはじの所は句区と呼ばれ、郊と句みな王城管轄され、王畿と呼ばれている。郊区中の居民は五所帯で比となり、五比閭になる方式で組織され、つまり25所帯が基層単位”閭”になっていた。上に族、党、州、郷各級組織がある。句区中の居民も五所帯を令とし、五令を里とする方式で組織され、25所帯で1つの基層単位里で組成されている。上には賛、鄙、県、遂などがある。この行政管理組織が田制、軍制、納税制にも適応している。一閭の居民が国家のため兵役に25人及び戦車1輛提供することになっている。一里の居民が国家に兵役25人と国家の軍賦の負担を受けている。そのため王畿近くに形成された最小城邑の単位が”閭”と”里”である。当然ながら比較的大きい城邑も数多くの閭と里が含まれている。この閭里制の城邑はみな里垣、里門のほか、内部における交差点の形の街または巷が設置されていた。この閭里制度は郊区で実行されたばかりでなく、王城城内及び大城邑にも実行されている(図40)。閭里制度の規格化の要求から都市計画が方格網形式が最も合理的であるとされている。各方格用地面積がそれぞれ等しい。各閉鎖的な方格用地が里または坊と呼ばれ、”閭”の意味は坊門にかわり、これが里坊制の由来である。
各里坊は四辺に閉鎖的な坊壁に囲まれ、大官、貴族の府台を除いて、居民が街に向かって門戸を開くことが禁じられている。夜間坊門を閉めて夜禁制度が実行され、夕方に街鼓がとまると、居民たちが街に出るのが禁止される。各坊内に独立的な管理機構があり、まるで城の中の城のようであった。いいかえると中国古代都市は、若干の小城の集合で大城が形成されたのであった。古代都市の社会組織関係が変化しているにもかかわらず、里坊制を中心とする方格企画システムが排除されてなくなり、なお坊としての各街区になずけられていた。
漢長安城から唐長安城まで
春秋戦国時代の都市の居民区分形式ははっきりしないが、文献の記載によれば閭里制的である。漢代長安城の中に160の閭里があり、8万所帯の居民があり、知られている名称が宣明、建陽、昌陰、尚冠など八九区であり、これらの閭里内に”室居櫛比、門巷修直”という記述からわかる。居住区がちゃんとしている企画であることが長安城の中に未央、長楽、桂宮、北宮、明光など五カ所の大型宮殿および武庫、市場などの建築があるため、余った居住用地に限られて、漢代の閭里の規模が比較的小さかったと推測されている。一部分の閭里が内城の外に、廊城の内に設立されている。漢の長安城は段階的に建設され形成されたから、官府、居民、宮殿は混雑して一緒になっているので、企画区分は十分に明確ではない(図23)。
三国時代に曹操は城を経営して国都とした。彼は城北の半部を宮殿、庭園、役所および貴族居住区にして、城南の半部を一般平民の居住区にしていた。厳しく厳格に統治者と平民の居住地域が分かれて、厳整的な坊里になっている(図41)。 北魏洛陽城は漢晋の洛陽城の基礎の上に建て直され、北の方は亡山に立ち寄り、南の方は洛水にのぞむ、平坦な地形である。外廊、内城、宮城という三重城垣で組成されている。宮城が北よりの真ん中にあり、城内に320の里坊、10万余の所帯の住民が住み、ある里坊内に居民が23000所帯もある。一般に里坊規模は辺長一里になる四角で、四辺にそれぞれ門を開かれ、坊内に里正などの官吏をおいて坊内の居民を管轄した。城中公共建築分布状況によれば、北魏洛陽城の里坊居民が多く従業性質によって集中して居住していた。西廊城に近い寿丘里が皇子居住区であり、王子坊とよばれている。近洛陽大市一帯に通商里、達貨里など手工業または商人の居住区となっていた、城南四通市付近に白象坊、獅子坊、四夷里など夷(外)商居住区があり、東陽門内の太倉付近に治粟里が倉庫管理人の居住区となっている。
唐代長安城は、隋代大興城の基礎の上に拡大して建設されたものであり、東西9721m、南北8651m、周長36km、城壁範囲内は8300haを占め規模最大の封建社会都市となり、坊里制企画の最も典型的な都市でもあった。総体企画中の宮城、役所、居民が厳格に分かれ”不複相参”となっていた。宮城は城の北よりの真ん中で、その南は皇城になり、中央集権の官府役所、倉庫、禁衛部隊等が設置された。皇城三面が居住里坊に包まれていた。城内に南北大街十一本、東西大街十四本、直角相交となり、碁盤の形であった。居住区は108の坊で区分され、都市の中心線にそった朱雀大街の両側にある坊の面積は最も小さく約30〜40haである。皇城の両側にある坊が最も大きく約80〜90haである。その他の里坊は50〜60haであった。とにかく漢長安、北魏洛陽の里坊面積より幾分増加された。坊里に対して厳格な管理制度があり、日の出とともに坊門を開き、日没とともに街鼓60をたたいて坊門を閉める。唐の長安城の都市総図中市場の位置に対して厳正な企画がされ、東西主幹道の両側にそれぞれ集中市場が設置され、東市と西市とよばれ、両坊の地を占めている。市中に井の字の形をした街巷が切り開かれ、120の行業の商店建築が立ち並んでいる。東市に貴族、官僚の利用する各種商業が集中し、西市に多くの外国商人の店が集中していた(図24)。いきおいが雄大であり、企画厳正の唐長安城の企画は、当時の東方の都市建設に影響をさらに与えていた。東北地区に位置する渤海国上京龍泉府、日本の平城京と平安京の企画は基本的に長安城を真似して企画建設したものである。
九 趙州橋とアーチ構造
歌謡《子放牛》のなかに人口膾炙した文句がある。それは「趙州橋は魯班じいさん1)が作り、玉石の欄干に聖人が留まり、張果老人2)がロバにのり橋を通り、柴王じいさんが車を推して跡をつけた」と。
この趙州橋は随の大業年間(605-617)に建てられた趙県安済橋であり、わが国の石造アーチの貴重な宝である。橋梁史上の巨構であり、河北省四大聖跡の一つである。趙州橋は名工李春が責任者となって造ったものであり、県都の南五里のR水にかかる橋である。橋の本体は雄大な単孔のアーチであり、スパン37.37メートル、アーチ部分は28個の並列した切石でできている。そのスパンの大きさだけではなく、注目すべきはライズが比較的低い弓形アーチとアーチ弧線がほとんど円弧に近い60度角の部分であり、これから推定すると、半円弧全体のスパンは55.4メートルにも達する。この大きな橋のアーチ本体を支えるために、アーチの背の部分に伏せ石を積み鉤石3)を加えて、大アーチの表をしっかりとつなぎとめ、さらに鉄条で結んである。それ以外にも主要な措置は、アーチ本体の両端の基部の寸法を広めにして、アーチ本体の中部の寸法は小さめにし、細腰状にしてある。各アーチ切石の1つづつは当然中心に傾き、緊密に圧接されている。これは綿密な設計と巧みな構想に基づく措置である。両端のアーチの背の部分には2つの小さなアーチがつけられ、それは空洞つきアーチという。唐代の名人張嘉貞が作った《安済橋銘》には「両端に4つの穴があいて、洪水の衝撃を和らげるためにある」と。この穴つきアーチの作用は激流のアーチ本体への衝撃を防ぎ、またアーチの自重を軽くしている。さらにアーチの表面に緩和曲線を置き、車が通りやすくなる。穴つきアーチ法は、古代の設計技術がもっている科学精神の現れである。ヨーロッパでは14世紀になってはじめて、フランスのある橋で使用されたもので、安済橋より遅れること700余年。今日に至るまで趙州橋はその優美な芸術的造形によってほめたたえられるだけでなく、設計技術の上からも後世に及ぼす意義が大きい。農村に行くと趙州橋によく似たアーチ式の公共橋を発見することがあるはずだ。その中には石材を用いないで鉄筋コンクリートで建造されたものもいくつかある。
アーチ構造
わが国古代の建築は長期にわたり、木材をその主要材料としてきた。このため、梁様式構造(筒支梁あるいは懸臂梁をふくむ)はその応用がきわめて広範囲にわたり、本当にこの点はヨーロッパの煉瓦石建築体系の中で大量にアーチ構造を応用してきたのとは異なる。しかし、詳しく見てみると、わが国のアーチ構造にも独自の発展のあることがわかる。傑出したこの趙州橋がこのことを物語る。一般に早期のアーチ構造を問題にするならば、多くは地下の墓陵建築に用いられたものであり、それがのちに発展して、橋梁および防火上の要求が高い建築にまで及んだ。
木椁墓室が腐乱しやすいという欠点を克服するために、前漢中葉に煉瓦を積んで作った筒型アーチ構造の墓室が出現した。当時、接着剤となるのはわずかに黄土しかなかったから強度の点では弱く、煉瓦積みのアーチ煉瓦には楔型のもの、あるいはほぞつき親子煉瓦があり、それで内部のつながりを強化している。経験のなかからアーチ煉瓦は圧力を受け止める一方だという原理がわかってから、この主の強化方式はもう再び採用されることがなくなった。筒型アーチ構造は、ずっと地下の墓室の主要構造の形式となってしまい、明清時代まで続く。明の十三陵の定陵地下宮殿、清の東陵、裕陵地下宮殿は、いずれもみな精致堅固な筒型アーチ構造が見られる。2千年来の筒型アーチ構造の発展変化はライズが高いこと、スパンが大きいこと、石灰接着剤を使っていること、並列式が改善され、縦連式の積み方になったこと、アーチ部に”伏”と呼ばれる偏平型アーチを加え、つなぎを強化していること、に表れている。このことはまた、筒型アーチ構造の使用がもうかなりの段階まで成熟していることを物語る。唐宋以来、それは磚(レンガ)塔や橋梁にも大量に用いられてきた。軍事上、火薬の発明によって、元代から城門も木組から筒型アーチ煉瓦積みに変化し防火にも役立った。明代以降は、煉瓦製造業が発達し、防火上要求も高い建築物、たとえば蔵書楼、書類倉庫などにも煉瓦石の筒型アーチが作られ、一般にこれを無梁殿と呼んだ。
筒型アーチの構造と平行して発達したのが、甲殻アーチで、およそ紀元前一世紀の前漢末に編み出され、主として、地下墓室に使われた構造である。それと筒型アーチの異なる点は、天井の荷重を左右の壁にではなく、四面の壁に均等に伝えるところにある。甲殻は、正方形または長方形の墓室に適用されている。地上の建築にこの種の構造が応用されている例は多くないが、ただ宋代以後、イスラム教がわが国に伝えられてから、円甲殻の屋根が礼拝殿(モスク)の建築物に適用されている。たとえば、杭州の鳳凰寺の主殿の屋根が三つの円甲殻構造である。新彊ウイグル族の建築物は、中央アジアの影響を受けたことによって、日干し煉瓦を積んだアーチの例であり、大変多い。
アーチ構造は建築上の応用が、あまり普通のことではないが、橋梁では主要形式となっている。記録によると、北魏の頃、単孔の石組アーチ橋が出現し、旅人橋と呼ばれた。以後随代の安済橋、それを模倣した永通橋、および江南の水郷都市の橋梁はみな単孔の橋である。大河にかかる石組アーチ橋の大部分は連続アーチ橋である。金の明昌三年(1192年)につくられた北京の蘆溝橋は、長さ265メ−トルの11連の孔アーチ橋である。蘇州市南部の宝帯橋は、さらに長く、316.08メートル、53孔、波間にかかる虹のように連綿と続き、構造造形的に音楽的な調べをもっている。多くの古典の中に、この種のアーチ橋を情景描写としてとりあげている。たとえば北京頤和園の玉帯橋と十七孔橋はいずれも単一アーチと複数アーチの傑作である。
無梁殿
古代の建築造形は木造形式にも大きな影響を受けている。はなはだしいのは煉瓦石積みアーチ構造を取り入れても、斜め屋根の木造家屋の外観形式になりがちであった。その内部には梁柱がないから、この建築物を無梁殿とよぶ。無梁殿の建築は明代がもっとも普通であり今日まで多くの実例を遺している。たとえば南京の霊谷寺の無梁殿、蘇州開元寺の無梁殿、太原の永祚寺と五台山顕通寺の無梁殿、北京天壇斎宮、北京皇史保存室など、みなこれである。同時に、やはり壇廟の山門建築にたくさん応用されている。無梁殿の構造は明代に発展をきわめたが、その原因は技術条件の成熟であり、この点は3つの方面に現れている。第一は大スパン支持技術を解明し、スパンが11メートルにも達する大アーチを作ることができたことは、完全に使用機能の要求にこたえるものであった。これは漢代墓葬中にはわずかに1棺3メートルぐらいの棺しかおけなかった時と比較して、同日に論ずることができないほど飛躍的に進歩した。第二は石灰接着の応用と普及以後、筒型構造の強度を強化した。第三は煉瓦製造の技術が高まり、大量の比較的経済的な粘土煉瓦を提供することができたことである。技術工業の発展は建築構造の発展と連動している。明代の城壁と民家が大量の煉瓦を積んでいることが、このことを証明している。わが国の無梁殿の設計は伝統的木造建築概念の形式上の制約を受けているけれども、考案には少なからず独自のものを含んでいる。無梁殿の内部空間の設計はできるだけ斜め屋根の外側に適合するようにし、不必要な構造や重量を減少させた。たとえば南京の霊谷寺の無梁殿内部空間には、三つの筒型アーチが設計されているが、まん中のアーチは高く、前と後ろの2つは低く、外檐の重檐形式に合致するようになっている。五台山の顕通寺の無梁殿の二層もまん中が大アーチ、まわりは比較的小さいアーチになっている。このようなアーチ洞の組合せは屋根の曲線とも一致する。一般に城門の洞と壇廟門洞の横向き筒型アーチはまん中のところで一段高くなっているのは、一つには門扉の開閉の問題を解決し、二つには屋根に敷く層を現象させ、工事量を節約した。アーチ本体の安定性を深めるために、古代の職人は自分流の方法をもっていた。ヨーロッパの高層建築にも、アーチリブ構造を取り入れ、アーチ脚が比較的高く、アーチの両端に支持壁あるいは飛び支持壁を加えて、安定性を高めている。しかしわが国のアーチ洞のライズが比較的小さくアーチ脚が低いのは、往々にして主アーチと副アーチの間の並べ方や組合せ方を通して、全体的な安定性を高めている。たとえば南京の霊谷寺の主アーチ洞の前後には平行した副アーチ洞を形成し、両端には厚い壁でもって主アーチを支えている。五台山の顕通寺の無梁殿は、さらに特色があり、主アーチ洞が高く、2つの層を越えているから、底層のまわりには厚い壁がめぐらされている。壁の本体はひとつらなりの横向きアーチ洞があいていて、門窓となる。第二層は主アーチをとりかこんで廊アーチ洞がめぐらされ、それが通路になっている。このように使用要求を満足しているうえに、加えて建築空間を十分に利用している。また、安定性を強化するための巧妙な設計ともなっている。アーチ構造は伝統的建築において、主流になっていないが、技術上芸術上無視できない影響を及ぼしている。ときにはそれはある種の建築物では主役となっている場合もある。もし、建造物からこのこの半円形の造作をなくしてしまったら、中国の古い建造物は色あせたものになっていたであろう。
注 1) 魯の国の名工、雲までとどく橋を作ったといわれる
2) 唐の道教のお坊さん
3) 鉤のようなひっかかりのついた石